第3話『蠱毒壺』
その日戻りし我が子見て、父親血相変えて駆け寄った。
一体どうしたのだと訊ねれば、あいつら、お父のことを悪く言う。それが許せず喧嘩した。
顔には痣、着物は汚れ、涙目になりつつも、その顔には痛みよりも怒りが強く浮かび、父親叱るか褒めるか逡巡し。とりあえず中に入れと促した。
一体何を悪く言われたのだと訊ねれば、童は答えた。
お父のことが気持ち悪い。人としての感情が欠けている。絶対裏に何かある。
口々言われ、許せなかった。
唇噛み締め涙を零す我が子見て、そうかそうかと頭を撫でつつ、父親告げた。
でもそう思われても仕方がないと。
意味が分からぬと童が問えば、父親諭す。
普通の人は他人を羨み妬むもの。時に怒り罵るもの。陰口叩き偽るもの。
だけどお父は違うと叫ばれて、父親眉尻下げて困り顔。
他の者が言っていた。お父は仏様のような人。他人を蔑まず罵らず、怒らず見捨てず朗らかで、陰口一つ叩かぬと。故に家が裕福なのだろうと。それが誇らしく自慢なのだと締め括れば、父は言う。
残念だがそれは違う。私とて人に違いない。他人を羨めば妬みもするし、腹も立てれば陰口の一つも吐きたくなることもある。
だが、そんな姿を見たものは誰もいない。共に暮らす自分とて見たことはないと童が反論口にする。
無理もない。喧嘩相手が正しかったとは認められるものではないのだろうと察しつつ、父親告げる。暫し待て。
言い置き部屋の隅へ行く。床板外して持ち出したものは蓋のされた粗末な壺。
手招きされた童が近づき問い掛ける。
その小さき壺は何なのか?
父親答える。
これは悪しき想いを封じしもの。
当たり前のように返されて、童の顔には不信の表情。
お前がそうなるのも無理からぬこと。お父とて、お前を生んですぐに亡くなったお母から聞かされ見せられたときは、同じ顔をしたものだ。
驚く童に父親続けた。
他人に対し悪意を抱くのは人として止められぬもの。しかし口に出して悪しざまに罵れば、陰に隠れて貶めるようなことを口にすれば、巡り巡って己が身に返りしもの。
なれば、口に出さず己が内に飼っておけば良いのかと童が問えば、父親左右に首を振る。
生まれた暗い感情を腹の内に納めることは良くないと。病のようにいつか魂を黒く染め上げ身を崩すことになりかねない。
ならばどうすると促され、父親壺を差し出した。
故に、生まれた悪意は全てこの壺に吐き出すのだと。すると心が軽くなる。疑うならば試してみよ。
蓋を外し促され、半信半疑のまま、童は壺に向かって喧嘩相手の悪口ぶちまけた。
するとどうだろう。胸の内にありしモヤモヤすべて綺麗に消え去った。
どうしたことかと目を丸くして父親見やれば、父親得意げに笑って頷く。
これからはお前もこの壺に吐き出すが良い。壺に納めねば吐き出した場所に悪いものが溜まって行く。それは後々に己に返って来るもの故に。
ただし、使う際は気を付けよ。決して割るでないぞ。割れば恐ろしいことが起きるとお母がきつく言いつけていた。故に気を付けよ。ゆめゆめ割らぬようにせよ。
それから後、童も父親のように感情を荒げることが無くなった。周囲の評判も良くなって、若人となる頃には縁談も。美しき嫁貰い、初孫の顔を見て、父親安らかな眠りに付いた。
父親のように倅も立派で、あ奴も幸せよと葬儀の場にて周囲の者たちが口々に褒める中、光あれば影があり。
昔から若人のことを気に入らない、かつて取っ組み合いの大喧嘩をした男たち。常日頃から比べられ続けられた我慢も限界とばかりに、悪巧みをし始めた。
仏のような顔の化けの皮をはいでやれ――
葬儀が終わり三々五々と帰る村人たちに逆らいて、その場に留まりし荒くれ者。
この場にて、今までの無礼を謝罪したいと愁傷装い敷居を跨ぐ。
三人並んで手を合わせ、若人に対して一礼し、しかしお前も親父殿のように穏やかになったものだと誉めそやす。美しき嫁に、可愛らしい赤子。羨ましい限りだと口々におだて、どうすれば我らもそなたのようになれるのかと問い掛ける。
どうにも感情抑えられん。秘訣があるなら教えて欲しい。さすれば無用な争い反感起こさずに済むと萎れて見せれば、若人告げた。
私とて助けてもらっているだけだ。
一体何にと促され、若人立ち上がりあの場所へ。
かつての父親と同じように、床板はがして取り出した。
その壺何だと問われれば、三人の前に壺を置き、座り直した若人答える。
これは悪しき感情を封じ込めし特別な壺。私とて人。そなたたちと同じように怒りを覚え苛立つことも普通にある。だが、その想いをこの壺に吐き出せば、あれよあれよと気持ちが晴れる。それを幾度も繰り返した結果、今では然程感情も波立たぬ。
信じられんと心から疑れば、私も初めはそうだった。故にどうだ。試してみるか?
若人、笑みを浮かべて促した。
驚き戸惑う男たちに、ただし、くれぐれも割らぬように気を付けよ。割れば禍やって来る。
声を落とした忠告に、頷き壺を引き寄せて、男らニヤリと笑み刻む。
あっと若人気が付くも、時既に遅し。
男ら壺を振り上げて、止める間もなく叩き落した。
カシャンと小さいながらも絶望的な音を立てて砕け散る壺。
血の気を引かせ、この世の終わりを顔に浮かべた若人見て、男ら嗤う。
誰が貴様のような気味の悪い奴と同じになるものか。
だが、異常はすぐにやって来た。
どろりとした黒い液体が壺の残骸からごぼり、ごぼりと溢れ出し、突如ぶわりと男たちに覆い被さったから堪らない。
粘着質な液体は、布のように男たちを包み込むと、恐ろしき絶叫さえも飲み込んで、次の瞬間消え失せた。
後に残りしものは、傷一つ残らぬ小さき壺のみ。
確かに砕け散ったはずのあの壺だけ。
取り残された若人は、やにわに察した。あの黒き液体の正体を。
故に思う。腹に溜めるものではない。あちこちにバラ撒いてよいものではない。
決して外に漏らさぬように、封じ込めるが一番良いと――
蒼褪めつつも、震える手で大事に掴み、壺は床板の下へと若人の手でしまわれた。
弾き語りが語ること 橘紫綺 @tatibana
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