きみのヘンゼルはもういない

二条空也

きみのヘンゼルはもういない



 溜息が肌に触れた。ひっそりと。確かめるように指先が触れて、撫でて行く。閉じた瞼を、頬のまるみを、鼻筋を、顎を。耳の形、その裏側で拍を刻む鼓動。体温。するすると指先が撫でて行く。唇に触れて。ひっかくように、爪が擦って行く。人差し指の、その爪の形を思い描ける。螺鈿細工めいた艶を持つ爪先。その形のうつくしさを知っている。ほっそりとした指先がどんな風に動くのか。白い肌。手の形、手首の肌の柔らかさ。腕、肩、首筋。どんな顔をしているのか分かる。泣きそうな顔をしている。肌に触れる吐息でそれが分かる。肌に触れる指先は確かめるように肌に触れた。盲目の彫刻師が作品を愛でるように。執拗に、丁寧に、触れて行く。確かめている。

 瞼の裏に感じるひかりは、まだ朝を迎えていなかった。くらやみを一時遠ざけているのは、火の灯り、火の熱だ。和紙を透かしてゆうらりとねぶるひかりが、音の絶えた室内に漂っている。部屋の四隅は暗いだろう。その暗がりに、きっと希望を置き忘れてしまった。指先がするすると、喉へ降りて行く。くすぐるような力で、爪が。かし、と喉をひっかいた。かし、かし。じゃれつく猫のように。ひっかきながら、視線はじっと顔に向けられている。夜のとばり。その隙間に、吐息が響いている。泣きそうなのを知っている。ほた、ほた、声だけがなく。雫が頬を濡らした日も幾度かあった。時刻は未だ夜のうち。朝を厭うて遠ざけて。かし、と責めるように、喉を、肌を、淡く。爪が。

「……よつ」

 呼ぶ声ひとつで、どんな顔をしているのか分かる。起きて欲しくないことも。何処へも行かないでと、言いたくてたまらないでいることも。同じ顔をした少女が耳元で囁く。よつ、よつ。いかないで。

「行かないで……」

 けれども、よつ――四つ、四番目、と。そう呼ばれた日から。そう呼ばれることから。決まっていた別れだった。




 よつは、十六になった青年である。よつは、四つ。四番目、と呼ばれる。よつは、よりこ、と呼ばれるものであった。依子、と書くのだという。依子は、当主の子の為の守り人である。全ての災厄の身代わりとなり、四年に一度、家を出ることで呪いの成就と成す。よつは、その、定められた四番目だ。だから十六になれば傍を離れていなくなることを、家中の誰もが知っていた。よつは、はじめて短くなった髪に手をやり、軽い、とぼやいた。髪はいましがたまで、腰までの長さがあり。それは身代わりとなっていた少女と、全く同じものだった。先程まで、よつは鏡など見なくとも、己の姿を正確に思い描くことが出来た。他の依子がそうであるように、よつは主と全く同じ姿であることを求められていたからだ。

 髪の長さ、顔立ち、仕草、声、話し方。考え方。全て、全て。鏡合わせのように、ひとつのものを写したように。ひとつのものを別ったように。けれどもそれは今日、失われる。切り落とされた髪はその始まりで、作り誤魔化すことをやめた喉は、青年らしいやや落ちついた響きで声を奏でた。己の声というものに慣れるまで、しばらく時間がかかるだろう。そもそも、己、というものはなかったのだ。よつは、少女の、もうひとつだった。その他ではなかった。

 失えない荷物をまとめておきなさい、と告げられて、よつが手元に残したのは金平糖の小瓶ひとつきりだった。衣食住は保障されている。家を出た、他の依子と同じように。年に一度、祝いの場で遠目に視線を交わすだけとなった、かつての『もうひとりたち』は、困ることはないから好きなものを持っておいでと忍んで文をよこして告げたから、他になにを持って行く気にもならなかった。当主に挨拶を済ませ、別れの言葉を交わして、よつは家を出た。家は薄い森に囲まれるようにして立っている。まだ背に屋根が見える距離。分かれ道に、ひとりの女が立っていた。

 女は、ぱっと顔をあげて笑う。

「よつ。……私が分かる?」

「三番目」

 四年前、先に家を出た三番目だった。年に一度、遠く視線を交わすだけになっても、間違える筈もない。かつては同じ姿をしていたものだが、今ではほんの少し背が低く。意思が強そうな顔をしている。そこはすこし、面影を留めていた。

「どこへ行くか分からないでしょう? 案内に来たよ。行こう」

 両手で包むように持っていた金平糖の小瓶に目を留め、三番目は荷物がすくない、と言って笑った。並んで歩き出す。五月になったばかりの森は、とうめいな碧に満ちていた。とろとろと降りてくるひかりが、新緑の葉に触れて淡く色づく季節だった。温かな空気の、穏やかな日だ。曲がりくねる小道を歩きながら、名前はなんにしたの、と三番目が訪ねてくる。もう、数ではなく。依子ではない者たちに、家は送り出す時に名前を贈る。よつは息を吐き、振り返った三番目の手に、懐に入れていた紙片をぱらぱらと落とす。

 その中にはいくつか、名が書かれている筈だったが。折りたたまれた紙は、どれも開かれた風には見えなかった。訳知り顔で笑う三番目に、よつは息を吐き出し、告げる。

「選んでください」

 気に入れば、それに。気に入らなければ考えて良い、と名を贈った者たちは、笑いながらよつに告げた。三番目も同じ表情で笑いながら、ひとつ、ひとつ、その場で紙を開いて行く。興味がなかったので、よつは周囲に目を向けた。空の近くに、風が吹き留まっている。木々の葉を透かし見る空は、青く晴れていた。この森は聖域のひとつ。だからこそ、よつは依子であったのだ。昔は、任期を終えた依子は、そのまま贄に差し出されたという。山の神へ差し出される供物。古くは十二で、次第に十六になり。いまは二十になれば嫁いで行く娘の身代わりとして。山神に捧げられる命であったのだという。けれども、それは昔のこと。今は四年に一度、家を離れて行くだけで、依子は生きることを許されている。

 くすくすくす、と三番目が笑い。よつは視線を女へと向けた。よつと同じ、十六になったばかりであろう女は、大人びた顔をして。女の顔をして。ぶつぶつと響いていた言葉と同じ声で、よつ、と言って笑った。呟いていたのが、候補である名だったのだと知る。

「ひめさま、とお呼びしないと気が付けない?」

「埋めますよ。三番目」

 その呼称が捧げられるのは、よつの主君、ひとりきりでなければならない。分かっているわとくすくす笑い、三番目は腰の後ろで手を組み、悪戯っぽくよつに告げる。

「でも、どの名も気に入らないのね。じゃあ、これはいらないかな」

 返事も待たず。三番目は紙片をちいさく千切り、ぱっ、と吹き溜まる風の中へ投げ捨てた。あわく、あまく、うつくしく染まるとうめいな碧の風が、花びらを散らすように紙片を攫って行く。白い欠片は、よつの背の方へ落ちて行った。辿れば、屋敷へ続くのだろう。

「でも案外不便よ、よつ。与えられた名が気に入らないのであれば、一緒に考えてあげましょう」

 よつ、よつ、と。泣きながら手を伸ばす姫君の姿を思い出す。その体を抱きとめていたのは、五番目だった。家の者でも、姫君の両親ですら、時折息を飲み困惑する程に近しく成長した少女。五番目なら、役目を最後まで果たせるだろう。

「私も、今は……三番目、と呼ばれていないの。教えましょうか?」

 す、と女の指は空に字を書いた。数字の三に、木の葉。三葉。みつは、と三番目の声は歌い上げるように告げる。

「みつは、三葉、よ。覚えてね」

「……与えられた中から、選んだのですか」

「よつは、ひめさまより丁寧に話す」

 くすくすす、と楽しげに笑い。三葉は眩しげによつの姿を眺めた。髪が短くなったのね、とほんの僅か声音を変えて囁かれ、よつは苦い気持ちでまぶたを下ろした。描くことができる。その姿を。己は鏡であり、ほんの昨日まで、もうひとりであったのだ。四年前まで、三葉もまた、もうひとりだった。伸ばされる指がどんな形をしているか、知っている。どう触れていくか。かし、と爪先で喉をひっかかれて、不快感に眉を寄せて目を開いた。

 みつ、と呼ぶ声は低く。触れる指も、もう同一のものではなかった。

「触らないでください、みつ」

「みつは、よ」

「殆ど変わらないでしょう」

 三番目は、みつ、と呼ばれていた。みつ、三つ。密に、満つるその時まで。蜜のように、笑って。傍にいた依子だった。かつての名残を留める、花の香のような笑顔で。あどけなく笑む、十二のひめぎみの。欠片を抱く表情で、三葉は悪戯っぽく目を細める。

「ひと、だって。ふた、だって。同じような名だもの」

 すいすい、三葉の指が文字を書く。一に、葉。二に、葉。ひとは、と。ふたは。よつはなんと表せば良いのか分からない気持ちで息を吸い込み、ゆるゆると吐き出した。溜息を気にした風もなく、三葉の指が文字を示す。四に、葉。よつは。くっきりと。世界に痣を残すような響きで、一度目の名が呼ばれる。風が吹いた。砂を転がすようなうつくしい音に、思わず、よつは振り返った。来た道を、辿るように。花びらのように。月夜にひかる、小石のように。落ちていた、三葉が放った紙切れが、ひとつ残らず消えていた。

「よつは」

 女が名を呼ぶ。手を差し出して、哀れむように微笑んで。

「四葉。行こう」

 とうめいな碧の風が。吹いている。差し出された手に指先をゆだねて、四葉はゆっくりと歩き出した。よつ、よつ、と泣いた姫君は、まだ涙をこぼしているだろうか。泣いていれば良い、と思う。必ず五番目が慰めるだろう。泣いていなければ良い、とも思う。もう、よつがその頬に触れることは叶わない。ひとつのものだった。ふたりきりではなかったけれど、昨日まで、よつと姫君はひとつのものだった。四葉は、ひとりだ。切り捨てられた髪が軽くて、首が涼しい。ふと気がついて、四葉は言った。

「髪が短いな、三葉」

 家を離れる依子は、必ず髪を切られる。四年前、見送ったみつも、肩より下には髪がなかった。今も、その長さを保っている。まっすぐに髪は断ち切られている。離れれば、伸ばすも切るも依子たちの自由であると聞くので、恐らくは好みの丈なのだろう。三葉はくすぐったそうな笑みで頷き、四葉はおとこのこだね、と言った。伸ばされた指が、喉仏と、短い髪に触れる。しばらく鏡を見るのはおやめなさい、よつは。あどけなさを残す蜜の声で、みつ、が言う。新しい呼び名にすっかり慣れてしまうまで。

 かなしくなる。かなしくなるよ、よつ。かつて、おなじものであった時に、そうしたように。指先を絡めてつなぎ、みつは言った。よつは、おとこのこだから。きっとわたしより、ずっと、かなしくなるよ。囁きに。四葉は喉に手を触れて、ゆうるりと微笑んだ。違うものであることは、分かっていた。よつ、と呼ばれたその時に。そして、ある夜から。姫君がよつに、触れるようになった時から。確かめられていた時から。同じであることを、望まれていたのに。よつ、は、四番目。五番目、ではない。いつ。いつか、いつも、いつまでも。時が来るその日まで。姫君の、傍にいる依子。五番目ではないのに。苦しいほどによく似た五番目ではなく。五番目には、なれなかった、よつの。

 顔に触れ、形を確かめ、喉を撫でた。日ごと、変わっていく。おとこになっていく、もうひとりの己を。時の進みを厭うように。よつ、と呼んだ。別れは決まっていたことだった。




 森の曲がりくねった道の先。屋敷から十分も歩いた所に、依子の為の家は建っていた。外観を眺めて沈黙する四葉に、三葉は驚くよね、と言ったきり詳細な説明をすることはなかった。今しがた後にした屋敷と、殆ど同じ姿をしている。差異があるとすれば、大きさくらいのものだろう。当主や姫君、一族の者、女中たちが住む屋敷はある程度の広さが必要だが、依子は多くなろうとも五人である。五人が揃って生き延びられるようになったのも、ほんの近年のことであると聞く。それも、稀なことであるのだと。

 実際、先々の依子。現在の当主の父親の災厄払いは、長く生きることができなかった。四歳で役目を終えた一番目は、一年を待たず。八歳で終えた二番目は、十二を迎えた三番目と入れ替わりに。四番目は十六になったその日に。五番目は二十を超え、この家で暮らし。当主が嫁を迎えたのを見届けて、病に倒れた。そろそろ、依子、という制度は時代に合わなくなってきたのではないか、と。聖域たる森を出て暮らしていた血筋の者から、そう声が上がり始めた折の、ことであったという。反対の声はなく。次代も、依子が用意された。

 依子は一族の中から選ばれる。そうであるから、跡継ぎが生まれるのに合わせて、一族では子が生まれ行く。姿かたちのよく似た五人が、災厄の身代わりとなる影として選ばれる。現在の当主。四葉に名の候補を渡した男の依子の、一番目は。神の供物として捧げられ、そのまま姿を消したのだという。依子を贄として山の神に捧げることを絶やしたからこその、先代の悲運だったのではないかと。そう囁かれていたことを、裏づけるように。しかし、それきり、二番目が捧げられても、三番目が贄に出されても、姿を隠されることはなく。不運も、災厄も、ぴたりと途絶えたことから、よくよく気に入られたのだと、されて。また、その風習は絶えてしまった。

 聞けば、ものは試しと一番目は役目を終えた次の日、禊を済ませて捧げ物と一緒に贄として出向いたのだという。しかし、体調を崩すことも、誰かが迎えに来ることもなく。飽きて寝ている間に他の捧げものだけが消えていたので、恐らく、もうほんとうに要らないのだという結論に達したとのことだった。十二年前のことである。そして、依子はふつうに生きることになった。そんな風であるから、四番目が役目を終え、家が四人目を迎えることになったのは。記録に残る分では、はじめてのことだった。

 依子の役目は番号ごとに四年、八年、十二年、十六年、二十年で終わっていく。けれども、神域たる森から外へ出るのは、仕えた者が嫁入りするか、迎えるか、それを待ってからのことになる。今まで、外に出た記録は残っていない。希望しなかった者もあるだろうが、それを超えて生きられた依子がいないだけだった。久方ぶりに言葉を交わすことになった一葉も、二葉も、三葉も、元気に過ごしていた。思えば依子であった時も死を間近に感じることはなかったから、古の呪いは今度こそ姿を消したのかも知れなかった。最も、油断していたら次の代で被害が拡大することもあるので、こればかりは祈りを重ねるしかない。

 一葉も、二葉も、三葉も、ひめさまが嫁がれる日を向かえ、それを超えたとしても、森から出て行く気はないと四葉に告げた。例え森の外で主が子を生んだとて、その命はやがて森に戻ってくる。どんなに遠縁でも、依子の候補として集められなくとも、七歳までは当主の元で育てられる。その間に、こどもらの誰かに兆しが現れるようであれば、集められた中から依子が選ばれるだろう。どんなにはやくても、それが終わるまでは。いつ、五番目もそれを望むだろう。




 ちいさな屋敷に迎えられてから、四葉が難儀したのは生きること、だった。よつ、として生きていた時にはまるで必要のなかったことを、生きるためにしなければならない。大変な苦労のいることだった。掃除、洗濯、料理。そのどれも、おなじ、として生きていたよつには必要のないことで。四葉には学ばなければいけないことだった。電話の使い方としくみというのを事細かに説明されたのち、実地訓練、として繋がされたのは、四葉の知らぬ年嵩の男女だった。

 生きているのか。名を、なんとしたのか。いずれ時が巡り本当に役目を終えた時に。共に暮らしてはくれないか、と請われ。それが、よつ、の別れた両親だと聞かされても。特別な思いは生まれなかった。電話を終え、白状だろうか、と問う四葉に、一葉はそんなものよ、と穏やかに告げる。ひと、は、ひととき。ひとりきり、ひとめぐり、ひととせ。ひとりめ。一番、はじめに。依子として生きて、終わった一葉が、そう言ってくれたので。よつ、は詰めていた息を吐き出した。四葉、と泣き声交じりに呼びかけられたことは、どこか他人事のように思えた。生きるために重ねていく多くのことが、よつ、を四葉へ変えていく。そのことが苦しかった。

 時が巡る。よつ、から四葉になって、一月。四葉はすこし、身長が伸びた。




 満たされた真円の月。星は降りきったように、ひとつも輝いていない。まつろわぬ森はやわやわと吹く風に撫でられ、時折身じろぐようにさわり、と音を立てた。森に通された曲がりくねった道に、てん、てん、と輝きが落ちている。花びらのような。真珠色宿した小石のような。それを、少女の素足が踏んでいく。ましろい肌の。とうめいな爪の。土に汚れることを厭わぬ、少女の素足が、たん、と音を立てて通る。泣くように。たん、たん。雨が地を打つように。たん、たん。たん、たん。

 手が伸ばされる。そのゆびのかたちをしっている。




 藍色の影が落ちる。ぴたりとひとつに重なるものであったそれは、幾分小さくなっていた。四葉の身長が伸びたからだ。よつ、であったならあるいは、まだ同じものであれたのだろうか。降ろしていた瞼をゆっくりと開く。夢のようだった。夢でしかない、ことだった。夢であるべき、ことだった。四葉は己に覆い被さるようにひかりを遮る少女の名を、くるしく息を吸い込んで、呼んだ。

「……ひめさま」

「よつ」

 ほた、ほた。涙が四葉の頬に落ちる。それだけで、もう、四葉であることは難しかった。よつ、よつ、と呼ぶ、別れたはずの主君に手を伸ばし、持ち上げた腕の中にその体を抱きこむ。知るよりも、ひやりとして冷たい少女の体は。じき、じわじわと体温をしみこませ、よつの熱とおなじものになる。腰まで伸ばされた長い髪を撫でながら、よつは淡く笑って息を吐き、少女の耳元へ唇を寄せた。

「おひとりですか?」

 こくん、と寝巻きの肩にうずめられた頭が、あどけなく頷く。いつは、私の代わりに。みつは、私を迎えに。ひとは、私の送りに。ふたは、いつの代わりに。だから、この部屋には私と、よつしかいない。よつ、よつ。涙に濡れながら、少女のやわらかな体がぴたりと押し付けられる。そうしてなにかを確かめるように。

「いつ、が……よつは、ここに、いると。みつに、連絡して、教えてくれた……」

「役目を終えた依子に、会おうとなさるなど」

「私は、いいとは言わなかった!」

 ぱっと顔を上げて、よつを睨み付ける。よつの主は、うつくしかった。捧げよと神に望まれ。それを避けるための災厄を、依子たちが受けねば生きられぬと、一族全てに信じさせるほどに。うつくしかった。ふるえるくちびるは赤く。涙にゆれる瞳は黒曜石のよう。なめらかな肌は雪の白さ。まっすぐに伸びた髪は、星明りを失う夜の空。まばゆい月明かりの光を足元に従えて、藍色の影は畳の表面を漂っている。よつの体にまたがって、折られた足が汚れている。

 しのびなくて。身を起こし、よつはかかとを手で撫でた。

「……履物は、どうされたのです」

「残してきました。いなくなったのが、知れてしまう……」

 言葉をふるわせて。囁き、少女はよつの視線からうつむいた。うそです、と告げられる。きれいな形の爪の、ほっそりとした指を。目元に押し当てて。ほたり、涙が零れ落ちた。

「なにも、かんがえられなく、て……これで、よつに会えると思ったら、私」

 知らぬ道も。夜の闇も。なにも怖くなかった。なにも考えられなかった。みつを、置いてきてしまったから。きっと怒っている。でも、気がついたら走っていて、もう戻れなくて。よつ、よつ。あなたがいるとしっていたから、それだけ。それだけで、ほかにはなにもかんがえられなかった。

「よつ……」

 夜露に濡れて、汚れた足を。幾度も撫でて拭い去る。そうしてすっかり綺麗になった足の甲へ。よつは身を屈めて口付けた。とさ、とちいさな音を立てて、少女が布団に身を横たえる。手を伸ばされ、求められて、よつは少女に影を落とした。溜息が肌に触れる距離で、少女はよつの顔に手を伸ばした。指先がそっと、肌を辿る。頬を撫でて、耳の形に触れる。首筋を辿って鼓動を確かめる。顎をくすぐるように、唇をなぞって。鼻先を掠め、額に押し当てられる。顔かたちを確かめる指先。幾度も、幾度もそうされる間、よつは少女の顔を見ていた。とろとろと熱に溶け、眠たげに、夢見るように滲む黒曜。

 息を零すように微笑んで。爪先がかし、と喉をひっかいた。

「よつ」

「……はい」

「私の、一番、傍にいて……」

 ましろい、なめらかな肌に。喉に。噛みつくように口付けて、応えた。薄紫の夜明けを待たず。少女は、屋敷へ連れ戻された。




 以来、年に一度の挨拶すら禁じられていた為に、四年ぶりに見る顔だった。長かった髪を背の半ばで断ち切り、清々しい顔をして歩いてきた女性は、その手になにも持っていなかった。曲がりくねる森へ行く道の、手前で待っていた四葉の前で立ち止まり。女はその瞳をじっと見上げて、唇を開く。四年、会わないでいる間に。四葉は随分、背が伸びた。

「昨日、婚姻が終わりました。無事に、つつがなく」

「そうか」

「これで、依子の役目も終わりです。……よつ?」

 ふふ、と幸福そうに笑って。女は四葉に手を伸ばす。目を閉じて、四葉はその熱を受け止めた。そろそろと、指が肌を撫でて行く。いつも。思い出すのは、まだ四葉がよつであった頃。夜明け前の部屋。何処へも行かないで、と揺れる瞳で告げていた十六の少女だった。あの時まで、あの日まで。よつは、少女の、もうひとりであった。息を吐いて、目を開く。うつくしく笑う女の、手を取って歩き出した。ゆっくりと、隣に並んで歩く。とうめいな碧の風が、ゆるゆると吹いていた。振り返っても、屋敷が見えなくなった頃。あ、と言って女は立ち止まり、いくつかの、折りたたまれた紙片を取り出した。

「名前を頂いたの。……選ぶ?」

 苦笑して、四葉は紙片を指先で摘み上げ。ひとつ、ひとつ、開きもせずに千切ってしまった。いつか、そうされたように。ぱっと風に向けて流せば、それは白い花びらのように散らばり、広がって、流れて行く。白い紙は一度だけ、小石のように道に落ちて。すぐにまた、あわい風に運ばれ、何処かへ消えてなくなってしまった。目を瞬かせて。言葉もなく見上げてくる女の頬に、てのひらを滑らせる。身を屈めて、口付けた。

「なんと呼ばれたいですか?」

「……どんな風でもいいの」

 四葉の、胸元の服をすがるように握る。女の手の、とうめいな爪の形を思い描ける。螺鈿細工めいた艶を持つ爪先。ゆっくり考えましょうか、と笑って、四葉は女を抱き上げた。混乱しながらも抱きついてくる女の、まるく見開かれた瞳は黒曜。くちびるは赤く、肌は雪の白さを宿している。月明かりを失った夜空のような髪を、幾度も撫でて、背を抱き寄せる。幸福に泣き濡れる声で、女は四葉を、よつ、と呼んだ。はい、と応える。

「います、ここに……一番傍に」

 確かめるように頬に触れる。そろそろと肌を辿っていく。その熱を、その触れかたを。そのゆびのかたちを、しっていた。

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