薔薇香る憂鬱

吉岡梅

薔薇香る憂鬱

「先生、わざわざ家にまで来ていただくなんて……ご迷惑をおかけしました」


 蒼真そうまは広々としたベッドに半身を起こし、ドアから現れた蓮見詩音はすみしおんに丁寧に頭を下げる。ブラウンの髪の毛がさらさらと首元から流れ落ち、露わになった首元の隙間からは、汗ばむ肌が貼りついたかのような鎖骨が覗く。その体躯は高校生の男子にしては余りにも華奢であり、そして、その肌は余りにも白かった。

 

 詩音はベッドの脇まで来ると蒼真の背を支え、下げている頭を元に戻すよう促す。蒼真の顔が上がるにつれて、さらさらと髪の毛が再び流れ、やがてその合間から現れた2つの蒼い目が、詩音の瞳を緩やかに捉えた。


「い……いいのよ加古かこくん。それにしても、加古くんてそんなに髪の毛長かったんだね。ちょっと印象違ってびっくりしちゃった」


 詩音は、常よりも妙に明るい声で応じる。蒼真は、その声を受けると、青白い顔のままにこりと微笑んだ。


「いつもは後ろで縛ってしまっているからでしょうね。それに、今日は体調を崩しているのもあって、やつれて見えてしまうのかもしれません」


 そう言うと、蒼真は髪を後ろに撫でつけ、うなじの辺りでギュッと掴んで見せた。そこにはいつもの蒼真の顔があったが、体調の為か、それとも、ほつれて右目にかかった前髪の為か、蒼く輝くその双眸までも、どことなく火照ったような艶めかしい輝きを放っている。


 詩音はその姿に暫し見惚れてしまっていた。しかし、直ぐにそれを悟られまいとするかのように先ほどにも増して快活な声を出した。


「やっぱり疲れてるみたいね。無理しちゃダメよ。授業の進行とかなら先生が連絡してあげるから、まずは体調をしっかり整えてね。さて、あんまり長居しても悪いから、先生はそろそろ……」


 詩音が足をドアの方へ向けようとすると、蒼真は弱々しくせき込んだ。その姿を見て、あわてて詩音が背をさする。


「すみません先生。大丈夫です。せっかくですから、紅茶の一杯でも召し上がって行ってください。うちの紅茶には、薔薇のエッセンスを垂らすんですよ。是非、どうぞ。ほら、祖母もそう言っています」


 蒼真が苦し気ながらも、にこやかに応じると、詩音はハッとドアの方を振り返る。そこには、蒼真の祖母が笑顔で立っていた。


「そうですよ先生。こんな辺鄙な所までご足労頂いて、お疲れになったでしょう。蒼真の事は抜きにしても、少し休んでいって下さいな。今、紅茶をお持ちしますね」


 そう言うと、詩音の返事も待たずにさっと台所へと消えて行ってしまった。結局、詩音は30分ほど蒼真とその祖母と他愛もない世間話をしてから家を辞す事になった。


◇ ◇ ◇


 祖母は笑顔で詩音を送り出し、ドアが閉まってからもしばらくは、深々と腰を折って頭を下げていた。が、突然がばりと身を起こすと、足音もけたたましく蒼真の部屋へと向かい音を立ててドアを開いた。


「蒼真! あの女はいったい何なの!? いやらしく色目を使って……」


 体を震わせて怒りを露わにしている祖母を目の前にしても、ソーマは落ち着き払っている。先ほどとは違い、ベッドの上に行儀悪く胡坐をかき、無言でティーポットから紅茶のおかわりをカップへ注ぐと、そこへ香水の容器に入れてある薔薇のエッセンスを2度吹きかけた。


「まあ、そう怒るなよ

! ですって! その言い方は止めて!」


 祖母の怒りはますます激しくなり、その姿を見て蒼真はくすくすと笑いを漏らしている。


「わかったよ。詩菜しいな。悪かった。最近君が元気ないから、焼き餅を焼かせてやろうと思ってね」

「まあ! まあ! よくも! 本当にひどい人! 私がどんな思いであの小娘に接していたことか!」


 詩菜がベッドの脇から、身を起こしている蒼真の腰あたりへと身を投げるように突っ伏して泣き始めると、蒼真はその頭を優しく撫でた。やがて、詩菜の鳴き声は止み、静かな寝息が聞こえ始めた。


 蒼真はその寝顔を見てにこりと微笑んだが、やがて遠くを見つめる様な眼差しとなった。そして、その美しい蒼い瞳には、次第に憂いの色が広がってゆく。


――いつまで、いつまでこの暮らしを続けるのだろう


 不老不死の体を持つ蒼真の一族は、約束の日が来るまで、それぞれがその身を隠していた。蒼真のように、一般社会に溶け込んでいる者もいれば、人里離れた深い森の中でひっそりと暮らしている者もいるという。


 だが、時代を経るにしたがって、隠れて住むことは困難になってきた。技術の発展に伴い、世界中のあらゆる地は調べ上げられ、もはや人ならざる者が隠れ住む場所は数少ない。


 しかし、一般社会の中に身をひそめるとて問題がある。蒼真の一族は日の光にそれほど強く無く、ひとりでは流れる水は渡れず、入る許可を得ていない家には立ち入る事すらできない。その有り余る能力に比する程、制約の多い生き物なのだ。とても一人では生きては行けぬ。そう、


 だから、蒼真は従者と共に日々を送っていた。蒼真と共に川を渡り、家を手配して招き入れ、そして、老いぬその姿を気取られる前に、再び別の場所へと旅をする。ひとりでは生きられぬ人の世界を、忠実なる従者と共に歩んでいた。


 詩菜と出会ったのはもう何年前だろうか。最初は兄妹、そして姉弟、親子、今では祖母と孫として各地を転々と歩んでいる。紛れもなく、詩菜は蒼真を愛している。その愛こそが、忠実な従者としての魂の源になっているのだ。


 蒼真はその事に苦しんでいた。時に、血の儀式によって詩菜を一族に迎え入れようとも考えた。だがしかし、詩菜にもこの苦しみを味わあせるのは残酷すぎる。残酷であるが、果たしてそれは、一生を奪う事と比してどちらが残酷なのであろうか。


 たとえ血の儀式を行ったとしても、それで2人寄り添って暮らしていける保証はない。かつて血を分け与えた友には、うまく力を渡す事が出来なかった。結局、友は逃げ遅れ、人に捕らえられて処刑された。きっと、自分の血は薄いのだ。中途半端な力を渡せば、またあの悲しみを繰り返すことにもなりかねない。


 もっと早く詩菜と別れておけばよかった。蒼真は今でも悔やんでいる。もっと早く、詩菜が後戻りできるうちに。しかし、詩菜はそれを望まず、蒼真もその機会を完全に見失ってしまった。詩菜と一緒にいたい。それだけの願い。それだけの我儘。その我儘を清算する日は、そう遠くはない。永遠の時を与えられた者であってさえ、過去をやり直す事はできないのだ。


 蒼真はいつもと同じ思考を辿り、紅茶を口に含む。薔薇のエッセンスが入ったその液体は、ほのかな香りと酸味を運んでくる。詩菜はそのエッセンスが、蒼真の一族の活力の源と信じている。血液を摂らずとも、血のように真っ赤な薔薇のエッセンスがあれば力を得、壮健に暮らしてゆけると。


 そんな事がある物か。それは死を願い血を絶った蒼真が詩菜に付いた戯れの嘘。だが、今の蒼真は、その嘘に飲まれてしまいたい気分だった。力を。最愛の者に報いることのできるだけの力を。残り少ない紅茶に、エッセンスを何度も吹きかける。それすらもどかしくなり、香水瓶のふたを開けてカップへと全て注ぎ込む。


 その鮮やかなルビー色の液体を、喉の奥へと流し込む。濃厚でむせ返るようなな薔薇の香りがその身を焼くが、蒼真はそのまま身を任せる。いっそ、このまま焼き尽くされてしまえば良い。不死の一族の生き残りは、そう願う。


 その願いが届かぬことを知っていながら、何度も。何度も願う。

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薔薇香る憂鬱 吉岡梅 @uomasa

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