後編*長すぎる夢の先に見たもの
母校の中学に戻ってきて教職に就いたルディは、妻になったリタからはもちろんのこと、受け持ったクラスの生徒たちからも愛されて幸せな日々を過ごしていた。
ただ、教室の隅で、いつもつまらなそうな顔をしている女生徒フウのことだけは、唯一の彼の気がかりだった。
ある日の放課後、ちょっとした事件が起きた。
珍しくフウがクラスの女の子たちから「フウちゃんも遊ぼう」と声を掛けられているのを廊下で目にして、ルディがほっとしかけたのも束の間。
「私は良い。うっとうしいのよ。私には構わないで」
氷柱のように冷たい言葉で容赦なくクラスメイトの女の子たちを斬りつけたフウを見て、彼は愕然とした。彼女に突っぱねられた女の子たちはすっかり怯え切って、泣きべそをかきながら走り去っていった。
一連の出来事を呆然と見届けてすっかり蒼褪め切ったルディは、耐え切れなくなって、未だに憮然とした顔つきをしているフウの下へ駆け寄った。
「フウ。今の態度は、流石にちょっと酷いんじゃないか」
「……別に。せんせーには関係ないでしょ」
「その言い方はないだろ……? みんな、お前のことを心配してるのに……」
フウの、黒く冷めた瞳で睨み返された時、彼の心臓はびくりと怯えた。
「そういうのが、一番迷惑。せんせーみたいな幸せな人には……一生、分からないよ」
呪詛のような言葉を叩きつけると、フウは目を丸くして呆然としているルディを置いて、逃げるように走り去った。
ルディは、フウを追いかけることができなかった。
淋しい気持ちで、小さくなっていく背中を見つめることしかできなかった。
それからもフウは、相変わらず教室の隅で、つまらなそうに頬杖をついていた。
彼は、感情の欠落しきった人形のような顔をする彼女の姿を認めるたびに心がちくりと痛んだけれど、再び面と向き合って話し合う勇気も持てなかった。ただ、遠くからそっと見つめていることしかできなかった。
そうして過ごしているうちに、ルディが教師になってから一年半が経過した。
そんなある日のこと。
【せんせーの幸せ】は、ある日、唐突に崩壊した。
リタが、難病を患ったからだった。
取り乱したルディはどうにかして、彼女の命を取り留めようとした。
ケレイスだけでなく、メルクからも腕の良い医者を呼び寄せたけれど、その誰もが悲しげに瞳を伏せて力なく首を横に振った。
医者は口をそろえて、リタの命はもってあと半年だと言った。
病に身体を蝕まれ、日に日に痩せ細っていくリタを、ルディは狂おしい気持ちで眺めていた。リタにつられるようにして幸せだったあの頃とはまるで別人のように痩せてしまったルディのことを、誰もが気遣わしげに見やっていた。
彼女が難病を患ってから、ついに、半年が経った。
艶やかな丸みをおびていた手が骨ばり、頬もすっかり痩せこけてしまったリタは、ベッドの上で浅い息をしながら、最期の時が近づいてきていることを自然に悟ってルディを呼び寄せた。
「ル、ディ……もう、そろそろ、さよ、なら……みたい」
「……い、や……っ。どう、して……っ。こんな、こんなことになるって分かっていたなら……っ、あの時、教師を目指そうだなんて思わないで、少しでも長く君の傍にいればよかったっ」
「ダ、メ。……そ、んな、さみしい、ことを言わない、で」
ルディが必死に努力をして教師になったのは、他でもないリタの為だった。
彼女自身が、そのことを他の誰よりも一番よく身に染みて分かっていた。だからこそ、彼にその決死の努力すらも否定させてしまった自分の儚い身の上をリタは憎らしく思った。
「やだっ……やだよっ……。リタっ、僕を置いていかないでっ……」
「ゴメンね……ルディ」
聞き分けのない子供をあやすように彼の柔らかい髪を力なく撫でながら、リタはそっと彼の耳元で囁いた。
「愛してる」
ルディが永遠の愛を誓った最愛の妻は、医者の宣告通り、眠るように瞳を閉じた後そのまま目を醒まさなかった。
彼が魂を分け合った彼女は、あまりにも若くしてこの世界を去った。
瞬間、心臓の半分を捥ぎ取られたような激痛が彼の身体を走り抜けて、ルディは泣くことすらもままならなかった。
――リタが死んでしまっただなんて、嘘だ。これはきっと、悪い夢かなにかだ。そうに違いない。
酷すぎる現実の重みに潰されてしまった彼は、気を失うようにしてすっと意識を手放した。
次に、ルディが目を見開いた時。
彼の目の前では、世界で一番愛おしい妻が病に蝕まれる前の健康的な瑞々しい姿で微笑んでいた。
「どうして、泣いているの?」
リタが何にも知らないようなあどけない顔をしてきょとんと首を傾げた時、彼は胸がいっぱいになって、どうにかなりそうだった。
「リ、タが……僕のことを、置いていくからっ」
「ヘンなルディ。わたしは、ここにいるじゃない」
彼女が透明な声でくすくすと笑う。リタが白く丸い手で泣いているルディの頭を撫でた時、心の底から彼女への愛おしさが溢れだして止まらなくなった彼は、衝動のままにリタに腕を伸ばした。
それから、幼い頃と同じように、どこまでも幸せで綺麗なものだけに充ちた穏やかなこの楽園を、リタと一緒に駆けずり回った。
彼女が亡くなったあの日からルディは、もう半年近く毎晩、この酷く幸せな夢を見続けている。夢の中で彼女と逢っている間だけ、現実世界で死んだように麻痺している彼の心臓はうずき出し、時が流れ出す。そうしてひとしきり夢の中で遊んだあと、目を醒まして彼女のいない現実に帰ってくるたびに鋭い喪失感に刺し抜かれるような痛みを覚える。
それでも彼は、この美しく残酷な夢の中から抜け出そうと思えなかった。
――だって、このやさしくてきれいな夢の世界でリタに触れあう時、たしかに僕はあたたかくて、幸せな気持ちで満たされる。
今やルディは、この幸福の象徴のような夢によってのみ、辛うじて生かされていた。
ルディが、今日もどうにか冷めた瞳で、灰色に塗り潰された教室世界を見下ろしながらどうにか授業を終えると、昼休みを告げるチャイムの鐘が鳴り響いた。
随分とやつれきった身体で迷うことなく屋上へと足を向けた彼は、柔らかい髪を風に弄ばせながらそっと瞳を閉じた。
この頃のルディの精神は夜の夢だけでは支えきれなくなっていて、気づけば彼は、昼にもリタの姿を求めて眠るようになっていた。
瞼を閉じて、眠っている時にだけルディはリタに逢える。
再び瞳を開いたとき、彼女は今日も、眩しい青空の下でやわらかい微笑を浮かべて、彼の隣に座っていた。リタのやわらかい亜麻色の髪を撫でながら、彼はぼんやり考えていた。
永遠に、この夢から醒めなければ良いのに。
だって、夢から醒めてしまったら――
『……せんせー、起きてっ』
――嫌だ。嫌だよ。だって、リタのいない世界になんて、価値はない。僕は、この幸せな夢の世界で、永遠に微睡んでいたい。
それでも、その無遠慮な手はぺちぺちと彼の頬を叩くことをやめない。必死に、夢の中のリタからルディを引き剥がそうとして、もがいていた。
身体を揺さぶられ続けてわずらわしくなったルディがハッとして瞳を見開いた時、目の前には、今にも泣きそうに顔を歪めて彼の腕を掴んでいるフウの姿が目に入った。
「どう、して、起こしたりするの……っ」
「……せんせーが、苦しそうだったから」
愕然として、ルディは青い瞳を大きく見開いた。それから、わなわなと唇を震わせて、聞きわけのないのない子供のように首を横に振った。
「そんなことないっ……僕は、幸せだったっ」
「ううん。せんせーは半年前からずっと……一年ちょっと前の私と、同じ顔をしてる」
フウの黒い瞳に真っ直ぐに見据えられたとき、死にかけてほとんど動かなくなっていた彼の心臓が、びくりと反応した。
恐々と、目の前のフウの顔を見返したルディの手を、彼女はそっと握る。
「せんせーは……大切な人が亡くなったことをちゃんと受け入れて、哀しまなくちゃいけない」
一年ちょっと前に、人形のように冷たい顔で彼のことを振り払った少女の手は、彼が想像していたよりもずうっと熱かった。
「私の大好きだったお母さんもね……二年前に、死んじゃったんだ。お母さんがいなくなってすぐのあの頃は、毎日ぼうっとしてた。あんまりにも受け入れがたくって、私もお母さんの後を追ってみようかなってバカなことを考えたりもした。どうして生きているのか、分からなくなってしまった。何の悩みもなく見えて、ただ能天気そうに暮らしている周りの人たちが、みんなくだらなく思えた」
冷たい瞳で、いつもクラスの皆と距離を取ってつまらなそうに過ごしていた一年ちょっと前のフウの姿と、目の前の、幼いながらもどこか凛としたしなやかさをそなえ始めている彼女の姿とが交差して、ルディの脳髄は激しく揺さぶられた。
呆然として、言葉も見つからなくなってしまったルディをそっと抱きしめて、「でもね」とフウはまだ幼さも残るあどけない声でそっと続けた。
「ある時、もし私とお母さんが、逆の立場だったらって考えてみたの。私はね、お母さんがもし私の後を追って死ぬだなんて言い出したら、何馬鹿なこといってんのってめちゃくちゃに怒って、泣きわめいて、一日は口をきいてやんないって思った。これってきっと……私だけじゃないんだよ。せんせーだって、そうでしょう? せんせーの愛してた人だって、きっと同じだよ」
フウの心からの願いが雫となって、止まりかけていた彼の心臓に垂れ落ちる。
「その人も……愛していたせんせいが、死んじゃった自分に今でも縛られてこんな風に弱っているのを見たら、哀しくなっちゃうよ。だから……せんせーも私も、苦しくても淋しくても辛くても、どうにか受け入れて生きていかなきゃいけないの。他でもない、大好きだった人のために」
ルディの心臓が、リタを失ってから初めて、激しく脈打ち始めた瞬間だった。
*
その日の夜。
ルディは、夢を見た。
雲一つない、澄み切った楽園の空も。
爽やかな香りのするあの大きな樹木も。
そよそよと彼の頬を撫でてゆくやさしい風も。
ここ半年間、彼が見続けてきた光景と、何一つ変わらなかった。
唯一つだけ。
どんなに立ち尽くして待っても、リタが現れないことだけが違っていた。
ハッとして、ルディは夢から目覚めた。
とめどなく涙が溢れ出して、このまま狂ってしまいそうだった。
泣いて、泣いて、このまま干上がってしまうのではないかという程に彼は泣き続けた。
それでも。
ルディが美しい夢の中でリタと戯れた後、目を醒ますたびに必ず襲われていた身体中を突き抜けるような激痛に苦しむことだけはなくなっていた。
代わりに彼の心は、冬の朝にも似た透明なさみしさで満たされていた。
その夜、はじめて彼女のいない夢を見た 久里 @mikanmomo1123
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