運命 ≪1≫
石造りの階段を下りた先からは、湿度の高い冷気が漂ってくる。隻眼の男は手燭を携えて、暗い階段を一歩一歩慎重に下っていく。蹴斗たちは恐る恐る彼の後に続いた。
地下に設けられたアジトは思いのほか広々としていた。いや、中世に建造された人工の地下構造としては、破格の広さを有しているように蹴斗には思われた。廊下には一切の灯りが備えられていないため、松明や手燭がなければ部屋と部屋間の移動もおぼつかないことだろう。
集会エリアと名付けられた部屋の四方の壁には燭台が備えつけられていたが、この部屋の隅々まで照らすにはいかにも心もとない灯りであった。そもそもこの集会場が地下室としては広すぎるのだ。体育座りで並べられた高校生を、ざっと百人程度は収容できる広さであろう、と蹴斗は見た。隻眼の男曰く、さらに廊下を隔てた先には雑居部屋や食堂などがしつらえられており、果てはバーカウンターまでが存在しているという。
シスター・エルネスティーネの拘束は、一行がアジトに到着すると同時に丁重に解かれた。隻眼の男は非礼を詫びながら、シスターを拘束しなければならなかった理由を説明した。すなわち、ことは一刻を争う状況であったから仕方ない、という弁明だった。
蹴斗たちは、狙われていた。それも、ただの野盗が金品欲しさにつけ狙ってきたわけではない。図らずもW杯一次予選を突破したことが、教会の連中にとって余程まずかったということだ。敵は相当に規模の大きな組織である。そんな危険な相手から、蹴斗ら一行を速やかに遠ざけながらここに連れてくるためには、多少手荒な手段が必要だったというのが隻眼の男の言い分だった。
なるほど、ととりあえず蹴斗は得心する素振りを見せた。
一方、連行されたごろつきは、地下牢という名のタコ部屋に押し込まれることとなった。蹴斗の想像が及ぶ限り、およそ人を住まわせる(ないし閉じ込める)目的で作られた場所で、この地下牢ほどに劣悪な環境はないように思われた。そもそも灯りが備え付けられていないため、こうして隻眼の男か牢番か誰かが灯りをもって下りてでも来ない限り、真昼であっても完全な闇に覆われることになる。
興味本位で地下牢見物を願い出た蹴斗は、その空間から放たれる強烈な臭気を浴びることになり、その迂闊な好奇心を心底後悔することとなった。牢内を見れば、排水溝のような隙間に汚物が堆積しており、それはトイレとして使われているのだと察せられた。
何人か先客もいた。もちろん独房などという気の利いた間取りにはなっていない。彼らは仲良く、鉄球に連結された鎖を足首に装着され、狭い部屋に押し込められて置物のように並んでいた。ごろつきがこれを装着して列に加わると、囚人らしさがより一層際立った。今となっては、どれが元からそこで暮らしていた囚人たちで、どれが今しがた連れてきた元ごろつきなのか、まるで判別がつかなくなってしまった。明日から彼らは、仲良く同じ釜の臭い飯を分け合って生きていくのだ。
それ以外のアジトの構成員たちは、大方寝静まっていると思われた。何人かの夜警と思しきメンバーとすれ違った以外、蹴斗たちが誰かと顔を合わせることもなかった。残りのメンバーに紹介されるのは、明日以降になるだろう。
「お前たちも長旅で疲れているだろう。もし必要なものがあれば言ってくれ。こちらで用立てられるものなら何でも用意しよう。もっとも、俺たちもここで満ち足りた生活を送っているわけではないから、おのずと支援にも限界はあるが」
隻眼の男は、蹴斗たちを空き部屋に案内して言った。
「あらあなた、極悪人みたいな見かけによらず親切ねぇ。地下にバーカウンターまでこさえておいて、満ち足りてないだなんてよく言えたじゃない」
蹴斗が発した嫌味に対して、隻眼の男は特に何の反応も示さなかった。蹴斗ら一行の荷物を無造作に部屋の中に放り込んで、そのまま立ち去ってしまった。
ハンスとシスター・エルネスティーネが早々と就寝する中、好奇心に駆られた蹴斗は、灯りのない廊下を手探りで渡って、バーカウンターへ向かった。
地下に設けられたバーカウンターとしては、驚くほど立派な佇まいをしていた。カウンターテーブルは重厚なウォールナット材で作られており、年季は入っていたがよく手入れが行き届いていた。カウンターテーブルの前には五つほど、空いたスツールが並んでいた。蹴斗は迷うこともなく、真ん中の席に腰掛けた。
「酒場へようこそ」
そう言って蹴斗を歓迎したバーテンは、例の隻眼の男だった。
「お前かよ!」
思わずカウンター越しにツッコミを入れる蹴斗に対して、隻眼の男は全く動じる様子を見せなかった。ただ怪訝そうな表情を浮かべながらグラスを拭いている。その細やかな手つきは、つい先ほどまで、捕獲したごろつきを料理して食べようとしていた男の所作とは思えなかった。
そこへ一人の男が、扉を開いて入ってきた。青白い蝶の形をあしらった仮面と、体をすっぽりと覆うマントを身に着けている。まるで仮面舞踏会を抜け出してきたばかりのような風体だ。
その髪は、色素という色素を丁寧に抜き去った後に、かろうじて残されたかのような淡い銀色を呈していた。まるで、夜道を仄かに照らす積雪のような銀髪だ。
仮面の男はそのままおもむろに蹴斗の隣に着席し、口を開いた。
「マスター、あれを」
「……」
男の言葉に、隻眼のバーテンが無言で応える。
ここ北帝直轄領の地酒といえば
しかしながら、仮面の男のお目当てはどうやら北帝直轄領ご自慢の麦酒ではなく、ここよりやや南西方面にあるプニエ公国特産の白ワインであるらしかった。隻眼のマスターが、これにジンを加えてシェイカーで混ぜ込む。出来上がった透明な液体を逆三角形のカクテルグラスに注ぐと、マスターはオリーブの実をあしらえて仮面の男に差し出した。
仮面の男はグラスを手にしてこれを軽く傾けると、おもむろに口を開いた。
「月が
は? 月? ここ地下だろ? と蹴斗は思わず心の中でつぶやいた。しかし、下手に絡まれたらすごく面倒くさそうなので、無反応で正面を見据えることにする。
「不思議な夜だね。僕たちがこうして邂逅したこんな日が、こうも穏やかだなんて。少年よ。きっと君は、運命に
なぜ絡んできて欲しくないやつほど、よく絡んでくるのか。無視を決め込もうとした蹴斗であるが、どうにも分が悪いようだ。その常連客は「少年よ」とか言ってるし、どう考えてもバーテンに話しかけているわけではなさそうだ。他に客もいない。
どうやら逃げられそうな雰囲気でもないので、蹴斗は重い口を開けることにした。
「拙者はシュート・クロスでござる。仮面の男よ、名乗るで候」
「僕に名前はない。そんなものはとっくの昔に捨てたのさ。そんな僕のことを、人はみなこう呼ぶ。『
と彷徨える哀の運命は言った。
「長っ」
「そう、人を導く運命は長い歴史に裏打ちされているものだ。哀の運命。皮肉だね。
「いや、その運命やら人生が長いとかじゃなくて、名前? というかその通称みたいなやつが長いと思って、でござる」
「ああ」
蹴斗の抗議に対して鷹揚に応えると、彷徨える哀の運命は、丸三日間ほど溜め込んだような大きなため息をついた。そして部屋の隅にある
「東洋を旅していた頃に贈られた一篇の詩を、いたく気に入ってしまってね。その一節から言葉を拝借して、『サダメ』と名乗ることもある。『運命』と等しい意味を持つ言葉だ」
過ぎ去ってしまった時代を懐かしむような口調で、サダメは言った。
このサダメこそが、遙か未来において世界初のサッカー観戦記を書いた人物として知られるようになるのだが、この時点において蹴斗はそれを知らない。もちろん隻眼の男もそれを知らないし、この時代を生きる人間の誰一人としてそれを予見することは適わない。それを書いたサダメ本人ですら、長大な叙事詩に連なるサッカーを吟じた一節が、後年になってサッカー観戦記と呼ばれるジャンルの書き物になるとは、この時点では露ほども考えていなかった。
「サダメ……」
その言葉を聞いたとき、蹴斗は己の心に不思議な感情が芽生えていることに気づいた。心の琴線が、夜の海で嵐に出くわした小舟のようにざわついた。気が付くと、涙が溢れてくるのを止められなくなっていた。
この世界へ飛ばされたから二週間あまり。決して、長い時間が経過したとは言えない。千年以上の時を遡ってきた人間にとって、たかが二週間のことなどは、まるで線香花火の命のように、儚く短い時間に過ぎない。それでも、その言葉は確かに懐かしく響いた。そのあまりの懐かしさに、涙を禁じ得なかったのだ。
――
その言葉は、その言語は、蹴斗がよく知るものだった。寄る辺となる世界を失った異世界転生者のように、または片道の宇宙旅行の終着点で未知なる惑星に降り立った探検家のように、かつて暮らしていた場所の存在が不確かになってしまっていた蹴斗にとって、その言葉には特別な意味があるように感じられた。
そして、その言葉の響きはある事実を伝えていた。この世界にも、この時代にも、日本に相当する国または地域が存在し、日本語と呼ばれるべき言葉が存在することを。
「サダメ兄さん」と、蹴斗は涙に
すがるような蹴斗の問いに対して、サダメは拾ってきた子犬を慈しむ時のような眼差しを向けた。
「言ったろう、月が哭いている、と」
そう言うと、サダメは再び長い沈黙の帳を下ろしてしまった。その完璧な沈黙は、蹴斗に真空の月面を想起させた。その地表に「静かな海」を擁する月面のイメージだった。
月が哭いている。つまり、それは一体どういうことだろう?
その言葉には何かしら続きがあるのだろう、と蹴斗は思った。しかし、それに続く言葉が発せらることはなかった。汗をかいたグラスから、一筋の水滴が音もなくカウンターテーブルに滑り落ちた。背後では燭台の炎が不規則に明るさを変化させており、テーブルに落とす影を揺らめかせていた。
「サッカーは凄いぞ、少年」
再びサダメが口を開いたときには、月の話は終わっていた。過去の話題はアンモナイトの化石のように、地層の奥深くに忘れ去られ、二度と掘り出されることはなかった。
「サッカーは燎原の火のごとく、瞬く間に世界を席巻した。チェスが、シャトランジが、チャトランガが、象棋が、その炎に飲み込まれ、サッカーに姿を変えたんだ。かつてどんなに栄えた帝国でさえ、版図をここまで急激に拡大させたことはなかった。しかし、サッカーはそれをやってのけた。東は東大陸の果てから、西はこのエルミリア大陸まで。上は煌びやかな上級社会から、下は薄汚れたスラムに至るまで。サッカーの火の手はことごとく及んだのさ」
「それは、世界をあまねく変革する革命のように?」
「革命?」
まるで馴染みのない言語で話しかけられたかのように、サダメは双眸を見開いて聞き返す。そして二度三度と、その言葉を反芻するかの如く呟いて、軽くうつむいた。
「その質問に答えるためには、まず革命というものを知らなければならないだろう。革命と呼ばれるものの本質を、ね」とサダメは骨董品を品定めする目利きのような口調で言った。まるで自分自身にもそう言い含めるかのように。「プリウス・シュタティウスの詩篇に倣うならば、この世界で革命と呼ばれるものはすなわち、転覆を意味するものだ。『革命を告げる神は
サダメが引用した詩は、エクソポタミアの没落に取材した叙事詩の一節であった。エルミリア大陸が開かれ、歴史上のちの北帝に連なる大帝国が勃興する前夜のことだ。
「つまり、革命とは嵐の航海の途中で起こるものだ。だから船が転覆すれば、多くの船員の命が失われる。それが革命だ」
そこで、サダメは一息ついた。
「だが、サッカーはそうじゃあない。それは、進化だ。船に例えるならば、僕たち人類は新しい船を手に入れて、大いなる船出に繰り出すところなんだ。それはさしずめ、方舟といったところだろう」
サダメはそう言うと、そこでまた一呼吸置いた。
「だから歴史が正しくその流れを時計の砂に委ねるとき、僕たち詩人はその埋もれた痕跡をたどり、微かな物音にも聞き耳を立てるんだ。月の慟哭が聞き取れるほどにね」
「今夜はいやに饒舌だな」
そう言って割って入ってきたのは、それまでひたすら沈黙を貫いてバーテンとしての作業をしていた隻眼の男だった。
「そういうマスターこそ、はしゃいでいるんじゃないかな?」
サダメが、グラスを回しながら言う。オリーブの実が、ころころと転がる。
「どうだか」
「いつもはジンをケチるくせに、今宵は気前がいい」
サダメが挑発的な視線で隻眼の男を睨め付けた。隻眼の男は、眉一つ動かさずにその視線を受け止める。それは、麗しき蝶の仮面とひどく無骨な眼帯が相対した、なんとも奇妙でアンバランスな構図だった。
「少年よ、僕たちは再び、相まみえることとなるだろう。その時までに君は、きっと何かを失い、それと引き換えに何かを得るであろう。月の満ち欠けのようにね」
そう言い放つと、サダメは空けたグラスをマスターの元に押し戻した。グラスの周りには小さな水たまりが残されており、燭台の光を怪しげに映し込んでいた。
蹴斗は何かを言おうとして、己の口が何の言葉も発せないことに気が付いた。
月が満ち欠けを繰り返すように、人もまた何かを失い何かを得る。月光の及ばぬ地下のアジトで、サダメの発したその予言のような言葉は、明瞭な満月のイメージとなって蹴斗の脳裏に焼き付いた。ここで何か間違ったことを口走ったら、そんな脳裏のイメージがたちどころに霧散してしまう気がしたのだ。
「マスター、二人分の勘定を。今宵は僕の奢りだ」
そう言ってサダメは立ち上がり、一握りの銅銭を残して颯爽と廊下の暗がりに消えた。宵闇の彼方に飛び去る蛍のように。
呆気にとられる蹴斗をよそに、隻眼の男はさっさとグラスを片付け、店じまいであるとばかりに粗雑な手つきでカウンターテーブルを拭き始めた。もはや蹴斗は客とはみなされていなかった。ささやかな酒宴は終わったのだ。
蹴斗の目尻には、いまだに涙の跡がこびりついていた。瞼は重く、腫れぼったい。目頭は熱を帯び、一晩では到底冷ませそうにもなかった。
こうして、かくも鮮烈な邂逅の夜はひっそりと幕をおろした。そして蹴斗がバーカウンターを後にしようというとき、ふとあることに気づいてしまった。
そう、何の注文もしていなかった蹴斗は、結局何も奢られてはいなかったのだ。
第1回W杯決勝まで、あと351日
異世界転生サッカークロニクル フサフサ @Levalier
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