第3話 夏日の獸檻

 はるか以前のこと、海に四方を囲まれたこの島は一つの国として、神の身代わりたる帝によって治められていた。帝は神の代弁者であり、その言葉は神意であるとされ、市井の人々は信仰に則って慎ましく暮らしていた。

 帝は都の中央の金蓮台こんれんだいに玉座を据え、政を行った。いずれの代の帝もよい治世を行ったが、中でも当代の帝の手腕は素晴らしく、国内外の多くが彼を『賢帝』と讃えた。都の外から訪れる人々は、よく整えられた市街の様子に感嘆の息を漏らし、その 絢爛さを郷里で待つ人々に伝えた。そしていつしか、人々の間では金蓮台の名を取って「金の都」と呼ばれるようになっていった。

 その金蓮台の中央部で、神官長として帝に仕える一人の青年がいた。薄暗い神殿の中で、小さく燃える灯がその横顔をかすかに照らしている。

泰光やすみつ殿。」

 神官の一人が慌ただしく青年の元へ駆け寄った。その只ならぬ様子に、泰光と呼ばれた青年は微かに眉を顰めた。

「どうした、何かあったのか。」

「帝が、急ぎ神官長を呼べと仰せとのことです。」

「帝が?」

 目を見開いた泰光に、若い神官は声をぐっと潜めた。

「近頃噂されている、ご退位のお話やもしれません。」

「滅多なことは口にするな。帝を推し量るなど、無礼だろう。」

 押し黙った神官に踵を返すと、泰光は急ぎ足で玉座へ向かった。装束をはためかせながら歩く、その口元には薄く笑みが浮かんでいた。

 実のところ、泰光は退位についての相談を帝から受けていた。もちろん、国の政情にかかわる機密であるから、秘密裏のものではあった。しかし、こうして下位の神官の耳に入ったということは、大方、帝が侍従長あたりにその話をしたということなのだろう。侍従長は帝の信頼こそ厚いが、口が軽い。大事な要件が彼の耳に入るのは、決まってその件がほとんど決定された時期である頃だというのが、側近たちの中での通例だった。

 そして、最後には決まって私を相談役にお選びになるのだ。そんな優越感が、堪え切れず泰光の口元に浮かぶ。下級貴族の出自である泰光にとって、帝と関わるという行為それ自体が何にも代えがたい恍惚だった。

「ただいま馳せ参じましてございます。」

「おお、白田はくた殿。さ、こちらへ、帝がお待ちです。」

 侍従長の後ろをついて謁議えつぎの間に入ると、帝は既に玉座についていた。泰光はその眼前に静々と歩み寄り、流れるような動作で膝を付いて頭を下げた。

 帝は白銀に光る睫毛を二三度瞬かせると、覆い布の向こうから伏し目がちに泰光を見つめた。

「白田泰光、神官長としての日々の務め、大儀である。」

「麗しき帝、勿体無きお言葉、恐悦至極に存じまする。」

 帝は厳かに頷くと、白く濁りつつある瞳をまっすぐ泰光に向けた。

「いま一度そなたを呼びつけたのは他でもない。皇子たちのことについて、そなたの意見を聞いておこうと思ったのだ。」

「…帝はまだ輝かんばかりの精気に満ちていらっしゃいます。帝位の禅譲ぜんじょうは尚早では…。」

「侍従長、口が過ぎるぞ。余は今、泰光に意見を聞いている。」

「―――は。」

 深く頭を下げた侍従長を俯きながら一瞥し、泰光はゆっくりと顔を上げた。

「恐れながら申し上げます。皇太子様方はいずれも才知にあふれ、武勇に優れた素晴らしき方々でございます。」

「うむ。余もいまだ決めかねておる。」

「そこで、占いにて神の宣旨を賜うべきかと。」

 泰光の言葉に、帝は束の間の沈黙ののち、静かに頷いた。

「…そうだな。天つ神ならばよきお答えをお持ちだろう。」

 そう言うと、帝はほんの少し顔を俯けた。帝の顔を長く見つめるのは無礼にあたるので、泰光はそっと視線を落とす。それでも、その間際に目に映った帝の表情の柔らかさは、泰光にとって印象的なものだった。

「余は、かつて若くしてこの帝位についた。…あれはまだ、十五の頃だったな、侍従長。」

「―――早くに身罷られた先代の帝の跡をお継ぎになられましたゆえ。」

「そうだ。右も左もわからぬ内に帝位を継ぐことの重圧を、余は誰よりも理解している。それゆえ、この身が健在である内に、支えることが出来るうちに、この位を譲ってやりたいのだ。確かな神のお言葉を賜ることが出来るよう、頼むぞ、神官長よ。」

 帝が、怜悧な瞳を泰光に向けた。しかし、その冷たさに隠れるように、父親としての温かさが混じっているのを、泰光は見逃さなかった。

「…この泰光、しかと受け賜りましてございます。」

 再び深々と頭を下げながら、泰光はどこかほの暗い気持ちが心の内に広がっていることに気が付いていた。帝に見えないよう、ひそかに眉を寄せたが、なぜそんな心地になったのか見当がつかなかった。





 泰光が邸に帰ると、ちょうど学舎から戻ったらしい弟の[[rb:泰行 > やすゆき]]と鉢合わせた。外塀の角から現れた弟が嬉しそうに駆けて来るのが見えて、泰光の心には苦々しいものが広がった。

「兄上!今お戻りだったのですね。」

「…お前も、今帰ったのか。青柳院せいりゅういんではよく学べたか?」

「はい!此度の科試かしでも一番でした!兄上と同じようになりたくて、頑張りました。」

 屈託のない笑顔が、泰光の神経を逆撫でる。それを悟らせないよう、泰光は努めて平静を保ちながら、微笑を浮かべて弟の肩を叩いた。

「学に励むのは良い事だ。よくやったな。」

「…!ありがとうございます!」

 母親似の顔が上気して淡く染まるのを見て、泰光は米神がひくひくと震えるのを感じた。この無邪気な男に自分の悪意を思い知らせたら、一体どんな顔をするだろうか。そんな考えが、脳の奥からどす黒く思考を覆っていく。

「兄上、私は先に父上の元へ行って参りますね。」

「―――ああ、分かった。」

 薄暗い夕闇の中を駆けていく淡い色の背中を見つめる泰光の視線は、その胸中のように暗澹としていた。

 泰光は弟の泰行が嫌いだった。幼いころに母を亡くし、父の支えになろうと研鑽を重ねてきた泰光にとって、横から父の寵愛を奪った泰行は憎悪の対象でしかなかった。

 泰光がまだ七つの頃、母が流行病を得て死んだ。最愛の妻を亡くした父は大層落ち込み、自らも死を望むほどに窶れ果てた。

 そんな父が痛ましくて、泰光は勉学に一層打ち込んだ。来る日も来る日も、夜と昼の境が分からなくなるほど書物と向き合い、やがて自らの師よりも知識を持つまでになった。

 だが、それでも父の関心は泰光に向けられなかった。学舎では周囲の学徒たちが、下級貴族の出でありながら首席として誰よりも秀でた泰光を妬み、平凡な書士でしかなかった父親を引き合いに出しては嘲った。泰光は心の安寧を求め、さらに学業に傾倒した。

 屈辱の日々を耐え続け、遂には史上最年少の神官職としての任を与えられるまでに至ったが、それでも父は泰光に目を向けなかった。生ける屍のような父を見る日々は辛く、泰光は金蓮台に上がってもなお、狂ったように書物を読み続けた。

 そんなさなか、父が恋に落ちた。

 それからの父は、かつてからは想像もつかないほど明るくなった。泰光はその姿に少なからず焦燥感を抱いたが、父が元気になったことは素直に喜んだ。実の母のことも愛していたが、死んでしまった母よりも生きている父を優先すべきだ。父が生きる活力を取り戻したのならば、いずれ自分に目を向ける日がきっと訪れる。そう自分自身で折り合いをつけて、父が再婚を打ち明けた時も、泰光は二人の事を祝福した。

 だが、弟が生まれたことで、泰光の置かれる状況は一変した。以前は泰光がどんなに努力を積み重ねようとも、決して興味を示さなかった父が、弟の些細な成長を褒めそやした。弟の一挙一動に喜色を滲ませる父親に、泰光は愕然とした。全ての関心が弟である泰行に向けられてしまったのは、誰の目にも明らかだった。もはや父の愛が自分に戻ることはないと悟った泰光は、これまでの積もり積もった憎しみを幼い弟に向けた。

 お前さえ生まれてこなければ。何度も何度も心の中で呪いを叫びながらも、父が愛情を向ける対象にあからさまな悪意を向けることも許されず、泰光はその心中に憎悪を募らせていった。



 


「兄上、今はお時間よろしいですか。」

「泰行か。ああ、入れ。」

 文机に向けていた身体を起こすと、泰光は戸口で待っている弟を手招いた。泰行はパッと顔を輝かせて駆け寄ると、兄の隣に腰を下ろした。

「夜分に申し訳ありません。青柳院で出された課題がどうしてもわからなくて。」

「気にするな。見せてごらん。」

「お願いします。」

 泰光は受け取った課題の内容を見て、微かに息を呑んだ。

「―――院の課題と言ったが、これは全員に出されているのか。」

「いえ、その…。私だけなのです。師が、特別にと。」

 それは、泰光が同じ歳の頃には手を伸ばそうともしなかったほど、難解な書を引用した課題だった。驚いて声も出ない泰光に気づかないまま、泰行は恥ずかしそうに襟足を撫でた。

「あと一歩で答えを導き出せそうなのですが…。期待をかけられて、分からないというのも、学友たちにからかわれそうで恥ずかしくて。こうして兄上のお力をお借りしようと思ったのです。」

「―――そう、か。成程、お前の歳には、少し難しいものかもしれないな。」

 照れ笑いを浮かべる泰行を見ることもせず、泰光は震える指で筆を取った。口では課題の手ほどきを教えながら、その胸中ではどろりと濁ったものが渦を巻く。

 私にないものを、お前はすべて持っている。幸福も、愛情も、才能も、天運も、すべて、すべて。なぜ、どうして。後から来たお前が、なぜ。ああ、憎い、憎い、お前さえ、いなければ。

 やがて、問いの答えを導き終わったころ、泰行が思い出したように懐をまさぐった。大人の手の平に収まる程度の細く小さな巻物だが、黒光りする表紙が灯火の光を鈍く反射して、何とも気味が悪く見えた。

「そうだ、兄上。これを。」

「…あ、ああ、これは?」

「院でひそかに流行しているのです。出処不明の禁術が記されているとか。」

「…子供だましの絵巻物だろう。」

 封を解いて巻物を開くと、そこには黒ずんだ紙の上に小さな文字が隙間なく並んでいた。狂気すら感じる文量に、泰光は耐えかねて目を逸らした。

「こんな得体のしれないものが流行っているのか?」

「荒唐無稽な内容ですが、少し面白いですよ。実はこれ、原書なのです。友人が伝手で手に入れたとかで。兄上に差し上げます。」

 けろりとした様子の泰行は、どうやら既にこの書を読んだ後らしかった。若者の感性とは分からないものだ、と思いながら、泰光は巻物を受け取った。

 見た目の割に、手に感じる重量はずしりと重い。だが、不思議と捨てる気にはならなかった。泰光はうすら寒いものを感じて、巻物をそっと文机の上に置いた。





 次の日、謁議の間には右左両大臣を始めとした官職が一堂に会した。帝は壇上からそれを一眺すると、侍従長を呼んで何かを伝えた。

「白田泰光、帝より勅令を申し渡す。次の月が満ちる日、天つ神より宣旨を受けよ。それを以て、次の帝位を決するものとする。」

「は。」

「…恐れながら!」

 突然、泰光の後方から声が上がった。キンと響く特徴的な声は右大臣のものだ。泰光は平伏したまま、事の成り行きを待った。

「麗しき帝に申し上げます。月影宮げつえいきゅうの皇子こそ、次の帝に相応しいお方。占いなど不要かと存じますれば。」

「右大臣殿、ならばこちらも申し上げるが、星泊宮せいはくきゅうの皇子こそ文武に優れたお方。帝位はこちらにこそ相応しい。」

「両大臣、控えられよ。」

 侍従長が鋭く言葉を発すると、二人は忌々しげに口を噤んだ。周りの者たちも、どこか緊張した様子で大臣たちを盗み見ている。

 右大臣家、左大臣家は、代々の帝の縁者として力を持ち続けていた。当代の帝は、右大臣家から出た皇后を母に持つため、右大臣家系の血が強い。先代の帝も右大臣系であり、継続して右大臣家が力を増していることに、左大臣家は苦々しい思いでこの数十年を過ごしていた。

 しかし、今回の皇子たちはそれぞれが母親を異にしていた。月影宮には右大臣家の姫が入り、星泊宮には左大臣家の姫が入った。そして、いずれも時期を同じくして皇子を産み落とした。歳が近ければ、相手に不利を与えることもない。そのため、左大臣家はずっと名誉挽回の機を待っていたのだった。

「すべては神の思召すところによって決められるものである。お二方とも、それ以上の言及は慎まれるがよい。」

「は―――。」

「失礼を―――。」

 帝は静まった間をゆっくり見渡すと、初めて言葉を発した。

「宣旨が下るまでは神殿に近寄ることを、勅旨を以て禁ずる。」

 その言葉に、謁議の間に集ったすべての臣下は一斉に頭を垂れた。





 謁議の間を退出し、占いの準備に取り掛かろうと歩いていた泰光に声がかかった。

「白田殿。」

「おや、奥羽おうう殿。私に何事か御用ですか。」

 先ほど異を唱えた右大臣その人に、泰光は少なからず緊張しながら返事をした。それを察してか、右大臣は口元に笑みを浮かべた。

「何、神官長殿に少々お願いしたき義がございましてな。」

「私の力の及ぶ範囲の事ならば、何なりと。」

「頼もしきこと。」

 右大臣の顔が厭らしく歪む。

「願いというのは、宣旨の占いのことでしてな。」

「占いの?」

「ええ。月影宮の皇子に宣旨が下った、と。そう書いてくだされば。」

 何と、右大臣は自らの家のため、神を騙れと唆しているのだ。驚きに目を見張る泰光に、右大臣はことさら顔を寄せて声を潜めた。

「もちろん見返りは用意いたしましょう。そうですな、お父上を要職に召し上げて差し上げましょうか。それから、弟君が入台しやすいよう後押しもさせていただく。いかがでしょうかな?」

 右大臣の言葉を聞いた泰光の脳裏を、ほの暗い考えが掠めた。

「―――右大臣殿、白田泰行を海道防かいどうもりに任じられるよう、取り計らうことはできますか。」

 泰光の低い声に、右大臣は一瞬驚いたような顔をした。しかし、すぐに厚い瞼の奥にある眼をきゅっと細めた。

 海道防とは、都からはるか離れた北の土地で国境沿いの警護にあたる者たちのことだ。青柳院に通うような人間がまず行くことのない僻地であったが、右大臣は口の端を持ち上げて頷いた。

「造作もない事。青柳院の院長は私の靡下におります。」

「あれは優秀な男だ。院を出れば必ずここへ来るでしょう。それを必ず阻んでくださるならば、お力添えを約束します。」

「畏まりました。そちらも、約束は違えられませぬよう。」

 去り際に厭らしい笑みを残すと、右大臣はその場を後にした。残された泰光は、ただ茫然とその場に立ち尽くした。

 人生で一番大きな賭けに出たと言っても過言ではないだろう。先ほどの約束、あれはつまり、帝を謀るということに他ならない。もし、これが明るみに出れば、職を追われるだけでは済まされない。今更ながらに、泰光の背筋を寒気が這い上がってきた。

「―――構うものか。あれが私の目に入らぬようにするためならば。」

 薄暗い廊下で、泰光はそう呟くと踵を返して歩き出した。





 帝の宣言から数日が経ち、いよいよ占いを執り行う日が来た。早朝の朝靄に煙る中、泰光は数人の神官を率いて都の西を流れる川にやって来た。目的は、川の中州に生える大柳である。

 はるか以前から、占いに使用する木簡はその柳から取る定めとなっていた。かつて太祖の帝がこの地を選んだ時、大柳の下に神の姿を見たという伝承から、以来長く神の宿り木として尊ばれてきた。しかし、泰光がこの大柳の元を訪れるのは、これが初めてだった。

「成程、立派な大柳だ。」

 中州に降り立って見上げると、細い柳葉が雨のようにさらさらと風に吹かれて流れている。心地よい音に、泰光はしばし立ち止まって聞き惚れた。

「泰光殿、伐るのは老いた枝と聞いておりますが。」

「ああ、そうだ。無用な傷を付けぬよう、慎重にな。」

 一番体格の良い下位の神官二人が、大きな鋸の両端をそれぞれ持って、枝の一つを切り落としていく。不思議なことだが、この大柳には枯れて色の褪せた葉が一枚も見当たらなかった。再び風に靡く柳を見ていた泰光は、ふと、そのしなやかな枝に一羽のカワセミがとまっているのを見つけた。

 夏の日差しを照り返して美しく煌めく羽に目を奪われたが、その黒い眼差しが鋭く自分達を見据えていることに気が付いた。泰光は、どこか敵意すら感じられる視線に耐えかねて、気味の悪い鳥だ、と目を逸らした。

「神官長、枝を落としました。」

「ご苦労。切り口に防腐剤を塗って、神殿に戻るぞ。」

 渡しの船に乗り込んで、泰光は何となく後ろを振り返った。枝垂れた幾重もの細い枝が御簾みすのように何かを隠している。その奥の、晴れつつある靄の向こう、微かに見えた白い影に、泰光は束の間目を奪われた。

「あれは、誰だ。」

「どうされました。」

「いや、柳の下に、誰かがいたような気がしたのだが――。」

「…もしや、天つ神が休まれていたのやもしれませんね。むかし、私の曾祖父が寝物語に話し聴かせてくれたことがありました。」

「天つ神か――。」

 泰光は神殿に仕える身でありながら、神の存在を信じていなかった。神官長としてその身を神に捧げる一方、神の存在を感じたことはこれまで一度もなかったからだ。それでも、先ほどの白い影は、何か崇高なものだと直感した。そして、一瞬だけ視線がかち合ったように思えてならず、泰光は不思議な感慨に身を震わせた。





 切り落とされたばかりの枝が木簡に加工されるまでの間、神殿では神官達が忙しなく占いに向けた準備に勤しんでいた。全ての柱に松明が焚かれ、厳かな香の匂いが祭壇を取り巻く。その中央で、泰光は百本ある蝋燭の最後の一本に火を灯していた。

 揺らめく火が、ぼんやりと泰光の輪郭を照らす。その顔に表情は無く、ただ虚ろに細くなびく煙を眺めているのみだった。

「神官長、お待たせいたしました。」

「―――では、これより天つ神のお声を賜う。皆、心静かに待つように。」

 神官たちが祭壇から退出すると、泰光は重く響く声で祝詞を捧げはじめた。広い神殿のはるか後方に座して待つ神官たちに、泰光の手元は見えない。

 木簡を手に取ると、泰光は蝋燭の群れの中央にそれを置いた。そしてその上に、白鷺の骨粉と銅の削り粉を撒いた。木簡を這いずる炎が赤橙に、青緑に色を変えながら輝く。灯りを落とした神殿の白壁が、拙い灯りで彩られる様子を眺めながら、泰光は時が来るのをじっと待った。

 やがて、ごとり、と音がして、台の上の木簡が崩れ落ちた。やがて、上に載っていた粉がぱらぱらと台の下に落下する。最後に青緑色が壁を照らすと、炎は元の色に戻った。

 それらに水をかけて消すと、泰光は神官たちに向かって朗々とした声で高らかに宣言した。

「宣旨は下された!神の思召すところ、青き月影宮に帝位を禅譲すべしとお告げである!」

 神殿の入口近くに控えていた神官たちが、わっと歓声を上げた。喜色を滲ませて足早に戻ってきた神官たちに、泰光は努めて落ち着いた声で制止をかけた。

「占いに使用した蝋燭には触れぬように。他の箇所から片づけてくれ。」

「分かりました。」

 そう神官の一人が頷いた時、戸外に控えていた衛士が神殿の外から呼びかけた。

「神官長殿!左大臣、暁泉ぎょうせん様がお呼びです!」

「―――すぐに行く。」

 左大臣と聞き、泰光の動悸が速くなる。服の上から胸を抑え、緊張した足取りで外に出ると、そこには左大臣その人が平素と変わらぬ様子で立っていた。

「これは―――、左大臣殿、お久しゅうございます。」

「神官長殿、お役目ご苦労だった。掟に従い、結果を聞くことはしないよ。」

「は―――。その、ご用件と言うのは、一体。」

 泰光は内心焦っていた。もし、仕掛けが誰かに見つかれば、全ての苦労が水の泡だ。神官たちに触るなと言い渡してはあるが、誰かが余計な気を働かせないとも限らない。

 左大臣の顔を窺い見ると、にこにこと機嫌の良い様子で泰光を見ている。この男の、腹の読めない雰囲気が、泰光は以前から苦手だった。

「なに、二、三訊きたいことがあってね。――あの蝋燭、つい二日ほど前に納入されたとの話だが、どこで仕入れたものかな。」

「…伝手の職人がおりましたゆえ、そこから。」

「ふむ。――昨晩は随分と遅くまで神殿に籠っていたそうだが、何を?」

「松明の、下準備を、しておりました。」

 胃のあるあたりがぐるぐると気持ちの悪さを訴えだす。泰光は汗ばんだ手をゆっくりと開いては閉じた。

「―――もう、よろしいでしょうか。まだ、することがありますゆえ。」

「ああ、そうだね、いい頃合いだ。長いこと捕まえてしまって悪かった。」

 にっこりと笑って手を振る左大臣に、泰光も強張った笑みを返した。この男が何の考えもなく自分に接触するはずがないという確信が、泰光にはあった。祭壇に戻る道すがら、いまだに鳥肌が立ったままの腕を何度もこすった。

「いかがされましたか?」

「いや、少し…。祭壇には誰も触れていないな?」

「はい、神官の誰一人として近づいておりません。」

 頷いた神官に、泰光はそっと安堵の息を吐いた。どうやら何事もなかったらしい。泰光は祭壇の傍に置いていた籠に蝋燭を入れていった。

 事が露見したときのことを考えるのは恐ろしかった。何よりも、父が自分をどんな目で見るか、想像しただけで寒気がした。

実のところ、泰光は、ただ父親に認められればよかった。承認への執着といってもいい。それがいつしか弟への憎悪に形を変えたことに、本人は気が付いていなかった。

 夕の刻、帝の謁見さえ終われば、この重圧から解放される。そうすれば、あの弟は北の土地での任務を任じられ、父も昇進できる。

 すべて、すべてうまくいく。





 金蓮台の赤瓦が夕日に照らされ、黄金色に輝くころ、謁議の間には再び全ての要職たちが袖を連ねていた。揃って頭を垂れる中、泰光は静かに帝の眼前に足を踏み出した。

「白田泰光よ、僥倖に恵まれ、天つ神より宣旨が下ったと聞いた。―――その答えを。」

「は。」

 泰光は用意してあった書状を両手に持つと、それを頭上に掲げながら平伏した。

「天つ神の思召すところ、帝位禅譲の義におかれましては、月影宮の―――。」

「兄上、お待ちください!」

 張りつめるような空気がぷつりと弾けた。泰光は驚きのあまり、思わず背後を振り返った。なぜなら、その声はあまりにも聞き覚えのあるものだったからだ。

 泰光の顔が、蒼を通り越して白くなった。そこに立っていたのは、左大臣家の長男と、他ならぬ泰行だった。二人は肩で息をしている。よほど、急いでここへ来たのだろう。

「…何故だ、なぜお前がここにいる。」

「な、何という非礼!左大臣!この責任は貴殿が―――!」

「―――間に合ったな。まあ待ちなさい、右大臣殿。青き学生たちが何ごとか奏上奉らんと欲しているようです。しかも、事は此度の禅譲の根幹を揺るがすもの。二人とも、例のものをこちらへ。」

 若い二人が緊張した足取りで左大臣の元へ歩いていくのを、泰光は呆然と見つめた。帝は何も言わず、事の成り行きを見守ることにしたのか、侍従長を手で控えさせた。

 左大臣は帝の方に身体を向けると、手をついて頭を伏した。

「帝、畏れながら申し上げます。このたびの宣旨は無効にございます。」

「な、気でも触れたか、左大臣!天つ神の思召すところに異を唱えることは、すなわち帝への不遜なるぞ!」

「もちろん、正しく占いが執り行われたならばその通りでしょう。ですが、これを見れば右大臣殿も頷かれるはずです。」

 泰行が左大臣に手渡したものを見て、泰光は全身の血が下がる音を聞いた気がした。

 それは、占いに使われた蝋燭だった。

「侍従長殿、こちらをご覧いただけますか。」

「神殿の印が刻まれているが…。この蝋燭がどうしたのだ。」

「よく見ていただきたい。この蝋燭の芯の中に、銅が仕込まれているのです。」

 左大臣の目が、泰光の身体を射抜いた。陸に打ち上げられた魚のように、うまく呼吸が出来ないでいる泰光に、左大臣は薄い微笑を湛えながら語りかけた。

「泰光殿、伝手の職人とやらが口を割ったよ。秘密裏にと念を押した紙切れもある。聞けば、五本だけこのような細工を施してほしいと頼んだそうじゃないか。たしかに、一つだけでは心許ないものね。」

「―――違う。」

「違わないだろう?何故って、仕掛けが燃え始めてから終わるまでの機を見ることが出来たのはあなただけだ。」

「違う!!」

「―――白田泰光。」

 帝の声は、大きくはなかったが泰光の耳にはよく届いた。泰光はその蒼白な顔を、ぎこちない動きで帝へ向ける。怜悧な視線は、泰光の目をまっすぐに見つめている。泰光は平伏することも忘れ、その場に縫い付けられたように動けなくなった。

「今の話は、真か。」

「帝―――いえ、いいえ!すべて偽りにございます!帝を謀るようなことは、私は決して――。」

「見苦しいぞ!白田泰光!」

 突然、右大臣が立ち上がって甲高く叫んだ。泰光の目は丸く見開かれ、白い顔には微かに赤みが差した。

 右大臣は勢いよく帝に向かうと、床に頭を擦り付けんばかりに平伏した。

「帝よ、お許しください。私は以前に泰光殿より宣旨を偽る相談を受けておりました。」

「―――貴様、何を。」

「その場では諌め申し上げたのですが、まさかこのような事態になるとは…。私の落ち度にございます。」

「右大臣!貴様!」

 立ち上がり、詰め寄ろうとする泰光の両脇を、帝付きの近衛士が取り押さえた。もがく泰光に、幾多の視線が注がれる。その中には、泰行の姿もあった。

 壇上の帝が、泰光を見据える。帝の目は、もはや良き相談相手に向ける物とは到底思えない色をしていた。

「白田泰光、余を謀ったこと、そして天つ神を騙ったことへの贖いとして、職務剥奪の上、この金蓮台及び中央区からの永久追放を申し渡す。」

「帝!これは、これは違うのです!すべては右大臣より持ちかけられたこと!企ては右大臣が――!」

「帝よ、白田殿は錯乱しておられるご様子。ここは退出していただくのがよろしいかと。」

 右大臣の言葉に、帝がゆっくりと頷く。それを見た泰光は、愕然としながら唇を震わせた。

「―――義理の、義理の父親を庇い立てするのですか、帝よ。長年親しんだ私ではなく、その男を。」

「口が過ぎるぞ!控えよ、白田泰光!」

 侍従長の一喝に、泰光の両脇を抑える近衛士たちが群がり、力任せに泰光を退出させようとした。しかし、泰光はその細い体のどこに、と思うほどの力で抗いながら、ずっと押し黙ったままの泰行を睨みつけた。

「貴様、泰行、よくも、よくもこの兄を陥れようなどと――。」

「あ、兄上、真なのですか。真に、兄上が、そのような――。」

「黙れ!!」

 泰光の大喝に思わず泰行は肩を竦め、怯えた顔つきで憧れの兄の変わり果てた姿を見た。目をぎらぎらと光らせながら、泰光は怒りに肩を震わせながら歯軋りした。

「忌まわしい、もはやすべてが忌まわしい。神はなく、人もなく、私には何もないというのか―――。」

 その呟きは誰にも聞かれることないまま、泰光は近衛士に引き摺られるようにして謁議の間を追い出された。




 それから幾日か経った日の夜、金蓮台から遠く離れた賤民街せんみんがいに、泰光は雑巾のようにみすぼらしい有様で打ち捨てられた。帝への不遜、謀り、そして天つ神を騙ったこと。これらの罪は総じて重く、帝は死すら免れないとした。

 しかし、この国では死刑が禁じられており、何人たりとも殺してはならない決まりだった。それゆえ、泰光は百叩きの後、全ての財産を没収され、あらゆる市民の最下層に位置する賤民の身分にまで落とされることで、その罪を赦されたのだった。

 泰光は痛みに痺れる体を起こし、ふらふらと立ち上がると、棒のような足を引き摺って歩き出した。他の賤民たちはその異様な風体を見て、悪霊に取りつかれていると囁き合った。人々の嫌悪の視線を浴びながら、泰光は虚ろな表情で、ひたすらある一点を目指して歩いた。

 やがて辿り着いたのはかつての邸だった。父の書斎に明かりが灯っているのを見て、泰光の目がかすかに輝く。

 きちんとした挨拶も出来ぬまま賤民に落とされてしまったために、一目逢って最後の別れを伝えようと考えたのだ。

泰光は引き摺るように書斎の階段を上がると、戸の前に傅いた。

「父上。私です。泰光です。一言、お別れをさせて頂きたくて参りました。父上。」

 泰光が声をかけると、室内からは音が立った。それから一つ間を置いて、書斎の戸口がゆっくりと開けられた。

 中から漏れ出る光に照らされた父の顔が、泰光にはこれ以上なく神々しいものに思えた。どれほど自分を顧みなくとも、やはり父は私を案じていたのだと思うと、喜びに胸が震えるようだった。

「父上、この度は申し訳もございません。私は今日より賤民の身となってしまいました。」

「…。」

「不出来の息子をお許しください。――父上、どうか、どうか最後に別れを。お慈悲をください。」

 何も言わない父親に、泰光は縋るように両手を伸ばした。その手を柔らかく押し返すと、父親は微笑を浮かべた。

「―――ああ、案ずるな、泰光。幸い、泰行は左大臣の覚えもめでたく、我が白田家も安泰だ。お前は何も心配しなくてよい。」

「父上…?」

「もう二度とここへ来るのではないぞ。お前はもう、白田の人間ではないのだから。」

 父の目は笑っていなかった。誰よりも父親のことを見てきた泰光には、それが残酷なほどに理解できた。呆然とする泰光の目の前で、扉が占められた。鍵のかかる音を聞きながら、泰光の頬を涙が伝っていく。

 泰光はこの二十数年間、ただ父に認められたいがためにこの身を捧げてきたと言ってもいい。それが、こうもあっさりと縁を切られて終わってしまった。全てを父親のために尽くしてきた泰光にとって、何よりも耐え難い絶望だった。

 その日を境に、泰光は呪いの研究に執心し始めた。粗末な小屋の中で、来る日も来る日も怪しい書を読みふける泰光を、周りの賤民たちは気味悪がった。賤民街に跋扈ばっこする盗賊や物盗り達ですら、泰光の住居に立ち入ろうとはしなかった。

 泰光はかつて泰行から譲り受けた巻物を元にして、全ての労力をその解読に費やした。手元に巻き物が無くとも、泰光は書かれていたすべての内容を一言一句違えることなく記憶していた。広げた書物と記憶の中の巻物とを照らし合わせながら、泰光は延々と机に向かい続けた。

 いつしか、泰光の髪は老人のように白く染まり、頬は痩け、まるで絵巻に描かれる悪鬼に瓜二つの風貌になった。食事をとり、厠へ行く以外は、ずっと研究に没頭した。その家の周りに近づくと気分が悪くなるという噂が広まっていても、当の泰光は何も気にしなかった。最早、自分以外のものは目に入っていなかった。ただ、日を追うごとに、年を重ねるほどに、この世を恨む気持ちだけが膨らんでいった。

 ある朝、一睡もしないまま朝を迎えた泰光は、朦朧としながらも一つの記述に目を奪われた。

「―――そうか、この巻物が途中で途切れたのは、これを描いた人間が死んだためか。」

 巻物が半端なままで終わっている理由がずっと解らなかった泰光は、合点がいったとばかりに頭を抑えた。呪いをどのように生み出すかまでは書いてあるのに、肝心のどのようにそれを操るかという記述がどこにもなかったのだ。

 猫を依り代にした場合も、犬も、鼠も、雀も、馬も、いずれの場合も依り代になった者は死に、呪いは散じてしまったとあった。泰光にとって、自身の死はさほど大きな問題ではなかったが、自身が死んだ後に何も呪わずに終わってしまうことだけは何としてでも避けたかった。

「人間ではだめだ。もっと、もっと力のあるもの…。もっと、大いなる―――。」

 泰光の脳裏に柳の枝がさらさらと揺れる光景が浮かんだ。細葉の重なりの向こうにいた、あの人影。あれがもし、天つ神それそのものであったならば―――。

「―――僥倖。」

 泰光の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。




 都の傍を流れる緑賤川りょくせんがわには、かつて都が建てられる以前より根を張る、大きな柳があった。名を蒼閑そうかんといい、まだ齢二五〇ほどの歳若い主だった。通常、主が生まれる土地は人の立ち入らぬ場所であることがほとんどだ。しかし、川を囲むようにあった森を、遷都の折に太祖の帝が開墾し、切り拓いたために、蒼閑のすぐそばに人々の生活の場が築かれるようになってしまったのだった。

 もし、土地の主たちが互いに意思疎通を行っていたとしたら、蒼閑は変わり者と言われただろう。蒼閑は人間を好み、自らが関わりを持つことを良しとしていたからだ。

 蒼閑の従士たちは、一様に主の不運を嘆いた。人間が近くにいるということは、穢れの発生源が隣にあるのと同義だ。それゆえに、蒼閑は主として緑賤川に座してから、緩慢な衰弱に悩まされ続けていた。

 だが、蒼閑は自身が不運だとは思わなかった。むしろ、人間たちの過ごすさまを見ることを楽しんでいた。川に遊ぶ者があれば面白そうに眺め、悲しみにくれる者があれば優しく柳の枝を揺らし、死の淵に立つものがあれば、自らの姿を露わにしてこれを止めた。蒼閑は人を愛する、奇特な主であった。

 だからこそ、その岸辺に一人の男が立った時、蒼閑は生まれて初めて人間に対して恐怖を感じた。

「主様、あの人間――。」

「下手に手を出してはいけないよ。あれはいつも見ている人間と様子が違う。」

 亡者のような風貌の男は、柳の下を彷徨いながら何事かを喚いた。

「神よ!天つ神よ、聞こえているか!お前の愛する柳を枯らしたくなければ、我が眼前に姿を現せ!!」

 泰光はその手に握りしめた壺を高く掲げた。

「聞こえているか!この惨毒、撒けば三日も経たぬうちに老いた柳を枯らす物!この柳に宿るのだろう!この柳を愛しているのだろう!ならば、さあ、神よ!!」

 唾を散らしながら喚きたてる泰光の前に、微かな風が起こった。目の前を流れる柳の枝に、泰光が一瞬目を閉じる。再び目を開くと、そこには一人の男が立っていた。白い衣をまとい、長い銀の髪を風に靡かせながら、冷たい輝きを放つ銀の瞳を泰光に向けている。

 泰光が零れんばかりに目を見開く。その唇が「まことに」と動いた。星の光のような出で立ちの男は、そんな泰光を一瞥すると、小さく口を開いた。

「人の子、ここには天つ神などいない。お前の求めるものはここにはないよ。」

「―――なんと、何としたこと。やはりいたのだ。神は、居たのだ。」

 蒼閑の言葉は泰光の耳に届いていないらしかった。泰光は歓喜に震えながら、やつれ果てた顔を歪ませながら目を爛々と輝かせた。

「神よ、私は、お前の身体を譲り受けたいのだ。呪いを扱うに足る、器が欲しいのだ。」

「主様!なりません!!」

 蒼閑と泰光の間に三羽の川蝉が飛び込んだ。次の瞬間、その場所に三人の人影が顕れた。三人の従士はそれぞれ太刀を構えながら、泰光を油断なく睨んだ。

「言いつけを破って申し訳ありません。しかし、この者は危険です。ここで弑すべきかと。」

火禅かぜん、止せ。土徳どとく水融すいゆうもお下がり。」

「しかし!」

 蒼閑は三人の前に出ると、泰光の目を正面から見つめた。

「…私の身体を得たら、満足するのだね?」

「ああ、勿論。私の望みはそれだけだ。」

「分かった。――火禅、私の腕を落としておくれ。」

 蒼閑は三人のうちの一人にそう呼びかけた。火禅と呼ばれた従士はさっと顔を青褪めさせると、小刻みに身を震わせた。

「主様、そんな――。」

「人の子は私の身を得ればそれで満足だという。腕一つならば十分だろう。」

「主様!」

「火禅。」

 蒼閑の優しい瞳が、火禅の動きを止める。

「お前は、一番腕がいい。斬りおとしておくれ。」

 従士は、主の命には逆らえない。渾身の精神力で抗っていた火禅は、とうとうその力に押し負けた。火禅は呻きながら太刀を構えると、目にも留まらぬ速さで蒼閑の腕を斬った。人ならざる身ではあるが、蒼閑の胴を幾筋もの血が流れ落ちていく。白い顔は、さらに白く、血の気が失せた様になった。

 従士たちが慌てて止血を施す。泰光はその様子を舐めるように見つめた。その傍ら、震える手で草地に転がった左腕を拾うと、蒼閑は泰光に差し出した。

「これが欲しかったのだろう。」

「―――最後に、もう一つ頼みたい。」

 泰光は火禅に視線を移した。

「私の腕を斬り落とし、この腕を付けてくれ。」

「何を――。」

「呪いを扱おうというのだ。自分のものにしなければいけないだろう。先ほど施していた妖しの術、私にもかければ腕も付くはずだ。」

 火禅が主に指示を仰ぐと、蒼閑は未だ血の気の戻らない顔で頷いた。

「―――斬っておやり。思い残しが無いように。」

 それに頷き、火禅は泰光の腕を目にも留まらぬ速さで斬り飛ばした。細い腕は宙に飛び、その傷口から多量の血が噴き出す。そこに素早く止血を施しながら、火禅は土徳と水融と共に主の腕だったものを括りつけた。あまりのおぞましさに、三人は処置を終えるとすぐに泰光から離れ、三様に顔を顰めた。

 激痛に苛まれているはずだが、それを微塵も感じさせない様子で、泰光は口を大きく開けて笑った。

「は、はは、私の、私の腕になった。」

 泰光はそう言ったが、実際には腕がかすかに震えるだけで、自在に動く気配は微塵もなかった。それでも、泰光にとってはそれで十分だった。

「―――感謝しよう、天つ神。お前の不在を呪ったことは詫びる。」

「さあ、何処へなりと失せるのだ、人の子よ。これで、お前の望みはすべて満たされただろう。」

「これで、これでやっと殺せる。やっと、やっと。」

 虚ろな目で呟きながら、泰光は来た時の筏に乗り、片腕だけで対岸へと渡っていった。やがて浅瀬に乗り上げると、泰光は弾んだ足取りで歩き出した。

 泰光は、このとき生まれて初めて、心から湧き出す興奮というものを味わっていた。




 じめじめとした、湿度の高い夏の日の事だった。都では、ある奇妙な噂が流れ始めていた。

「聞いたか。最近、夜な夜な亡者が現れて、獣の死骸を撒いているそうだ。」

「あちこちで疫病が流行っているとも聞く。…あまり大きな声では言えないが、先の神官長の行いが神の怒りを買ったとも言われているな。」

「ああ、何と恐ろしい事よ――。」

 人々は不安の渦中に巻かれ、街からは次第に活気が失せていった。大人から子供まで、誰もが一様に息を潜めるように日々を送る中、泰光だけは以前に増して活動的になっていた。

 泰光は、最初に鼠を捕えて飼った。そして、初めに賤民街で疫病による死人が出た時、真っ先にその家へ行って鼠に屍肉しにくを食らわせた。疫病が鼠を媒介して感染することを、泰光は過去の文献を読んだときに気が付いていた。

 やがて、鼠の中に罹患したものが現れると、泰光はこれを老いた鼠を集めた箱の中に一緒に入れた。そうやって、疫病に罹患した鼠を増やした。増やし、増やし、増やし続け、家が鼠の箱で埋まるようになる頃、泰光はその鼠を市街に撒きはじめた。

 鼠は面白いほどよく増えた。それに比例するように、疫病も、これまでに類を見ない速さで増えた。中央府たる金蓮台が対策に乗り出したときには、すでに都中に疫病が蔓延した後だった。夏の湿度も相まって、弱いものから次々に死んでいった。

 いつしか、都には人の目に映らない怨恨と憎悪の塊が雲霞のように立ちこめていた。それを、ただ一人、泰光だけが、楽しそうに眺めていた。

「―――機は熟した。あの文献を記した者とて、ここまでの呪いは扱わなかったことだろう。」

 夜の闇の中、泰光は忍び込んだ金蓮台の屋根の上で満足げに笑いながら、骨と皮ばかりの腕を広げた。額には脂汗が幾筋も流れている。泰光もまた、疫病に罹っていた。

「今こそ、帝に、泰行に、右大臣に左大臣に私を排したあの場所にいたあいつらに――。」

 泰光の周りに、黒い穢れが立ちこめる。

「我が父に、報いを。」

 泰光は無造作に左腕を振った。すると、大量の穢れが一気に左腕に吸い寄せられた。身体に流れ込む穢れの質量に、泰光は仰け反りながら堪えつづけた。

やがて、空が晴れて月が見えるようになった頃、泰光の左腕から一筋の黒い靄が浮いた。

「走れ!!」

 泰光が腹の底から叫ぶと、左腕に収束した穢れは一気に眼下の都に向けて放出された。数万人分の人間が生み出した穢れは、たちどころに都を覆い尽くした。かつて金の都と呼ばれた美しい街並みも、呆気なく穢れの波濤に呑み込まれていく。その日、都に生きていた人々は朝日を見ないまま、寝台の上で呼吸を止めた。

 泰光は狂喜した。黒ずんだ顔に、黄ばんだ歯がくっきりと浮かび上がる。掠れた声が泰光の喉を震わせた。

 泰光は体の内から得体のしれない活力が満ちていくのを感じた。あれほど苦しく感じていた身体が、今はすっかり楽になっている。まるで、そこに何も無いのではと思うほど、軽やかな気分だった。

「はは!ははは!!足りぬ、まだ、まだ足りぬ、命が足りぬ、まだ、まだ奪わねば、人の命を奪わねば――。」

 泰光は知らなかった。泰光が追いやられてから数年が経つうちに、既に泰行は北の海道防のえきを任じられて都を去り、父は心労からこの世を去り、右大臣や左大臣、帝もまた、疫病によってこの世を去っていた。

 だが、もはや泰光にとってそれは些事だった。今の泰光の身体を動かしているのは、その身体に宿った穢れの執念だった。穢れを形作る幾重にも重なる人々の呻きが、泰光の身体を支配した。泰光と言う人間は、その呻きの中に掻き消されてしまっていた。



 夜の闇の中、泰光の幽鬼のような姿がぼんやりと白んで浮かぶ。泰光は、緑賤川の岸辺に立つと、左腕に再び穢れを収束させた。大分消えてしまってはいたが、それでも相当な量の穢れが泰光の元へと集った。

 蒼閑は、中州からその様を見ていた。

「主様――。」

「お前たち、ここを捨てて早くお逃げ。別の土地で、別の主に仕えなさい。」

「な――!」

「そんな、主様を置いてなど――!」

 懸命に縋ろうとする川蝉たちを優しく見つめ、蒼閑は首を横に振った。

「もはや滅びは避けられない。こうなってしまったのも私の責だ。だが、お前たちを巻き込むわけにはいかない。」

「そんな、主様には何の罪もありません…!」

「主様、どうか、どうか――。」

 涙を流して懇願する川蝉たちに微笑みかけると、蒼閑は右腕をさっと払って風を起こした。耐えきれず舞い上がった川蝉達が、夜闇の中で月の光を弾いて輝く。

「ああ――、なんと、美しいこと。私の、従士たち――。」

 どす黒い穢れが大口を開けて蒼閑の身体を呑みこむ刹那、蒼閑は自身に結界を張った。神気を多く持たない蒼閑には、時間稼ぎ程度にしかならないと分かっていた。それでも、何もせずに、みすみすやられるわけにはいかなかった。

 泰光が柳の下に立つ頃には、蒼閑は虫の息で倒れ込んでいた。泰光幅にそぐわぬ気軽な様子で、「驚いた」と笑った。

「なんと、これでもまだ生きているのか。」

「…人の子、お前、その身に何を宿したかわかっているのか。それは人の持つ膿のようなものだ。毒を喰らったも同然なのだぞ。」

 地に這いつくばる蒼閑を見下ろしながら、泰光は鼻でせせら笑った。

「清らかなる神にはわからぬだろう、この清々しさ。我々は、遂に新たな境地を得たのだ。」

 泰光は蒼閑の髪を掴み、ぐっと上に持ち上げた。黒く濁った瞳と、銀に揺れる瞳が交差する。遠くの空がだんだんと赤く色づくのを、泰光は虚ろに眺めた。

「しかしその身体、便利なことが身に沁みて分かった。我々に寄越すがいい。」

「何を――。」

 蒼閑の声がぷつりと途切れた。その首が、ごろりと泰光の足元に転がる。泰光はしとどに濡れた傷口に左手を当てると、身の内にあった穢れを余すことなく注ぎ込んだ。

 やがて、泰光の身体がぐらりと傾き、枯れ木のように地面の上に倒れ込んだ。その傍らで、蒼閑の身体が、首を持たぬまま微かにと揺れた。

「―――主様!!」

 不意に、空中から声が降ってきた。朝靄の中、翡翠色に輝く翼が力強く羽ばたく。火禅、土徳、水融の三名は、自身を縛る主の命令が失せたことに気づくや否や、矢も楯もたまらずに引き返してきたのだった。三名は眼下の主の惨状を目の当たりにして、顔色をさっと変えた。

「人間風情が、我が主に何をした!!」

 火禅が叫び、太刀を抜き放った時だった。蒼閑の身体が無造作に起き上がったと思った次の瞬間に、火禅の身体は穢れの触腕に胸を穿たれていた。

 触腕の伸び出した先、首のないまま立っている蒼閑の姿に、三人は括目した。

「え――。」

「火禅!」

「そんな、主様、なぜ――。」

 動揺の隙に、土徳、水融を穢れが襲った。中空に磔になった三名の眼下で、蒼閑が落ちていた首を拾い上げ、何事もなかったように元の場所に載せた。穢れの黒ずみが、首の切れ目を覆うように取り巻いていく。従士たちの失意の視線を受けながら、蒼閑の顔をした男は喉元を擦ると口角を上げて空を仰いだ。

「お前たちの好きな、主の顔だろう。どうしてそんな顔をするのか。」

「貴様、蒼閑様に、何を――。」

「ああ、成程。しぶといと思ったが、お前たちは宝玉を潰さねば死なないのだな。」

 川蝉たちのことは、すでに興味を失くしてしまったらしく、男は事も無げに穢れを操ると三名の心核をすり潰した。喉元をさすりながら、男は満足げに頷いた。

「ふむ、やっぱり、こちらの身体の方が何かと便利だ。」

 朝日が、男の姿を照らす。白い光の中、男は短くなった銀の髪に手で触れると、それを指でぴしりと弾いた。背を覆った長髪が、冷えた風に乗って揺らいだ。

「さて、これから何をしようか。」

 枯れた柳に腰掛けながら、銀の男はゆっくりと目を閉じた。






 かつて、都に一人の男がいた。

 かつて、都の傍らに大柳があった。

 かつて、数多の人々が暮らす都があった。

 これは、それぞれの最期を記した終わりの/始まりの物語である。





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紅築奇譚 煤渡 @susuharu03

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