第2話 冬の暁韻




 白く濁った空が、はるか彼方の山向こうまで延々と続いている。そこから舞い落ちる薄灰の雪が、厚く積もった雪の上に音もなく落ちていった。

大平山おおひらやまの雪は深く、ここら辺りには、子供が一人すっぽりと、頭まで見えなくなるほどの雪が積もっている。体の軽いライチョウやウサギ、キツネならばともかく、人が何の用意もなく通ることが出来る場所ではなかった。冬になる前は人がぽつぽつと行き交っていた山道も、雪深くなった今は影もない。

 秋の鮮やかさはとうに消え、なだらかな山肌は見違えるような雪化粧を施していた。生き物の気配が薄くなる冬、山の獣たちは身を寄せ合い、ひもじさを堪えながら、木々は乾いた樹肌の奥で、来る春に向けて準備をひそやかに、しかし着々と進めながら、この季節が終わる日を待っていた。

 樹閣じゅかくの格子戸越しに、灰色の空をぼんやりと眺めていた宍右衛門ししえもんは、来客の気配を感じて窓を離れた。

「おう、暇してんのかよ、宍。大層なこったな。」

 慣れた様子で戸を開けて入ってきた同輩の丹丸にまるに、宍右衛門は眉尻を軽く上げた。

「そんな訳あるか。やっと修繕が終わったから、ほんの束の間の休憩をしていただけだ。」

 不機嫌そうに文句を垂れながら、宍右衛門は囲炉裏に近づいた。掛け金に掛かったままの薬缶を火の上に寄せ、ぱちぱちと息づく炭を集めた。

 丹丸はその隣にどっかりと腰を下ろすと、肩を回した。時折、骨が折れたような音が鳴るのを聞いて、宍右衛門が首を竦める。

「そちらは随分と大仕事だったようだな。」

「まったく、酷いもんだぜ。冬だから楽できるなんて思ってたが、どっこい夏と変わりゃしねえ。近衛の奴ら、次から次に補修を頼んできやがる。」

 大きく息を吐き出すと、丹丸は蒸気をあげる薬缶を取り上げて、置きっぱなしになっていた茶碗の中に白湯を二人分注ぎ入れた。それを一息にぐっと飲み干すと、渋い表情で顔を上げた。

「今年は穢れが多いな。」

「…そうだな。」

 宍右衛門は呟くと、湯気の上る茶碗を取った。ゆらゆらと波立つ水面に、憂い顔が映り込んでいた。

 二人の言うように、その年はどこかおかしかった。

 冬が来る前、どこかで大きな戦があったのか、流行病があったのか、はたまた飢饉か、例年以上に多くの穢れが集まってきた。穢れは力が弱いので払えばすぐに消えるが、それでも量が多いと、全てを払うにはなかなか骨が折れた。そのうえ、穢れを払ううちに、使う武器や防具も少しずつ傷んでいく。おかげで、近衛の装備をこしらえたり直したりする二人は、毎日が目を回すほどの忙しさだった。

 だが、それだけなら、まださほど騒ぐほどでもなかった。先にも挙げたように、人が多く死ねばそれだけ穢れも多くなる。だから、そういう年は以前にもあったし、近衛たちも特に疑問を抱くことなく山に集まった穢れを払った。

 おかしいのは、この冬に入ってからだ。冬は基本的に穢れが少なくなる。ほとんど見ることが無くなるといってもいい。穢れは人間に伴われてくるため、人間が山に寄り付かない冬は、穢れも山まで辿り着くことができない。

にもかかわらず、雪が深くなったこの時期でも、穢れは大平山に漂ってきていた。 依り辺となる人間がいないのに穢れが来るということは、穢れ自体が清浄な土地の霊気に耐える力をつけていることに他ならなかった。そんなことは、二人が知る百年以上もの間、一度として起こったことが無かった。

 沈黙が下りた部屋の中、不意に、丹丸が茶碗を床に置いた。いつの間にか二杯目を飲み干していたらしい。乾いた音に引き戻されて、宍右衛門は思い出したように白湯を啜った。

 そんな宍右衛門を見ながら、丹丸は呟くように口火を切った。

「そういや、ふしの奴が言うにはよう、人里の様子もおかしかったらしいぜ。」

「そうなのか。」

「おうよ。あいつ、たまに染料を買いに人里に下りるだろ。そのとき聞いたらしいが、流行病があちこちに起こったそうだ。それだけじゃねえ、突然前触れもなく戦が始まったりすることもあったってんだ。だから、死人も多かったみたいだぜ。西の方じゃ手が回らねえってんで、死体がそこいらに転がってることも珍しくないってよ。」

 何事かが自分たちのあずかり知らぬところで起こっているのだろうか。他の社会で起きていることとはいえ、不穏な話は二人の顔を曇らせた。

 鍛冶役の二人が神妙な顔を突き合わせていた頃、別の場所で同じことを話し合っている者たちがいた。



 会議に使う広間に、見回りを終えた近衛たちが集結している。いずれも難しい顔つきで、円を描くように座していた。その中心には、近衛長である桃一郎とういちろうが座っている。桃一郎は、その柔和な顔を厳しく張りつめ、周りに集った近衛たちに向かって言った。

「皆、集まってもらったのは他でもない。近頃の穢れのことについてだ。誰しも分かっていると思うが、どうやらいつも相手にしていたものとは具合が違う。」

 その言葉に、会した一同が各々頷いた。みな表情が曇り、不安に思っていることは明らかだった。

「ああ、最近は斬ってもすぐに散じない。二度目の斬撃を入れれば消えるが、そんなことはこれまでになかった。」

 暗い表情で言う藍善あいぜんに頷くと、桃一郎は近衛たちを見回した。

「中にはまだ経験の浅いものもいる。冬前のような多量の年はずっと以前にもあったが、穢れの質が変わったのは俺にも初めてのことだ。」

 金赤朗きんしゃくろうの従士の中で、もっとも古株である桃一郎の言葉に、一部の近衛が怯えたような顔つきになる。それを見て、桃一郎の隣にいた梅次郎うめじろうが柔らかい声で割り込んだ。

「とはいえ、俺たちがすべきことに変わりはないだろう。穢れを斬って、払って、山を守る。ただ、少し警戒せよ、ということだ。そういうことだろ、桃一郎。」

 弟の意図する所を汲むと、桃一郎も微笑を浮かべて、いまだ不安そうにしている若い近衛たちの顔を順に見た。

「まあ、そういうことだ。いつもの感覚でやりあって、何事か起こっては大事だからね。みんな、冬とはいえ気を引き締めて仕事に当たるように。」

 重みのある近衛長の言葉に、近衛たちが一斉に「応」と声を上げた。先ほどまで顔を曇らせていた若い近衛たちも、すっかり元の顔つきに戻っていた。

 近衛がそれぞれ自室に戻って行ったのを見届け、桃一郎は小さくため息をついて腰を下ろした。兄の顔が少し曇っているのを見過ごさなかった梅次郎が、その傍らに座った。

「どうした、桃一郎。」

「いや、何でもないよ。ただ、やはり今年は様子が変だなと思っただけだ。…油断をしてはいけないね。」

「桃兄、梅兄、どうしたの。」

 声がした方にそろって顔を向けると、三男である桜三郎おうさぶろうが襖を開けて立っていた。一番に部屋を出た弟の両手には、湯気の上る湯呑が二組。相変わらず、末の弟は自分の事よりも他人の方に気が回るようだ。二人の兄は肩の緊張を解すと、顔を見合わせてはにかんだ。

 その様子を見ていた桜三郎は、二人の前に正座しながら、訝るように片眉をあげた。

「何、二人して笑って。私の話でもしていたの?」

「お、よく分かったな、桜介。今朝のお前の寝癖について話していたのさ。いや、あれは見事だった。」

「な、ちょっと前髪が反り返ってただけだろ!」

「いやいや、後ろ髪なんか彼岸花みたいになってたぞ。」

 手で花の形を作って笑う梅次郎に、桜三郎は耳を真っ赤にして反論した。梅次郎は先刻までの真剣な表情をすっかり引っ込めて、自分よりも背の高い弟の頭を優しく撫でた。その手を払いのけず、桜三郎はじとりと兄を睨んだ。いつまでも子ども扱いをされることは、桜三郎にとってちょっとした悩みの種だった。

 じゃれ合いをしばらく静観していた桃一郎だったが、桜三郎が湯呑を持つ手を疎かにしているのを察すると、口元に微笑を浮かべて梅次郎の襟首を鷲掴んだ。その目が全く笑っていないのを察して、桜三郎は口を噤んで背筋をぴんと伸ばした。

 カエルがつぶれた時のような声を出した梅次郎を気にも留めず、桃一郎はにこやかに二人の弟を見た。

「こら、梅、桜をからかい過ぎるんじゃないよ。桜も、そんなにムキになるんじゃない。白湯を持ってきてくれたんだろ?」

「…そうだった。はい、桃兄。…梅兄も。」

 すこし膨れた顔つきで自分に湯呑を渡してきた桜三郎に、梅次郎は下からその顔を覗き込んで笑った。

「すまん、桜介。かわいい弟の顔を見るとつい意地悪したくなってしまうんだ。」

 桜三郎は口角が上がりそうになるのを懸命にこらえて、唇を尖らせるとそっぽを向いた。

「本当に心からそう思うのなら、金輪際私をからかわないでくれ。」

「それは無理だな、桜介はいつまでたってもかわいいから。」

 弟の抗議が聞こえていないふりをしながら、梅次郎は美味そうに白湯を啜った。手を温めながら、弟たちが戯れる様子を見ていた桃一郎も、手元の湯飲みに目を落として微笑む。それからそっと瞼を閉じた。




 大平山から離れた場所に、深い森に囲まれた大池があった。池の表面は厚い氷に覆われ、その上には雪が積もっている。

中心の岩場の上にぽつりと立っている祠の中、紅築こうつきはそわそわと落ち着かない様子で腕をさすっていた。時折、泉をちらりと見ては、再び着物の袖を掴んで離す。紅築自身がこの世で最も苦手とする、銀の男の来訪を予感していたのだ。

 紅築の主である銀の男は、通常は大池に寄り付かない。土地をいくつも管理しているため、特に問題なく土地を浄化している大池には用が無いのだ。それ以外の土地では、管理する人間がすぐに死んでいくため、何かと面倒を見てやらねばならず、男の関心はもっぱらそちらに向いていた。

紅築にとってはむしろその方がありがたく、自分の元に来られる方が嫌だった。銀の男が大池に来るたび、纏わりつくような冷たい視線を受けることが心底恐ろしかったのだった。

 それなのに、最近は銀の男が頻繁にやって来る。紅築は男の作るつながりによって、大池を訪れる頃合いを察することが出来た。そのたびに気持ちは沈み、地の底に落とされるような心地になった。紅築が憔悴した様子でうなだれているのは、そのためだった。

 突然、紅築がはっとしたように顔を上げた。その視線の向こう、深い雪に閉ざされた大池の上を、ゆっくりと歩いてくる人影があった。背は高く、細身だが、どこか威圧感を感じさせる雰囲気をまとっている。それは、自ずと平伏する高貴さからはほど遠い。色濃く漂う死の悪臭に、誰もが目を伏せるのによく似ていた。

 柔らかい雪の上を足跡一つ残さず、軽い足取りで歩く銀の男の姿に、紅築は全身の血が冷えていくような錯覚を起こした。

 男が銀色の長髪をゆるりと流しながら、祠の中へと足を踏み入れる。祠を満たす青い光が、男の髪に反射して美しく煌めくことにすら、嫌悪を覚えた。清浄な気配の中に禍々しい気配が沁み込んでいく。紅築の白い眉間に、自然と皺が寄った。

「やあ、紅築。息災のようだね、何よりだ。」

「何の用。」

 紅築は厳しい視線を寄越しながら、抑揚のない声で男に問うた。それが彼女にできる精一杯の抵抗だった。

 対する銀の男は紅築の態度など気にする素振りもなく、銀の瞳をきゅっと細めて紅築を見下ろした。無機質な銀の瞳が紅築の青ざめた顔を映していた。笑んだような瞼の奥から覗く冷たい瞳に、紅築は体の芯からぞっとした。

 はたと来た目的を思い直し、男は細めていた眼を戻すと、清浄な水に満たされた泉を覗き込んだ。たゆたう水面を挟んで、銀の男が自らの顔に向かって口角を上げた。男は紅築に視線を戻すと、再び目を細めた。

「大分穢れを祓ってくれたのだね。」

 紅築は男の視線から逃げるように目を逸らした。

「頼まれずとも、集まってくるのだから仕方ない。」

「それはそうだ。しかし、私も労を惜しまず働いた甲斐があったというもの。これなら、やっと試すことが出来そうだ。」

 その言葉に不穏なものを感じ、紅築は眉をひそめた。

「何をしようというの。」

「気分がいいから、お前にも見せてあげようね。」

 ご覧、と銀の男が左腕を持ち上げた。その動きに引き上げられるようにして、泉の中から白い靄のようなものが立ち昇る。靄は冬の朝の[[rb:細氷 > さいひょう]]のように空中に浮かんで、光をちらして反射した。その美しさに、紅築の視線は釘づけにされた。普段から泉のそばで暮らしている紅築も、初めて見る物だった。

 珍しい表情をしていることに気をよくした銀の男は、得意げに口角を上げた。

「これはね。お前が祓った穢れが神気へと変じたものだ。」

「穢れが?あれは消えるものではなかったの。」

 忌まわしげにその名を口にした紅築に、銀の男はゆるく首を振った。

従士じゅうしどもは消すしか能がない。だが、土地の主とあれば話は別だ。その体を通すことによって、穢れを神気に変えられる。彼らは皆、従士が払って薄くなった穢れを、自らの体を通して神気とし、蓄えているのさ。最初はここもそうしようかと思ったんだが、主を据えるとそいつがすべて喰ってしまう。だから人間のお前を据えているんだよ。」

「…その神気とやらを使って、あなたは何をしようとしているの。」

 銀の男に言ってやりたいことは山ほどあった。しかし、それを言った所でどうにかなるものではないことも分かっていたので、紅築はふつふつと煮えたぎる怨みを懸命に堪えてもう一度問いかけた。

 銀の男は殊更に機嫌を良くすると、左手をゆらゆらと動かして、漂う靄を弄んだ。

「そう、これをね、外に漂う哀れな穢れたちに与えてやるのだよ。」

「穢れに?なぜ――。」

「なぜって、お前、どうして穢れが土地に引き寄せられるのか知らなかったのか。」

「知るものですか。あなたが私に説明したことなんて、ほとんどないもの。」

 紅築はこれまで、自分の置かれた環境について説明されたことが一度もなかった。紅築が得た知識は全て、銀の男との話の端々から探るようにして得たものばかりだった。

 男は特に興味もなさそうに頷くと、白い靄を中指で操りながら話し始めた。

「穢れはね、清浄な霊気や神気を食らうんだ。そうすることで力が持てるようになる。他の穢れを取り込んで大きくなることだってできるようになる。とはいえ、それを分かってやっている訳じゃない。本能のようなものだね。穢れとはそういうものなのだ。

 だが、霊気や神気は滅多に手に入るものじゃない。そのうえ、そういう場所に近づくと、吸い込むより先に清浄さにあてられて弱っていく。弱っている状態で土地に引き寄せられていくのだから、従士たちに簡単に払われるのは当たり前だ。」

 そこまで言うと、銀の男は一度言葉を切った。目を伏せていた紅築は、沈黙に耐えかねてそっと頭上を仰ぎ見る。男は口元を手で覆っていて、下から見上げる紅築には表情が全く見えない。しかし、銀の男の肩が震えていることに気が付くと、凍ったように動けなくなった。

 男は笑っていた。口角を吊り上げ、目元を緩ませ、心底愉しそうに笑っていた。

「だから、考えてみたんだ。清浄な気を、直接その中に沢山注ぎ込んだらどうなるだろうと。穢れは急速に力をつけるだろう。もしかしたら、これまでに無かったことだって出来るようになるかもしれない。」

「…おぞましいことを考える。」

「まったくだ!楽しいことこの上ない。我々はね、紅築。それを見てみたいんだ。試してみたい。これまでに、少しずつあちこちで実験してみたんだ。すぐに消えるものがほとんどだったが、耐えたものは以前よりもずっとずっと強い力を持ったよ。ああ、ああ!楽しみだ!心が浮き立つようだ!!」

 銀の男は、幼い子供のように無邪気に捲し立てた。とうに人間らしさを捨てたつもりでいた紅築も、これには堪らず男の足にしがみついた。

 銀の男は途端に上気していた表情を消し、紅築を見下ろした。紅築は全身を震わせながらも、白く乾いた唇を開いた。

「それは、いけないことよ。力の強い穢れは多くの命を奪う。」

「それが楽しいんじゃないか。」

「不必要に命を奪うなんて、愚か者のすることよ。」

「楽しいことをやめるなんて、その方が愚かだろ。そも、お前が言ったところでやめたりはしないよ。」

 銀の男は煩わしげに手を払い除けると、紅築の華奢な身体を蹴り飛ばした。小さな体は鞠のように跳ね上がると、固い岩壁に叩きつけられた。細い背中から軋むような音が上がる。紅築の口からは悲鳴が漏れた。

苦しみながら蹲る紅築に目もくれず、銀の男は泉に溜められていた神気を吸い上げた。先ほど見せられたものの数倍はあろうかという量に、紅築は咳込みながら顔色を変えた。

 紅築はその身体に穢れを通すことで浄化している。穢れは冷たくおぞましい、憎悪と怨恨の塊のようなものだ。そのため、紅築の全身は絶え間のない痛みによって、常に蝕まれている。生き物にとって害をなすものだということは、紅築が身をもって理解していることだった。そんな、ただでさえ厄介なものが力をつけたらどうなるか、紅築の想像が及ばないはずもなかった。

 力の入らない腕を懸命に伸ばして縋ろうとする紅築に、銀の男は散歩に出かけるような気軽さで声をかけた。

「そうだ、安心するといい。計画を聞かせた手前、ちゃんと顛末を教えてあげよう。」

 そう言い捨て、男は銀の髪を軽やかに翻して祠を出ると、元来た道を戻って行った。小さくなっていく後ろ姿を、紅築は見えなくなるまで睨み続けた。見えなくなると、湧き上がる虚しさに、何度も何度も岩肌を拳で殴りつけた。

 立ち上がることが出来た頃には、祠の外は暗闇に包まれていた。薄暗い中、紅築はよろめきながら泉に近寄ると、水面に浮かんできた水晶を乱暴に掴んだ。水があちこちに飛び跳ね、豪奢な着物まで濡らした。

 紅築は冷たくなった足元を見ようともせず、水晶を両手に持って握りしめると、そのままさらけ出した喉元に勢いよく突き立てた。柔らかな頸に、透き通った水晶が深く刺さった。

 噴き出すように鮮血が迸り、赤い着物が色濃く染まっていく。古い血で黒ずんだ岩壁が、新しく塗り重ねられていくさまを、紅築はぼんやりと見つめた。

 やがて、時間がたつにつれ、出血は治まっていった。流れ出した血は、すり鉢状になった床を進み、中央の泉の中へと緩やかに流れ込んでいく。どくどくと脈打ちながら失われていく自分の血液の冷たさを感じながら、紅築は虚ろな瞳でその場に崩れ落ちた。人ならば、とうに死んでいる。それでも、紅築の身体は痛みを訴えるだけにとどまり、自らの活動を止める気配すらなかった。

 細い手から、赤く濡れた水晶がころりと床に転がる。空しくて、虚しくて、遣る瀬もなく、ただ痛みを耐えて生きねばならない絶望に涙を流しながら、紅築は小さな心臓が単調に鼓動を打つ音を聞いていた。





 その日は、曇りの続く冬において珍しい晴れの日だった。

 寒風が吹きすさぶ中、金赤朗の樹閣の上部にある見張り櫓に、眠たげに眼を擦りながら立つ人影が一つ。

 煤彦すすひこという名の見張り役の鴉は、瞼の隙間から差し込む日光に目を眇めながら、幾度となく襲ってくる眠気を払いのけるように首を振った。先ほど弟と交代をしたばかりだというのに、煤彦はもう部屋に戻りたい気持ちで一杯だった。

 伸びをした手を勢いよくおろしたとき、ふと、遠くに不審な黒い雲を見つけ、煤彦は櫓の縁に寄ると素早く視線を移した。煤色の瞳の中で、猛禽のような瞳孔がきゅっと細められ、視界の中の黒雲がより鮮明に映る。

 正体を捉えた途端、煤彦は総毛立った。弾かれるように飛び退くと、すぐさま脇目も振らずに、持っていた鐘突きで緊急招集の鐘をけたたましく鳴らした。

緊急招集は、通常の近衛の部隊では分が悪いと見張りが判断した際に使われる特別な合図だ。ここ百数十年において、一度も使われたことのない代物だった。



 樹閣の中に鐘の音が鳴り響き、近衛たちは緊張した面持ちで慌ただしく装備を固めると、素早く門の外へと飛び立った。

 はたして、そこには目を疑う光景が広がっていた。煤彦が初めに黒雲だと思ったもの、それはおびただしい量の穢れだった。雲霞うんかのごとき穢れの集合が、百足のように虚空を撫でながら、金赤朗の元へと迫ってきていた。既に通り過ぎたであろう場所では、黒く変色した枯れ木が列をなして山から伸び出している。その異様さに、近衛たちの誰もが声を呑んだ。

 桃一郎は、化け物のように膨れ上がった穢れに目を見開いた。誰よりも近衛の経験が長い桃一郎でも、これほどの大きさのものを見るのは初めてだった。貪欲に神気を呑みながら近づく穢れのおぞましさを目の当たりにし、桃一郎の腕には鳥肌が立った。

 しかし、背後の近衛たちが巨大な穢れの塊にざわめいているのを察すると、さっと向き直って声を張った。

「総員、聞け!これより近衛全員でこの事態に当たる!枯野かれの、桜三郎、花太夫、菫太夫、錫朗太。お前たちは全ての従士に武器を持たせ、樹閣のすべての戸を閉め、主様の傍でご本体をお護りすることに専念しろ!」

 年若い者たちが上擦った大声で返答する。桃一郎が頷くと、五人は風のような速さで樹閣の中へ駆けていった。

「残りの者、梅次郎、藍善あいぜん朱佐あかざは俺とともに穢れを払う。列を組んで、続け!」

 言うが早いか、桃一郎は長槍の穂先に着けていた覆いをさっと外すと、背から黒い翼を生やし、風を縫うようにして先陣を切って飛んだ。そのあとを三人が編隊を組みながら追う様に飛ぶ。一番年若い朱佐が緊張した面持ちで最後尾を飛んでいることに気が付いた梅次郎は、首だけで振り返って微笑んだ。

「気さえ緩めなければ、お前の腕なら大丈夫だ。そんなに肩肘張ってると、腕を攣るぞ。」

「お、おう。すまん。」

 梅次郎は視線を眼前の穢れの群れに移した。朱佐にはそう言ったものの、腕を攣る程度で済めばいい方だろうと視線を険しくした。長い経験に基づいた勘が、この穢れが一筋縄で片付かないことを告げていた。それほどまでに、肌で感じる穢れの気配は、かつてなく禍々しいものだった。

 先頭を預かる桃一郎は、徐々に迫る穢れの塊を睨んだ。その表面にはヤマアラシの様に数多の矢が刺さっている。見張り櫓から、援護の矢が射掛けられているにもかかわらず、穢れがまったく霧散していない。

桃一郎は穢れの異変を感じ取り、近衛長として慎重に事を進めるべきだと判断した。左手を上げると、追随していた三人は三方へ散った。まずは囲んで様子を見ることにしたのだ。

 力強く羽ばたくと、桃一郎は瞬時に穢れとの距離を詰め、目にも留まらぬ速さで長槍を繰り出した。桃一郎の繰り出す槍技は、その速さから穂先に穢れを欠片も付けずに払うことを可能にした絶技だった。槍をしならせ、間を置かずに同じ場所を正確に何度も刺し貫く。

 すると耐えかねたように突いた場所が崩れ落ち、穢れに穴が開いた。桃一郎は飛び退って距離を取り、穴を確認すると忌々しげに舌を打った。貫いた場所は穢れが払えているものの、その周りはほとんど変化せずに蠢き続けている。その耐久力に、桃一郎の額を冷や汗が伝った。

 兄がいる場所から少し離れたところで太刀をふるっていた梅次郎も、困惑した表情で斬りおとした穢れを見た。普段ならば斬撃を一度加えれば霧散するものが、この穢れに至っては細かく斬り刻まなければ消えていかない。どうやら神気に対する耐性が強いらしい、と梅次郎は踏んだ。

 間合いを保ちながら、梅次郎が兄のいる方に向かって叫んだ。

「桃一郎!やはり、この穢れは何かおかしいぞ!」

「やはりか。―――朱佐!樹閣に戻って主様をお起こししろ!」

 近衛長の命令に、朱佐は大太刀を揮っていた手を止めて目を剥いた。

 通常、冬の眠りに入った金赤朗を起こすことは厳禁とされていた。休眠を妨げることは、すなわち木の生育を阻害する。主の身体に多大な影響をもたらすことだと重々承知していたが、桃一郎はそれも致し方ないとした。今後の成長を危ぶむ以上に、この穢れが主の命に何事かをもたらしうることを危惧したのだ。

 朱佐は一瞬ためらうように目を泳がせた。しかし、振り払うように視線を上げると、意を決して大太刀を鞘に戻し、力強く羽ばたいて樹閣へと急いだ。

 樹閣の門の傍で控えていた桜三郎と枯野は、いきなり飛び込んできた朱佐の姿を見て面食らった。

「朱佐、お前、なぜここに。」

「あの穢れは異常だ!主様をお起こしせよと近衛長の命だ!」

 朱佐はものすごい足音を響かせながらも、それに劣らぬ大音声で返答した。びりびりと空気を震わせるような迫力に、二人はその場で固まった。そんなものを、たった三名で相手取ることが出来るのか。二人の脳裏を、恐ろしい予感がよぎる。桜三郎は奥歯を噛み、腰の鎖鎌に手を置きながら、中空の三人を見つめた。





 朱佐が樹閣に辿り着くころ、後方の空中では変化が起こりつつあった。

 通常、穢れは清浄な土地に弱らされ、長く留まることが無い。しかし、今回は銀の男によってもたらされた神気によって、その清浄さに耐える力を備えていた。それ故に、さらなる神気を吸収し、力を得ることが出来たのだった。

 成長した穢れは、単純な意思を持った。それは単純だが、凶暴な意思だった。殺意にも近い。思考を獲得した穢れは、自分たちの行く手を阻む相手に殺意の矛先を向けた。

 不意に、穢れがざわめく様に動いた。すぐさま気づいた藍善が振り下ろしかけた戦斧を止めた、その時だった。

 瞬きの間に穢れが投網のように薄く広がり、藍善の身体を囲む。藍善の瞳孔が大きく広がる。突然大きく変化した穢れを目の当たりにして、少し離れて戦っていた桃一郎と梅次郎は括目した。

 穢れは開いた手を握りこむように、中に閉じ込めた藍善を押し潰した。その端から、血まみれの藍善が零れ落ちるように逃れ出た。身体能力の高さが幸いして、退避行動が間に合ったのだ。

 援護に回った桃一郎は素早く藍善の胴に手を差し入れると、穢れから距離を取った。梅次郎もまた、二人の傍に飛び退いた。

 藍善の顔は苦痛に歪められていた。すぐに、梅次郎が藍善の異常に気が付いて、その左袖を捲る。そこには何もなかった。あるはずの腕が無かったのだ。藍善の左腕は、穢れによって奪われてしまっていた。

 大量に出血する藍善に、梅次郎が手早く止血の処理をする。そのそばで、桃一郎が自らの霊気を藍善に送り込んだ。

「桃一郎、穢れがあのように薄く広がってなお、実体を持つ様を見たことはあるか。」

 喘ぐように問うた藍善に、桃一郎は穢れから目を離すことなく首を横に振った。

「―――いや、無いな。」

 藍善は何とか息を落ち着けると、桃一郎の腕を離れた。処置によって、左肩の出血は大分治まっていた。藍善は鋭く息を吐き、呪術を直接かけることで腕の痛みを緩和させると、隻腕で戦斧を構えた。左腕を失ったことで、元のように動くことが出来なくなったのは大きな痛手だったが、戦わない訳にはいかなかった。

 三人は、再び武器を構え直して、蠢く穢れに向き合った。もはや経験は頼りにできなかった。全てが未知数である相手に対抗する手段は、ひたすら臨機応変に動くことのみだった。

 やがて、強い殺意を持った穢れは、鋭く急所を狙い撃つように三人を攻撃し始めた。その猛攻に、手練れである三人も徐々に消耗し、衣は血の色に染まっていく。この場にいる誰もが、気の緩みが死に直結すると理解していた。





 一方、樹閣の最下層に位置する奥の院では、朱佐が必死の形相で主の身体を揺さぶっていた。外で戦い続けている三人の様子は、五感の鋭い朱佐には常に届いていた。それゆえ、三人が窮地にあることもわかっていた。息を吐き続けたせいで目は血走り、喉からは声になっていない音がひゅうひゅうと風鳴りのように発される。酷使され続け、朱佐の喉はすっかり枯れていた。

 その隣で、医法師いほうしである紺佐こんざが気付けの香を焚いては、いくつも主の傍に置いた。それでも、一度休眠に入ってしまった主はなかなか意識が戻らない。祈るように主の膝をさすりながら、紺佐は神経を伝う嫌な響きにはっと息を吸った。その隣で、朱佐が唸るように泣いた。





 中空に、桃一郎と梅次郎の声が響いた。穢れの肥大した身体から伸びた銛に似た触腕の先で、藍善の大きな体が力なく揺らぐ。

 穢れは、力を吸い続け、再び変化していた。鈍重な身体の一部を鋭利に尖らせ、刺突することを覚えたのだ。それは不幸にも藍善の胸を刺し貫き、その奥にあった心核を砕いた。

 心核は土地の主が従士を生み出す際に使う宝玉で、中に魂がこもることで従士としての身体が与えられる。従士にとって心臓よりも重要な部位と言っても過言ではない。魂を込めた核である心核が破壊されることは、すなわち従士の消滅を指していた。

 だらりと力なく下がった藍善の手足の先が、白い靄となって薄く融けて消えていく。それは藍善の体を覆い尽くし、あっという間にすべて靄に変じて空に溶けてしまった。たった数秒の消失の後、穢れの伸ばした触腕の先端から、砕け散った心核が儚い光を散らしながら落下していった。

 仲間の消失を悼む暇もなく、二人は襲いくる穢れとの戦闘を続けなければならなかった。広がろうと左右に伸びる穢れの一端を、桃一郎が槍で圧倒しながら押し留める。その反対には梅次郎が付き、力に任せて打ち込むように、刃毀れした太刀をふるった。

 その動きを真似るように、穢れもまたこれに応戦した。

 突然、太刀で打ち落としたばかりの穢れが、細く鋭い触腕をしならせて梅次郎の右目の上を切り裂いた。騙し討ちを仕掛けるとは思いもよらず、梅次郎は一瞬驚きに目を見張った。

 しかし、すぐに仕留め切れていなかったことに舌打ちして、梅次郎はもう一太刀を浴びせた。穢れが散じたのを見届け、手の甲でぐっと傷を拭った。だが、思いのほか深い傷であったのか、流血は止まらず、右の眼は完全に見えなくなってしまった。梅次郎は潔く視界を諦めると、上から振り下ろされた触腕を弾き飛ばした。白い息を細く長く吐き出すと、梅次郎は膠のように張り付いた血糊ごと、太刀の柄を握り直した。

 その死角から、再び穢れの刺突が梅次郎の背後に伸びる。梅次郎はまだ気が付いていない。

 首の皮を薄く貫いた先端を、後方から飛んできた分銅が鈍い音を立てて弾き返した。背後から響いた音に、梅次郎は驚きながら飛び退って振り返る。それを視界に捉えるや否や、梅次郎の左目は極限まで見開かれた。

「桜介!」

 梅次郎の声に、桃一郎も思わず視線を移した。桜三郎は、鎖を引いて分銅を戻すと、上気した顔で兄二人の顔を見た。その後ろからは、同じ近衛の枯野までもが向かってきていた。

 藍善が落とされたとき、桜三郎は梢近くで兄たちが戦う様子をもどかしく見ていた。しかし、桃一郎と梅次郎が苦戦を強いられて、居てもたってもいられず、命令を無視して二人の元まで飛んできたのだった。

 枯野はそれを止めようと追いすがったが、先を飛ぶ桜三郎の速さに追いつくことが出来なかった。しかし、ここまで来てしまったならば致し方なかろうと、腹を決めて短槍の覆いを抜き放った。加勢をしたい気持ちを堪えていたのは枯野も同じだった。

 桃一郎は温厚な垂れ目を思い切り吊り上げて、弟たちを睨んだ。

「桜三郎、枯野!主様のところに戻れ!」

「断る!私だって近衛の一員だ!梅兄の右目ぐらいならば務められる!」

 桃一郎の言葉に逆らい、桜三郎は梅次郎の右側に張り出してきた穢れに向かって鎖鎌を投げた。小気味よく飛ばされた破片に、遠心の力が加わった分銅を当てて霧散させると、桜三郎はすっと目を細めた。力こそ朱佐に劣るが、精確さでは兄たちにも劣らない腕を桜三郎は持っていた。

 口元を強く引き結び、帰ろうとしない弟たちに、桃一郎は穢れの斬撃を躱しながら笑った。実のところ、体力は限界をとうに超えていた。二人の姿を見たときに、どこか安堵したのもまた事実だった。

「―――仕方がないね。二人とも、手負いの俺たちの援護をしておくれ。」

 それに「応!」と返答すると、若い二人は穢れがこれ以上先へ進まないように懸命に働いた。

 だが、この数時間の間に、穢れは目覚ましい成長を遂げていた。繰り出す攻撃は無駄がなくなり、的確に急所を狙ってくるものへと変化していた。鋭く伸びる穢れの矛先が、自分の喉笛めがけて突き出されていることに気が付いた時、枯野は怖気立った。





 所変わって、樹閣の最奥部、奥の院。

 金赤朗の落ち窪んだ瞼の奥で、黄金色の双眸が大きく見開かれた。表層の意識がようやく覚醒したのだ。

 焦燥に駆られた顔つきで現状を説明しようとする朱佐を制して止めると、金赤朗は居ずまいを正して深く呼吸し始めた。木の主たちは、休眠中においても周囲の状況を知覚することが出来る。外で何が起こっているのか、金赤朗は全て承知済みだった。

 金赤朗が身の内に蓄えた神気を練り上げると、樹閣の外の大椛が小さく震えだした。厚く雪を被った枝の先々から、雪を割って小さな赤色がぽつり、ぽつりと生まれていく。それは、椛の若葉だった。生まれたての葉が、すっかり赤に染まりながら、金赤朗の枝をざわめきとともにびっしりと覆い尽くしていく。

 冬の白に埋まった大平山に、燃えるような椛の木が輝かんばかりの美しさでそびえ立った。

 金赤朗が目を閉じたまま両手を組んだ。練り上げ、密度の極まった神気を、押し流すように椛の葉に向かわせた。すると、紅葉した葉がひとりでに枝を離れ、群れを成して泳ぐ魚のように金赤朗の椛の周りを渦巻きだした。

 それは瞬時に樹の根が張り出す端まで覆うと、赤い玉の姿を成した。金赤朗の権限により、守護の結界が完成したのだ。

 守護の結界は清浄な神気の壁だ。それに触れれば、どんな穢れもたちどころに祓われる。しかし、焦って結界を展開した金赤朗は、一つ過った。古参の桃一郎、丹丸、宍右衛門以外に、守護の陣の性質について教えていないことを失念していたのである。

「…しまった、まさか!」

 朱佐は、跳ね上がるように立つと門に向かって駆け出した。突然走り去った弟の後ろ姿を唖然として見送った紺佐も、はっとして格子戸に駆け寄った。木枠の向こうは鮮やかな葉によって覆い尽くされ、外の様子が全く分からない。

 外敵から包み隠すように張られた守護の陣の中、遮られたのは視界だけではなかった。先ほどまで痺れるほどの実感とともに届いていた近衛たちの気配が失せたのだ。その事実は、すべてを遮断する守護の陣の性質を如実に表していた。

 門まで辿り着いた朱佐が、閉じ切られた椛の壁を殴りつけるように叩き、奥歯を噛みしめた。その後ろから駆け付けた近衛たちに、朱佐は苦い顔で告げた。

「守護の結界は内の者も遮る。…俺たちも出られねえってことだ。」

その言葉に、集まった誰もが愕然とした。



 桃一郎は真っ先に主の守護が完成したことに気が付いた。増援より早く結界が張られたことも、すぐに理解した。伸びてきた触腕を槍の石突ではじきながら口元の血を拭うと、三人に向かって掠れた声を張り上げた。

「お前たち!このまま穢れを散じさせないようにして主様の元まで持っていくぞ!」

「桃一郎、いいのか。」

「主様の守護の結界に叩きつければ穢れは失せる。流石のこいつも消えるはずだ。」

 桃一郎の言葉に頷くと、鴉達は徐々に後退しながら、拡散しようと蠢く穢れを押さえつけた。四人の誘導に誘われるように、一団はゆっくりと金赤朗の元へ動いていく。

 しかし、神気の元である金赤朗が近づくにつれ、穢れの勢いは一層増していった。

 幾度となく梅次郎の死角をつく穢れを、桜三郎が的確に鎖鎌を捌いて払い続ける。その横でひっそりと、斬られていない塊がひとりでにぼろりと落ちた。崩れていく穢れに紛れながら、それは気配を殺して背後に忍び寄っていく。そして、槍のような鋭さでもって、桜三郎の腹を貫いた。

 背中に届いた強い衝撃に、桜三郎の息が止まった。喉に込み上げた鉄の味で我に返ると、腹から伸び出す穢れを、信じがたい顔で見た。引き結ばれた口の端からは一筋の赤色が滴った。

 穢れは桜三郎を貫きながら、自身の中に蠢く悪血を桜三郎の身の内に流し入れた。間を置かず、おぞましい冷気が染み出すにつれて、引き裂くような激痛が桜三郎の身体を襲った。

 異常にいち早く気が付いた枯野が素早く短槍を跳ね上げると、桜三郎の身体から穢れが弾き飛ばされた。枯野は桜三郎の背を支えながら、力ずくでその身に深く刺さったままの残りを掴んで引き抜いた。その手のひらから、嫌な臭いの煙が上がった。枯野の喉から苦悶の声が上がる。

 枯野の手は、穢れに素手で触れた部分が焼け爛れたように黒く変色していた。穢れが表皮から従士の身体に侵食したのだ。それは、金赤朗から受けた加護が、弱まってきていることの証だった。

 傷から沁み込んだ穢れにやられて気を失った桜三郎を背に庇いながら、枯野は懸命に穢れを打ち払った。極限まで集中した枯野は、一つとして見過ごすことなく、寄り付いてくる穢れを落としていく。

 その背後から、風を裂いて穢れの先端が伸び出した。桜三郎は気を失っていて無防備だ。貫かせるわけにはいかない、と枯野は振り向くようにして桜三郎を庇った。

 鉤爪を模した黒い腕が、枯野の横顔を縦に掻き裂いた。それを、枯野は身を捻りながら受け流した。幸いにも判断が功を奏し、裂傷は浅く済んだ。しかし、息をつく暇もなく、つんざくような痛みが枯野を襲った。脂汗が幾筋も横顔を伝う。枯野は桜三郎の身体を必死に支えながら、針で抉られる様な痛みに耐えた。

 傷口には、穢れが流した黒い悪血が蝕むように広がっている。桜三郎に攻撃したときに学んだ穢れが、今度は素早く悪血を枯野に注ぎ込んだのだ。見る見る内に、枯野の横顔は黒ずんでいった。

 かろうじて短槍の柄を持ちながらも、あまりの痛みに意識を保つのが精一杯の枯野の元に、再び穢れの爪が繰り出される。

 刹那、異変に気づいて援護に来た桃一郎がそれを突き弾き、二人を抱えて穢れの手が届かない場所に退避した。

「…桃一郎、すまない。」

 桃一郎の腕を支えにして離れたが、枯野の身体は酷い痛みに苛まれ、手先の感覚すら危うい状態だった。

 それを冷静に観察すると、桃一郎は枯野の背にもう一度桜三郎を背負わせた。

「枯野、お前は桜三郎を連れて下で待機していろ。」

「桃一郎、何を。桜三郎を置いたら俺は戻る。」

「枯野。」

 言い募ろうとした枯野に、桃一郎が強い眼差しを向けた。これ以上、枯野を戦わせるのは危険だと判断したのだ。近衛長の威圧に怯み、枯野は歯噛みしながら、俯きがちに頷いた。

 枯野がほとんど落ちるように地表へ離脱していくのを見届けて、桃一郎は梅次郎の右側に付いた。たった二人で相手取るには分が悪すぎることを、二人は重々承知していた。しかし、この短時間に急速に変化していった穢れは、間違いなく他の者には手に余る。ここで自分たちが落ちれば、山も落ちる。その確信が、二人の意思を強固にした。

 近衛の精鋭たる二人は恐ろしく強い。それでも、長い戦闘は着実に体力を奪っていく。桃一郎と梅次郎の身体からは、とめどなく鮮血がしたたり落ちていった。

 二人は時折視線を交わしながら、言葉を交わすこともなく自らの役割をこなした。冬の冷気も相まって段々と消耗していく中で、それでも着実に金赤朗の元へと誘った。

 やがて渦を巻く紅玉が大きく見え始めた。金赤朗に一層近づいたことで、周りを満たす神気もより濃いものへと変化していく。荒い呼吸と剣戟の音だけが響く中、穢れが不穏に蠢いた。

 先ほど、鴉の腹を貫いたとき、神気の塊の気配がした。もう一羽の首を引っ掻いた時、それはより強い気配を発した。そうか、大事な何かが、鴉の中にあるのだ。腹ではなく、胸。首の傍。この邪魔者たちを、殺すことが出来る。穢れの淀んだ闇の中で、幾多の女の、男の、老人の、子供の声が殺意に沸いた。

 先に狙われたのは梅次郎だった。右目が見えない梅次郎の死角を突いて、人の腕によく似た穢れの触腕が伸びる。気づいた桃一郎が身を翻したが、遅かった。硬い防具が砕ける音が響いた。梅次郎の左腕が宙を掻く。穢れは胴丸を突き破って、梅次郎の胸に深々と突き刺さっていた。

 梅次郎が、胸の正面に突き出た穢れに気が付いた途端、その口から溢れるようにして血が流れた。刺さった触腕が、胸の内でかすかに動く。梅次郎の体内にある心核をまさぐっているのだ。桃一郎はそれを叩き折るように断ち切った。

 桃一郎の槍が切り離しても、穢れは梅次郎の胸で蛆のように蠢いていた。それにいやなものを感じた桃一郎は、形振り構わず渾身の力で掴むと、それを思い切り引き抜いた。

 梅次郎は激しく咳込み、喉の奥に溜まった血を吐き出した。掠れた呼吸を繰り返し、気道を繋ぐ。梅次郎の片肺は風穴が開いたことで完全に潰され、もはや機能していなかった。そのうえ運の悪いことに心核にも傷が入ったのか、その中から魂が少しずつ抜け出ていた。

 間合いに入っている穢れを長槍で穿ち落とすと、桃一郎は弟を抱え、その胸元に手早く止血を施した。兄の手が震えていることに、梅次郎は気が付いていた。それが、自分の胸から穢れを引き抜いた時の火傷のせいではないことも分かっていた。

 その背後に、穢れの蝕腕が迫っていた。

「桃一郎!!」

 梅次郎は勢いよく身を起こすと焦った声で兄の名を叫び、太刀を振り上げた。しかし、その刃が届く直前、穢れの鋭い矛先が桃一郎の肋骨を砕きながら、柔らかな肉を割り裂いた。手当てに集中していたが故の隙を、穢れは見逃さなかった。

 鈍い音を軋ませながら、桃一郎の身体が宙づりになる。奇しくも、串刺しにされたのは、梅次郎が貫かれた場所と対照の位置だった。

 梅次郎が夢中でその穢れを切り離すと、桃一郎の身体が前のめりに傾いた。梅次郎は身体を使って受け止めると、兄の傷口に刺さる穢れを力強く掴んで抜き捨てた。

 最早、二人の手は穢れによって焼け爛れ、武器を握る事すら難しくなっていた。そのうえ、いずれの心核にも罅が入っていて、魂がじわじわと抜け出ていた。じきに、藍善と同じ道を辿ることは明らかだった。

 二人はいったん穢れの元を離脱すると、互いを支え合って飛んだ。それから互いの目を見つめ合い、同じように微笑み合った。

「梅。」

「なんだ、桃一郎。」

「今の俺達でも、全霊を込めて武器を穿てば、主様の元まで届くだろうか。」

 桃一郎のにこやかに笑む口元を、黒ずんだ血が細く滴る。それを手の甲で拭ってやると、梅次郎は赤く染まった歯を見せて笑った。

「俺たちならば、必ず。」

 それが合図であったかのように、二人は力強く羽ばたいて舞い上がると、自分たちと金赤朗で穢れを挟み、直線状に位置取った。

 穢れの腕が伸びるよりも早く、二人は焼け爛れた手に最後の力を込め、持ちうる霊気まですべて込めると、そこかしこの骨を軋ませながら渾身の力で長槍を、太刀を、投げ穿った。

 二つの刃先は彗星の輝きにも似た光芒を放ちながら、穢れもろとも突き進んでいく。ほとばしる閃光が、何とか逃れようともがく穢れを囲んで、檻のように包んでいた。黒いかたまりが、灰色の空を矢のように走り、ほどなくして、守護の結界に轟音とともに叩きつけられた。

 穢れが結界に触れた場所から、汚泥のごとき体が崩れてばらばらと赤いものが落ちていく。それは椛の葉だった。風になびく草原のように、穢れの表面が鮮やかな椛の葉で波打ちながら覆われていく。

 瞬きの間に、巨大に膨れ上がった穢れは、いとも呆気なく美しい紅葉の大塊へと変わり果てた。すると、その時を待ち構えていたように、西からの強い風が吹き寄せた。風に攫われ、雪深い白の山に椛の葉が艶めいて、輝きながら舞い散っていく。枯木ばかりの山肌を、焔色ほむらいろの椛の葉が彩った。

 神がかりの光景を見届けると、桃一郎と梅次郎の兄弟は背に生やした翼を消した。もう翼を動かす力さえ残っていなかった。赤く染まった二人は、枯葉のように落ちていく。その周囲には、白い靄が漂っていた。

 いつしか、雪が降ってきていた。頼りなく舞う細雪に囲まれて落下しながら、二人は安堵した顔を見合わせてもう一度微笑み合った。

「きっと、あんな奴が来ることはもうないだろう。ああ、よかった。ちゃんと、払うことが出来た…。」

「そうだな。――だが、俺たちがいなくなった後、桜介は泣くかな。」

「―――そうだね。桜は優しいから。…大丈夫さ、梅次郎。桜は強い子だもの。」

「…ああ、きっと、大丈夫だ。」

 大気に溶けた桃一郎に微笑みながら、梅次郎は目を閉じた。

 程無くして、山の中腹に二対の罅割れた玉が転がった。二つの玉はゆっくり転がると、こつんと優しくぶつかり合って動きを止めた。

 そこへ、桜三郎を背に乗せた枯野が体を引きずるようにして現れた。桜三郎は枯野に身を任せたまま、目を閉じたまま動かない。応急処置を受けた後も、枯野の背中でずっと昏睡していた。それが幸いなことであったか、不幸なことであったかは誰にもわからなかった。

 枯野は崩れるようにその場にしゃがむと、震える手で二つの玉を掬い上げた。それから気を失うまでの間、声も出さずに泣き続けた。





 金赤朗の周りを覆い囲んでいた椛の葉が、滝のように崩れ落ちた。結界が解けたのだ。

 外の気配が流れてきたと分かるや、朱佐は旋風よりも速く飛び出した。その後ろを、紺佐が追っていく。桃一郎と梅次郎の気配が失せていることに気が付いていた二人の間に、嫌な予感が広がった。桃一郎と梅次郎の兄弟は、近衛の中で最も強い二人だった。穢れごときに後れを取るはずがないと思ったが、いかに懸命に気配を探っても、どこにも見当たらない。

 朱佐が突然降下したので、紺佐は慌ててそれに倣って降りた。

大きな弟に隠れていてよく見えないが、枯野の着物の端が見えたので、紺佐はほっと息を吐いた。地面に降り立つと、紺佐は急ぎ足で朱佐を追い抜かした。

「枯野だね?よかった、すぐに手当てをしよう。」

「―――紺、お前、玉の処置は出来るか。」

 朱佐の横を通り過ぎた紺佐は、その言葉にはっとして振り向いた。朱佐の顔は青ざめて強張り、一点を見つめたまま動かない。

 紺佐は考えるよりも早く枯野の傍に膝を付き、固く閉じられた両手を優しく割り開いた。その中に守られていたものを見て、紺佐の口からは声にならない音が漏れ出た。

 視線の先、枯野の手の上で、桃一郎と梅次郎を形作っていた心核が並んでいた。霊気の気配を感じられなかったのは、枯野が穢れを寄せないよう呪術をかけていたためだった。自分なりに何とかしようとしたのか、罅割れた部分には金赤朗の葉が付けられていた。

 変わり果てた二人の姿に、紺佐は呆然として項垂れる。いち早く正気に返った朱佐は、俯いたまま動かない兄の横に片膝を付くと、大きな手で背中をゆっくりと撫でた。

「紺、樹に帰ろう。なあ、こいつらを連れて一緒に帰ろう。」

「―――そうだな、帰ろう。朱佐、桜三郎と枯野を任せても、いいか。」

「―――おう。」

 朱佐は軽々と二人を抱えると、力強く翼を動かして空に舞い上がった。間を置いて、紺佐も朱佐の後ろに続く。その手の中には、戦い抜いた二人の心核が大事そうに抱えられていた。



 この年の冬、大平山はかつてない損害を受けた。山の木は三分の一が病にかかって枯れ、動物たちは小さいものから衰弱して多く死んだ。金赤朗の樹閣でも、熟達した近衛の三名を失った。桃一郎と梅次郎の心核は運よく金赤朗の元まで戻ることが出来たが、粉々に砕かれた藍善の心核は春になるまで探すことができなかった。

 やがて、穢れとの戦闘から一日が経過して、枯野が目を覚ました。枯野の怪我は深いものではなく、すぐに起き上がることが出来た。

 布団の傍に膝を付くと、紺佐は用意した薬湯を差し出した。枯野はそれを右手で受け取り、息をふいて冷ました。その顔色が案じていたより血色のよいものだったので、紺佐は安堵して微笑んだ。

「枯野、具合はどうだ。」

「…首が痛い。痺れているみたいだ。」

 紺佐が枯野の髪をそっと持ち上げる。赤茶の髪に隠されていた肩口に、黒い膠のような傷跡が広がっているのを見て、紺佐の眉間には幾筋も皺が寄った。

 枯野の怪我は重篤なものではない。問題は、そこに残された穢れの痕だった。桜三郎を抱えて地上に降りた後、枯野は桜三郎の体内に沁みていた穢れを清めるため、持っていた道具を使い果たし、自分の傷はそのままにしておいたらしかった。そのため、紺佐たちが連れ帰った時には手の施しようがなくなっていた。

 軟膏を塗りこんでもなお色の薄まらない傷跡を渋い顔つきで眺めて、紺佐は申し訳なさそうに視線を落とした。

「穢れの痕が残ってしまった。――今後、薬で和らげながら、地道に薄めていく他ない。」

 枯野は後ろ髪を撫でつけ、持っていた湯呑に口を付けた。それから小さく息を吐くと、沈んだ表情の紺佐にちらりと微笑んだ。

「死ぬかもしれないと思いながらあの場所に向かったんだ。薬ぐらい、どうということはない。」

「苦くてもいいのかな?」

「それは遠慮したいな。」

 もう一度薬湯に口をつけ、枯野は思い直したように紺佐を見た。

「桜三郎はどうしてる。」

 紺佐は微笑を消した。

「まだ寝ている。枯野のおかげで穢れは残っていないが、一度体の中に沁み込んだせいか回復が遅い。」

「そうか…。」

 枯野は、ほっとした様な、痛ましいような顔をして俯くと、それきり黙りこんだ。



 桜三郎は、その日からさらに三日を経て目を覚ました。

 その時ちょうど医務室に入った紺佐は、奥の布団に寝ていた桜三郎の目が開いていることに気が付くと、腕に抱えていた薬草をすべて落とした。床に散らばった薬草など見えていないかのように、紺佐の顔が明るくなる。その視線の先では、桜三郎が虚ろな目をしていた。

「桜三郎!よかった、目が覚めたのか。」

 駆け寄る紺佐の方を見ようともせず、桜三郎は天井を見たままぼんやりと視線を移ろわせた。紺佐はそれに言及せず、いそいそと薬缶を囲炉裏にかけて、落とした薬草を拾い集めた。

 薬缶の口から湯気が立ち上り始めたころ、桜三郎がぽつりと呟いた。

「紺、桃兄と梅兄はどうしてる。」

 小さな声だったが、静かな部屋の中でははっきりと聞こえた。紺佐は思わず薬湯を準備する手を止め、布団の上に起き上がった桜三郎を見つめた。

 自分に向けられた桜三郎の透き通るような瞳に、紺佐は耐えきれず視線を逸らした。

「なあ、教えてくれ。二人は今どうしてる。無事なのか。」

「桜三郎、それは。」

 言葉に詰まった紺佐に、桜三郎は荒々しく布団を剥がして立ち上がると、肩を掴んで詰め寄った。腹の傷が開いたらしく、胴に巻かれた包帯にじわりと赤が滲んだ。しかし、痛みなど感じていないかのように、桜三郎は強張った顔つきで紺佐の肩を揺さぶった。

「言ってくれ、どうなんだ、なあ、紺。」

 紺佐の肩を掴む手に力が籠る。紺佐は意を決して顔を上げると、桜三郎の目をまっすぐ見つめた。

「二人は、玉の間にいる。」

 その言葉が意図する事を汲んだ桜三郎は、すべての感情が抜けたように呆然として動かなくなった。桜三郎の頭が、力なく紺佐の肩に当たる。その背中に手を回すと、紺佐は桜三郎の背中を撫でた。

 玉の間は、まだ生まれる前の従士が心核の状態で安置されている場所だった。また、心核に傷がついた従士が赴く場所でもあった。心核になった者は、二度と元の従士には成り得ない。従士は心核になっても再生できるが、それは存在の有無としての話だ。生き物としてみたならば、それは全くの別個体に成り果てる。

 二人の兄がこの世にいないことを理解して、桜三郎の体から力が抜けていった。紺佐はそれを支え、ずるずると壁に背を持たせかけながら腰を下ろしていく。

 とうとう床に座り込むと、桜三郎が紺佐の肩を掴んでいた手がだらりと床に下がった。紺佐の手が撫でると、桜三郎の背中は小刻みに震えていた。肩口にじわりと広がる熱を感じながら、紺佐は虚空を見上げる。

 その紺色の眼から、一筋の滴が零れて落ちた。




 気持ちの良い風が吹き渡る秋の昼下がり、揃いの耳飾りを付けた二人の幼い兄弟が、兄の広い膝の上ですっぽりと収まっている。固い床に座り込み、三人は揃って同じ書を読んでいた。時折、自分が読みあげるのだと言っては喧嘩を始める弟たちを、桜三郎は穏やかな表情でやんわりと止めてやった。

 桜三郎が読む声に続くように、二人の弟たちが舌足らずな声で文字を読み上げる。甲高い声が、三兄弟の居室に響いた。

 桃一郎が、小さな手をぐっと伸ばすと、中指の腹で紙を捲った。その隣で、新しい文面を真剣に見つめる梅次郎は、柔らかな髪をくるくると指に巻きつけている。二人の仕草に、桜三郎は目を細めた。

 兄が一向に続きを読もうとしないことに痺れを切らし、幼い二人は不満げにくりくりとした目を上げた。

桜兄おうにい、どうしたの?」

「つづきよんで、桜兄。」

「―――ああ、よしよし、悪かったね。」

 宥めるように小さな頭を撫でながら、桜三郎はふと昔のことを思い出した。

 幼いころ、桃一郎の膝の上で書を読んだことがあった。よく気の付く兄は、桜三郎が開いた面を全て読んだと分かると、たおやかな手つきで紙を捲ったものだった。中指を滑らせ、優しく紙を弛ませては紙を捲っていた。兄の独特な仕草だった。それを横に寝転んで覗き込む梅次郎は、顔の横に垂れた髪に何度も指を絡ませて、真剣に文字を追っていた。集中するとき、梅次郎はいつも髪を弄っていた。

 自分を見上げる幼い顔に、二人の兄の面影が重なる。桜三郎が眉尻を下げて微笑むと、桃一郎と梅次郎は慌てた様子で兄の胴に短い腕を回した。

 幼いくせによく分かるものだ、と桜三郎は内心で苦笑しながら、二人の弟を抱き寄せた。回りきっていない腕で懸命に抱きしめようとするさまが愛おしくて、寂しくて、胸の奥が痛んだ。それに気づかないふりをして、二つの背中をゆっくりと撫でた。


 三兄弟の部屋に、さわやかな風が優しく吹き込んだ。はるか遠くからわたってきた風は、桜三郎の柔らかい髪を撫でるように過ぎると、ふわりと樹閣の空気に溶けていった。







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