紅築奇譚
煤渡
第1話 晩秋の緒
人々が地の上をあまねく動き回り、この世は人ありきのものとまで言われた頃のこと。人の立ち入らぬ険しい自然はいまだ人ならざるものの支配する場所だった。
一度足を踏み入れれば、思うままにならないうえ、地滑りや腹を空かせたけだもの、不可視の害なす存在が、山を通る人々を傷つけた。
そういった得体のしれぬ有象無象に恐れを抱きつつも、土地を敬うことで厄災から逃れようとするのは無理もないことだった。世に住まう人々は、矢も楯も聞かぬ相手にできることは、ひたすら崇めてその怒りを買わぬよう祈る事だけだと考えた。やがてそうした人々の思念によってか、畏怖される土地には主が住まうようになった。
格を得た主は土地に座し、己が従僕を作ることで土地に蠢く穢れを払い、従僕とともに生きるようになった。従僕は動けぬ主の手足として働き、主たちはその従僕を『従士』と呼んだ。
しかし、その行動には自らを形作った元と言える「人のため」という目的はない。ただ、一つの格を持って生まれたことで、自らの役割を土地の保全と定めて、その任を全うしているのみに過ぎなかった。人が畏れようと、敬おうと、崇めようと、それは全て他所の社会のものだと割り切っていた。
人間は自分たちを世に生んだが、同時に穢れを生み出す存在でもある。誰が決めたわけでもなかったが、土地の主たちは人間を決して相容れぬものとして捉え、人の世に干渉しなかった。
紅葉に色づく山々の一つ、金赤朗という椛の大樹が根を下ろす
とうに齢六百を超えた金赤朗の樹閣は見事なもので、小さな邸のような部屋が幾重にも連なって、一つの塔のような姿をしていた。艶やかな木肌の壁に、椛の葉で葺かれた美しい赤の屋根が連なる様は、人がこれを見れば神の業と目を見張ったことだろう。
はらり、と金赤朗の張り出した枝の先から、ひとひらの椛の葉が離れて風に乗る。小さな葉は、くるくると回りながら右へ、左へと行先を変えながら落ちていく。そして、西の彼方から吹いてきた風に身を任せると、格子戸の隙間へ風と一緒に舞い込んだ。
素振りの稽古に少し飽きてきていた
すると、椛の葉は棒の先で生まれた風に乗ってするりと身をかわし、柔らかく床板の上に着地した。的を外したことがわかると、琥珀丸の蜂蜜のような色の瞳は真ん丸に見開かれ、かすかに開いた口からは落胆の声が漏れた。
「うー…。」
「こら、琥珀。何してるの、今は稽古の時間だろ。」
後ろで様子を見ていた
しかし、叱るような口調をしているが、口角を上がっているのは隠しきれていない。兄が本格的に怒っている訳ではないと察した琥珀丸は、誤魔化すようにはにかみながら「ごめんなさい」と謝った。
「まったく、もう。ちゃんと集中して剣を振るんだぞ。」
「でも、これは剣じゃなくて棒だよ。」
「当たり前だろ。お前はまだ小さいんだから、これで練習するの。」
そう言いながら、瑠璃丸は琥珀丸の傍らに膝をついた。剣の柄を握る時の持ち方に、変な癖がついてしまっているのをすかさず見つけたのだ。
近衛としての経験があった瑠璃丸は、そういった癖を小さいうちに直しておかないと、後々苦労をすることを兄役達から話で聞いていた。なので、幼い弟の構え方に、いつも隅々まで目を光らせているのだった。
琥珀丸の飲み込みが早いことは兄として鼻が高くもあったが、まだまだ丸みの残る手が頓珍漢な剣の持ち方をしているのが面白くて、瑠璃丸は笑いながら剣の柄を弟の手ごと一緒に握った。
「ほら、ご覧よ、琥珀。柄を握る時に後ろの親指まで巻き込んでる。これは外しておくんだよ。」
「んー、なんか変な感じ。」
「そのうち慣れるさ。」
上目越しに口を尖らせる弟に、微笑ましげに目を細める。瑠璃丸にとって、年の離れたこの弟は何にも代えがたい存在だった。
束の間、瑠璃丸の胸に鋭い痛みが走った。あまりの痛みに呼吸は止まり、身を縮め、痛みが走ったあたりを服の上からぐっと押さえた。後を追うように、冷や汗がどっと沸きだすいやな感覚がついてくる。いつもの事だと頭では理解していても、慣れることはできなかった。
瑠璃丸はたまに、こうして動けなくなることがあった。肺腑のあたりや心ノ臓のあたりが、誰かに握りしめられるような、堪え切れない痛みに襲われるのだ。かつて、生まれてすぐに罹ったこの病は、以来ずっと瑠璃丸の体を蝕んでいた。
懸命に呼吸を整えようとしていると、ふと背中に温かさを感じた。その直後、視界の端で木の棒が落ちるのが見えた瑠璃丸は、はっとして顔をあげた。幼い弟が、震える手で自分の背中を撫でていたのだ。
「る、瑠璃?どうしたの?」
初めて見た兄の様子に、琥珀丸は恐怖と不安に瞳を揺らしている。それでも、目を逸らそうとはせずに、いまだ青白い兄の両頬に手の平を添えた。ずっと隠し通してきた病を見せてしまったことに瑠璃丸は臍を噛んだが、すぐに笑顔を浮かべて琥珀丸の小さな両手を取った。ひやりとして冷たい兄の手に、琥珀丸は一層心配そうに眉尻を下げた。
「ごめん、大丈夫。大丈夫だ。」
「でも、瑠璃、なんだか苦しそうだ。」
「―――そうだな、少しだけ。俺からの稽古は、今日はここまでにしよう。兄役方にこの後のことを頼んでくるから、ここで待っておいで。」
瑠璃丸は冷や汗を落としながらゆっくり立ち上がると、琥珀丸の小さな頭を撫でて、戸口の向こうへと消えた。一人残された琥珀丸は、その背中が消えた戸口を、次の指導役が来るまで身じろぎせずに見つめていた。
その日以来、瑠璃丸が琥珀丸の稽古に付き添う回数は段々と減っていき、とうとう稽古を見ることさえなくなった。
それからしばらく経ち、椛の大樹が幾度目かの葉を散らした。その頃になると、瑠璃丸の体は、床から全く離れられなくなってしまっていた。
ふと、懐かしい記憶を思い出していた琥珀丸は、傍らの布団に横たわる兄の目が開いていることに気が付いた。向けられた群青の瞳に、琥珀丸の表情が柔らかくなる。布団の端からそっと伸ばされた手を握ると、琥珀丸は小さく微笑んだ。握ったその手があまりに細くて、琥珀丸は鼻の奥がツンと痛んだが、奥歯を噛んでぐっと耐えた。
「起きたのか、瑠璃。」
「お前が来ているんだもの、そりゃあ起きるさ。」
「いい、身は起こさなくていい。寝てろ。」
上半身を持ち上げようとする瑠璃丸を、琥珀丸は慌てて止めた。近頃、少々過保護のきらいがある弟の姿に苦笑しながら、瑠璃丸は傍にあった半纏を手繰り寄せた。それを羽織り、宥めるように琥珀丸の固い膝を撫でる。
「たまには起きないと、背中が痛くなってしまうだろ。」
「…そうなのか。」
「そうだよ。」
今一つ納得していない顔をする琥珀丸に向かって、瑠璃丸はからかうようにその鼻を突いた。あからさまな子ども扱いに、琥珀丸は分かりやすく渋い顔つきになった。
「俺だって、近衛の端くれなんだ。背だって伸びたし、そういうのはもういい。」
「昔はあんなに甘えん坊だったのに、今じゃ俺を心配するほどしっかりしてしまったんだねえ。」
「…昔の話はやめてくれ。」
「照れてるね?ふふ、まだまだ小さいけど、心は一人前だな。」
そう言って瑠璃丸は朗らかに笑ったが、すぐにけほけほとかすれるような咳を出した。慌てて背中をさする琥珀丸に、「大丈夫だ」と言って微笑を浮かべて見せる。
なおも心配そうな弟の頭を、落ち着かせるように撫でると、瑠璃丸は格子戸に目を移した。
「そろそろ秋も終わりだね。最近、主様の葉が一段と落ちるようになっただろ。」
「よく知ってるな。」
「ここにいると、その位しか見られるものがないんだよ。近頃は主様も寝たっきりかな?」
「そうだな、奥の院でよく寝てる。――瑠璃も、もう寝ろ。体に障る。」
半ば強引に掛け布団を軽く押してやると、瑠璃丸は素直に横になった。口では平気な素振りを見せていても、本当は喋る事すら億劫なのだ。心配をかけまいと気丈にふるまう兄に、琥珀丸は眉根を寄せて、溢れそうな涙を抑えた。
会話にそれなりの体力を使ったのだろう、すぐにか細い寝息が聞こえてきた。青白い兄の寝顔をじっと見つめていると、腹の底から冷え冷えとしたものが湧き上がってくる。
いつかきっと回復すると信じながら過ごしてきたこの数年、医法師たちの試行錯誤もむなしく、瑠璃丸の容体は悪化の一途を辿ってきた。日増しに弱っていく兄の行く末を考えるたび、琥珀丸は叫び出したい衝動に駆られた。
瑠璃丸は、弟の自分を気に掛けるあまり、弱みを見せようとしない。いつ見舞いに行っても、瑠璃丸は明るさを失わなかった。むしろ気にかけられるのは琥珀丸の方で、それがもどかしく、腹立たしく、寂しくもあった。
静かに眠る兄の、額にかかる髪の毛をそっと除けてやってから、琥珀丸はできる限り静かに立ち上がり、音も立てずに部屋の襖を閉めた。
夕暮れが色濃く空を覆う頃、近衛の任に就いている鴉達が金赤朗の梢に戻ってきた。清浄な大平山には、近辺に点在する人里からの穢れが集まりやすいため、近衛たちは武力でもって澱みを払っていた。まだ年の若い琥珀丸は、その見習いとして山に近いところで他の者たちの動きを習いながら、見廻りとして働いていた。
先輩格の者から、順に樹閣へと帰るため、琥珀丸は最後に門をくぐった。暗い表情でのろのろと廻廊を歩き、武具庫の中へ入る。樹閣の中は武器の類は禁じられているため、誰もが武具庫にそれぞれの得物を納めなければならない。
琥珀丸は刀身についた穢れを甕に溜まった清水で清めると、棚の上の自分の置き場所に戻した。普段よりも、刃についた穢れの量が多かったことに、そっと溜息を吐く。
最近は見廻りをしていても瑠璃丸の様子が頭を離れず、身が入らないことが多かった。刃につく穢れが多いのは、未熟なせいもあるが、斬り方がなっていないことの方が大きい。今日も仲間に助けられなければ、翼を持って行かれていたかもしれなかった。油断が死に直結することを理解していても、なかなか考え事は止められなかった。
暗い顔で武具庫を出ると、天井に頭が付いてしまいそうな大男が一人、大きな足を蟹股に開いて立っているのが見えた。分かりやすい特徴に、琥珀丸は顔をあげながらその名を呟いた。
「
「琥珀、お前大丈夫かよ。最近、気が散漫してるぞ。」
朱佐が、厳しい視線で琥珀丸を見下ろした。最年少で、しかもまだ見習いの立場である琥珀丸を一番気にかけている男で、近衛の中でまとめ役を担っている。だからこそ、危なっかしい後輩の様子を心配して見に来たのだった。
朱佐の言葉に、琥珀丸は再び視線を下げた。朱佐の言っているのは本当のことだ。だからこそ、傷に沁みるような辛さがあった。
「―――ごめん。」
「下手打った時に、俺たちが近くにいりゃいいんだがな。もしいないときがあれば大事になる。…兄貴が心配なのは分かってるよ。」
俯く琥珀丸の頭を、朱佐の骨ばった大きな手がかき回すように撫でた。朱佐は気のいい男だったが、少々大雑把なところがあった。だが、その荒っぽさに今は慰められたような気がして、琥珀丸は乱れたぼさぼさ頭のまま、ほんの少し微笑んだ。
その顔を見て安心したのか、朱佐は鋭い犬歯を見せて笑った。
「まあ、お前は刀の扱いがうまいし、頼りにしてんだ。明日もよろしくな。」
「うん、ありがとう。また明日。」
小さな山が移動するかのように、大きな足音を立てながら去っていった朱佐を見送ると、琥珀丸は兄のいる部屋に向かって歩き出した。毎日、仕事を終えた後に見舞いがてら様子を見に行くことが日課になっていた。
瑠璃丸が寝ている部屋の前の曲がり角で、琥珀丸は歩みを止めた。部屋の前で、数人が固まっている気配がする。どうやら医法師が瑠璃丸の診察に来ていたらしい。医法師だけならともかく、口うるさい若年寄の二人も一緒にいる。この二人があまり得意ではない琥珀丸は、じっとその一団が去るのを待つことにした。
静かな廊下に、ぼそぼそと喋る声が落ちる。聞き取りづらいが、耳が特に良い琥珀丸には、よくよく聞けば話の内容が分かりそうだった。もしかして兄の容体が回復してはいないかと、琥珀丸はかすかに期待しながら会話に耳をそばだてた。
しかし、その深刻な気配に、何か嫌な予感がした。
「―――どうなのだ。」
「…これは、いけない。体力が著しく落ちている。」
「それは――。」
「おそらく、この冬は越えられまい。」
それ以上はもう聞くことが出来なかった。琥珀丸は三人が去っていく足音を聞きながら、崩れ落ちそうになる膝を何とか持ちこたえて、いましがた聞こえた言葉を反芻した。
―――この冬は、越えられまい。
その言葉は、青白い兄の顔と重なって、琥珀丸の脳裏に反響した。
(瑠璃丸が、もうすぐ、死ぬ?)
目の前が真っ暗になった気がして、琥珀丸は壁に背中を預けた。虚ろな目が、廊下の床板の上を彷徨う。格子戸から差し込む夕陽の光が、妙にちかちかと眩しく見えた。
どうすれば、どうすればいい。琥珀丸は荒く息をしながら、むちゃくちゃに頭を掻き乱した。瑠璃丸が死んでいくなんて、想像もしたくないことなのに。それが現実になるかもしれない。しかも、冬はもうすぐそこまで迫ってきているのだ。
居ても立ってもいられず、琥珀丸は身を翻して元来た道を駆け出した。すれ違う従士たちが奇異の目を向けてくるのも構わずに、琥珀丸は樹閣を転げ落ちるように下っていき、一つの襖の前で足を止めた。そのまま、荒い息を落ち着かせようともせず、間髪入れずに襖を両手で割り開いた。
「
勢いよく拍子木を打ったときのような強烈な音が鳴り響き、部屋の中で薬草をいじっていた男はたまらず肩を強張らせた。 普段は眠たげに下がっている瞼は限りなく開かれ、浅葱色の目が仰天した様子で琥珀丸に向く。
「うあ!?な、なんだよ、驚かすなよ。襖は静かに開けろっていつも――。」
「薬。」
「はあ?」
不機嫌な顔で文句を言う浅葱など見えていないように、琥珀丸は鬼気迫る勢いでまくしたてた。
「病に効く薬、知らないか。重い病にも効く薬。何でもいい、何か、一番すごい薬は知らないか。なんだって構わない。頼む。」
「だ、だから、何なんだよ。」
切願する琥珀丸の異様な熱気に押され、浅葱は仰け反りながら後退した。普段が仏頂面な琥珀丸のことを知るだけに、何かあるのだろうと考えを巡らせる。しかし、ふとその病弱な兄のことを思い出して、合点がいった顔で手を打った。
「そうか、瑠璃丸だな?しばらく顔を見てないが、なんだ、あいつまた風邪でも引いたのか。」
「風邪じゃない。風邪よりもっとひどい病にも効く薬が欲しい。」
真剣に見据えてくる琥珀丸の顔を見て、これはただ事ではないと察して、浅葱は姿勢を正した。
瑠璃丸がここ数年姿を見せないのは知っていたし、訪れる医法師から体調が思わしくないというのも聞いていたが、琥珀丸がここまで必死になるほどの状態とは思っていなかったのだ。
だが、覚えている限り、自分の持ちうる薬草は全て医法師に渡してきた。つまり、これ以上の手立てを、浅葱は持っていない。
それでも、あっさりと結論を言い放たない程度に、いつも薄情者と呼ばれている浅葱でもそれなりの情を持ち合わせていた。一つ息を吐くと、浅葱は眉根を寄せて自分の記憶を手繰った。
「万病に効く薬、なあ…。そんなもん、仙薬くらいしか――。いや、待てよ。」
「あるのか!?」
飛びつく勢いで身を寄せた琥珀丸をさりげなく押し戻しながら、浅葱は低い声で言った。
「―――噂話だ。出処は、あんまり信用が出来るもんじゃない。」
「何でもいい。聞かせてくれ。」
食い入るような琥珀丸の目に後押しされるように、浅葱は気休めにはなるだろうと、ぽつぽつと数年前の記憶を掘り返しながら話した。
「以前、狸の奴らから聞いた話だ。この山の先の谷を越えて、さらにその先の川を越えた、あいつらの住む森の中に、大きな池があってな。里の人間はめったに立ち入らない場所だが、流れてきた人間がたまにその畔に住み着くんだそうだ。で、中には病に罹るやつもいる。狸には薬なんか使う習慣がないからな。病に罹ったんなら死ぬだろうと思っていたらしいんだが、ある日ぴんぴんした様子で森を出ていくのを見たっていうんだ。」
「病が治ったということか。」
浅葱が深く頷いた。
「まあ、そういうことだろう。気になって匂いを嗅いでみたらしいんだがな、どうも池の水と似ているが違う水の匂いがしたそうだ。大池の中心の祠から流れてくる匂いによく似ているから、きっとそこになにかがあるんだろうと騒いでいた。どんな死の匂いが漂う奴も、綺麗さっぱり消えているってんでな。万病に効く薬があるとするならば、それだろうな。」
そこまで聞いてさっと立ち上がった琥珀丸の袖を、浅葱は急いで掴んだ。当然のように鋭い視線を向けられても怯まず、むしろさらに鋭く琥珀丸を睨み返した。
「まさか今から行こうなんて考えてないだろうな。」
「悪いのか。」
「あったりまえだろ!主様の許可を頂いて、ご加護を貰ってから出るのが決まりだろうが!」
琥珀丸はぐっと下唇を噛んだ。浅葱の言い分はもっともだったからだ。
この山に暮らす従士は、山を出るときには主である金赤朗から許しを得て、穢れを寄せぬ加護を受けてからというのが習わしだった。それを無くして清浄な山の外へ出るのは、あちこちに漂う穢れに憑かれる危険があるからだ。
しかし、冬支度を始めた金赤朗はこの数日の間ほとんど意識がはっきりしていなかった。しかも、いよいよ冬になれば、金赤朗は春に向けて完全に眠りに落ちてしまう。だから、基本的に冬期の下山は許されていない。そうなれば、瑠璃丸を助ける手立ては完全に失われてしまうかもしれなかった。
琥珀丸は懸命に頭を働かせながら、硬い表情のままゆっくりと頷いた。
「…わかった。主様の許可を貰えるまで、待つ。」
静かに呟いた琥珀丸の顔を仰ぎ見て、浅葱はそっと手を放した。
「まあ、辛いだろうが、大人しく待つしかないんだ。主様のことだから、きっとすぐにお許しが出るさ。」
その言葉にもう一度頷くと、琥珀丸はできる限りゆっくりとした足取りで調薬室を後にした。
襖を完全に締め切る直前、見透かすような浅葱の目と視線が合ったが、逃れるように隙間を閉じた。そして、風のような速さで武具庫へと疾走した。
見張りに見つからないよう、息を潜めて大樹を降り切った琥珀丸は、足を土の上に置くと、張りつめていた息をすべて吐き切った。緊張した面持ちで見上げると、そこに壮麗な樹閣は見えず、立派な老齢の椛が立っているだけだった。どうやら、見つかることなく樹を降りることが出来たらしい。
琥珀丸は息を吸いなおすと、身にまとった防寒具をもう一度まき直し、喉元の襟巻をぐっと上に引き上げた。
もうじき日が完全に暮れる。呪術をある程度学んでいた琥珀丸だが、目を光らせる術はまだ覚えたばかりで、うまく使える保証はない。ましてや森の中で使うにはもう少し熟達が必要だ。黄昏時の森は暗く、進みづらいが、空の光が少しでもある内に森を抜けなければいけなかった。
飛んでいけたら少しはましだっただろうに、と琥珀丸は内心舌を打った。飛べば見つかる可能性が出てくるため、山を出るまでは歩く必要があると頭で分かっていても、飛べないというのは思いのほか億劫だった。
張り出した根を避け、急斜面を滑るように降りていく。ようやく視界が開けてきたころには、空に一番星が輝いていた。
ずっと山で暮らしてきた琥珀丸にとって、初めて山の外で過ごす夜は寒々とした怖さがあった。夜風のせいだけではない寒気が膝から伝わってきて、琥珀丸は肩を強張らせて身震いした。歩きながら後ろを振り返ると、黒々とした山の影が自分を見下ろしている。ほんの一瞬、まだ今なら誰にも気づかれないまま山に帰れる、という考えが脳裏を掠めた。
しかし、瑠璃丸を助けなければと思い直すと、闇に覆われた世界に向き直り、ずんずんと大股で歩き続けた。夜の闇への恐怖よりも、兄を救えないことへの恐怖のほうがずっと大きかった。
段々と目を細めても行き先が見えなくなってきたので、琥珀丸は懐から薬草の葉を取り出した。それを口元に近づけて揉み合わせながら、空いている手で両目の端をトン、トンと二回ずつ叩く。すると、琥珀丸の視界にろうそくを燈したような、頼りない明るさが生まれた。暗闇に、ぼんやりと明滅しながら景色が浮かぶ。まだまだ未熟な技だが、無いよりはましだった。
漂う穢れを短刀で弾きながらしばらく歩くと、地面が途切れているところを見つけた。近寄ると、金赤朗の上から地面を見下ろしたぐらいの高さの崖になっている。その向こう側に視線を移すと、うっすらと崖が見えた。どうやら、ここが浅葱の言っていた、最初の谷のようだった。
一瞬、飛んで向こう側へ渡ろうかと考えたが、案外谷の幅は長いらしく、まだ子供の体つきである琥珀丸には飛びきる自信がなかった。そのため、仕方がないと諦めて、ゆっくりと谷の斜面を降りることにした。
ここまで順調に歩いて来られたことに、琥珀丸は少し安心した。穢れも、抗いきれないほど力の強いものはいなかったし、大きな怪我もしていない。なんだ、思ったよりも、外に出るのは簡単なことだったのだ。肩の強張りも大分とけて、琥珀丸は平時のような軽やかさで谷の底に降り立った。
かつてはここも川が流れていたことを示すように、あちこちに巨大な楕円の岩が転がっており、地面にはつるつるとした小石が敷き詰められている。それに混じって尖った石が落ちているので、気を付けながら歩いていると、かすかな獣の唸り声が耳に届いた。
はっとして、琥珀丸は持っていた短刀を抜き放った。それとほぼ同時に、右から大きな獣が飛びかかってきた。闇の中に光る鋭い爪を見て、琥珀丸は身をよじってそれを避ける。転びそうになるのを堪えて体制を持ち直し、間合いの向こうに見える陰に目を凝らした。
「狼だ…!」
金に輝く双眸が、琥珀丸をまっすぐ捉えている。よく見れば痩せているその狼は、どうやら群れを持たないはぐれ者らしかった。
腹を空かせた獣の執念深さを聞き知っていた琥珀丸はすぐさま駆け出し、急いで鴉の姿に変じた。追いすがる狼の息が、すぐそこまで迫ってくるのを感じながら、琥珀丸は必死に両の翼を羽ばたかせて谷底から舞い上がった。
刹那、琥珀丸の胴のすぐ脇を、巨大な爪が掻き薙いだ。大きな爪のほんの先端が、琥珀丸の羽毛の奥の柔らかな腹をかすかに裂く。その痛みに呻きをあげながら、琥珀丸は懸命に風を掴もうと羽ばたいた。
そのまま、何も考えずに飛び続けるうち、琥珀丸の目に沁みるような眩しさが射しこんだ。もう夜明けが来たのだ。
琥珀丸の目にかけた呪術は、日中に使うと目が焼けてしまい、眩しすぎて何も見えなくなってしまう。術を解かなくては、と思い至った琥珀丸は、へろへろと落ちるように地表に向かった。
地面に降りるや否や、琥珀丸は崩れ落ちるように人の姿に戻った。鳥の姿でいたために裂き傷の影響も大きかったのだが、無我夢中で飛んでいた琥珀丸がそれに気づく余裕などなかった。大きく息をつくと、琥珀丸はまず目の術を解いてから、もぞもぞと持っていた包みをまさぐって軟膏を取り出した。量は少ないが、無いよりましだと、それを傷口に塗りつける。時折傷口が引き攣ると、琥珀丸の目に生理的な涙が浮かんだ。
手当てを終えた琥珀丸は、再びゆっくりと歩きだした。体中が疲労で重かったが、休もうという気は起らなかった。
太陽が中天に差し掛かろうかという頃、清流が見えてきた。これが、谷を越えた後に見えるという川だろう。琥珀丸は夢中で駆け出すと、縁に膝をついて川の水をすくって思い切り飲んだ。朝の冷たい水が、疲れに火照った体に染み入るようだった。
一息つくと、琥珀丸は裾をたくし上げてから川の中に両足を入れた。水の流れは思ったよりも勢いがあり、膝の下を持って行かれないように、琥珀丸は踏ん張りながら川を渡った。途中で水の中に突き出していたらしい枝か岩に脛を裂かれたが、それでもなお足に力を込めて歩いた。
川の対岸に着くころには、琥珀丸は息も絶え絶えになっていた。肩で息をしながら、袖を裂いて脛に巻き、流れ続ける血を止める。水の中で血を失い過ぎたのか、疲れからなのか、頭がふらふらとしていたが、再び休むことなく歩き出した。
目の前には、森が広がっている。この森を進んでいけば、大池が見えてくるはず。その期待が、琥珀丸の背中を押した。
森は鬱蒼としていて、金赤朗の山の森とは全く違う様子だった。あちこちから聞こえる獣の息遣いに警戒しながら、琥珀丸は足早に森を進んだ。自分の腹と足から流れる血が、着物に滲んでいる。獣はこの臭いに誘われて自分の元へと来るだろう。襲われれば、今の琥珀丸では逃げ切れるかどうかも定かではない。
腹を手で押さえながら茂みを抜け続けていくと、突然目の前が明るく拓けた。
森を抜けたのだ。そう思う前に、琥珀丸は目の前に広がる広大な青い池に目を奪われた。陽の光を受けてきらめく水面の美しさに立ち尽くしていると、背後で大きな音が鳴った。茂みに何かが潜んでいたのだと理解するや否や、その中から二頭の狼が飛び出てきた。
慌てて飛びすさった瞬間、腹の傷が火のようにかっと熱くなった。庇いながら、狼達から距離をとろうと足を踏み出した直後、正面からもう二頭の狼が飛び出してきた。考える間もなく、その鼻先に短刀を振り下ろす。一頭に当たって怯ませたものの、もう一頭の爪が肩口を裂いた。深く切り裂かれたのか、その傷口から鮮血がほとばしる。
狼の群れを睨みつけ、短刀を構えながら、琥珀丸はじりじりと池のふちまで後退した。狼が、徐々にその間合いを詰めてくる。群れの統率された動きには、一分の隙もない。囲みを突破して逃げるのは不可能だった。
いちかばちか。琥珀丸は意を決して大池に向かうと、素早く鴉の姿に変じた。途端に、体中の傷が人間の姿の時とは比べ物にならないほどの激痛を訴えだす。それでも力を振り絞って舞い上がると、大池の中央に見える祠に向かって一直線に飛んだ。
大池の中央に岩場が突き出しており、祠はその上に載っているような恰好をしていた。その口は丸く切り取られたように開いている。人一人が余裕で入ることのできる大きさだった。激痛が脈を打つように何度も押し寄せる中、琥珀丸は意識が遠のきそうになるのを堪えながら、祠の口に飛び込むように向かっていった。
祠の口にくちばしの先がふれた、と思った瞬間、稲妻に打たれるような衝撃が体中に走った。あまりの痛みに、琥珀丸の体は硬直し、身体は岩場の上に叩きつけられた。
祠には強い結界が張ってあったのだ。琥珀丸は視界がかすむ中懸命に立ち上がると、もう一度舞い上がって祠の口に向かって飛んだ。何度も何度も、弾かれては立ち上がり、また落ちては飛び上がった。
琥珀丸の頭に、浅葱の話が単なる法螺話かもしれないという疑念は、欠片も残っていなかった。むしろ、結界が張ってあることで、万病に効く妙薬があるという話に真実味が増した気さえしていた。
自分の身体が痛むことなど、長いこと病に伏せり続ける瑠璃丸のことを思えば何も気にならなかった。琥珀丸はただひたすらに、今もなお床に伏せる兄のことを思いながら、持てる限りの力でもって最後の希望に縋りつづけた。
やがて、琥珀丸の体は限界を迎え、翼はぼろぼろになってしまった。中空から墜落するように岩場の上に落ちると、ぴくりとも動かなくなった。
だが、徐々に薄らいでいく視界の中、ふと、結界にカラスが一羽通れるくらいの隙間が開いたことに気が付く。琥珀丸は渾身の力を振り絞り、這う這うの体でその間を潜り抜けた。
倒れ込み、真っ暗になった視界の中で、琥珀丸は不思議な温かさに包まれたような気がした。それはなんとも心地のよい温度だった。体の痛みが絶えず響く中、これ以上なく疲れ切っていた琥珀丸は、沈むように眠りの沼に落ちていった。
すっかり腕の中で眠ってしまった琥珀丸を、その少女はしげしげと眺めた。白い肌に赤の目がキラキラと輝き、美しく輝く銀の髪を背に流し、目の覚めるような赤の着物を着ている様子は、どこかの豪族の姫を思わせる。
琥珀丸が目を開けると、そこには青い光に照らされて淡く輝く岩の壁があった。布の上に寝かされていると気が付くと、慌てて身を起こし、人の姿に変じて油断なくあたりを見回す。どうやら洞穴のような場所らしかったが、ただの洞穴と違って奥に水がたゆたっている。美しい青色はその水が反射しているものらしかった。
「起きたの。」
反響した声が耳に届くと、琥珀丸は持っていた短刀をさっと抜き放って、声のした方に素早く顔を向けた。
「誰だ。」
「紅築というの。――カラスの子、元気になったのね。」
紅築と名乗った少女の言葉に、琥珀丸ははっとして自分の体をまさぐった。腹の傷も、脛の傷も、肩の傷も、結界に向かっていった時についた傷も、とうの昔に負った怪我のように、薄く傷跡を残すのみになっている。
驚きに目を見張りながら、欠片も痛みの無い体をぺたぺたと触っていると、紅築が少し離れたところから盃を寄越した。
「お水、飲んだ方がいい。ずいぶん疲れているみたい。」
「あんたが俺の体を治したのか。」
「うん。」
頷いた紅築を、琥珀丸は半信半疑で睨むように見つめた。その視線を受けた紅築は、すこし身じろぎすると、もう一歩だけ琥珀丸から離れて座った。
紅築はなおも警戒している様子の琥珀丸をちらりと見ると、落ち着いた様子で話しだした。
「薬を飲ませて、治したの。元気になったなら、お水を飲んでここから出なさい。ここはあなたみたいな子供が、度胸試しをするようなところじゃないのよ。」
「薬…。何でも治すというのは、その薬か?」
琥珀丸の問いかけに、紅築は少し眉を寄せた。
「そう…だけど。どうして、そんなことを聞くの?」
琥珀丸は自分の体が震えていることを感じた。それは喜びからの震えだった。紅築は不審そうに琥珀丸を見つめていたが、琥珀丸はまったく気が付かなかった。あまりの興奮と期待に、腰が浮きあがった。声を上ずらせながら、琥珀丸は紅築に向かって身を乗り出して、その眼前に手をついた。
「だ、だったら、病気も治せるのか。」
「えっ。」
虚を突かれたような顔になった紅築に、琥珀丸は肯定の気配を感じとって、一気に間合いを詰めた。置かれた盃を膝で飛ばしたことも気に留めず、琥珀丸はその場に勢いよく指をついて頭を下げた。
いきなり畏まって平伏した琥珀丸に、紅築は身を引きながら目を白黒させた。
「もし、もし治せるのなら、頼む、その薬を分けてくれないか。」
「く、薬を?なぜ、」
「兄がいるんだ。生まれた時からの病で、もう長い事伏せってる。重い病なんだ。ずっと苦しんでいるんだ。それで、医法師に、もう治る見込みがないと言われた。このまま冬になれば、兄は死んでしまうかもしれない。」
白くなるほど強く押し付けられた指先に、大粒の涙があとからあとから落ちていく。言葉にした瞬間に瑠璃丸を失うことへの恐怖が噴出した琥珀丸は、初めて会う人間を目の前にしているにも拘らず、その胸中を包み隠さず打ち明けた。
「た、頼む。お願いだ。その薬を分けてくれ。俺は兄を失いたくない。兄が生きていなければ、俺も生きていけない。小さな頃からずっと俺を慈しんでくれた。一番愛しい人なんだ。助けたいんだ。傍にいてほしいんだ。生き永らえてほしいんだ。勝手なのは分かってる。でも、どうか、どうか…。」
なりふり構わず、涙に声を詰まらせながら懇願する少年の姿に、紅築の中の僅かな心がほんの少し傾いた。これまでずっと長い間、感情を押し殺してきた紅築だったが、琥珀丸の強烈な言葉に動かされるものがあったのだろう。しばらく迷うように視線を彷徨わせてから、意を決したような顔つきで琥珀丸を見つめた。
「これから私が言うことに従ってくれるなら、薬をあげる。いいね。」
「約束する。」
固くうなずいた琥珀丸の目をまっすぐに見つめ、しばしの沈黙を置いてから紅築は重々しく口を開いた。
「薬がどんなものか、この祠に誰がいたのか、すべて忘れる術をかけるけれど、それを拒まないこと。たとえその術が解けたとしても、決して薬の正体を誰にも明かさないこと。」
「分かった。」
真剣な面差しで頷いた琥珀丸の目に偽りがないことを見て取ると、紅築はすっと立ち上がり、青く光る泉のそばへと歩み寄った。重たげに落ちる袖を肩までまくり上げると、冷たい水の中に静かに腕を沈めていく。その横顔が青く照らされる様を、琥珀丸はじっと見つめた。まるで何かの儀式を見ているようで、琥珀丸の細い背中が自然と伸びた。
赤色の瞳が、泉の中の何かをとらえている。すっ、と波紋も立てずに引き上げたその手の中に、拳大の水晶が握られていた。紅築はそれを自身の腕に近づけると、躊躇せずに切り裂いた。そして、用は済んだとばかりに、持っていた水晶を泉の中へと落した。
突然の自傷行為を目の当たりにした琥珀丸は、目を見開きながら慌てて立ち上がって駆け寄った。
「な、何してるんだ!」
「これが『薬』。」
紅築は当然の事実を告げるように淡々と言い放った。思いもよらない言葉に、琥珀丸はぽかんと口を開いたまま立ち尽くす。何でもないことのように、紅築は滴り落ちる自分の血を眺めた。
「これを薄めて飲ませればどんな傷も、どんな病も治す薬になる。そのまま、口を開けていて。」
紅築は腕を掲げ、傷口を琥珀丸の口元へと近づけた。強く迫る血の匂いに、琥珀丸は目が眩むような心地がした。
「血を泉の水で薄めずに飲めば、どんなに死に近いものでも永らえることが出来る。――だから、このことを広く知られるわけにはいかないの。さあ、早くこの血を口に含んで、お兄さんのところに届けてあげなさい。」
紅築に言われるまま、琥珀丸は意を決して傷口に口を付けた。口内に流れ込んでくる血液に、束の間鉄の味が広がることを覚悟して目をぎゅっとつぶったものの、その味はほとんど水と変わらなかった。不思議そうに眼を開いた琥珀丸の様子を見て察したのか、紅築がほんのわずかに微笑んだ。
「驚いたのね。私はこの大池と繋がっているから、血だって赤いだけの水なの。」
口に血液を含んでいるために喋ることが出来ない琥珀丸は、こくこくと頷くことで返事をした。ほんのわずかに琥珀丸よりも目線が高い紅築は、その頭を優しくなでると、琥珀丸の口から腕を離した。そして、懐から髪紐を取り出して、琥珀丸の小指に結びつけ始めた。
それが呪いであることに気が付いた琥珀丸が疑わしげに見つめると、紅築は安心させるように琥珀丸の手の甲を二度、柔らかく叩いた。
「大丈夫。私の血のにおいを邪な者たちが狙わないよう、匂いを消すまじないをしただけだから。」
紅築の言葉に、琥珀丸は疑いの色を消して頷いた。それから、はっと何か気が付いた顔をすると、紅築の腕を持ち上げた。その行動に疑問を感じた紅築だったが、琥珀丸の脇に刺したままの短刀を見て、さっと顔色を変えた。もしかしたら、自分の腕を切り落として持ち帰る気なのではないかという考えが頭に浮かんだのだ。
しかし、琥珀丸は自らの短刀など触れもせず、紅築の血が流れたままの傷口に再び口を付けた。驚いて腕を振り払うこともしない紅築に気づくことなく、琥珀丸はその傷口を優しく舐めた。紅築の目が、さらに大きく見開かれる。この子供は、すでに兄のための薬を手に入れた後だというのに、ただの薬である自分までも気遣っているのだ。
裏の無い優しさに、紅築は信じられないものを見る心地で、傷を癒そうとする琥珀丸を見つめた。今まで誰からも役割としてしか自分のことを見てこられなかった紅築にとって、琥珀丸の行動はあまりにも衝撃的なものだった。
「―――大丈夫。私は、不死だから、こんな傷では死なないし、何も問題ない。」
我に返ると同時に、琥珀丸から腕を隠すように離すと、紅築は先ほどよりも温かみのある顔で微笑んだ。青く、冷たい光が満ちた祠の中で、紅築の微笑が琥珀丸の目に焼き付いた。
「気遣いは、うれしい。ありがとう、カラスの子。」
そして、すぐに笑顔を消すと、紅築は琥珀丸の手を取って祠の入口へと導いた。
「結界を少しだけ開くから、ここから飛んでお帰り。そのままの姿で、飛ぶことはできる?」
琥珀丸は頷くと、背中から大きな翼を出した。若く黒々とした艶やかな翼が、空気の感触を確かめるように数回羽ばたくのを、紅築は眩しそうな目で見つめた。
琥珀丸が何か言いたげに見つめているのに気が付かないふりをして、紅築はその背中に回って手を当てた。何やらぶつぶつと呟いたのち、ポン、と押すように背中を叩くと、琥珀丸は頭の中にもやがかかったような感覚に陥った。
「結界を抜けて、大池を越えれば、ここで見たことはすべて忘れる。そうすれば、何も厄介ごとは起らない。」
さあ、と押された手に従って、琥珀丸は力強く羽ばたいた。口に含んだ血のせいか、普段からは考え憑かないような力で、勢いよく空中に舞いあがる。強い風が巻き起こり、紅築の着物が旗のように靡いた。琥珀丸は自分の力に驚きながら、ふと見下ろした眼下に、寂しそうな眼の紅築が佇んでいることに気がついた。
こちらを見つめたまま動こうとしない琥珀丸を見て、紅築の胸の中に名残惜しいと思う気持ちが滲みだす。それを押し殺すと、紅築はたおやかに腕を振り、強い風を起こしてやった。すると、池の上を走る風に背中を押され、琥珀丸の体はあっという間に池のふちまで運ばれてしまった。すると、紅築に掛けられたまじないがかかり、琥珀丸の思い出からは紅築にまつわる一切のことが消えた。
白いもやに覆われた頭の中にただ一つ、山へ帰らなければという思いのみが残った。それに従うように、琥珀丸はさらに高く舞い上がると、一直線に山へと向かって飛んで行った。
周りの景色がかすむほどの速さで、琥珀丸の体が風を切って進んでいく。森も、川も、谷も、あっという間に遠くなり、気が付けば目の前には金赤朗が隆々とそびえたっていた。
ぐん、と一気にその梢まで垂直に飛翔すると、琥珀丸は勢いよく樹の中心に飛び込み、樹閣の門をくぐり抜けた。突然門が開いたことに、驚いて集まっていた先輩格の何人かが吹き飛ばされたのが目の端に映ったが、それに構わず瑠璃丸の部屋に向かって走り出した。
勢いよく瑠璃丸の部屋の襖を開け放つと、瑠璃丸は布団の上で起き上がっていた。外が騒がしいので、何事かと格子戸から様子を見ていたのだ。
弟の不在を聞かされていた瑠璃丸は、当の本人が尋常ならざる様子で自分の部屋に飛び込んできたことに仰天して目を見開いた。そんな兄の心中など知らない琥珀丸は、無言のままずんずんと傍に歩み寄った。
「琥珀、お前、今までどこに――。」
瑠璃丸の言葉をさえぎって、琥珀丸は兄の骨の浮いた両肩を力強く掴むと、口に含んでいた薬をそのまま口移しで与えた。訳が分からないままに弟から与えられた液体を、瑠璃丸は目を白黒させながらも飲み下した。
無味の液体が異様な冷たさを伴って喉元を過ぎていくのを感じて、瑠璃丸は筋の浮いた喉を軽くさすった。やがて落ち着きを取り戻してきた瑠璃丸は、軽く口元を拭うと、じっと自分の顔を見つめる弟を見た。
「行方知れずだって聞かされて、心配していたのに、突然現れて…。今飲ませてきたのは一体何なんだ?」
「…何だったかな。」
「え?」
一瞬、琥珀丸が恍けているのかと、訝しんでその顔を見つめたが、どうも本当に忘れてしまっているらしかった。琥珀丸は、今自分が兄に飲ませたものが何であったか、懸命に頭を捻ったが、まるでもやがかかったように、ここ数時間の記憶が全く思い出せなかった。
ただ、空を光のように飛んでいく間、ずっとこの薬を瑠璃丸に与えなければということだけが琥珀丸の体を急かしていた。その理由が何であったのか、琥珀丸にはもう何もわからなくなっていた。
突然、琥珀丸の目の前で瑠璃丸が前のめりに伏せた。驚いて顔を覗き込むと、瑠璃丸は顔を真っ赤にして、体を震わせながら寝巻の胸元を握りしめている。瑠璃丸は、弟が隣で狼狽えているのが分かっていたが、声をかけようにも、火のように熱い自らの体に耐えるのが精一杯で、心配する弟を気遣う余裕すらなかった。
とうとう意識を失った瑠璃丸を見て、琥珀丸は弾かれたように立ち上がると、ものすごい形相で部屋を飛び出し、医法師の元へと走った。やがて足音を響かせながら医法師の手を引いて戻ってくると、すぐさま兄を診せた。
医法師は慣れない全力疾走に肩で息をつきながらも、琥珀丸の圧に押されて手早く瑠璃丸の身体を診察した。布団をはぐって、瑠璃丸の身体の上に両手をかざし、その手から蜘蛛の糸のように細かい網状の光を出して、病魔の様子を眺めた。
ある程度そうして診ていく内、医法師は驚きに目を見張った。かざしていた手を下し、瑠璃丸の上に布団を被せ直す。それから、琥珀丸に向き直ると、一つ咳払いをしてから慎重に言葉を選んだ。
「琥珀丸、お前、瑠璃丸に何があった。」
「…持ってきた水を飲ませたら、突然苦しみだしたんだ。瑠璃の加減はどうなんだ。…悪いのか?」
「いや。」
医法師は軽くかぶりを振って、もう一度瑠璃丸の方をちらりと見た。
「病が全く見当たらないのだ。あれほど強く瑠璃丸に根付いていたというのに、綺麗さっぱりなくなっている。」
「病が消えたのか!?」
大きな声を出した琥珀丸に、医法師は耳がキンと痛むのを堪えながら頷いた。
「苦しみだしたというのは、その変化に身体がついて行かなかったせいだろう。おそらく一時的なものだ。今はもう眠っているようだし、しばらく休めば体も回復するはずだ。」
「じゃあ、瑠璃はもう、大丈夫なんだな。」
「ああ。」
琥珀丸の縋るような目に、医法師はしっかりとうなずいて見せた。琥珀丸は信じられないような心地で、眠っている兄の寝顔を見た。心なしか、以前よりも血色が良くなったように見える兄の肌にそっと触れると、その体温は驚くほど温かかった。いつもどこか具合を悪そうにしていた兄が初めて見せた安らかな寝顔に、琥珀丸の両目から涙が溢れた。
医法師が部屋を出ていった後も、琥珀丸はしばらくそうやって兄の頬を撫でていた。
瑠璃丸の容体が回復した日から幾日か経った頃、琥珀丸は奥の院に呼び出された。もちろん、無断で山の外に出たことへのお咎めを、主である金赤朗から受けるためである。
金赤朗は、普段の温厚な様子からは想像もつかぬ鬼の形相で、琥珀丸を叱りつけた。琥珀丸も、いけないことをしたという自覚はあったので、口答えせずに叱りを受けた。
ひとしきり叱った後、金赤朗は普段のような落ち着いた声で琥珀丸を諭した。
「わしは眠ってはおるが、随時若年寄たちから報告を受けているし、それを聞いている。」
「はい。」
「お前の兄を思って逸る気持ちも理解せぬではないが、此度は多くの者たちに心配をかけたことを、ゆめゆめ忘れるではないぞ。それが分かったなら、もう下がってよい。」
「はい。」
琥珀丸は深く頭を下げると、立ち上がって奥の院の扉を出ていった。金赤朗は、その後ろ姿から漂ってきた清浄な水の香りに、すっと目を細めた。それがはるか遠くの大池の主の血の匂いであると分かっていたが、金赤朗は何も言わずに再び目を閉じ、来るべき冬への準備を再開すべく眠りに落ちていった。
琥珀丸が部屋に戻ると、瑠璃丸が布団を敷いていた。長いこと叱りを受けていた琥珀丸は気が付いていなかったが、外はもうとっぷりと夜に暮れていた。数時間ぶりのげんなりとした弟の顔を見て、瑠璃丸は苦笑しながら「おかえり」と言った。
二日ほど前、瑠璃丸は長い眠りから覚めると、今までの体の痛みが嘘のように軽やかに動けるようになっていた。その回復ぶりには医法師や調薬師である浅葱も目を見張り、今までのことは夢だったのかと思ったほどだった。
今では日常的な動作を自分で出来るようになり、身の回りのことは琥珀丸が世話してやらなくてもよくなった。もう少ししたら近衛の仕事に戻る準備が始まるのだと、嬉しそうに話す瑠璃丸に、琥珀丸は涙が出そうなくらい嬉しくなった。
「主様にしっかり怒られてきた?」
「ああ。もうしばらくは奥の院に行きたくない。」
ため息をついた琥珀丸に、瑠璃丸は歯を見せて笑いながら、しょんぼりしている弟の頭を撫でた。琥珀丸は兄の撫でる手に頭を寄せたが、ふと、あることを思い出して顔をあげた。
「そういえば。」
「どうした?」
「俺、気が付かないうちにこんな色の髪紐を持っていたんだが、瑠璃がやったのか?」
そういうと、琥珀丸は懐から赤い髪紐を取り出して瑠璃丸の目の前に垂らした。瑠璃丸は、覚えのない色の髪紐に小さく首を傾ける。
「いや、俺も知らないな。」
「気が付いたら小指に結びつけてあったんだ。そんなことをするのは瑠璃くらいだと思ったんだが…。」
瑠璃丸はつい、と紐を指に絡めると、その匂いを嗅いだ。微かだが、呪術をかけたような跡がある。しかし、守りの術であったことと、悪いものではなさそうだったので、安堵して琥珀丸の手に戻した。
「変なものではなさそうだし、貰っておいたらいい。」
「…そうだな。」
得体のしれない髪紐であったにもかかわらず、不思議と捨てる気にはなれなかった琥珀丸は、兄の言葉に頷いた。その日から、髪を結う時は今までの琥珀色の髪紐ではなく、その赤色の髪紐を使うようになった。
紅築のことも、その血のことも、何一つ覚えていない琥珀丸が、無意識のうちにただ一つの思い出である髪紐を残したいと欲したのだが、当人は何もわかっていなかった。ただ、兄をすくった証のように、一人の少女に温かさをもたらした証のように、その赤色は琥珀丸の髪に結わえられていた。
鈴の音を聞いたか。それは死の音だ。清らかなる山に群がった穢れは、みな為す術なく消え失せる。この世において最後に知るのは、その鈴の音が美しいという、ただその事実のみ。
大平山に、一切の穢れを寄せ付けぬ近衛の兄弟。鈴鳴りの大太刀、鈴追いの太刀。瑠璃丸と琥珀丸の兄弟の、むかしむかしのお話。
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