終章
第25話
さくら町の桜は稀に見ない大風に吹かれて、一晩ですべて散ってしまった。
栞は桜が散って間もなく、息を引き取った。
静かな最期だった。
棺桶には、遺体が埋もれるほどの桜の花びらと、彼女が好んだ幾つもの本が入れられた。多くの人が若い彼女の死を嘆き悲しんだ。
葉桜は三日三晩、泣き続けた。
夜桜は懸命に葉桜を励ましたが、葉桜の涙は枯れることはなかった。四日目の朝に葉桜はやっと泣き止んだ。しかし、夜になればまた泣いた。
それを毎日繰り返して暦が五月に入った頃、桜の魔女は久々に家に帰ってきた。
日曜日の昼だった。魔女の家の呼び鈴がちりんと鳴った。
夜桜と、泣きはらした目の葉桜は、声を揃えて母親を出迎えた。
「母さん、お帰りなさい」
「ただいま帰りましたよ。まあ、酷いお顔だこと」
魔女はふふ、と笑い声を漏らしてから口元を抑えた。魔女は我が子の赤く腫れた瞼をそっと指で撫でた。
「春のお役目がやっとひと段落着きましたよ。まだ春の来ていない北の地がありますが、それは追々ね」
「母さん、お疲れさまね」
「ええ……ああそうだ、夜桜。お茶の用意をしてくれるかしら」
夜桜は頷いて後、数秒考えてから口を開く。
「紅茶はアッサムとアールグレイがあるよ。それとも日本茶にする?今朝、学校で習った和菓子を作ってみたの。ああ、でも、クッキーも作り置きがあったわ」
「あら、甲乙つけがたい。わたくしはアールグレイと和菓子にしようかしら」
夜桜は魔女の選んだ組み合わせに苦笑した。
「その組み合わせ、合うかなあ」
「ものは試しですよ」
「さすがは母さん、冒険家ね。お兄ちゃんはどうするの?」
「僕は日本茶で頼むよ」
魔女は思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「そうそう、珈琲の用意もよろしくね、夜桜」
夜桜は衝撃を受けたように目をぱちくりした。
葉桜もまた泣きはらした目を大きく見開いていた。
魔女は主に紅茶や日本茶を好むので、この家では滅多に珈琲の出番はないのだ。
「え、珈琲?それじゃあ、もしかして……」
夜桜が期待を込めた目で魔女を見つめると、魔女は桜色の唇の端をきゅっと上げた。
「この間、米国の桜を咲かせに行って、ついでにワシントンンの全米桜祭りを覗いたのですよ。そうしたら、ちょうどあの人を見かけてね。せっついたら、今日帰ってくると言っていましたよ。そろそろ着くころだと思うわ」
魔女の言葉に合わせたかのようにちりん、と呼び鈴が鳴った。
兄妹は同時に玄関へ視線をやった。魔女は満足そうに鼻を鳴らす。
「あら、お出ましのようね。夜桜、出迎えて差し上げて。それで、お茶の用意を手伝わせるといいわ。研究だの調査だのでたまにしか帰ってこないのだから、こき使っておやりなさいよ」
「母さんのお許しが出たから、そうさせてもらおうかしら」
夜桜は玄関へ駆けていく。
扉を開ける音と「お帰りなさい、父さん」という声が重なった。
夜桜に続いて玄関へ出迎えに行こうとした葉桜の腕を魔女が掴んで制した。
「お茶の用意は父さんと夜桜に任せて、私達は先に空中庭園で待っていましょう」
魔女は可愛らしく片目を瞑ってみせた。
「葉桜と話したいこともありますしね」
魔女と葉桜は二人だけで空中庭園へ上った。
空中庭園から、家の横に生えている桜を見下ろすことができる。
町一番の立派な桜は花が散って、その代わりに青々とした葉をつけている。木の下には大きな影が広がっていた。
空中庭園では小雪を枝全体に塗したような雪柳や、墨入れのような形をした菫、豊富な色合いが自慢で花弁の一部に斑点をちらした百合水仙など、春から夏にかけての花たちが花開いていた。
蜜に誘われた蝶と蜂は忙しそうに、花から花へと飛び移る。花の精たちはその様子を愉快そうに眺めては、踊っている。
「葉桜、栞さんのこと……とても辛かったわね」
空中庭園の中央で立ち止まった魔女は、振り返ると葉桜の頬を両手で包みこんだ。
葉桜は魔女より背が高いので、魔女は背伸びする格好になる。
我が子を慈しむ手は暖かく、葉桜の瞳からほろほろと涙が零れた。
「僕の涙腺は壊れてしまったかもしれない」
魔女は桜色の瞳から溢れる水分を細くしなやかな指で絡めとった。
「栞さんの葬儀に間に合わなくて、ごめんなさいね。私達にも知らせをくれていたのに」
「母さんも父さんも世界を飛び回っていたんだもの、仕方ないよ。母さんは手紙を、父さんは電話をくれたし」
「さっき、雪間の家に寄って手を合わせてきましたよ」
「……そう」
「葉桜と夜桜も、友人を亡くし、辛かったことでしょう。傍にいてあげられず、本当にごめんなさいね」
葉桜は「いいんだ」と目を伏せた。魔女は葉桜をしっかりと抱きしめた。
葉桜はまた泣いた。
一人分の足音がして、魔女は葉桜から少し離れた。葉桜はごしごしと服の袖で涙を拭った。
「お待たせしました、お二人さん」
夜桜がひょっこり空中庭園に顔を出す。その手には四人分の菓子と、三人分のカップが乗ったトレイを抱えていた。
「夜桜、父さんは?」
赤い目をした葉桜がきょろきょろと夜桜の背後を見やるが、探し人の姿はなかった。夜桜は面倒くさそうな顔をして、肩を竦めた。
「珈琲は自分で淹れるから先に行けって。珈琲には煩いからお任せしたわ」
「あの人らしいわね。醒めてしまう前に、先にお茶にしましょうか」
三人は空中庭園の真ん中、丸テーブルを囲んで座った。卓上には和洋折衷な菓子が並ぶ。夜桜の作った練り切りとクッキーである。魔女がカップに口をつけると、兄妹二人も同じようにカップに口をつけた。ティーカップは一揃えのものだが、中身はアッサム、アールグレイ、日本茶と三者三様だった。
「葉桜、夜桜、今回のお役目の件ですが」
魔女の言葉に二人は姿勢を正しくした。今回のお役目に負い目がある二人はひやひやした面持ちで次の言葉を待つ。
「二人ともよくお役目を果たしてくれましたね。無事、さくら町は春を迎え、そして、春を見送ることが出来ましたよ」
兄妹は緊張を解いたものの、視線を下げて言った。
「でも、私は開花を遅らせちゃったわ」
「僕も散花を遅らせて、桜の精たちを困らせてしまった」
魔女はふふふ、と笑って菓子をつまむ。美味しい、と一言、夜桜に感想を伝えて、またカップに口をつけた。
「確かに開花と散花は遅れてしまった。けれど、いいのですよ、また来年しっかりとお役目を果たせば。桜の精は我らが同胞。心の狭いことは言わないでいてくれます」
事実、魔女の言う通り、桜の精たちは怒ることはなかった。今は夏に向けて葉を茂らせることに忙しくしている。
魔女は満足げに目を閉じ、背もたれに体を預ける。
「母は嬉しく思いますよ、愛し子が立派に役目を果たしてくれて。夜桜は笑顔と友達を取り戻した。葉桜は愛と恋を知り、自分を好きになれた。どちらも素晴らしいことです」
二人の兄妹はぱっと互いに顔を見合わせ、互いに指さし、首を横に振る。
そして恐る恐る二人は魔女を見た。
「母さん、どうしてそれを知っているの」
「まるで僕らを間近で見ていたような口ぶりだ」
戦く子供たちに魔女は「あら」と小さく声をあげて、驚いたような素振りをした。
「だって、わたくしは桜の魔女ですもの。桜の精たちがみんな教えてくれましたよ」
そういうことか、と兄妹は納得して肩を落とした。
さくら町には町中に桜の木が生えている。桜の精たちはおしゃべりだ。つまり、町で起きたことを魔女が知らぬはずはない、ということなのだ。
この町で魔女に隠し事は出来ない。たとえ魔女の子どもであっても。
「二人ともめげずによく頑張りましたね」
母親に褒められて、二人は照れながらも誇らしげに胸を張った。
魔女はさて、と席を立つ。
「二人に見せたいものがあります」
魔女はゆったりした形のワンピースの袖に手を入れて、何かを探るように、がさごそと手を動かした。兄妹は不思議そうに、魔女の動きに目を見張っていた。
「あら、何処に行っちゃったのかしら?この辺りに入れたはずなのだけれど……あ、あったわ」
魔女は服の裾からえいや、と取り出した。出てきたのは鉢植えだった。
到底、服の裾に入り切るような大きさの代物ではないが、兄妹は別段驚かなかった。
魔女が不思議なことをするのは当たり前なので、驚く必要はないからだ。
二人は立ち上がって、なんだなんだと鉢植えを覗き込んだ。
「これは、木の苗……?」
夜桜は首を傾げている。鉢植えには一本の苗木が植えられていた。
「母さん、これ、もしかして」
葉桜は口をぱくぱくさせて鉢植えと魔女に視線を行ったり来たりした。
「桜の苗木ですよ。栞さんが生前育てていたものです」
魔女の答えに、葉桜はやっぱり、と思った。
「え、そうなの?そう言えば、病室に置いてあったかも……」
夜桜は苗木から目を離さずに言った。
「先ほど、雪間のお家で栞さんのご両親から頂いて来たの。葉桜に下さるそうですよ」
「僕に……?僕がもらっても、いいのでしょうか」
戸惑いながら、葉桜は視線を右往左往させる。
「栞さんの遺言だそうですから。全てをもらって差し上げなさいと前に言ったはずですよ」
「そう、そうだったね……」
「それにほおら、この苗木をよくご覧なさいよ」
魔女はわくわくした様子で口角を上げた。
黙って苗木を見つめていた夜桜が「お兄ちゃん」とひと際大きな声を出した。葉桜が夜桜を振り返ると、夜桜は目にいっぱいの涙を貯めて、苗木と土の間を凝視していた。
「お兄ちゃん、ここに……木の根元に、生まれたての小さな精が眠っているわ」
夜桜が困惑しながら指さした先には、桜の精がいた。
それは、人と花が入り混じった形をしていた。
親指程の小さな精が木の根を枕に寝息を立てている。桜の精はまだ幼く、生まれたばかりのようだった。
葉桜の頬を、音もなく一筋の滴が流れる。
ゆっくりと手を伸ばして、震える指先で、眠る桜の精の額に触れた。赤子のように柔らかく、そして暖かかった。
その温もりがどうしようもなく愛おしくて、葉桜の目から涙はどっと溢れ出た。雨のように、ぽたり、ぽたりと落ちて鉢の土を濡らす。
眠るその横顔には面影があった。大切な人の、面影があった。
「君は……そっか、叶ったんだね」
泣きながら、葉桜は苗の植わった鉢をその腕に抱いた。
苗木に精が宿ることは珍しい。成長するまで待てないとでも言わんばかりの早さでこの苗に精は宿ったのだ。
きっと、この苗木は立派な大木になることだろうと、願いにも似た予感があった。
葉桜は徐に目を閉じた。瞳を覆っていた水の膜が、瞼に押し出されて、目じりからぼろぼろと零れる。
暗くなった視界、瞼の裏には、桜の木になりたいと願ったただ一人の顔が浮かんでいた。
葉桜は生まれたばかりの桜の精に暖かな視線を向けた。
心の中は愛しさでいっぱいだった。
彼は静かに誓った。
……いつか君が、大きく育ち、枝を長く伸ばしたなら。
夏には葉を茂らせ、冬には蕾をつけたなら。
僕の妹が笑う時、君はその蕾を大きく開いて満開の花を咲かせるのだろう。
そうしたら、僕は。
「僕は、きっと毎年、君を想って泣くよ」
葉桜はそっと歌うように、小さな桜の精に囁きかけた。
――――桜の散る頃、君のために僕は泣こう。
今年も、さくら町から春は過ぎ去った。
また来年、魔女の子どもたちが笑って泣くのを、さくら町の桜は待っている。
【完】
桜の魔女の子 犀川みい @66mii
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