第24話

 大学の授業を終え、研究室で少し作業をした後、葉桜は自宅へ花を取りに行った。朝のうちに花は決めておいたので、迷うことはなかった。

 一輪の花を手に、他には何も持たず、葉桜は病院へ向かった。

 川沿いの道を歩くと、桜の精たちの声がわんわん響いて頭が痛くなる。それでも道を変えることはしなかった。

 自分の行いの報いだ、しっかりと受け取らねばならない。葉桜は耳を塞ぐことなく、いつも川沿いの道を歩いてきた。

 桜の精たちは葉桜を責めない。ただ、苦しい、辛い、と嘆く声をあげるだけだった。その声に耳を傾けながら、葉桜は病室へと足を急いだ。

 夕日は沈みかかって、空の色は紫と青が混ざっていた。もうすぐ夜が来ようとしている。気の早い一番星はすでに輝いていた。

 病室の前でいつものようにノックをして、中へ入る。

 栞は病室のカーテンを開け放して、外の景色を眺めていた。病室は電灯の代わりに窓から差し込む夕陽で照らされていた。窓は珍しく閉じたままだった。

 葉桜が入室した時、ちょうど、窓の外で夕陽が沈んでいくところだった。窓を覆う桜の枝先の、僅かばかり隙間から夕陽が差し込んでいた。

 二人の影が病室の中でうっすらと、長く伸びる。そのうち日は完全に沈み、壁は闇と同化した。病室は天井から床まで闇色を帯び、窓から入る夜の薄ら明かりが二人の輪郭を縁取る。

「あんまり綺麗で、魅入っちゃったね」

 暗くなった病室で、栞が葉桜のほうを振り向いた。

 彼女から伸びた点滴や機械に繋がった管が、シーツを擦る。その音がやけに耳に障った。

「ごめんね、今日は遅くなっちゃった」

 葉桜は言いながら、緊張した面持ちで一輪の青い花を栞に差し出した。

 すっと伸びた細い茎の先端に薄青色の小花が群れをなすように連なって花をつけている。

 決して豪奢な見目ではなく、どちらかと言えば地味で観賞用には不向きな花だった。けれど、栞は宝物のようにその花を受け取った。

「嬉しい、今日は勿忘草なのね」

「うん、花言葉は真実の愛、それと……私を忘れないで」

「変なの、それって私がはっちゃんに言うべき言葉じゃない」

「違うよ、僕の言葉だよ」

 栞ちゃんに忘れないで欲しいんだ、と葉桜は呟いた。

 照れくさそうに頬を指で掻いて葉桜は椅子に腰かける。栞は手の中の忘れ草を見つめながら、ふっと笑い声ともため息とも言えない吐息を漏らした。

「答えはいらないって言ったのに」

「これが、答えになるのか、自分でも分かっていないんだ」

 葉桜は、栞をまっすぐに見つめた。

「僕にとって、栞ちゃんは大切な人だ」

 葉桜の耳はじわりと赤らんでいく。

「愛情と友情が混じりに混ざって、うまく言葉にできない。この感情に名前を付けることはできなかったけれど、きっと恋に一番近くて、愛にも一番近い気持ちなのだと思う」

 葉桜は桜色の瞳を細め、目じりに小皺を作った。

「栞ちゃんのことが、僕は好きだよ。大好きだよ」

 栞は目をうるませて、堪えるように頷く。

 唇を震わせながら、うまく話すことができずにいた。

 時間をかけて栞はやっと言葉を口にした。

「うん、嬉しい」

 ぽたり、と目じりから水滴が落ちる。

 勿忘草の花弁を撫でるように滑って、水滴は消える。

 葉桜は黙って、その水源に指を伸ばし、残りの水滴を拭いとってやった。

 目が合って、二人はどちらともなく笑った。二人の微かな笑い声が、静かな病室に溶けていく。

 きい、と桜の枝が窓を引っ掻く音がした。栞は窓の外を振り返る。満開の桜が風に吹かれ、僅かに揺れている。

「散らないね、桜」

 栞は満開の花をぼうっと眺めている。

 散らないよ、散らなくていいんだ。

 栞が散らない桜のことを話すたびに、葉桜はそう言い続けてきた。しかし、今日は何も言うことが出来なかった。

「いつもならとっくに散っている頃なのにね。みんな驚いているよ、はっちゃん」

「いいじゃないかな……少しくらい長く咲いたって」

 葉桜は笑ったつもりでいたが、その笑顔はあまりに不格好だった。

 栞は桜を見つめたまま、葉桜に尋ねる。

「……私のため?」

「違う」

 葉桜は即答した。

 心の中だけで、僕の為だ、と独白した。

「はっちゃん、もういいよ、十分だよ」

 栞の言葉の続きが分かって、葉桜は「嫌だ」と小さな声で反抗する。

 それでもなお、栞は言った。凛として、澄み切った声だった。

「もう、泣いていいんだよ」

 葉桜は喉にぐっと込み上げてくる熱い塊のようなものを必死に押し込んだ。喉がひくひくと痙攣する。そして、もう一度「嫌だ」と繰り返す。

「いやだ、なんでそんなこと言うの」

「桜が可哀想、苦しそうだもの。桜は散るからこそ、美しいのに」

 栞は窓に手を伸ばして、硝子に触れた。

 窓の外に咲く桜の花と栞の手が重なる。月の明かりで透き通る白い手の甲。桜よりも儚く見えて、今にも散ってしまいそうなくらい、その手は痩せ細っていた。

「散らない桜があったって、いいじゃないか」

 栞は笑っているのか、泣いているのか、肩が小さく揺れていた。

「そんなの、桜じゃないよ。人が死ぬように、桜も散らないといけない。はっちゃん、お願いがあるの」

「聞きたくないよ」

 葉桜の言葉は栞の語尾に被さっていた。

 葉桜は耳を傾けようとしないが、それに構わず栞は話を続けた。

「ねえ、聞いてよ、お願い。私にあなたの涙をちょうだい。私のために泣いて。そうしたら私のために泣いてくれる人がいたって天国で自慢できるでしょう。だから泣いてよ。私のために泣いてよ」

「天国とか、そんなことを言うのはやめてよ……僕はもう泣き虫はやめるんだ、やめるって決めたんだよ!だから泣かない!」

 葉桜は思わず声を荒げた。

 栞は相変わらず葉桜に背を向けたままだった。

「泣き虫をやめるの?どうして?」

「どうしてって……大人は泣いちゃいけない、泣き虫のままでいちゃいけないでしょう?僕は変わらなきゃ。僕が泣き虫のままだと、栞ちゃん、心配するでしょう?」

「はっちゃんは泣き虫のままでいいの」

 葉桜は顔に水でもかけられたような表情をして、栞の小さく痩せた背中を凝視した。

「大人だって泣いていいんだよ。はっちゃんが泣くと私はそりゃあ心配するけどね、でもはっちゃんの泣き虫は良い泣き虫だって私は知っているもの。だから大丈夫なの」

「い、良い泣き虫って何さ。泣き虫に良いも悪いも、そんなの、無いよ」

 唖然としていた葉桜はたどたどしく言葉を紡いだ。

「あるよ、あるんだよ。なあんだ、分かってないの、はっちゃん。あなたはとっても良い泣き虫なんだよ」

 葉桜は栞の言葉に反論するのをやめた。栞が言葉を発する度、少しずつ呼吸が乱れていく。苦しそうに上下する小さな背中から目を離したいのに、葉桜は目を離せずにいた。

「だって、はっちゃん、哀しい時も嬉しい時も泣くでしょう?」

「そりゃあ泣くよ、僕は泣き虫だもの」

 葉桜は何を当たり前のことをきくのだ、と言わんばかりの顔だった。

「やっぱり分かってないんだから」

 栞は呆れたような声で笑うと、窓硝子に触れて冷えてしまった手を引っ込めた。

「はっちゃんは私が死んだら泣いてくれるでしょう?」

 葉桜は答えなかった。栞はやはり構わずに続けた。

「もしも私が死なずに済んでも泣いてくれるでしょう?」

「泣くよ、そんなの泣くに決まっている……結局、僕は泣くんだ」

「そう言うことだよ。はっちゃんはいつでも私の為に泣いてくれるでしょう?それがどんなにすごいことか、どんなに優しいことか、はっちゃんだけが分かっていなかったみたいだね」

「じゃあ、僕は……僕って、泣き虫で良かったの?」

「そうだよ、はっちゃんは泣き虫のままでいいんだよ」

 葉桜は目から鱗が落ちるような思いだった。

 葉桜は泣き虫な自分は大嫌いだった。すぐに泣いてしまう、弱い自分が大嫌いだった。魔女である母親が笑顔ではなく涙の魔法をあえて自分に授けた。それは暗に泣き虫を治せと言っているのだと頭の隅で思っていた。

 けれど、違ったのかもしれない、と葉桜は拳を握りしめる。

「だって、泣き虫じゃないはっちゃんははっちゃんじゃないもの。私は泣き虫のはっちゃんが好きなんだから。みんなもきっとそう」

「僕はいま……生まれて初めて、泣き虫の自分を好きになれそうだよ」

 葉桜はくしゃり、と自分の前髪を握り、掻き上げた。

「遅いなあ、私は二十年以上前から好きだよ」

 栞が恥ずかしがりもせずに言うので、葉桜のほうが照れた。

「ねえ、泣いてよ、はっちゃん」

 栞の声は穏やかだった。

 葉桜は顔を微かに曇らせ、小さな背中に向けて淡々と言葉を吐く。

「僕が泣いたら、桜は散ってしまうんだよ。桜が散ったら君は死んでしまうのでしょう。なんでそんな酷いことを言うの」

「桜が散らなくたって私は死ぬよ。遅かれ早かれ死ぬの」

 栞は人さし指を立て、窓の外、春の夜空を差した。

 空にはいつの間にか、月が出ていた。

 丸く、ふっくらとしたまん丸の黄色。月は闇の中で薄っすらと白い光を帯びていた。

 栞は満月をなぞるようにゆっくりと指を動かした。

「どうせ死ぬのなら、夜空の月さえも覆うほどの桜吹雪を見て死にたい。水面が桜で埋まった美しい川を見て死にたい。あなたが桜を散らせる姿を見て死にたいの」

 栞は秘めていた願いを羅列する。

「ねえ、お願いだよ、はっちゃん」

「ひどいよ、そんなこと言わないで。そんな言い方しないで……狡いよ」

 栞はやっと葉桜を振り返った。

 月の白い明かりを背に受けて、栞は葉桜に顔を向ける。

 頬は濡れていたが、口元には無垢な笑みを浮かべていた。

「一生のお願いだよ、桜を散らせて」

 栞の涙に濡れた笑顔を前に、どうして抗えるだろう。葉桜は悔しそうに唇を噛みしめる。ぷっつりと、糸が途切れる音が頭の中で鳴り響く。

「君はなんてずるいの、そんなことを言われたら……僕は」

 葉桜は怒鳴るように、叫ぶように、嘆くように、吐き出すように、喉を震わせる。そして、掠れた声を絞り出した。

「僕は、泣いてしまう」

 言葉と同時に桜色の瞳から涙は零れ落ちた。

 葉桜は両手で、泣き顔を覆い隠した。それでも指の間から、ぽろぽろと滴が逃げるように溢れ出た。

「なんでそんなこと言うの……僕はずっと我慢していたのに。だめ、溢れないで、嫌だよ……泣きたくない、泣きたくないんだ、散らせたくないのに」

 葉桜は勝手に込み上げては落ちていく己の涙に必死に願った。溢れないで、と何度も願う。しかし、涙は決してその願いを聞き届けなかった。

 栞はふらつきながら、立ち上がると、か細い腕で病室の窓を開け放した。

 風が吹いていた。

 夜風は病室に吹き込み、栞の髪を梳いた。風は次第に強く、速くなっていく。

 夜空に突風がびゅうびゅうと音を立て、木々の間を縫っていく。木々は大きく左右に揺れて、風で花びらが浚われていく。

 桜の花が群れをなして、一斉に枝から飛び立つ。

 花びらは宙を泳いだ。

 桜吹雪が夜空を覆い尽くしていく。川の水面にはひらひらと舞い落ちた花弁が敷き詰められ、桜一色に染まった。花弁の幕は水面に映していた月さえも隠してしまう。

 大風は止むことを知らぬように、町中に吹き続ける。

 空も、地も、桜の花弁が降り注ぎ、夜の暗い町は桜色に一変した。

「わあ……綺麗だね」

 窓を開け放した病室には風と共にたくさんの花弁が迷い込んだ。白い部屋に桜色の斑点を作って降り積もっていく。

 栞は両手で掬い上げるように、宙に舞い踊る桜の花弁をその手に掴まえる。幼い少女のように、くすぐったそうな笑い声を零した。

「本当に綺麗。ありがとう、はっちゃん。私、すごく嬉しいよ」

 涙の止まらない葉桜は、何も答えることが出来ない。

「いいなあ、素敵だなあ、夢みたいだね」

 喜びに溢れている彼女の青白い顔色を見ると、ますます涙が溢れて、葉桜は何も言えなくなってしまう。

 涙でぬれた葉桜の頬に、一片の花弁が張り付いた。

 栞はくすり、と笑みを漏らして、それをつまむように取り上げた。彼女は静かに、その花弁に口づけて空に逃がしてやる。

「私ね、死んで生まれ変われるなら、さくら町の桜の木になりたい」

「……どうして?」

 葉桜は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「そうしたらはっちゃんは、私のために毎年泣いてくれるでしょう」

 栞は葉桜の手をそっと握った。

 その手はひんやりと冷たくて、葉桜は瞬いた瞳から、手の甲に涙を落とした。

 諦め、そして、悟り。

 葉桜はこの時になってやっと受け入れることができた。目の前にいる、大切な人がもう死んでしまうのだということを。

 葉桜は大きく首を縦に振った。反動で、ぽろぽろと桜色の瞳から大粒の涙がいくつも零れては、落ちる。

「泣くよ、君が見てくれているなら」

 栞は泣きじゃくる葉桜の頭をそっと抱きかかえた。窓から舞い込む桜の花弁が二人の頭上に深々と降り積もっていく。同じだけ、葉桜の涙も降り積もった。

 これからも泣くのだろう。泣き続けるのだろう。

 泣き虫のままでいいなら、泣き虫のままでいるのだろう。

「僕は何度だって泣くよ……泣き虫だもの」

 葉桜は、結局何も変われなかった。

 そんな自分自身を、嗤って、愛して、泣くのだった。

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