第23話

 七、


 さくら町の桜が満開してから、もう十日余りが過ぎていた。

 先月は「桜咲かぬさくら町」という文字が躍った新聞が今月は「桜散らぬさくら町」と見出しをつけて異常気象を伝えている。桜の魔女はご乱心か、と記事は書き綴っている。

 文屋というのは勝手なものだと葉桜は朝刊を畳んで、積みあがった古新聞の上に投げ捨てた。

 時計の針は朝七時を指していた。

 葉桜はフライパンを火にかけて、油を注ぐ。

 昨日、遅くまでお菓子を作っていたらしい妹が、眠気眼で台所へ入ってきた。

「おはよう、よっちゃん。朝ご飯、食べるかい?」

 妹が頷いたので、葉桜は卵を二つ、フライパンの上に割り入れた。

「昨日は何を作っていたの?」

「ロールケーキ。授業で、私だけうまく巻けなくて。悔しかったから。真冬くんに写真を送ったら笑われた」

 夜桜はむすっとした顔で机につっぷした。

「真冬くんに写真を送ったの?失敗したケーキの?どうせなら、成功したケーキの写真を送ればよかったのに」

「真冬くんは容赦なく酷評してくれるから、失敗した写真を送ったほうがいいの」

「よっちゃんって本当に強いなあ」

 そうかな、と夜桜は欠伸をして背筋を伸ばす。

 思い出したように夜桜は冷蔵庫を指さした。

「昨日作ったまあまあの出来のロールケーキが冷蔵庫にあるの、朝ご飯のデザートにどうぞ」

「それじゃあ、遠慮なく」

 パンが焼けるを待っている間に、ロールケーキを取り出して、二人分を切り分け、皿に盛る。室内に生い茂る植物の中で、小ぶりなハーブを選んで何枚か葉をもらい、ロールケーキの上に飾った。

 焼きあがったトーストと、フルーツジュース、自家製のジャム、それと目玉焼き。デザートのロールケーキが食卓に並ぶ。

 二人で向かい合って、手を合わせた。二人の親は今日も家を空けていた。

「おにいちゃん、今日も栞ちゃんのところへ?」

 そう言ってから、夜桜はトーストを頬張った。

「うん、大学の後にね」

 葉桜も同じようにトーストを頬張る。

 目玉焼きは半熟が好みだが、今日はぼんやりしていて焼き過ぎてしまったと、葉桜は密かに反省する。

「今日は授業が夕方まであるから、栞ちゃんのところへ行くのは遅くなりそうだよ」

「そう、院生も大変ね。今日は何のお花にするの?」

「まだ決めてないよ。何が良いと思う?」

 夜桜は口にくわえていたトーストを離して、苦い物でも食べたような顔をした。

「やめて、私には責任が重大過ぎて選べないよ」

「ええ、何でさ」

「だって、栞ちゃん、お兄ちゃんが選んだ花をいつも嬉しそうに見るんだもの。私が選んだんじゃ、きっと意味ないわ」

「そうかな」

「そうだよ」

 夜桜がそう言うのなら、そうなのだろうと葉桜はひとり納得した。

 焼き過ぎた目玉焼きを食べて、トーストの最後の一口を口の中に放り込む。残すは妹お手製のデザートだ。

 そこで、デザート用のフォークを出し忘れたことに気が付いて、葉桜は席を立つ。

 察したキッチン付近に茂っている日日草の蔓が、キッチンの食器棚に蔓を伸ばして、夜桜の分と合わせて二本のフォークを取ってくれた。

 葉桜はありがとう、と礼を言ってそれを受け取る。

 蔓は「いえいえ」と言うようなそぶりで蔓の先端を左右にふり、また壁際へと戻った。部屋に蔓延る植物はこうして二人をいつも助けてくれるのだった。

「はい、夜桜。日日草が取ってくれたよ」

 葉桜は夜桜にフォークを手渡した。

 夜桜は壁に戻った日日草にありがとう、と声をかけると日日草は先端の葉を一振りして応えた。

「美味しいよ、このケーキ」

 葉桜はケーキを一口食べた。夜桜は少し照れくさそうにする。

「良かった……そう言えば、真冬くんに桜の写真を送ったの」

 夜桜は自分のケーキにフォークを入れて、一口分を掬い取る。

「真冬くんが満開の桜を見たいって言っていたから。でも、私は写真を撮るのは下手みたい」

「そうなの?」

「真冬くんに何故このアングルで撮ろうと思ったの、って感想を頂いたくらいには」

「それはちょっと……あれだね」

「あれだよね」

 夜桜はケーキを口に入れて「ちょっと甘すぎたかな」とぶつぶつ独り言を言う。

「真冬くんは元気にしているの?」

「うん、大学は楽しいって。でも寒いところだから、桜はまだ咲いていないんだって」

「へえ、そんなに寒いところなのか」

「葉桜さんは泣かずに頑張っているんだねって。さくら町の桜が散らないって、真冬くんもニュースで見たみたい」

「そっか」

 夜桜は、葉桜をちら、と見た。

 葉桜はケーキに視線を落したままで、葉桜のつむじしか夜桜には見えなかった。

「……ねえ、このまま泣かないつもり?」

「さあ、どうかな」

 葉桜はとぼけた。下手くそなとぼけ方に、夜桜は表情を硬くする。

「桜たちはもう限界だよ。お兄ちゃんにも聞こえているでしょう。みんなには聞こえていなくても、私達には聞こえている」

 夜桜はテーブルに拳を打ち付けた。語気は徐々に荒くなった。

「町に木霊す、桜の精たちの悲鳴が!泣き声が!苦しむ声が!ねえ、お願いだよ、お兄ちゃん!もう花を散らせて!桜たちがこのままでは弱ってしまう!」

「いやだ。絶対に、いやだ」

 葉桜の頑な答えに、夜桜は苛立ち、立ち上がって怒鳴る。

「どうしてよ!」

「だって花が散ったら、栞ちゃんは死んじゃう、だから、嫌だ……嫌なんだよ!」

 気持ちに火が付いた葉桜も立ち上がって言い返した。

 すると、夜桜は一瞬時が止まったように固まって、目を丸くした。

「そんなこと、そんなことを本気でまだ言っているの?」

「本気だよ」

 葉桜は苦虫を噛み潰したような表情で、胸元のシャツを握りしめた。

「本気だ、だって、だって、もう他に縋れるものがないんだ……見ただろう、日に日に小さくなる栞ちゃんの姿を。肩なんて薄くて、小突いたら折れそうだ、もう栞ちゃんは……だから」

 声がしぼんで途切れていく。葉桜は勢いを欠いて、そのまま倒れるように椅子に座った。そして、項垂れ、黒髪は力なく真下に流れる。

「馬鹿だよ、お兄ちゃん……なんて馬鹿なの」

 頭上から降ってくる夜桜の声は震えていた。

「馬鹿だって、そんなの自分が一番に分かっているよ」

 葉桜の頭の上にそっと、夜桜の手が被さる。その手が暖かくて、葉桜は緩みそうになる涙腺に必死で喝を入れた。

「ねえ、今日は何の花を持っていくの?」

 夜桜は優しい口調に戻っていた。

「今日は……そうだな、青い花にしようかな」

「そう、いいかもね」

 夜桜は、お兄ちゃん、と声を震わせて、一言だけ付け足した。

「あまり、桜の精たちを苦しめないでね」

 葉桜が小さく頷くと、夜桜は手を除けた。

 それきり二人の会話は途絶えて、静かな朝は過ぎていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る