涅槃



 柔らかいものが、俺の口を覆っている。


 うっすらと目を開くと、俺に覆いかぶさって目を閉じている娘の顔が見えた。

 娘は俺の頭を膝に乗せ、両手で抱きかかえて己の唇を俺の口に押し付けていた。


 辺りは暗く、しんと静まり返っている。

 他に人の気配は感じられねえ。

 ここは何処だ。村じゃねえのか……。

 俺は何が起きているのか判らず、娘の顔をじっと見つめた。


 娘は俺の意識が戻ったのに気付くと、唇を離し、ホウと息を吐いた。

 撫子……。じゃねえ。


「お前、何してんだ」

「漸く目覚めたか。やれやれじゃ」


 蓬子はそう言って、ニッコリと笑った。


「やれやれじゃねえよ。餓鬼が何してんだって聞いてんだ」


 まだ頭がはっきりしねえ。

 一体何がどうなって、こんなことになってるんだ。


「餓鬼とは何じゃ、しゃんと名で呼ばぬか。

 まったく、無礼な奴め。命の恩人に向かって、なんという口のきき様じゃ」

「恩人だと?」

「そうじゃ。ぬしはあの山津波に呑まれ、死んでしまいよったのじゃぞ。

 死にかけなどではない、心の臓まできっちり止まっておった。それを我が泥水の中から救い出し、こうして命を吹き込んで黄泉の国から連れ戻してやったのじゃ」


 俺は、あの時の事を思い返した。

 そうだ……。山津波が怒涛となって襲いかかってくる直前、俺はあの大猿の首をぶった斬った。

 あいつ額に光剣を突き立て、その首がボロ屑のように崩れていくのを確かにこの目で見、その直後、俺は土砂に呑まれて……。


「あの野郎は、本当に死んだのか……」

「あの化け物か? うむ、ぬしがあの者に止めを刺したところを、我と撫子姉さまも見ておった」


 二人で見ていただと? あの修羅場で、一体どこから。


「その後、ぬしが土砂に飲まれるところもな。それで姉さまがぬしを助けよと我にお命じになられたという訳じゃ。

 どうじゃ、礼を言うなら遠慮はいらぬぞ」


 何を言ってやがる、こうなったのも全部お前の……。

 いや、でもまあ。あの時こいつがああしていなかったら、今頃はどんな事になっていたか。

 そうか、また生き延びちまったのか。

 あーあ……。


「余計なことをしやがって」


 ボソリと呟いた途端、蓬子が鼻面を思いっきり殴り付けてきた。


「ぶあっ!」


 いくら俺でも、無防備なところをやられては堪らねえ。目の前に星が飛んだ。


「て、てめえ何しやがる」


 だが蓬子は、冷ややかな目で俺を見下ろす。


「余計なことじゃ? なれば今一度殺してくれようか」

「てめっ」

「どうじゃ、殴られれば痛かろうが。非力な我とて、急所を突けばぬし一人くらい殺すは容易いぞ」

「誰が非力だ。熊並みの馬鹿力のくせしやがって」

「乙女に向かって熊並みとは、どうやら本気で死にたいらしいの」


 そう言いながら、蓬子は俺の股間に手を伸ばすと、金玉をギュッと握り締めた。


「ギャアーッ!」


 頭の中が真っ白になるほどの激痛に、俺は恥も外聞もなく喚きちらした。


「やめろ! やめてくれ!」


 意識が戻ったとはいうものの、まだ体の方は指一本動かす力もねえ。これじゃあ嬲り殺しだ。


「なんじゃその口のきき様は。己の立場がまだ分かっとらんらしいのう」


 蓬子が玉を握る手に更に力を込める。

 こればっかりは男にしか知れぬ痛み。知らぬ女子には手加減もねえ。


「ぎゃあああっ! わ、わかった! 俺が悪かった! 謝る! 感謝してる! お前は命の恩人だ!」


 すると蓬子はあっさり手を離し、再びニコリと笑った。

 この鬼め!


「漸く判ってくれたか。

 よいか、痛みとは生きたいという証なのじゃぞ。ぬしがいくら口先で死にたいなどとぬかしても、痛みを感じるうちは体が生きることを欲しておるということじゃ。

 安心せい、ぬしが動けるようになるまで我が命を注いでやる。夜明けまではまだ暫く、時間はたっぷりある」


 この、餓鬼とは思えぬ理屈っぽさと、男を男と思わぬふてぶてしさ。まるっきり撫子と同じじゃねえか。

 俺はその誇らしげな顔を、まじまじと見つめた。

 どうやら、あのおかしな状態からは完全に戻っているようだな。

 あの光の壁、そして巨人……。とてもこの目の前にいる小さな娘がやった事とは信じられねえ。

 だが……。


「お前、身体の方は何ともねえのか?」

「我か? うむ、何ともないぞ。我はあの寺に一人残され、ずっと撫子姉さまの御無事を祈り続けていただけじゃからの。

 全て姉さまが始末を付けて下さった。ほんに素晴らしきお方じゃ」


 何だと?

 あれがこいつの仕業じゃねえ……。いや、そんなはずはねえ。

 きっと撫子の奴が封印を施して、全てを忘れさせたんだろう。こいつの魂を守る為に。


 待てよ、そういう俺の方こそ……。

 俺は自分の状態を確かめてみた。

 体はまるで動かねえが、なんとなく感じで判る。間違いねえ、獣じゃなく元の人間の体に戻っている。

 それにもう一人の俺も……。

 また俺と離れたのか。しかも子犬みてえに小っちゃくなっちまって、隅っこの方で丸くなって寝てやがる。なんとも幸せそうな顔で。

 それに、あれ? なんだっけ? 何か大事なことを思い出したはずなんだけど……。

 なんだよこれ、何もかも元通りじゃねえか。


「はーあ」

「何を溜息なんぞ吐いておる」

「別に、何でもねえよ。

 ところで、ここは一体どこなんだ? それに撫子や村の連中はどうした、お前一人だけなのか?」

「そうじゃ。撫子姉さまは、もう行ってしまわれた」

「行った? お前一人を残してか?」

「うむ、ぬしのことは我に任すとの仰せじゃ。ここは、村から二里ほど下った辺りの川原じゃ。村の者達も皆無事じゃぞ」

「そうか……」


 二里……、そんなに流されたのか。

 それにしても撫子の奴め、こんな餓鬼一人に……。


「そういやお前、歳は幾つだ」

「とおじゃが、それがどうかしたか?」


 十だと?


「あいつ、そんな餓鬼を一人残して行っちまったのか。なんて無責任な奴だ」

「愚か者が、歳など関係あるか。現に我一人で泥に埋もれたぬしを見つけ出して、こうして助けておるではないか。

 無責任などではない、撫子姉さまは出来ぬことは言わぬのじゃ。

 姉さまがやれと言われたからには、我には出来るということじゃ」


 くそ、言い返せねえ。


「それでお前、俺を助けた後はどうするんだ。撫子の後を追うのか?」

「暫くは、ぬしに付いてやれとの仰せじゃ」

「へっ、そりゃ世話になるな」

「うむ。ヘタレで間抜けで意気地なしの野良犬小僧がまた勝手に死に急いだりせぬよう、近くで見張っておれということじゃ。

 いずれまた相見える日まで、ぬしと共に過ごせとな」

「そりゃ大きなお世話だな! んで? いずれっていつだよ」

「さあ? 三日後か十年後か」

「なにい?!」


 何考えてんだ、あいつ。いや、こいつもだ!


「さてと、おしゃべりはこれくらいにして続きじゃ」


 ちょっと待て、と口に出す間も与えず、蓬子はまた俺に唇を押し付けてきた。


「む……」


 その柔らかな心地よい感触に思わず目を閉じてしまいそうになったその時、蓬子が俺の股ぐらを掴んだ。

 しかも今度は玉じゃなく、竿の方だ!

 俺は強引に口を離して叫んだ。


「ぶはっ! お、お前なにしてんだ!」

「何をそんなに慌てておる。心配せずとも、もう握り潰したりはせぬぞ」

「そんなこと言ってんじゃねえ! どこ触ってんだこのやろう!」

「撫子姉さまが言われたのじゃ、男の元気はまず一物からじゃとな。じゃから体の具合を確かめるにはこれが一番なのじゃ」


 そう言って蓬子はまたニッコリと笑った。くそ、こんな無邪気な笑顔を見せやがって。


「なれば、ここが元気になるまでたっぷりと命を注いでやろうて。判ったら大人しくせい」

「あの色狂い女め、餓鬼になんてこと教えてやがるんだ。お前もこんな、むむっ!」


 蓬子は俺のモノを握り締めたまま、無理やり口を塞いだ。

 その上あろうことか、舌まで入れてきやがった。

 触れ合った箇所から何か熱いものが俺の中に流れ込んできて、体全体に沁み渡っていくのが感じられた。

 これが、命を注ぐってことなのか。


 この世のものと思えねえ快感に、意識が遠のいてゆく。

 冗談じゃねえ、この俺がこんな餓鬼っ娘なんかに……。

 くそっ……。


 閉じた瞼の向こうに、撫子のニヤニヤ笑いが見えたような気がした。


(狼よ、我がつまよ。

 己が子の顔を見るまでは、死ぬことは許さぬぞ。その日が来るまで蓬子と仲良う暮らせ。

 よいか、泣かすなよ)


 うるせえこのくそアマ、泣きてえのは俺の方だ!

 てめえ今度会ったらただじゃ置かねえ! 憶えてろよ!


 けど……。


 まあ……。いっか……。




第一部 了


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七殺星 流狼戦記 たかもりゆうき @999896

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