竜よりもなお……

ささはらゆき

竜よりもなお……

 村外れに奇妙な高札が掲げられたのは、もう夏も終わりにさしかかったある日のことだった。

 字の読めない大半の村人のために役人が読んで聞かせたところによれば、高札には次のようなことが記されていた。


 いわく――

 先ごろからこの地方に悪竜がときおり姿を見せ、都におわす国王の御宸襟を煩わせること甚だしい。みごと竜を討ちおおせた者には、国王みずから褒美を与える。


 村人たちはどよもした。たしかにこのあたりの山にはむかしから竜が棲むという。しかし、最後に目撃されたのは、いまから二百五十年あまりも昔のことだ。村の生き字引といえる古老たちでさえ、幼いころ当時の古老たちから伝え聞いただけで、実際にその姿を見たことはなかった。

 折しも今年は建国二百年の節目の年にあたる。飢饉と重税にあえぐ地方をよそに、都では盛大な記念式典が一年を通して催されている。晴れやかなるべき時節に人食い竜が出没したとなれば、せっかくの祝賀気分に水を差しかねない。

 実際のところ、のんきに浮かれているのは国王とわずかな側近だけだったが、まだ被害が出ないうちにめざわりな悪竜を退治してしまいたいと考えるのは、国としては当然であった。


 とはいえ、うかつに官軍の討伐隊を送る訳にもいかなかった。実はすでに選りすぐった兵士たちを竜のねぐらに送り込んだのだが、それきり消息を絶っている。

 これ以上犠牲が増えれば、外部に知れるのも時間の問題だ。栄えある官軍が竜に敗北したという噂が広まれば、敵対している国々はその無様を嘲り笑うだろう。

 自尊心プライドの高さにかけては人後に落ちない国王にとって、それは許しがたい屈辱であった。よりによって記念すべきこの年に!

 だから、官軍とは無関係な有志にやらせようというのだ。褒美に目がくらんだ下賤の輩が竜に挑み、死んだところで、国家の名誉が傷つくことはない。そのうえ、官軍の兵士のように遺族への見舞金を支払う必要もない。

 むろん、現実はそう簡単にはいかない。むこう三年は遊んで暮らせるほどの報酬を提示されても、村人たちは誰ひとりとして悪竜退治に志願しようとはしなかった。

 だれが彼らを責められるだろう。

 金は欲しいが、それ以上に命が惜しい。人間として当然の心理だ。

 欲に目がくらんで討伐に志願したところで、喰い殺されては元も子もないではないか。

 それ以前に、この村には竜を殺せるほどの武芸の持ち主などいない。猟師たちにしても、イノシシやクマを仕留めるのがせいぜいなのだ。

 そのときだった。


「だれも行かないなら、おれがやろう」


 困り果てた役人の前で、ふいに手が上がった。

 見れば、居並ぶ村人たちのずっと後方に一人の男が立っている。堂々たる体躯をもった四十がらみの大男であった。

 骨ばった顔には縦横に古傷が走り、右目はごっそりとえぐられたみたいに潰れている。

 村人たちが当惑したのも当然だった。男は村の住人ではなく、素性の知れない流れ者であったからだ。

 男が前触れもなく村を訪れたのは、去年の晩春のこと。

 慣れた手つきで村外れに掘っ立て小屋をこしらえると、誰の許しを得るでもなく住み着いてしまった。

 およそ堅気者には見えない風体から、村人たちも男とかかわり合いになることをおそれ、誰に咎められることもなく今日まで静かに暮らしつづけている。


 村人たちは胡乱げな視線を男に向けながら、内心では誰もがほっと胸をなでおろしていた。

 どこの馬の骨とも知れないよそ者だ。竜と戦って死んだところで、誰も悲しまない。運よく竜を倒すことが出来たなら、報酬を手に村を出ていくだろう。成功するにせよ失敗するにせよ、村から不気味な流れ者がいなくなれば、村人たちにとってはまさに願ったりであった。


 男は役人から竜のねぐらの場所を聞くと、その日のうちに村を出立した。

 天秤棒にくくりつけたボロボロの小袋と、すっかり錆びついた鞘に収まった長剣だけが男の持ち物であった。年季の入った革の胸当てをつけたほかには、防具らしい防具もまとっていない。どこからどう見ても、厳しい戦いの場に赴く者の服装ではなかった。

 村から竜のねぐらがあるという山までは、歩いて半日はかかる。

 すでに太陽は中天にかかっている。到着は夜になるだろう。人間とちがって夜目が利く竜と戦うには不利な時間帯だが、かといって陽が沈むのを待てば道中で別の危険が増える。

 夜行性の狼や野犬の群れの恐ろしさは、ことによっては竜に勝るとも劣らない。めったに見かけない竜とちがって、獰猛な獣はそこらじゅうに掃いて捨てるほどひしめいているのだ。


 道すがら、男はいくつもの集落をみた。

 どの集落も火が消えたみたいに寂莫として、田畑も人家も荒れるに任せている。

 竜の仕業ではない。この地方を襲った記録的な不作と、それに追い打ちをかけるような重税と過酷きわまる賦役のためにこうなったのだ。とうとう耐えきれなくなった農民たちは、夜陰に乗じていずこかへと逃散していった。

 膏血を搾り取るようにして徴収された租税は、国王とその一族が奢侈な暮らしを送るために費やされ、むなしく消えていくばかりだという。


「苛政は虎より……」


 男はいにしえの賢人の言葉を口にしかけて、そのまま飲み込んだ。

 この地方に虎はいない。それゆえ、いまはこう言うべきだろうと思ったためだ。

 竜より猛し――と。

 もしこの惨憺たるありさまが竜の所業であれば、この国はまもなく竜のために滅ぶにちがいない。だが、現実に国を破滅に追いやっているのは、竜ではない。

 それを思えば、たかが一地方に棲まう竜のなんと無害なことだろう。竜よりなお悪しき王がその討伐を命じるとは、皮肉というほかない。

 竜のねぐらに到着したときには、はたして陽はとうに西のかたに沈んだあとだった。

 男は細い道を慎重に進んでいく。暗くかすんだ道の終端は、正面にそり立つ岩山に吸い込まれている。あの山のどこかに竜が棲んでいる。忌まわしい人食いの悪竜が。


 その場所を見つけるまで、さほど時間はかからなかった。

 あおあおと繁茂した雑草の海をかきわけて、男はちいさな洞穴に踏み込んでいく。

 そこが竜のねぐらであった。

 前進するにつれて、不快な臭気が鼻腔を刺激した。饐えた臭い。無意識に口と鼻を覆ってしまいたくなるようなそれは、まぎれもなく死臭であった。

 男の予想に反して、ねぐらには人間の死体はひとつも見当たらなかった。

 そこにいたのはひとりの女だ。美しい女であった。青白い肌と黒い髪が目を引く。

 女が重い病に冒されていることはひと目で分かった。

 顔や四肢の皮膚はところどころ奇妙に色づき、鱗状になって剥がれかかっていた。その下には黒ずんだ肉がみえる。道中で嗅いだ悪臭は、腐りかかった女の身体が醸し出していたにちがいない。


「おまえが竜か」


 そう問うた男に、女はだまって肯んずる。


「人を食ったのか」


 続けざまに問われて、女は今度は首を横に振った。


「身を守っただけ」


 女は消え入りそうな声で答える。


「襲われたから、殺した。けれど、食べていない。あの人の味を、ほかの誰かで忘れてしまいたくないから……」


 苦しげに喘ぎながら、かぼそい声で女は語りはじめた。

 二百年もむかし、人間の男を好いてしまったこと。その男とのあいだに子供をもうけたこと。そして、産褥の朦朧とする意識のなかで、好いていたはずの相手を喰い殺してしまったことを。


「生まれた子供はどうした?」


 男の問いかけに、女は「遠くへ」とだけ答えた。


「本当はいつまでも一緒にいたかった。でも、私はあんなに愛していた人を食べてしまった。人間の血が半分混じったあの子も、私の近くにいれば、きっと……」


 女の声はすでに人間のそれではなかった。濁った瞳に薄い膜が降りていく。


 男はいつか耳にした噂を思い出していた。

 この国を建てた偉大な男は、じつは人間ではない。竜の胎から生まれたのだと。

 当初は王みずからことあるごとに吹聴していたという奇異な出生は、建国から時を経るにつれ、この国における最大の禁忌タブーになった。

 竜は穢らわしい存在であり、そんなものから神聖な王が生まれるはずはない。

 公衆の面前でうっかりそのことを口にすれば、すぐさま首が飛んだ。


「最期にひと目、あの子に会いたかった」


 女は竜の声で言った。


「どこかで飢えていなければいい。私は親として、竜として生きていくために必要なことをなにも教えてあげられなかった。あの日からいままで、それだけがずっと気がかりだった」


 男は長剣の柄に手を伸ばす。


「あんたの子供は元気だよ。その孫も、そのまた孫もだ」


 鍔鳴りの音が洞穴に響いた。錆びた鞘から抜き放たれたのは、濡れたように輝く白刃であった。


「そうさ――人間を喰らう立派な竜になっているとも」


 落ちゆく顔に浮かんだのは、薄い微笑だった。


【完】

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