銀の蝶は絶えてなお
冬がくる。
風の音を聞いた。山間の谷底をうならせる風と、峰の上の空気を震わせる風、天と地から二つの音がいっしょに聞こえると、冬がくる。
パウルは羊追い用の長い棒を肩にかついで、峠のゆるい下り坂を歩いていた。体の左半分を、暗い赤銅の光が照らす。足を踏みしめるたび、砂礫の間でかし、かし、と枯れた草がちぎれて霜の粉をふりまいた。
谷の風は、地面のはるかずっとずっと下から、足の裏を震わせてくる。光のさす方へ目をやると、空の果てへ向かって真っ黒にのたうつ谷の亀裂と、その両側からそそり立つ剣山の灰茶色い壁があった。
短い夏の間、毎日毎日見て過ごした景色。飽きるほど見ていても、山は瞬きする間に姿を変えてしまう。
つい昨日くらいまで――パウルの視界はもっとずっと緑色だった。風は薄絹のようにやわらかかったはずだ。腹の底に響く重い空気に迫られて、もうそれがはっきりと思い出せない。
古い狐革コートの襟元を右手でにぎった。襟を縁取る黄褐色のファーが耳をくすぐる。ひゅるひゅる、という音がパウルの耳たぶと頬を切った。痛いほど寒い。細かい霜の粒が顔に叩きつけられて、パウルはぎゅっと目をつぶる。
その瞬間、まぶたの裏が金色に光った。
細く目を開ける。視界は焼けるように真っ白い。パウルはぱちぱちと瞬きを繰り返した。ぼんやり滲んで混ざりあう紺青と灰色の向こうから、緋に燃える太陽がのぞいていた。
パウルはしばらく立ち止まって、それを眺めていた。太陽の下の端が谷間の黒い淵から離れるとき、パウルはおもむろに、顔の前へにぎった右拳を突き出した。
今日の朝日も、拳の大きさと同じ。
ぱたり、と右手を下ろす。
「はあ」
パウルはため息をついた。ため息は細かい銀色の結晶になって、風に流されて消えた。
パウルはようやく正面を向くと、またかし、かし、と歩き始めた。
坂の勾配がだんだんきつくなってきて、パウルの体はつんのめり気味だ。眼下には、もやのかかった荒野がのっぺりと広がっている。さらに向こうへ目をやると、くっきり荒野へ線をひいたように、トウヒの黒い森が山肌を塗りつぶしていた。尖った梢が、ずらりと天を指す。切先が金の朝日を受けて、少しだけさざなみを打っていた。
パウルは立ち止まった。左手の少し先に、森から一本だけはぐれたようなトウヒの巨木が一本。上向きの三角形を描いている。
パウルは巨木の下にたどり着くと、岩のような樹皮に触って、二時の方向まで回り込んだ。木の根元を蹴って走り出す。羊追い棒を大ぶりに振り下ろし、地面に突き立てて思い切り踏み切った。棒を軸にして半月形に飛び上がり、なめらかに着地。また走って勢いをつけ、棒を突き立てて飛び上がって、着地。
下り坂がだんだんきつくなると、跳ぶ距離も長くなり、パウルはどんどん加速する。斜面を跳ねて転がるボールのように、勢いに任せてすごい速さで下っていった。
ただでさえ冷え切った山の空気が、ごうごうとうなりながら、鋼の硬さで頬を打ちすえる。さっき遠く見えた森の端が、みるみる正面へ迫ってくる。足元の勾配がゆるくなると、パウルは羊追い棒をかついで、とん、とん、とん、と足をゆるめた。
「パウル来た!」
はずむ声が飛んできた。足を止めながら声の方を見る。
毛糸の帽子と毛皮のコートでまん丸になった、黒いおさげ髪の女の子が手を振りながらこちらへ走ってくるところだった。
「羊は?」
女の子はゆっくり立ち止まって言った。
「お兄が番しとくって」
パウルは目を合わせずに返す。女の子の後ろには少し離れて、子供たちが十数人わらわらと集まっていた。
「ロランごめん、待たせたな!」
パウルが手を振ると、集団の中にいた少年が一人、手を振り返した。パウルは女の子の脇を通ってそちらへ近づく。
「もうみんな準備できてるよ」
少年ロランが言って、
「これ。パウルの分」
足下に置いてあった縄の束と背負子を、パウルへ投げるように渡した。
「おっけ、行くか」
そう言うとパウルは背負子を背負って、縄の束を肩に引っかけ、羊追い棒を地面に突き立てた。
「ねえ!」
女の子が後ろから追ってきた。スキップするような足取りだ。
「ザフは?」
「いらねえよ、あんなの」
パウルは地面向かって吐き捨てて、森の方へ歩き出す。子供たちの横を通ると、ぞろぞろとみんながついてきた。
「どうせもう山の子じゃないしね」
かわいい声で言いながら、子供たちの中から小さな男の子が小走りでパウルの横に並んだ。
「そ」
パウルは頬をゆるめて、意地の悪い顔を作る。
「ボンボンはボンボンの道楽で忙しいんだろ、邪魔しちゃなんね」
「まあ。いなくなるやつの話はやめてさ、」
後ろから、ロランが静かにさえぎった。彼はパウルを挟んで、男の子の反対側に並んだ。
「とりあえず、今日どこまで行く? パウル」
「あ? うーん……」
パウルは慌てて顎に手をやり、左右を振り返った。
「そうだな。まあ、うん。天気いいし……とりあえず――」
「待って!」
女の子が叫んだ。全員が足を止めてそちらを振り返る。
「なんか聞こえる!」
しん、と周囲が静まった。
聞こえてきたのは、
「……笛」
誰かがつぶやいた。
さざめく笑い声のようにくすぐったい、濁ったやさしい音。スキップするくらいの軽やかで華やかなテンポ、それでいて妙に悲しげな旋律。
パウルがやってきた峠の方遠くから聞こえてくるが、吹き手の姿は見えなかった。峠のてっぺんの向こう側で吹いているらしい。
「ザフだ」
パウルの口から名前が転げ落ちた。
「ははっ、なーんだ」
女の子が半笑いで言った。どっ、と他の子供達が一斉に笑う。
「笛吹いてないでベンキョーしろよ、ベンキョー」
「やっぱ暇なんだろ、山の子の仕事ないと」
子供たちが口々に騒ぐ。ロランが少し困った顔で、
「おい、いいから行こうぜ」
とたしなめると、子供たちはキャーキャー言いながら森の方へかけていった。
「あぁっこら! 走って行くなよっ!」
ロランも走って追いかける。遠ざかっていく彼の後ろ姿を見ながら、パウルはゆっくり歩いて森へ向かった。背中に吹きつけてくる冷たい風の合間から、笛の音がパウルの髪をなでる。
行く手に近づく森の入り口は暗い。朝日が昇ったばかりで、まだ日が差してこないのだ。木と木の間から、子どもの笑い声が何重にも反響してわんわん聞こえた。
足元の枯草は一歩踏み出すたびに薄くなり、地面がはだけてだんだん白茶けてくる。がさがさ、と草が霜を撒き散らす音が、ぱり、ばりばり、と凍った土の音に変わってきた。トウヒの根元が視界に入るのと同時に、あたりがふんわり暗くなる。ツンとした黒褐色の香りが鼻をつく。
その時、
「あ?」
木の根の隙間に、何か白く光った。手のひらくらいの真っ白いものは、土の上でやたら目立つ。
パウルはしゃがんで、顔を近づけた。
それは蝶の形をしていた。薄い羽がふるふると動いている。その表面を覆う細かい粉が、小さく震えるたびにきらきら光った。
「パウルーっ! 何やってんの!」
森の奥から、女の子が飛び跳ねながらやってきた。パウルは顔を上げない。
「なになになに? 何かあるの……あっ」
女の子はパウルの隣に素早くしゃがむと、
「銀の蝶じゃん! すごい!」
叫んだ。わわわん、と森の中へその声が反響する。
「知ってるぅパウル、銀の蝶見つけたら幸せになれるんだよ! いいなあ〜、ええ〜、パウルいいなあ……」
パウルは無視して、静かに立ち上がる。
「行くぞ」
ぱりぱりぱりぱり、大きく音を立てて歩き出すパウルの後ろを、女の子は「いいな、いいな」と口ずさみながらついていった。
落枝拾いは、山に住む子供たちの仕事だ。村の木こりたちが森の木を切った時に落としたり、自然に折れたりした枝を、子供たちが森に入っていって拾う。
特に、冬目前の落枝拾いは大仕事だ。山が雪に閉ざされる前に、資材になりそうな枝をできるだけたくさん集めねばならない。
大人たちは、大半が今年最後の買い出しをしに街へ下りている。冬を控えて食欲旺盛な獣が出ても、すっとんできてくれる大人はほとんどいない。短い夏の間に森歩きの経験を積んだ子供たちの、実力の見せどころ……というわけである。
とはいえパウルは、冬直前の落枝拾いも六回目だ。一番安全な道しか通らないとはいえ、獣に遭遇したことも二度三度ある。
森歩きにはずいぶん慣れ、村の兄貴分たちに連れて行ってもらう側から、年下の子供たちを連れていく側になった。これまでとは違う意味で今回も、例外なくパウルは森に試されている。
だからか分からないが――パウルは特別に憂鬱だった。
パウルは無心に枝を拾った。今までで一番たくさん拾えたかもしれない、昼過ぎごろには背負子に枝が乗らなくなってしまった。メンバーの数は例年より多く、年少の子供だらけでいつもより騒がしい道中だ。
それにも関わらず、獣にはほとんど遭遇しなかった。一度だけ痩せた狐と遠目でにらみ合いになったが、こちらが何もしないうちに相手はそそくさと逃げていった。
森の日暮れは早い。太陽がてっぺんを過ぎたとたんに空気が変わる。西側にそびえ立つ山の峰に陽光がさえぎられて、森の中はすぐに暗くなってしまう。
さっきまで少しぽかぽかするくらいだったはずなのに、暗さと同時に寒さが畳みかけてきた。パウルの周りで小さな子供たちが順番にぐずり始めた。
「帰るかあ」
薄暗い周囲を見回しながら、パウルは言った。
「帰るってぇ」
ロランがのんびりした声でみんなに呼びかける。かくして、一行はパウルを先頭に森の出口へ向かった。
落枝拾いのルートはだいたい決まっている。迷いなく進むパウルについて小一時間も歩くと、だんだん森が明るくなってきた。
途中で疲れて枝を背負えなくなった子供の荷物を回収しながら歩いていたパウルは、徐々に痺れてきた肩を、ホッと撫で下ろす。
ほどなくあたりがパッと開けて、目の前に再び白と茶色の荒野が広がった。
波打つ一枚布のような景色のなかに、質素な家がぽつり、ぽつりと見える。小さな風車がひとつ、丘の上の方に建っていて、冷たい山の風を受けてゆっくり回っていた。
「ほら、着いたぞ」
パウルが振り返って言うと、今までしょぼくれていた子供たちが、わあ、つかれたあ、と口々に叫んだ。パウルは大きくため息をついて、
「お前ら、あとは頑張って自分で帰れよ。荷物持って」
子供たちのぶんの荷物をその場に降ろす。その中から一人ひとり自分のを見つけると、それを背負ってみんな三々五々荒野に歩き出した。しばらくは数人ずつ固まって進んでいたのが、「じゃあなー」「またねー」という声とともに、ぱらぱらと小さく散って、別々の家を目指して遠のいていく。
最後には、小さな二人の姉妹がのんびりと荷物を取って、「じゃあね、ふたりとも」と笑顔で言うと、仲良く手を繋いで帰っていった。
パウルは二人の背中を眺めながら、後を追うようにぽてぽて歩き始めた。正面に小さく見える風車小屋で、姉が粉挽の手伝いをしている。今夜はパウルもそこに泊めてもらう手はずになっていた。
前を行く姉妹は、少ししか枝拾いしてないくせに、すこぶる上機嫌だ。空に近い背負い籠を揺らしながら、繋いだ手を振って歌っている。歌いながら、跳んで、はねて、器用に背中の荷物を避けて、腕で作った輪をくぐり、けらけら笑って一緒に尻餅をついた。
パウルはちらりと横を見た。ロランが一人残って、隣を歩いていた。彼は前を歩く姉妹と同じくらい楽しそうな顔で、ひゅう、と歌の続きを口笛で吹き始めた。山の子なら誰でも知っている、あの軽やかで華やかで、もの悲しいメロディ。
今年最後の仕事から解放されて、みんな清々しているのだろう。ロランのその顔を見ると、普段落ち着いて大人びた彼はそういえば、自分よりいくぶん年下で、まだまだ子供なんだ……と思い至る。
たんたんたん、たたたった、
と、パウルはロランの口笛に合わせて腿を叩いてやった。尻餅をついて笑い転げている姉妹の横を通ると、彼女たちもロランとパウルに合わせて歌いながらついてきた。
ロランの口笛と姉妹の歌が、溶け合って一つの音色になる。歌う人声のような、優しい音のする不思議な笛。目をつぶってみるとそんな風情の音に聞こえた。
その時、ひゅっ! と風が吹いた。
ぎゃっ! と叫んだ女の子たちは、ぐしゃぐしゃになった互いの髪を見てまたぞろゲラゲラ笑いだした。それで曲が途切れた瞬間、耳元でごうごうと唸る風に混じって、ずっと遠くから笛の音がしたような気がした。歌声のような、笑い声のような、優しい音のする……
パウルは突然、くるりと踵を返した。
「ロラン、先帰ってろ」
パウルは背負子を放り捨て、羊追い棒だけを引っ掴んで走り出した。
「パウル!?」
ロランがびっくりして叫ぶ。パウルはその声を背中で受け流し、森の端に沿って一目散に走った。
わずかだけ上りの向きに傾いた、山間にあっては珍しく水平に近いゆるやかな勾配を、かし、かし、かし、と飛び跳ねるように進む。しばらくすると、朝みんなで森に入ったあたりへ来た。
息が切れてスピードが落ちる。おえ、と地面に向かって咳き込んだその時、ちらりと白いものが視界の端を横切った。
身を投げ出すように膝をついて止まる。数秒ぜえぜえやってから、白いものが見えたほうに四つんばいで這っていった。
それは、朝と同じ木の根元に落ちていた。
銀の蝶だった。朝小刻みに動いていた翅は、固まって動かない。
パウルは手袋を取り、火照った指先で銀の蝶をそっと拾った。パウルが思っていたより、蝶の体は硬くて冷たかった。触れたところから、手のひらの熱で蝶の表面を覆っている銀の粉が溶け落ちていく。そこから、黄味がかった透明の薄い翅が出てきた。
よく見ると蝶の落ちている木の根元に、親指の爪くらいの楕円形をした白い繭が、ぐるぐると何重にもなった糸を支えにくっついている。それを乱暴にむしり取ると、繭はぺしゃんこになった。ひっくり返してみたら、お尻のところに小さな穴が空いている。
「こ、こんな時期に、出てきちゃったの、かよぉ」
情けない声が漏れた。
「バッカじゃねえの」
精一杯吐き捨てると、パウルは蝶を握りつぶした。霜で覆われた部分が、ぱり……と音を立てる。
「ぜんっぜん幸せじゃねえよお」
半分粉々に割れ、半分くしゃくしゃにつぶれた蝶の死骸を、パウルは地面に叩きつけた。その手で乱暴に目元を鼻をごしごし擦る。手袋をはめ直すと、投げ出されていた羊追い棒を地について立ち上がる。
目の前には、朝下りてきた峠と、一本だけ森からはぐれたトウヒが見えた。ぼおぼおと耳元で鳴る風。ぜえぜえうるさい息。その隙間、隙間で切れ切れに――さざめく笑い声に近い、笛の音。
今度は本当に聞こえる。パウルは、この笛と吹き手を知っている。さっき姉妹とロランが歌っていたあの曲を、いつもパウルに吹いて合わせてくれたのはこの笛だった。トウヒの木のずっと奥から聞こえてくる。
パウルはトウヒの木目指して坂を駆け上がり、そこから少し進路をずらして、朝来たのとは逆の方から峠の斜面を回り込んだ。笛の音が近づいてくる。峠のてっぺんが西日を遮って、パウルの走る道は薄暗い。
白い息をほっほっと吐きながら、斜面を横向きに通り過ぎ、パウルは峠の影から飛び出した。パッ! と西陽がパウルの体を刺す。真っ赤に視界が眩んで、パウルはつんのめって頭から坂を転がった。すんでのところで羊追い棒を投げ捨てると、パウルの体は二、三回転して止まった。
「……ってて」
膝をついて、ゆっくりと起き上がる。頭を振って砂を払い、顔を上げると――果たして、沈みゆく夕日の真下に、パウルのよく知る少年がいた。
茶色の短い髪、同じ色の瞳に黒縁眼鏡をかけ、灰色のマフラーに半分隠れた口元が静かに微笑んでいる。すらりと長く美しい笛を、ほんのり赤い節ばった両手に持ち、斜面に突き出た岩の上に腰掛けて、毛皮のブーツをはいた足を投げ出している。
後ろから夕陽に照らされ、実際彼の顔も手元も暗くてよく見えない。でもパウルにはその姿がはっきりわかった。いくつもある記憶の断片のなかで、同じ場所の同じ彼が同じようにこちらを見ていたからだ。
「ザフ」
パウルはつぶやくように言った。こぶしを握って、ゆっくりと目線の高さまで掲げる。丸く燃える太陽が、こぶしの輪郭と重なった。
「太陽って、街に降りたほうが小さく見えるってホントか?」
「さあ、どうだろうな」
ザフは笛の音のようによく通る声で、ふんわりと言った。なぜか癇に触った。
「山降りてまでベンキョーするくせに、そんなことも知らねえの?」
「パウルだって知らないだろ」
「俺は山降りねえからいいんだよ。知ってる意味ねえし」
パウルはザフを睨んだ。
「朝も吹いてただろ。笛」
思ったより低い声が出て、パウルは少し驚いた。ごまかすように両手をコートのポケットに入れる。
「一日中吹いてたのか?」
「いいや? 昼にはイヴさんち行ってた」
「暇でいいな、街の子ってのは」
「まだ街の子じゃない」
「でも山の子ではねーから」
パウルが叩きつけるように言うと、ザフは峠の頂上のほうへ遠く目をやって、
「パウルはそれを言いに来たの」
パウルはさらにむっとした。
「そうだよ。山じゃクソのフタにもなんねえ金持ちの暇つぶしがしたいんだったら、一生してろ。俺らはお前みたいに遊んで暮らしてられねえから。二度と帰ってくんな」
「聞き飽きたよ、それ」
初めてザフの声に、鬱陶しそうな色がにじんだ。
「パウル。それ本気で言ってんの?」
パウルは言葉に詰まった。落ち着き払っているのに、今まで見たことないほど不愉快そうなザフに、気圧されてもいた。ザフはふうっ、と笛に息を通して中の唾を払う。ポケットから手袋を出してはめると、ぽかんとしているパウルの方へ向き直った。
「俺、この山に学校を作りたいんだ」
ザフがまっすぐこちらを見る。
「がっ……学校?」
パウルはぽかんと繰り返した。
「そう。学校」
ザフは手袋で笛をなでながら、
「そうすれば、ここの子供は山から下りなくても学校に行けるだろ」
お前みたいに、街に行かなくても……と、パウルは言いかけて、ギリギリで飲み込んだ。
「いらねえよ。意味ねえっつってんじゃん、ベンキョーなんか。お前と一緒にすんな」
パウルは腹の底を踏ん張ってすごんだ。ザフはパウルから目を逸らすと、体を回して夕日の方へ向いた。
「あのさ。このあたり、昔はもっと人が住んでたんだ」
「だから?」
こっち向いてしゃべれよ、という気持ちを込めてぶっきらぼうに返す。
「やさしい領主がいたんだって。住民はみんなその人が好きで、治めた土地はどこも賑わっていた」
「今の山がイヤだって言いたいのか?」
「そんなこと言ってない。これからもずっと今の山のまま暮らすには、そういう人がいた方がいいんじゃないかって」
「今のままなら……このままなんだろ」
「山がこのままでも、山の外は変わってる」
「それと学校と、何の関係があんの」
「分かってるだろ」
ちょっとだけザフは振り返った。
「バカのふりすんな」
「バカはお前だよ!」
「俺が学校、作ったらさ」
ザフはまるでパウルの叫びが聞こえなかったように、振り返った顔を前に戻して続けた。
「お前、一人目の先生にならない?」
「先生って……」
とっさに言って、パウルは続きの言葉がわからなくなった。先生って……先生って、何するんだ?
聞こうと思ったが、パウルは黙っておいた。ザフとこれ以上しゃべりたくなかった。
夕日の下あたりから、どう……と風のうなりがパウルとザフの足の裏を走り抜けていった。
太陽はもう、むこうの剣山へ隠れるところだ。空は、青色の上から赤黒く塗りつぶされたように光っている。ザフはパウルの返事を待たないで、笛を懐にしまうと立ち上がった。
真っ暗になってからしばらくして、パウルは姉のいる風車小屋へ帰った。
姉に散々ブツブツ言われた。「どこ行ってたの」「アンタに何かあったら」とは言ったわりに、パウルの心配よりも、拾ってきたはずの落枝をどうしたのか心配していた。
風車小屋は小さいので、夜の寒さがこたえる。暖炉の横で寝ている姉の正面で、毛布にくるまって火の番をしながら、うつらうつらと朝を迎えた。
空が白み始めて、窓から薄く光が差してくる頃、姉はきびきびと起き出した。
粉挽小屋から小麦粉を分けてもらい、今日は朝からそれを持って、雪の季節のために峠の下にこしらえてある自分たちの家まで行く。途中で、山へ戻ってくる大人たちと合流する予定だ。
「パウルあんた、置いてきた落枝さっさと持ってきて」
姉は暖炉の脇でまだうずくまっているパウルを蹴飛ばすようにして言うと、踵を返して壁の鏡に向かった。
もぞもぞとウールの毛布を脱ぎながら、パウルは姉の後ろ姿をぼんやり見る。
「なあ。姉ちゃん」
「なに?」
「銀の蝶って知ってる?」
「迷信でしょお」
姉は櫛で前髪を必死に整えながら生返事をした。
「迷信じゃないよ」
パウルは少し声を大きくした。姉はいかにも鬱陶しそうに、眉間にしわを寄せて振り返る。
「は?」
「ほんとにいた」
「バカじゃないの」
姉は前に向き直ると、長い髪をおさげに編み始めた。パウルは毛布を脱いで立ち上がった。
「銀の蝶ってのはな、この時期に繭から出てきちまって、翅が霜で焼けた蝶なんだ」
「だから?」
姉は聞いてもいないらしかった。
パウルの中で、悔しさとも怒りともつかないごちゃまぜの気持ちが、突然ふくらんではじけた。毛布を蹴飛ばして、小屋の入り口に放ってあったコートと帽子を身につけ、手袋をはめると、小屋を飛び出した。
冬まで、あと一日猶予をやろう――。そうとでも言いたげな、美しい晴れの空だ。朝日はもう昇って、山の端の上に赤く輝いている。
パウルは走った。朝日に背を向けて、山の下へ向かって斜面を転がるように降りた。羊追い棒を忘れてきたのに気づいたが、かまわない。太陽がパウルを追いかけてくるように、後ろからパウルを照らした。
昨日入った森の脇を、山の下へ向かって走り抜け、一面に広がる茶色い荒野の真ん中に、うねうねと踏み固められた黄土色の道を、ひたすら降りて降りて降りていく。
峠にさしかかると、上り坂で少し足が遅くなった。かと思えば、ほとんど崖と大差ないほど急な坂を、落ちるようにしてまっすぐ降りる。急斜面を一日走り回って平気な山の子でも、足の裏が痛くなった。
ちょっとした針葉樹の群生を抜け、また見通しのよい荒野に出る。走りながら上下に揺れる視界の遠く、少し先にある丘のてっぺんから、並んで動くいびつな点の列が見えた。
村の大人たちだ。あの中に、パウルの父も母もいる。ザフの父と母も、そして街から来て、ザフと一緒に街へ降りるという彼の叔父もいるはずだ。
ほっ、として膝の力が抜けそうになるが、足首で地面を蹴って前に進む。スピードを落とさないように前を見て、食らいつくように大人たちの列へ近づいていった。
少し進むと、向こうもこちらを見つけたらしく、数人が大きく手を振った。ほどなくパウルは案外あっさりと列に追いついた。
「パウル! どうした!?」
父が素っ頓狂な声を上げる。それにかまわず、パウルはその横にいた母の前で止まると、母が両手にいっぱい担いでいた大きな袋を奪い、ついでにその隣にいるロランの母が持っていた麻袋も奪い取って、二つの巨大な荷物を肩に背負い、くるりと列に背を向けた。
「おい! パウル!」
困惑した父が、手を伸ばしてパウルを止めようとする。パウルはそれをひょいと避けて、今来た道を同じスピードでめちゃくちゃに走った。
「うおおおおおおおおおおお!」
重い荷物に押しつぶされまいと、パウルは雄叫びを上げていた。
「うおおおおおおおお! 働くぞおおおおおおおおおおおおお!」
大人たちは全員、去っていくパウルの後ろ姿をポカンと見ていた。
「……なんだろうね、あれ」
ロランの母が、ぽつんとつぶやいた。
「さあねえ」
パウルの母はそう言ってため息をつくと、
「また変なことでも思いついたんでしょう」
空いた両手で、横にいたパウルの父から荷物を半分奪って担いだ。
「どうせザフと何かあったんだろ」
パウルの父がそう言うと、そのすぐ後ろにいたザフの両親が、そろって首をすくめた。
「お、」
と声をあげて、パウルの母が遠くを指さす。
「転んだ」
点のように小さくなったパウルの姿が、むこうの峠の斜面で止まっている。パウルの母には、背負った荷物で本人の体がすっかり隠れてしまっているところまで、よく見えた。
「やれやれ。ばかだねえ」
半分笑いながらパウルの母が言うと、誰からともなくゆるやかに列が動き出した。
「あー……なんていうか、」
パウルの父が、ぼそぼそと言いながらきまり悪そうにザフの両親を見た。
「いろいろ、教えてくれや。これから」
ザフの父も、ばつが悪そうに目を逸らした。
「すまないね、どうもウチのが……」
「いや、どうせいつか必要なことだし」
パウルの父が向こうの峠を見やると、パウルの姿はなくなっていた。
「あいつ、勝手にやる気になってるみたいだしな」
隊列の最後尾が通り過ぎた砂地に、ごつごつと尖った一つかみくらいの石があった。砂礫の粒がくっついて固まっただけ、といったふうなその石の下のほう、地面すれすれの位置に、白銀の糸でできた小さな繭がぐるぐるにくっついていた。
もう、冬はすぐそこに来ている。
短編集 ことのいろは 音音寝眠 @nemui_nemui
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