最終話

 それから五分と経たない内に、チャイムが鳴った。僕は慌てて玄関の扉を開く。

 なっちゃんが立っていた。泣き腫らした目が赤い。

「戻ってきちゃった」

 恥ずかしそうに彼女が言う。

「ずっと近くにいたの?」

 僕の声は少し怒っているような響きになってしまった。今までずっと拒絶しかしてこなかったから、普通の対応ができない。

「こんな顔じゃ、電車乗れなくて」

 確かに、そのとおりだ。

 僕はもう一度カーテンを開いて外を見た。雪はしんしんと降り続いていた。地面がうっすら白くなっている。風はない。とても静かだ。

「なっちゃん」

 僕は窓の外を眺めたまま言った。

 呼びかけたものの、次の言葉が出てこない。ごめんとか、ありがとうとか、そんな当たり前な言葉じゃなくて。

「やっと、名前を呼んでくれたね」

 なっちゃんの穏やかな声が聞こえて、僕は振り返る。

 彼女は僕の体に飛び込んできた。小さな子どもが甘えるみたいに勢いよく。ふわりと髪が靡く軌跡が見える。

 重い衝撃が身体に響いた。

 僕の体は押されて、ふらついた。

 ああ、彼女も大きくなったんだなと、呑気な感想が浮かんだのは一瞬だった。

「やまと君、私、思いついたの」

 衝撃が身体の奥に広がっていく違和感に、僕は気づいた。

「やまと君を幸せにする方法。やっと思いついた」

 腹部に差し込まれた異物。鈍い痛み。目眩。

 うつむいていたなっちゃんが、ゆっくり顔を上げる。彼女は笑っていた。穏やかに満ち足りた表情。

「生きてる限りやまと君が幸せになれないなら、死なせてあげるしかないよね」

 ずる、と異物が引き抜かれた。身体の中身ごと引っ張られる感覚に戦慄する。僕は床に倒れた。心臓が激しく脈打って、ガンガンと頭にまで響く。なっちゃんは真っ赤に濡れた包丁を握って立っていた。光を反射する、真新しい刃。彼女は僕の上に馬乗りになった。包丁を両手でしっかりと握り直す。それを高く振り上げて、降ろす。

 ドス、ドスンと、僕の身体は何度か揺すぶられた。

「ごめんね、苦しいよね。すぐ終わるから、我慢してね」

 なっちゃんは気の毒そうに言った。悲しげな笑顔が僕の視界いっぱいに映る。少女の髪や肌は見る間に赤く染まっていった。とても鮮やかで、美しい。色褪せた世界が、彩りを取り戻す。

「はじめから、こうするしかなかったんだ。きっと、真耶ちゃんも私に、こうすることを望んでた」

 そう、かな。

 そうなのかもしれない。

 息が苦しくて、意識がぼんやりし始めていた。

「大丈夫。これで真耶ちゃんに会えるよ。やまと君は幸せになれないまま、死んじゃうんだから」

 包丁を放した手で、なっちゃんは優しく僕の頬を撫でた。手のひらはぬるりと温かかった。慈しむように微笑んで、彼女は僕の額に口づけた。

「真耶ちゃんによろしく。二人で、幸せになってね」

 カーテンの向こうから差し込む光がまぶしい。まだ雪が降っているのか。

 雪? 違う。あれは、桜の。

 そして僕は信じられない光景を目にした。

 ほんの少し開いたカーテンの隙間。そこから忍び込んでくる華奢な足。逆光。視界が狭くなって、よく見えない。だけど、確かにわかる。

 真っ白な羽根を背に生やした少女。ずっと会いたかった。彼女が今、そこに。

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死が二人を別つとも 加登 伶 @sakamuke

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