第18話

 なっちゃんがいなくなった部屋で、僕は呆然としていた。計画は全て上手くいった。彼女の心はズタズタに傷ついただろう。三年間、懸命に笑顔を保ち続けた彼女が涙を見せるほどに、その痛みは大きかった。きっともう僕の前に姿を見せることはない。僕はこれで思いどおりの人生を過ごすことができる。また以前のように、一人で苦痛に喘ぐだけの日々を送る。それでいい。僕はそれを望んでいたんだ。真耶との誓いを果たすためには、そういう生活が理想だから。僕は誰にも邪魔されないで、真耶だけを想うことができる。

 僕のルールは何一つ破綻していない。とても筋の通ったきれいな顛末だ。違和感が発生する余地はない。納得のいかないことなんて、あるべきじゃないんだ。

『自由にしてあげるよ』

 なっちゃんの言葉が繰り返し頭の中に響く。自由。そうだ、僕は自由になったはずなのに、どうして。少しも自由だという気がしない。まるで鎖に繋がれているように、体中が重い。違う。これは鎖じゃなくて絆だ。真耶と僕を繋ぐ絆。重たく感じるのは、真耶に向かう僕の気持ちが強いからだ。それを負担に思うのはおかしい。

 過去に縛られず前向きに生きる、なんて。

 僕にはできない。

 真耶は僕にとってかけがえのないものだった。かけがえのないものが欠けてしまったら、その空白は二度と埋まらない。こんな喪失感を抱えたままじゃ、誰と何をしたって楽しくない。時間の流れに逆らってなんとか過去を現在に繋ぎ止めておかないと、やってられなかった。

 思えば、なっちゃんも同じだったのかもしれない。彼女が好意を寄せていたのは、過去の僕だ。今の僕にあの頃の面影はない。優しさも笑顔も、真耶が死んだ時に捨てた。きっと僕もあの時一度死んだんだ。なっちゃんは死んだ僕を取り戻そうとしていた。もういないのに、それをどうしても受け入れられなくて。

『やまと君がまた笑えるようになるなら、私はそれで充分だった』

 そんな些細な願いのために、彼女は三年間を捧げたのか。病気がやっと治って、初めてまともに学校生活を送れるようになったのに、その時間を僕なんかのために費やすなんて本当に馬鹿だ。それこそ彼女の言うとおり、過去に縛られないで前向きに生きていたら、きっと笑顔で高校生活を終えられたのに。

 そうだ。僕は、なっちゃんにはそういう風に生きていて欲しかったんだ。過去に縛られず前向きに、この世界で価値を見つけて。あの子は僕とは違う。何の翳りもなく陽の光をいっぱいに浴びて、笑っているべきだった。

 真耶との約束さえなかったら、なっちゃんはそういう風に生きていけただろう。僕は真耶を責めるつもりはない。真意はわからないけれど、きっととても美しい理由で、真耶はなっちゃんに頼みごとをしたはずだ。その気持ちはとても尊い。僕なら絶対にその気持ちを裏切らない。現に僕は彼女に一生を捧げるつもりで誓いを立てた。

 だけど、それは僕の場合の話だ。なっちゃんまで僕と同じになる必要はなかった。僕は真耶を愛していたけれど、なっちゃんは違う。彼女には真耶を裏切るという選択肢もあった。約束を忘れて生きる権利があった。彼女にだけ、それが許されていた。なっちゃんは、僕と真耶にとって完璧に無垢な子どもだったから。別の世界の存在だったから。真耶もきっと、なっちゃんの裏切りなら許す。そうか。だから、真耶となっちゃんが交わしたのは約束だったんだ。約束は破られて仕方のないもの。違反した時に罰がくだる誓約ではない。その程度のものだった。

 忘れてよかったのに。僕のことも、真耶のことも。なっちゃんは忘れて生きればよかった。忘れなくても、大切な思い出くらいに留めておけばよかった。

 ひどく気分が悪かった。あの子を拒絶すれば、少しはすがすがしい気持ちになると思っていたのに、むしろ沈鬱さは増していた。僕は窓辺のカーテンを少し開けた。結露したガラスの向こう。いつの間にか雪が降っていた。湿った重い雪が、ゆっくり時間をかけて地に落ちていく。

 なっちゃんはどこにいるだろう。寒空の下、一人で泣いているのか。

 ああ、駄目だ。僕は真耶を想わなくちゃいけないのに、どうしてあの子のことばかり浮かぶ。もう終わったことだ。どうでもいいと思わないと。彼女は僕に何ももたらさない。でも、僕も彼女に何も与えていないじゃないか。不規則で些細な優しさも、結局は彼女を傷つけるための布石でしかなかった。僕は彼女を切り捨てたんだ。

 不安定になった時の癖で、僕はむやみに部屋を掃除し始めた。もうこれ以上整理のしようのない程片付いた収納を開いて、中に入っているものをひとつひとつ確認する。少しでもいらないと思ったものは捨てる。

 そして、過去の思い出を押し込めた箱を開いた。いい機会だ。なっちゃんがくれた手紙も捨ててしまえばいい。あの子のことを思いだすきっかけを失くしてしまわなければ。捨てる前に手紙に目を通す。幼い筆跡。つたない敬語で綴られた病院の日常。衰えていく真耶の様子。返事は来ないと知りながら、どんな気持ちでこれを書いたのだろう。

 手紙を全て選り分けた。箱の中にある他のものも確認する。折鶴。ペンダント。なっちゃんがくれたものばかりだ。小物を全て取り出してしまうと、箱の中には一枚の画用紙が残った。裏返しに仕舞われていたそれを取り出して見る。

 それは、なっちゃんが僕の誕生日にくれた絵だった。手術が決まってすぐの時だ。元気に戻って来てねと彼女は言って、僕にこの絵を渡した。その時僕は手術が失敗することばかり願っていて、ろくに見もせず絵を閉まった。

 春の病室。窓の外の桜吹雪。構図も色づかいも、僕が真耶にあげた絵を真似たものだった。違うのは、病室に人が描かれていること。僕の描いた病室には誰もいなかったのに対して、なっちゃんの絵の中には人がいた。つまり、僕と真耶となっちゃんの三人。病室の真ん中に三人が並んで立っている。幼い絵だから、それぞれ少しも似ていない。髪型と服装で誰を書いたか判断できる程度だ。表情はみんな同じ。華やかな笑顔。

 塗り残しやはみ出しも多い。幼くて雑な絵。それなのに、その絵はとても生き生きとしていた。僕はこんな顔で笑っていたんだろうか。この病室はこんなに明るかっただろうか。僕にはただ無機質で清潔な空間にしか見えなかったのに。なっちゃんの目を通すと、世界はこんな風になるんだ。

 描かれた笑顔が眩しすぎて、僕はこの絵を見ることを避けてきた。現実とあまりに乖離した理想の形。三人で笑いあって、ずっと一緒にいられたら。そんな夢を描いた絵だ。

 真耶は死んだ。僕は笑顔を失くした。僕たちはバラバラになった。もう二度とこんな風に笑いあうことはできない。

 だけど、なっちゃんは。

 あの子の笑顔は取り戻せる。真耶と僕と一緒になって、暗い夜の底に沈む前に。この絵を描いた彼女なら、太陽の下で生きられる。そしてそのためには、僕の努力が必要だった。別の道を生きるにしても、もう二度と会わないのだとしても、もっとマシな別れ方があったはずだ。彼女の心に影を落とさない爽やかな別離を、僕は演出してあげるべきだった。真耶が死んでしまった以上、僕だけが彼女を自由にすることができた。そしてそれは、僕がほんの少し彼女に心を開いていれば実現されたことだ。僕となっちゃんの間で止まっていた時間が動き出して、彼女は未来へ歩き出せた。結末が同じでも、過程が違えばこうはならなかった。

 僕は時計を見た。午後四時半。なっちゃんが部屋を出て行ってから、三十分しか経っていない。

 まだ間に合う。まだ遅くない。そんな風に思えるほど僕は楽観的じゃなかった。きっともう間に合わないし、全部手遅れだ。つけてしまった傷は消えない。今さらなんだと思うだろう。だけどなっちゃんは今、たった一人で泣いている。結局のところ、僕はどうしてもそれを放っておけなかった。昔、彼女が泣きそうになる度に慰めてあげたように。

 僕は携帯電話を手に取った。今まで一度もなっちゃんにメールを返してこなかった。手紙に返事をしなかったのと同じように、連絡はいつも彼女の方からで、僕は受け身であり続けた。こちらから伝えたいことは何もないという主張のつもりだった。そのルールを今破る。僕ははじめて彼女に返事を書き始めた。

 慣れない手つきでメールを作成しながら、僕は真耶のことを想った。これは裏切りになるだろうか。真耶は僕を責めるだろうか。もしも次に会えたらいくらでも謝りたい。言い訳も聞いてほしい。僕はこれからも真耶のことを想って、過去のことを引きずって生きていく。幸せにはならない。ただ、僕がほんの少し楽しいと思って、ささやかに笑うだけで、なっちゃんが救われるなら。前を向いて生きていけるなら。せめてそれまでの間、僕が尽力することを、許してはくれないだろうか。真耶。君もなっちゃんには幸せになって欲しかったはずだ。僕と君が受け入れられなかったこの世界で、あの子には幸せになってもらおう。僕たちの僅かな希望を託して。

 僕はメールを送信した。



「今まで僕の幸せを願ってくれてありがとう。

 君が僕に笑ってほしいと思っていたように、

 僕も君には笑っていてほしかった。


 ひとつ、はぐらかした質問に答えておく。

 僕は君が大学に受かったらいいなと思ってたよ。

 君が努力していたことを知っていたから。

 だから、残念だと思ってる。

 

 他にも話しそびれたことがいくつかある。

 もしよかったら、今どこにいるか教えてくれないか。」


 僕はすぐに携帯をベッドに放った。返信が来るか来ないかとそわそわするのがいやだったからだ。しばらくしたらまた確認すればいい。

 だが、その必要はなかった。

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