第17話
チャイムが鳴り、玄関の扉を開くと、なっちゃんが真っ青な顔で立っていた。色を失くした唇が震えている。
わざわざ聞くまでもない。結果は明白だった。
「落ちちゃった」
泣きそうな声でなっちゃんが言った。
なんとなく予想できたことだった。実力もギリギリだったし、何よりあの精神状態じゃ厳しいと思っていた。
「そう。残念だったね」
なっちゃんはおぼつかない足取りで部屋に入って来た。
「話したいことがあるって言ったの、覚えてる?」
「受かったら聞くって話だったね」
「落ちちゃったけど、聞いてもらえないかな」
無理に明るく取り繕って、なっちゃんは笑う。
話を聞くくらい、別にいいよ。
そう言いそうになる心を押し込めて、僕は用意しておいた言葉を投げる。
「約束と違う」
一瞬の沈黙の後、なっちゃんはそうだよねと言った。沈み込むようにして、カーペットに腰を下ろす。部屋は暖かくしてあるのに、コートも脱がずマフラーもとらない。よほど身体が冷えているのだろう。唇にまだ色が戻らない。
「私が大学に落ちて、嬉しい?」
なっちゃんがそんなことを聞いた。彼女らしくない、自嘲的な声色だ。
「それとも、少しはがっかりしてくれた?」
視線もカーペットに落としたまま、僕の方を見ようとしない。
「それを聞いてどうする」
僕は答えをはぐらかした。彼女が大学に落ちたことをどう思っているのか、僕自身まだよくわからない。
「だって、やまと君が言ったんだよ。私に、勉強してって」
なっちゃんはグスンと鼻を鳴らした。
「僕が言わなきゃしなかったの?」
「ここまで頑張ろうとは思えなかった」
そうだろうな。
ずっと前からわかっていたことなのに、僕は改めてなっちゃんを軽蔑した。
「じゃあ君は、僕の反応を見るために勉強してたの? 動機が不純だね」
なっちゃんがようやく顔を上げた。叱られた子どもみたいな顔をしている。
「不純でもいいよ。私にとって勉強も受験も単なる手段だった。私の目的は最初っからやまと君を幸せにすることだったから。私は」
言葉が途切れる。
「私は、やまと君のことが」
彼女の声は震えていた。蒼白だった頬がサッと赤く染まる。言葉の続きは待っていても出て来そうになかった。僕はため息をついた。
「君がそういう感情に基づいて僕を幸せにしようとしてきたのなら、ひとつ許せないことがある」
これは当初より僕が思っていたことだ。なっちゃんのことを受け入れられない決定的な理由。
「君は自分の感情のために、真耶との約束を利用したことになる。真耶が最期に託した願いを、僕に近づく理由にした」
僕にとってそれは絶対に許せないことだった。人間の低俗な事情のために真耶が利用されるなんて、あってはならない。死者への冒涜だ。
「違う! 真耶ちゃんのこともちゃんと考えてた」
なっちゃんは声を荒げた。僕は動じない。
「だけど、心の底にそういう感情があったことも事実だろ。純粋に真耶との約束を守ろうって意志だけで、君はここまで努力できたの?」
食って掛かりそうな勢いで僕を見上げていたなっちゃんは、しゅんと肩を落とした。彼女は自分の非を潔く認める。無理に言い訳を並べたりしない。
「君は悪くないよ。この世界ではこんなのよくあることだ。ただ、僕が許せない。それだけだ」
きっと多くの人がなっちゃんに同情するだろう。彼女はまだ十八歳だ。恋愛感情に裏づけられた行動も罪ではない。ただそこに真耶が関連する以上、僕はそれを認められない。世界の全てがなっちゃんを許すのだとしても、僕だけは。
「ごめんなさい」
長い髪で顔が隠れてしまうくらいうつむいて、なっちゃんは言った。
「謝らなくていい。僕は怒ってもいないし、許すつもりもないから」
なっちゃんは黙った。ごうごうと暖房から風が吹き出る音だけが部屋に流れる。一方的な言葉をただ受け止める少女を、気の毒に思わないと言ったら嘘になる。彼女は三年間も努力を続けてきた。ただ僕のことを想って、一心に。その結果がこれだ。多大なプレッシャーと不安に苛まれ、第一志望の大学に落ち、慰めてももらえない。彼女にしてみればとても無慈悲な状況だろう。だが、世界は基本的に無慈悲なものだ。仕方ない。
「もう僕のことは放っておいてくれ」
僕は今までずっと言いたかったことをようやく口にした。このタイミングだからこそ、言葉は最大限の効果を発揮する。僕は少女を絶壁の崖から突き落した。
「これ以上僕と一緒にいたって、君は満たされないよ。それよりも新しい生活に目を向けた方がいい。君はこれから大学生になるんだ。時間と行動は今よりずっと自由になるし、色んな人とも出会える」
間違いない。なっちゃんには明るい未来が待っている。だけど僕がそれを言葉にしたところで、なんの慰めにもならない。むしろ傷を抉るだけだ。
「君が以前言ったことが正しいのなら、この世界には価値のあるものがたくさんあるんだろ?」
僕には理解できない考えだけど。
「一人の人間がいなくなったからって、それで世界全部が台無しになるわけじゃない。君はそういう考えだったよね」
はっきり覚えている。蒸し暑い七月の午後、彼女は言った。
『真耶ちゃんがいなくなっても、この世界にはまだきれいなものがいっぱいあるよ』
「だったら、君の世界に僕がいなくなることも、大したことじゃないはずだ」
うなだれていたなっちゃんが、ぴくりと肩を揺らす。
「いなくなるって、何?」
鼻声になっている。ずっと涙を堪えているのだろう。
「もう二度と会わないってことだ。まあ、死んだと思ってくれていいよ」
「無理だよ! だって、やまと君は生きてるもん。それなのに二度と会えないなんて、悲しい」
「だけど、乗り越えられない悲しみじゃないはずだ。君の理屈ではそうなる。この世界で、僕以外の価値あるものを見つけたらいい。いつまでも過去の思い出に縋りついてないで、前向きにね」
僕が発した言葉は、全てなっちゃんが以前僕に言ったことだった。自分が言った言葉で追い詰められるのは、どんな気分だろう。
「これが君の選んだ、君が僕に押し付けようとした生き方だ」
なっちゃんはゆらりと顔を上げた。以前は力強い意志に満ちていた瞳が、打ち砕かれた硝子細工のように光っている。瞳から、ぽたりと雫が落ちた。再会してから、彼女がはじめて見せた涙。
「やまと君、あのね」
一筋、二筋と涙を流しながら、それでも口元に笑みを浮かべて、彼女は言った。
「私は、確かに真耶ちゃんとの約束を、やまと君と一緒にいる理由にしてた」
嗚咽をこらえているからだろう。とても息苦しそうに言葉を紡いでいく。
「それでも私は、真耶ちゃんと約束したとおり、やまと君を幸せにしたかった。やまと君に、幸せになって欲しかった」
同じことを、今まで何度彼女の口から聞いただろう。
「私の力だけで幸せにできるなんて思ってなかったよ。だけどせめて、ちょっと外の世界に目を向けさせるくらいはできるかと思ったんだ。それでやまと君が少しずつ楽しいことを見つけられたらって。いっそ他の人を好きになってくれてもよかったんだよ。やまと君がまた笑えるようになるなら、私はそれで充分だった」
意外だ。そんな風に思っていたのか。
なっちゃんは僕に振り向いてほしいんだとばかり思っていた。他の人を好きになってもいいとか、そんな犠牲的な気持ちで努力していたなんて。
「でも、どれだけ考えてもわからなかった。何をしたらやまと君が笑ってくれるのか。私は何をすればいいのか。わからなくて、やまと君に言われたことを一所懸命頑張るしかできなかった。こんなんじゃ、駄目だよね。やっぱり」
なっちゃんは子どもみたいにごしごしと両手で涙を拭った。強くこすったらあとで痛くなるから駄目だって、言ったのに。
「世界の価値を見せてあげられなくて、ごめんね」
これ以上涙を見せまいというように、彼女は立ち上がった。そのまままっすぐ玄関に向かう。靴を履き、ドアノブに手をかけてこちらを振り向いた。
「もう、自由にしてあげるよ」
何も言えず立ち尽くす僕に、少女は微笑みかけた。扉を開く。冷たい風が一気に入り込んできた。赤く腫れた目にその風を受けながら、彼女は小さく手を振った。
「さよなら」
扉が、音をたてて閉まった。
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