森笛のトルシエ
八枝ひいろ
第1話
風にそよぐ枝垂れが、まだやわらかい日差しを散らす朝。
亜麻色の髪をした少年トルシエは、苔むした根に背をあずけて、足元に露がしたたるのを目で追いながら、清澄な森の空気を感じとっていた。
今日はひときわ心地のいい朝だった。夜分に降った霧雨はやみ、ほどよい湿り気が木々を包みこむようにただよっている。そのせいか木肌のにおいが濃く、土もほぐれていて空気と溶けあうようだ。トルシエはほほえんで目を閉じると、大きく息を吸って、吐く。森の吐息、みずみずしい深緑の芳香が体にしみわたっていく。
トルシエが腰かけ、いとおしそうになでている老木は、広大な森の中でもいちばんに背の高い霊樹だった。むき出しの根はトルシエの胴回りの倍はあるし、滝のように流れ落ちる枝垂れは天から降り注いでいるのかと見紛うほどだ。森の主として、遥か高みから木々を見守り、生き物たちをはぐくんでいる。もちろん、トルシエもその一員だった。
トルシエは目を開くと、懐からこぶし大の塊を取りだした。一目で老木から作られたとわかるごつごつした質感で、ところどころ穴が開いている。穴に指をあてて吸い付くような感触を確かめると、先細った吹き口をくわえ、ゆっくりと息を吹きこむ。
流れだす旋律。
はじめは地鳴りのような低音が幹をつたって駆けぬけていった。両手に収まるほど小さい笛の音とは思えない、力強い振動がまどろむ鳥たちを揺さぶり起こす。しだいに共鳴りが強くなり、あるところで霊樹の拍動をつかまえると、笛そのものの音色に混ざって霊樹の心音が笛をふるわせるようになる。トルシエはその動悸に身をゆだね、とん、ととん、と足踏みしながら拍子を整えていく。
穴を押さえる指を離して鋭く息を吹きこむと、解放された歌声がはばたき、木々の間をぬうようにして飛びたっていった。生命の息吹にあふれた喜びの奔流は、またたく間に広大な森を満たし、トルシエと、その依り代である霊樹と一体となって鳴動する。鳥のさえずり、枝葉のすれ合う音が重なり、森がひとつの生き物として歌いだす。
うつくしい旋律、潮流の中心にいるトルシエは、全身の感覚を森のあらゆる場所に這わせているのだった。今やトルシエの体は森そのものであり、蟻の足音、花の香り、木の中を流れる樹液の味さえも感じとることができた。
だから、トルシエは明らかに異質な存在が、森の中にいることに気がついた。
命をふるわせる力強い旋律はしだいに穏やかになり、森の中に拡散していた意識がトルシエの体に戻ってくる。はやる気持ちを抑えながら慎重に最後の音を伸ばすと、残響が収まるのを待ってトルシエは駆けだした。
木の根の場所も、小石の場所も、獣が穴を掘って巣にしている場所も、トルシエは一つ残らず知っている。自分の通り道をこころえた疾風のように幹のすきまを走りぬけていく間、くせのついた前髪に隠れがちな双眸は何も見ていない。しかしわずかに染みだした期待と不安、そして無垢な好奇心が瞳の中で飴色にまたたいていた。
森のはずれ、立ち止まった場所は、金臭いにおいに満ちていた。
平和な森にはそぐわない、濃密な血のにおい。
まばらな木立の中、まっすぐ差しこむ木漏れ日が朝もやを切りとって、行き倒れた少女を浮かびあがらせていた。まず目に入る血のあざやかさ。腹部から流れだす紅花と同じ色彩に魅入られて、トルシエは惚けたように立ちつくしていた。きゃしゃな体躯にうち捨てられた黒髪はぼさぼさで、血と泥にまみれてひどいありさまだ。かろうじて体の線を隠しているぼろ着から投げだされた腕にも、切り傷がびっしりと浮いている。しかし手には使いこんだ風の短刀がしかと握られ、ぎらりと光ってにらみをきかせていた。
外の事情にうといトルシエにも、襲われて逃げてきたのだと知れた。
「たいへんだ!」
頓狂な声をあげ、あわてて介抱を始める。その様を見下ろしながら、森はひさかたぶりに聞くわめき声に戸惑うかのように、さやさやと枝葉を揺らしているのだった。
枯草の寝床でけが人が声をあげたのは、半日が過ぎてからのことだった。
「ええっと、大丈夫?」
トルシエがおそるおそる覗きこむと、少女は苦しそうに顔をゆがめて身じろぎをする。筋の通った鼻、きりりとした眉に意志の強さが感じられるが、まだ幼い。トルシエとさほど変わらない歳に見えた。肌はよく日に焼けていて引きしまった体つきをしているが、それだけに傷は生々しく、痛ましい。傷口を洗い、摘んできた薬草で手当てをしたものの、腹部の傷はかなりの深手で予断を許さない状態だった。
不意に、少女はかっと目を見開いてはね起きた。
鉛色の視線をさっと薙ぎはらい、少女は机に置かれた短刀を見つけてかすめとる。トルシエが口を開くより早く、刃を抜いて振り上げた。
「ぐっ!」
絞りだしたようなうめき声。しかしそれはトルシエのものではなかった。
少女は膝から崩れ落ちて、手をはなれた短刀がかりからんと音を立てる。短刀は乾いた血がこびりついていて、まるで錆びて朽ちたかのような古ぼけた色合いをしていた。板張りの床に倒れた少女は肩で息をしながら、上目づかいにトルシエをにらみつけ、得物を拾おうと懸命に腕を伸ばしていた。
「だめだよ、無理しちゃ。傷が悪くなったらどうするの」
トルシエはそう言って、少女に手を差しのべる。それに鋭い視線を飛ばしながら、少女はふがいなさそうに歯ぎしりをした。
「……殺せよ」
得物を探る手を引っこめて、少女は言った。
「え?」
「俺はお前の世話を受ける気はねえ。お前がよほどお人好しならもらうもんはもらって出ていく。そうでないなら、ここで殺せ」
まだ子供とは思えない迫力のある物言いだった。眼光は獣のごとく、研ぎすまされた刃のようにも見えた。しかしトルシエはおびえるでもなく、小首をかしげて目をぱちくりさせていた。
「殺すって、どうして? ボクはキミを食べるつもりはないよ」
「……は?」
今度は少女の方があっけにとられる番だった。あまりびっくりしたので、トルシエが短刀を拾って机に戻すのにも気がつかず、黙って見ているだけだった。
「そんなことよりさ! ねえ、キミはなんて言うの? どこから来たの? えっと、傷は痛まない?」
トルシエがうきうきした様子で、ぐいっと顔を近づけて矢継ぎ早に尋ねるので、少女は思わずたじろいだ。
「うるせえ、どうだっていいだろ! だいたい……」
「どうだってよくないよ!」
大声でさえぎるトルシエだが、怒っているのではなく、むしろずいぶん楽しそうな表情をしていた。ぴょこぴょこと飛びはねてその場で一回転すると、麻布の簡素な衣がひるがえる。
「ボクにとっては初めてのお客さんだもん。鳥さんに話しかけてもつまんなくてさ。歓迎するから、ゆっくり休んでいってよ。できれば森の外の話を聞かせてくれると嬉しいなあ、なんて」
トルシエは照れくさそうにはにかむと、もう一回くるりと回ってから囲炉裏に向かう。囲炉裏には土鍋が吊るされ、糸のような細い湯気が煙出し窓に向かってたなびいていた。
「……お前、ずっと独りで森にいるのか?」
少女はおどろいた様子で、低い声で尋ねた。
「そうだよ。このくらいのときから、ずっとね」
囲炉裏の前にかがみこんだトルシエは、自分の頭の高さで手をひらひらさせる。年齢にして三、四歳くらいだろうか。
「だからこの森のことは何でも知ってるよ。逆に、森の外のことは何も知らないんだ」
「……そうか」
それっきり黙りこむ少女をよそに、トルシエは土鍋の中身を椀によそうと、ふうふう吹いて冷ましながら持ってきた。
「はい、おなか空いてるでしょ?」
少女は顔をしかめてそっぽを向く。施しは受けないという意志の表れらしいが、そう長くはもたなかった。鼻をひくひくさせ、口をへの字にして椀をひったくると、そのままむさぼるように食べはじめた、のだが。
「つっ!」
熱かったらしい。咳きこみそうになるのをこらえて飲みこんでから、舌をだしてあえいでいる。
「あわてないの。ゆっくり食べても逃げないんだから」
トルシエが笑うと、少女はむっとした様子でにらみつける。しかしその鉛色の目に、追いつめられた獣の鋭さはなくなっていた。
「……ラント」
恥ずかしさにうつむいた少女が、ぼそりとつぶやいた。
「うん?」
「名前だよ! ラント=ミーロック。お前は?」
噛みつくような口調で名乗るラントに、トルシエはにっこりと笑いかける。
「ボクはトルシエ。『森の住人』って意味だよ。よろしくね!」
握手を求めて手を差しのべるトルシエ。ラントがそれを胡乱げに見つめながら無視を決めこんでも、トルシエは手を引っこめようとはしなかった。気まずそうに眉根を寄せるが、ふと何か思いついて、ラントは椀の残りを飲み干した。
「おかわり」
ラントはそう言って、自分の手ではなく、空になった椀をトルシエに握らせたのだった。
トルシエの手当ての甲斐もあって、ラントの回復にはめざましいものがあった。数日で傷はふさがり、立って歩けるようになるまでもさほどかからなかった。
「それにしても、よく食べるねえ」
「ほっとけ。お前が少ないんだよ。よくそんなんで足りるよな」
二人は囲炉裏に向かいあって座り、椀を片手に駄弁っている。目の前にはトルシエが狩ってきた兎の肉が吊るされ、脂をしたたらせてじうじうと音を立てていた。ラントは椀を置いて短刀を手元に引き寄せると、もも肉を無造作にもぎ取ってかじりつく。もう満腹なトルシエはあきれながら、先に片づけを始めていたのだった。
「さて、と」
ラントが食べ終える間にあらかた片づけると、トルシエは火ばさみを持ってきて、まだ熱をもった炭火を石の箱につめ始める。トルシエが外出前にいつもしていることだった。万が一火事でも起こしたら大変なので、火の管理には気を遣っているらしい。
「前から思ってたんだが、それは木でできてんのか?」
火ばさみをさし示してラントが聞く。黒光りする質感はとても木には見えないが、うっすらと木目が浮いていて、先端は焦げてくすんでいた。
「え、そうだけど。どうして?」
「……どうして金属を使わねえんだ? もしかして知らないのか?」
ラントは傍らに置いていた短刀を持ちあげて、鞘から抜いて刀身をのぞき見せる。こびりついた血はもう落としてあり、刃は凶暴な輝きを取り戻していた。
「それくらい知ってるよう。でもボクには作れないから、森にあるものしか使えないんだ」
「ふーん。しかし、よく燃えねえよな。なんて木でできてるんだ?」
「名前はないよ。ボクがわかればいいんだから、名前を決める意味がないもん。なんならキミが名前をつける?」
「俺が? ……いや、遠慮しとく。しかしその木は見てみてえな」
ラントは手をついて立ちあがり、短刀をくるりと回して革の腰紐にゆわえる。
「なあ、出かけるんだろ? 俺も連れてってくれよ。体がなまって仕方ねえ」
それを聞いて、トルシエはぱっと顔を輝かせた。
「もちろんだよ。ボクもそろそろ森の中を案内しようかなって思っていたんだ」
「ずいぶんと嬉しそうだな」
何気なく聞きながら、ラントは短刀に手を伸ばし、油断なくトルシエの様子をうかがっている。かいがいしく手当てをしてくれたトルシエの無邪気な顔を見てもその真意を探らずにいられないのは、体に染みついた病的な習性というほかなかった。
「そりゃあ、ずっと暮らしてきた場所だもん。自慢したくもなるよ。ほら、ついてきて!」
手招きするトルシエについてラントも外に出る。トルシエに運びこまれて以来、一歩出るのもラントには初めてのことだった。小屋の中まで木のにおいが染みとおってくるから、鬱蒼とした茂みが天蓋を作っているものとばかり思っていたが、外は存外開けていて明るく、日のまぶしさにラントは目を細めた。
茅葺の小屋の隣には炭を作るためだろうか、石造りの小さな窯があり、ぶかっこうな石斧が立てかけられていた。本当に金属は使わないらしい。兎を解体したと思われる、血の染みこんだ切株の上にも黒曜石でできた刃物が置いてあった。
「おい、あれって砥石か?」
井戸の方を見てラントが言った。石を積み上げた囲いの縁に、表面が平らになった灰色の石が置いてある。
「うん? ああ、硬くて平らだから、他の石を削るのに使ってるよ」
「ちょうどいい。使わせてくれ」
指の腹でなでてきめの細かさを確かめると、ラントは短刀を抜いて刃を眺める。刀身は肉厚で短く、取り回しのいい丈夫な得物だったが、よく見るとそこかしこに刃こぼれがある。命からがら逃げてきたのだから当然のことだが、よくもまあ生き残ったものだと改めて思うのだった。
「それにしても、どうしてキミはあんなところに倒れていたの?」
慎重に短刀を研ぐラントは返事をしない。しかし聞いていないわけではなかった。
「襲われて逃げてきたんだよね。でもなんでわざわざ人間なんか襲うんだろう。そんなにおいしそうじゃないと思うんだけどなあ」
「あのな、どうしてそういう発想になるんだよ」
「何が?」
小首をかしげるトルシエを見やってため息をひとつ。ラントは研ぎあがった刃を確認すると、素早く鞘に収めて腰に吊るした。
「人間を食べるって発想だよ。そんなことするわけねえだろ」
「え? 動物を襲うのって殺して食べるためじゃないの?」
素朴な疑問に、ラントは言葉を失った。隔絶した森の中でたった一人、真の孤独というのはこういうことなのだと思い知らされた気分だった。
「……いろいろ、あんだよ。外の世界は」
興味津々なトルシエの視線をかわして、ラントはふらふらと歩き始める。自分の身の上は全く話さなかったし、話す気もないのだった。
「ほら、案内してくれるんだろ? 俺が前歩いてちゃしょうがねえじゃねえか」
言うと、トルシエはそれ以上詮索することもなく、ぴょこぴょこと飛びはねながらラントの前に出る。
「それじゃあ、行こうか」
そうして、トルシエは意気揚々と森の案内を始めたのだった。
「これが、森の主だよ」
枝葉が空を侵し、根が大地を食らう霊樹の前に、トルシエとラントは並んで立っていた。
「……静かだな。気味が悪い」
「獣も鳥も寄りつかないからね。それどころかほかの植物も生えない。このあたりの養分と日光はぜんぶこの樹が独占しているんだ」
天を衝く樹幹もさることながら、ラントには音だけを濾しとったような静寂が不気味でならなかった。生気のない静寂ならいくらでも覚えがあるが、ここは立っているだけで霊樹の気配が肌にびりびりと伝わってくる。一体の空間をまるごと支配し、すべて自分色に染めあげてしまう圧倒的な生命力。ラントは今にも自分が異物としてはじき出されてしまいそうな気がして、落ち着かないのだった。
「迷惑な木だな。見たところ、木の実のひとつもつけねえんだろ? 取るもんはぜんぶ独り占めして、なにも還元しねえなんてさ」
「そんなことはないよ。見て」
トルシエは根を乗りこえ乗りこえ、霊樹の幹までよじ登る。トルシエが暮らす小屋がすっぽり入りそうな大きさの幹はごつごつしていて、岩と見紛ういかめしさをそなえている。トルシエの肩越しにその木肌を見やると、ひび割れから山吹色のねっとりとした液体が染みだしているのがわかった。
「それは?」
「森の血、森の主の樹液だよ」
言って、トルシエは水飴のようなそれを手ですくい取り、舐めはじめた。
「とても滋養があるんだ。傷の治りにもいい。キミが気に入るかどうかわからなかったから出さなかったけど。よかったら食べていきなよ」
ラントは身を乗りだして、おそるおそるすくい取る。べたべたしているのかと思いきや、空気に触れたところから固まって、手にはほとんどつかなかった。樹液というより樹脂というほうがしっくりくる。
「……うまい」
おおよそ甘いのだが、甘いだけというわけでもなく、苦みや渋みも混ざった不思議な味だった。滋養があるというのもなんとなくわかる。
「でしょう? ボクも大好きなんだ。これがなきゃ生きていけないよ」
「しかし、樹液とは思えないな。なんでこんなに粘りがあるんだ?」
「この樹、ずいぶん大きいでしょ。さらさらな樹液だと上までのぼっていかないんだ。だけどその分流れはゆっくりで、根からの養分がてっぺんに届くまで数年はかかるんじゃないかな」
「そういうものなのか……俺にはよくわからんが」
ほうけたように霊樹を見あげながら、霊樹の生命の営みに思いをはせるラントだった。
「実はね、この樹には心臓があるんだ」
「心臓? 植物なのにか?」
「うん。普通は葉っぱで水分を吐きだすことで根から養分を吸いあげるんだけど、それだけじゃとても力が足りないから、樹液を循環させるために幹のあちこちに心臓があるんだ。耳をすませば心音が聞こえるよ」
「……わからねえな。耳はいい方だと思うんだが」
いくら集中しても、耳に貼りつくような静けさのほかはなにも感じることができない。それこそ、自分の心音が聞こえそうなほど静かだった。
「難しいよね。でも、笛吹きには必要なことだから」
「笛吹き?」
「そういえば、言ってなかったね」
トルシエが懐から何か取りだしたので、ラントは思わず身構えた。
「森笛だよ。今から吹くから、悪いけどしばらく静かにしててね」
見れば、確かにそれは笛だった。楕円型で、ところどころ丸い穴が開いている。とがった吹き口、霊樹と同じ巌の色。
ラントは何か言おうとして口をつぐんだ。トルシエが自分の口に指を当てて合図したからだった。トルシエはまた幹を少しよじのぼり、木肌に背をあずけて、目を閉じた。
トルシエが笛に口をつけ、地鳴りのような振動が生まれると、ラントは思わず声をあげそうになった。振動はどんどん強くなり、霊樹の根の外まで伝わっていく。そのうち、ラントの耳にも霊樹の心音が聞こえてきた。すさまじく低くゆっくりだったが、大地がうねるような力強さを持っていた。
見上げると、トルシエは心音に合わせてゆらゆらと体を揺らし、足踏みをしながら拍子を整えていた。ラントにはその姿に、この世ならぬものの風格、何か決定的なものが少しずれた場所に存在しているかのような、言いようのない神秘性を感じずにはいられなかった。
心音が近づいてくる。ラントは、生命を揺さぶる律動が自分の体に染みとおってくるのを感じて総毛だった。しかし不思議と不快感はない。自分の足に根が生えて、森とつながったかのような感覚だった。実際、森の中のあらゆる生命が霊樹の心音を肌で感じているに違いないと、直感的に理解できた。
どくん。ひときわ大きく心音が鳴りひびく。
そして、森が歌いだした。
「何だったんだ……今のは……?」
歌声の余韻が消えてしばらくしてから、ラントはようやく声を出した。あまりの出来事にぼうっとなって、腰を抜かしてへたりこんでいた。
「霊樹の力だよ」
ひょこひょこと軽い足取りで、トルシエはラントのところまで降りてきた。笛を吹いていた時の神秘的な雰囲気はすっかり消え、亜麻色の髪を揺らす姿は純朴な少年そのものだった。
「この森は、本当ならとっくに滅んでしまっているはずなんだ」
まだ頭が回らないラントはうんともすんとも言わなかったが、トルシエは一方的に話しつづける。あるいは、自分に言い聞かせているのかもしれなかった。
「この森には『調和』がない。霊樹をはじめとして、木の生命力が強すぎるんだ。昔はね、もっと木がひしめいていて昼間でも真っ暗だったよ。下草は生えないし獣も住めなかった。しかもここの木は葉を落とさないし朽ちないから、みるみる土の栄養がなくなって、いずれ枯れ木だけが立ち並ぶ死んだ森になる」
「それで、どうして笛を吹くんだ?」
「『調和』を保つためだよ。霊樹を中心に森中の生命が同じ歌を共有することで、互いのことを思いやれるようになる。木々の行きすぎた成長を抑えるんだ。森を管理していると言っていいかもね」
にわかには信じがたいが、ラントが体験した感覚はそれを裏づけるものだ。ラントはよろよろと立ちあがり、ゆっくり深呼吸をする。自分の意識がこの矮小な体に戻ってきたことにまだついていけなくて、めまいがした。
「それが、お前がここにいる理由か?」
「そうだよ。この森は笛吹きがいないと生きていけない。森にとってボクは必要だし、ボクにも森は必要なんだ」
「……たった独りでもか」
「さみしくないのかって? ボクの意思は関係ないよ。誰かは必要だし、ボクは森に選ばれた。それだけのことさ」
「……わかんねえな」
ラントは首を振って、まっすぐにトルシエを見た。鈍い鉛色の目の中で、不安と憤り、迷いと憐憫がないまぜになって渦まいていた。
「どうしてお前は耐えられる。話す相手すらいない本当の孤独に」
「知らないからだよ」
何のことはないと言わんばかり、トルシエはいたって気楽に答えた。
「ボクにとって、キミは人生で二番目の人間だもん。一番目はこの森でボクを拾ってくれた育て親。ずいぶん前にいなくなっちゃったんだ。そりゃあ、そのときは悲しかったけれど、そもそもボクはたくさんの人間と暮らす楽しさを知らない。知らないものを望むことがあるかい?」
「俺も……」
ラントはうつむいて口ごもる。トルシエが心配そうに覗きこむと、しかし、今度は堰を切ったようにしゃべりはじめた。
「俺も、平和な世界を知らなかった! 生まれてこのかた、軍の連中を恐れて逃げない日はなかった。仲間の叫び声を聞かない日はなかった。だからこそ、俺は……」
ラントはそこで目をそらす。嗚咽がこみあげるのを噛み殺し、きょとんとした様子のトルシエに背を向ける。
「知らないものは望まないだって? そんなのは、違う」
つぶやくと、ラントは一目散に駆け出した。その背中から涙のにおいがしたことに気がついて、トルシエは茫然と立ちつくしていたのだった。
その晩、ラントはひどい夢を見た。
目の前に道があった。長く果てしなく、水平線まで続いているまっすぐな道だ。赤茶けた土が敷かれている整備も何もない道だが、とりあえず平坦で、走りやすそうな道だった。
その道の両側に、人間の首がずらりと並んでいた。
首は老若男女さまざまだったが、共通点もあった。誰も彼も一様に真っ黒な髪、銀色の目をして、顔面に恐怖を張りつけて怨嗟の叫びをあげているのだった。
ラントはその道を死にもの狂いで走っていた。まわりの首と同じくなびく髪は漆黒で、見開かれた目も鏡のような銀色をしていた。
首から流れだす血が海となり、ラントの背後に濁流となって押し寄せていた。背中に生あたたかい血しぶきを浴び、ぬるりとした臓物に足を滑らせまいと歯を食いしばりながらラントは走る。時折目の前に投げだされる同族の首をかわし、あるいは泣きながら斬りはらう間も、決してラントは足を止めなかった。
ずいぶん長い間その道を走っていた。心臓が燃えつき、精神がすり切れるぎりぎりのところにラントはいた。しかし、ふと気がつくと道はなくなっていた。首も血も、どろどろした怨念の気配もすっかり消えていた。いつの間にかまっさらな直方体の空間に、返り血をぼたぼたと垂らして立っていた。
目の前に人影があった。首のつながった人影だった。髪は黒ではなく、目は銀ではなく、波打った色の薄い金髪に翡翠の目をもつ、人形のような少女だった。麦わら帽子が飛んだ拍子にこちらを振り向いて、驚いて、それから慈しむようにほほえんで、手を差しだしてきた。
ラントは涙をこらえられなかった。今までの、煮え湯か油のようにたぎる熱い涙ではなく、人肌のあたたかさを持った濁りのない涙だった。ラントは体の力が抜けて、その場に倒れた。少女は麦わら帽子など見向きもせずにラントに駆けよると、また手を差しのべる。ラントは迷わずそれにすがった。
握った少女の手は、氷のように冷たかった。
はじけるような笑顔のまま少女の首がころりと落ちて、ラントは頭から彼女の血をかぶった。同時に四方の壁が音を立てて崩れ落ちる。外はごうごう燃えさかる炎に包まれ、深緑の安全帽を目深にかぶった兵士たちが銃を構えて立っていた。人殺し、黒髪の悪魔、銀目の忌み子。幾通りもの罵倒の声をラントはからっぽの心で聞いていた。おもむろに天をあおげば、吊りさがった真白の天井に取りついて、赤髪の少年がくすくすと笑っていた。その手には血みどろの刃と飛んでいったはずの麦わら帽子。その姿はやがて霧のようにかき消えて、跡形もなくなってしまった。
降り注ぐ弾丸の嵐。我に返ったラントは金髪少女の首を放り投げて、また走りだした。その目にもう涙はなく、銀色の輝きも失ってよどんだ鉛色になっていた。短刀を振りまわして切り開く道、そこにラント以外の足跡はない。それきり、ラントはいつだって孤独だった。
「ずいぶんうなされていたね、大丈夫?」
目を覚ますと、トルシエが声をかけてきた。それには構わず、ラントは無言で寝台から這いだす。昨日はあれきりトルシエと言葉を交わしていなかった。
「……知らないものにあこがれたこと、本当に一度もないのか?」
ラントは唐突に尋ねる。寝起きのたわごとと思われたならそれでもよかったが、トルシエはいたって真面目に答えた。
「ないね。昨日までは、だけど」
「……昨日まで?」
トルシエは静かにほほえんで、うなずいた。その表情が夢の中の少女、いや、記憶の中の少女と重なって、ラントは戦慄した。
「うん。昨日のキミを見て、森の外も見てみたいなあって思ったよ。涙を流す人なんて初めて見たから。きっと今のボクには想像もつかないようなことがいっぱい、いーっぱいあるんだろうなあって思うと、ちょっとワクワクしちゃった」
「違う! 外は地獄だ。人間が人間でなくなる場所だ! だから……」
そこまで言って、柄にもなく怒鳴り散らしたことに気がついて、はっとなった。
「……悪い。夢を壊すようなことを言って。だが、外に出たいなんて思わない方がいい。きっと後悔する」
口にした後で、トルシエの髪は亜麻色、目も飴色であることにラントは気がついた。そもそも同族でないならば、トルシエはラントとは違う人生を歩むことになるだろう。そう考えると、ラントにとっての外の世界とトルシエにとっての外の世界は別物であって、とやかく言うことではないような気もした。しかし、ラントにはそれを説明する言葉が思い浮かばない。
一方でラントの心中を知ってか知らずか、トルシエは言う。
「ううん、そんなことはないよ。たとえ外の世界が悲しみに満ちていたとしても、ボクは見てみたい。この森には悲しみや苦しみ、怒りなんかはほとんどない。作り物の薄っぺらい喜びしかないって、キミを見ていて思ったんだ」
「それは……」
昨日のあの感覚を作り物の薄っぺらい喜びという一言で片づけていいものか、ラントにはわからなかった。森が一体となった瞬間の奔流を冷静に振りかえることなどできないが、そんな単純なものではなかったように思う。
「ところで、キミはどっちなの?」
「は?」
「外は地獄、森は孤独、キミはどちらも好かないみたいじゃん。傷もそろそろ大丈夫みたいだし、とどまるか出ていくか、キミはもう決めているの?」
能天気な顔をしながら痛いところをついてくる。確かに、ラントは自分がそのことを考えもしなかったことに驚いた。
「さてな、勝手にやるさ。お前はどうなんだ? 外を見たいと言いながら、森に未練もあんだろ?」
しかし動揺はおくびにも出さず、適当にごまかすだけの冷静さは取り戻していた。
「それは考えても仕方のないことさ。森が決めることだよ」
トルシエもそう言い切ると、そこで会話は途絶えた。
ラントはいつもと同じように、枕元に置かれた抜身の短刀を鞘に収めて腰に吊るす。軽く伸びをしてから外に出る。雑多な生活空間の真ん中でふと思いついて短刀を抜き、久々に素振りをしてみた。
いつになく体が軽いことにラントは驚いた。もちろんけがで弱っていた直後だからというのもあるが、そのぶんを差っ引いてもいい動きができるように感じる。上下左右の斬り払い、短刀を手にしたままの受け身。調子に乗って、怪我が治ったばかりにも関わらず普段通りの練習をこなしてみたが、ほとんど息があがらなかった。
森の血を舐めたからだ。ラントは直感的にそう思った。
「少し散歩してくる」
小屋の中のトルシエにそう言い置いて、ラントは独り歩きだした。昨日トルシエに連れられ回ったばかりだったが、森にとどまるか去るかを決めるならば、一度独りで見て回るべきと思ったのだった。
気がつけば、ラントは霊樹の前に立っていた。人間のみが立ち入ることを許された聖域、笛の音の依り代であり、また森のあらゆる生命の依り代でもあるそれは、今日も変わらず悠然とそびえ立ち、空と大地を覆っているのだった。
思えばこの森にとって霊樹は支配者であり、社会で虐げられてきた身の上としてはもっとも憎むべき存在であるはずだった。ただ、ラントはこの霊樹がさほど嫌いではなかった。はじめこそ異様な静けさに気味悪がったものだが、それも森全体の歌声を引きしめているのだとわかった。沈黙はすなわち死ではなく、生の奔流を蓄えるための休息であり、霊樹は森の生を一手に担っているのだ。一手と言わず一枝と言うべきかもしれないが、ともかく、ラントは自分の同族をことさら毛嫌いする外の世界での支配者より、霊樹をよほど好ましく感じるのだった。
ふと、この森で黒髪銀目の同族と暮らせたらどんなにか幸せだろうと思いついた。
それまで、ラントは外の世界から逃げてこの森にとどまるか、同族とともに最期まで外の世界で戦いぬくか、という考え方をしていた。正直、ラントは森にとどまりたいと思っていた。仲間の死に顔を見るのが嫌で、別れの悲しさが嫌で、裏切られるのが嫌で、ずっと孤独に生きてきたのだ。ようやく平和に過ごせる場所を見つけたのだから、一族としての誇りなど捨て去って、明日の命を憂う生活など忘れたかった。
しかし、この森はラント一人を受け入れるだけではもったいない。他に人を連れてきて一緒に暮らすことができるはずだ。我ながら素晴らしい思いつきだと、ラントは興奮していた。この場所がばれて攻めこまれる可能性はないではないが、風のうわさにも聞かぬこの森なら、見つからずに済む見こみはありそうだ。
「俺は、森を出る。そしていつか、仲間を連れて戻ってくる」
霊樹の前でラントは宣言する。それに返事をするかのように、ラントの頭上で枝垂れがさやさやと音を立てた。
その瞬間、天地が逆転した。
猛烈なめまいと吐き気に、ラントはもんどりうって倒れた。霊樹の根に足をしたたかに打ちつけて、頭の芯までびりりと衝撃が走った。
突然の出来事にラントは錯乱し、ひどく青ざめた。何が起こっているのか全く理解できない。恐ろしくてしょうがなかった。動悸がひとりでに早くなり、口の中がからからに乾く。冷や汗が噴きだし、手足が鉛のように重くなって地面に貼りついていく。そのうち、頭の中が白んできた。
と、めまいが始まったのと同じくらい唐突に体の枷が外れた。ラントははじかれたようにはね起きると、無心に根を乗りこえ、幹をよじのぼる。そこから先は何もわからなくなった。
「俺は、いったい何を……」
ラントが我に返ったとき、目の前には木肌のひび割れがあり、手には霊樹の樹液、森の血がこびりついていた。鼻孔にはそのにおいが残っている。昨日はほとんど無臭に感じたのだが、今このとき、森の血は芳醇で甘美な香りをまとっていた。嫌な予感がして、背筋をぞろりと悪寒が這いあがった。
「森に選ばれたんだね」
背後にトルシエの声を聞き、ラントは驚いて振りかえる。しかし、振りかえったラントはさらに驚愕した。
「誰だ……お前」
立っているのは小柄な少年で、顔だちも背格好もトルシエそのものだったが、癖のついた髪はカラスの濡れ羽色で、目はうつくしい銀色をしていた。
「トルシエだった人間だよ。もう元の名前は忘れてしまったけど。そうだね、折角だしキミの名前を借りていこうかな」
「何をわけのわからねえこと言ってんだ! どういうことだよ、これは!」
怒鳴り散らすラントに、少年はどこか悲しそうな表情で、淡々と説明を始める。
「キミは森に選ばれたんだ。今のキミには森の血が通っている。森の血なしでは生きていけない体になってしまったんだ。今日から君がトルシエ、『森の住人』だよ。逆にボクは森に嫌われて、トルシエではなくなった。生来の姿に戻った代わりに、森の空気をしばらく吸えば死んでしまう。だからボクは出ていかなければいけない」
森の血なしでは生きられないという言葉に、ラントは嫌な予感が的中したのだと悟った。
「これは……森の血は、麻薬なのか……?」
「マヤクってものはボクにはわからないけど、たぶん想像の通りだと思うよ。トルシエにとって森の血は薬でもあり毒でもある。森笛で霊樹とつながり、森を総べることができるようになる代わりに、定期的に摂取しないともだえ苦しんで死ぬ。あと、副作用として髪と目の色が変わるんだ」
言われて、ラントは自分の髪を一房持ちあげる。見慣れた黒いぼさぼさの長髪は見る影もなく、トルシエのそれによく似た亜麻色に変わっていた。
「てめぇ! 騙したな!」
ラントは短刀を抜いて刃を振りあげ、ようとした。しかし手足がしびれて力が入らない。幹に寄りかかって倒れ、憤怒の形相でにらみつけるラントに、黒髪の少年は静かに言った。
「それは違う。ボクだってこうなるとは思わなかった。ぜんぶ森が決めたことだよ。霊樹は森の血を舐める人を見極めて、その成分を変える。ボクが舐めた血とキミが舐めた血は全然別のものだ。キミはボクよりトルシエに向いていると、森が判断した。それはボクらの理解を超えるできごとだ」
「ふざけるな! 俺は、森の外で……」
怒りがふつふつとこみあげてくる。それでも、ラントはトルシエ、いや、元トルシエの少年が嘘を言っているようには思わなかった。それだけの力がこの森に備わっていることははっきり知っているのだった。
少年は懐から森笛を取りだして、ラントの前に置く。笛とラントを見比べる目には、名残惜しさが透けて見えた。
「じゃあね。短い間だったけど、楽しかったよ。キミのおかげで新しい世界を垣間見ることができた。これからは自分の目でしっかり確かめてくる。キミも最初は慣れないと思うけど、わざわざ森がボクをさしおいて選んだんだから、充分素質はあるはずだ。何とかなると思うよ」
「……待て、お前、その姿で外に出るのか?」
漆黒の髪、銀の目、ラントは少年の生来の姿がまさしく同族のそれであることに気がついて、頭が芯から冷えていくのを感じた。時代の支配者に悪魔の子と蔑まれ、無差別に殺害されている一族。少年は殺してくださいと書いた看板を背負って、右も左もわからない世界に飛びこんでいくのだと、ラントは悟った。
「持ってけよ」
震える手で短刀を放り投げ、ラントが言った。
「え、いいの? 大切なものなんでしょ?」
「森笛と釣り合うのはこれくらいしかねえからな」
戸惑う少年に、ラントはぶっきらぼうに言う。少年の顔に、血と炎の幻影が重なって見えた。
「いいか、殺すことを躊躇うなよ。武器は使ってこその武器だ。ぎりぎりの状態で使わずに済む方法を考えていれば、いずれ必ず限界がくる」
殺すことは食べることと言った少年に伝わるはずがなかったが、少年はいかにも神妙にうなずいた。真に迫った物言いに何か思うところがあったのかもしれない。
「生き残れよ。そしたら、いつか俺が得物を取り戻しに行く」
「わかったよ。ありがとう」
そう言って、何とか腰に短刀を吊るすと、少年、ラント=ミーロックは去っていった。
初めはゆっくりと、しだいに力強い足取りで、二度と振りかえることはなく。
その別れはあまりにもあっけなく、その背中はあまりにも小さかった。
「あのとき、なんで行かせちゃったかなあ」
夜風に揺らめく枝垂れが、星々のまたたきをさらう時分。
亜麻色の髪をした少女トルシエは、ごつごつした木肌に背をあずけて、遠くに秋の虫がさざめいているのに耳を傾けながら、おだやかに眠りゆく生命の息吹を感じとっていた。
トルシエは、もうとっくに森笛を使いこなせるようになっていた。森中の生命と同調して一つの歌を歌いあげる感覚は、かつてのトルシエが言うように作り物の薄っぺらい喜びなどではないと、今なら自信をもって言い切れる。それはまさに一つになる喜びであり、各々の悲しみや苦しみ、怒りなどあらゆる感情が重なり合ってこそ、初めて奏でられる賛歌なのだ。
しかし、かつて傍聴者として聞いたあの歌声にはいまだたどり着けていない。それは今でも悔しいし、惜しい。だからあのとき引き止めるべきだったと、ときどき考えてしまうのだった。
ここにとどまったことは、結果的には正解だったとトルシエは思っていた。将来、黒髪銀目の同族たちを招くのだとしても、孤独に走ったかつてのラントにそれができる人脈はなかった。自分にできることはひとところに腰を据えて、待つことだ。いつか誰かがやってきたときのために、この森を枯らさずに守ることだった。
最近、森の歌声を森の外まで響かせることはできないだろうかと考えている。旋律を変えたり、共鳴りが大きくなるような場所を探したり、いろいろ工夫をして少しずつそれができるようになってきている。この森は人間を嫌い、自身に不要と判断すれば毒をまいて遠ざけるが、トルシエだって森の一部であり、少しばかりは森の意思を担っているのだ。人と共生する意義を、いつかこの森がわかってくれる時が来ると信じている。
気がつけば、しずしずとさんざめく虫たちも眠りについたようだ。聞こえるのは夜風に揺れる枝葉の音のみ。トルシエは時の流れがゆっくりになったかのような、この穏やかな静寂が好きだった。
そろそろ寝ようかと伸びをして、頭上に流星が駆けぬけるのが見えた。そのときはるか遠くの方から、なつかしい笛の音が聞こえてきた気がした。
森笛のトルシエ 八枝ひいろ @yae_hiiro
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