17g
初夏は青春のにおいだと、何かの本で読んだことがある。
その時はくさい比喩だな、なんて気にも留めなかったけれど、
今なら何となくそのにおいを感じ取れる気がする。
僕は__僕たちは今、電車に揺られている。
初夏のにおいが心地よいリズムを刻みながら進む電車内に満ちていた。
「なんかこう言うのってわくわくするね」
少しぎこちなさそうな逢沢さんが僕の顔を覗き込んだ。
白いワンピースがサラサラで真っ黒い長い髪と相まってよく似合っている。
そう思ったけれど、そんな浮ついた言葉を口にはできなかった。
「そうだね、僕も水族館なんて子供の頃以来だよ」
ふっと幼いころのことを思い出した。
幼い僕は、魚よりも水槽の中の空気ボンベから吹きあがる気泡を真剣に眺めていた。
明るい水面に向かって昇っていくそれがとても綺麗だと思っていた。
今思い返すと変な子供だな、あの頃の僕は。
でも、あの頃の僕はそれだけで楽しかったんだ。
きっと心から。
懐かしさがこみあげて、口角が上がってしまう。
「喜咲くん、今何か思い出し笑いしたでしょう」
彼女は僕の顔を覗き込んで目を細めている。
子供みたいな目で、期待を膨らませている。
彼女の言動の端々にはやはり、少し幼いところがあるようだった。幼さが急成長した精神に取り残されて、そこで止まっている。そんな幼い彼女が、たまに水面下から顔をのぞかせるのだ。昇っては消えていく泡のように。
「うん。子供の頃は水族館に来ても、酸素ボンベの気泡ばっかり見てたなって。」
今回は彼女の幼さに免じて誤魔化さず、取り繕わず、思い出を語った。
「へぇ、喜咲君って少し変わった子だったんだね」
「否定はしないけど、なかなか来るものがあるよ」
やはり僕は逢沢さんが苦手である。
以前に比べれば、多少は打ち解けることができたかもしれないが、彼女の端的な言葉にしばしばかき乱される。
まどろっこしい告白をしてきた割に、言葉は直接的すぎる。
素直というには少し嘘くさく、軽薄というにはあまりにも重い。
彼女にはそう言うところがある。
逢沢さんはいたずらっぽく笑った。
そして、ひと呼吸。吸って、吐いて、また吸って、こう言った。
「でも、小さいころの喜咲君が見とれてしまうくらいなら、綺麗なんだろうなぁ」
__その顔は、声は、この世の言葉では表せないほど優しく、慈愛に満ちていた。
「___そう、だね。」
僕は面食らって思わず言葉が詰まった。
彼女のその穏やかな微笑みは僕なんかにはできない表情だった。
仮に僕が演劇や道化や観客を騙すための様々な技術を持っていたとしても、
彼女の浮かべたこの表情だけは絶対につくれない。
そう、それは言うなれば聖母だ。
思い浮かべた幼子の姿を慈しみ、抱擁し、愛おしく想う、母の顔だ。
僕は思わず眼を逸らしてしまった。
逢沢さんの姿が目のくらみそうなほど眩しかったのは、斜陽のせいだけではない。
なにか、この世のものではないような神秘性を垣間見てしまったような不安。
そして恐ろしいほどの好奇心。
「…逢沢さんは、小さい頃はどんな子だった?」
唯の興味だった。
別に彼女がどんな子供だったとしても、僕にはどうすることもない。
だから安心できる。僕に責任のない話は気が楽だ。
「うーん、そうだなぁ…。」
ゆっくりと目を伏せる。長いまつげが愁いを帯びた黒目を隠すように。
その瞬きの間、世界の時間は止まっていたのかもしれない。
電車のやかましい鳴き声も、小さな画面に釘付けになった人たちも、
太陽も、風も、時間の波に捕らわれるすべてが今、固まっていた。
「つまらない子供だったかもね。」
すれ違う電車の大声でかき消された逢沢さんの言葉は空中で分解される。
それに誘発された全てがまた動き出す。
「それって……、どういう…」
「あ、着いた」
逢沢さんは僕の言葉を無視してまたいつもの真っ白な笑顔で笑った。
「行こう、喜咲君」
「…うん。」
幼いころの君は、真っ白い笑顔の上手な今の君にとってどんな存在なのだろう。
そんな言葉が頭をよぎった。僕には関係がないけれど。
逢沢さんにとっての自分自身は何処にいるんだろう。
優先順位とか、自尊心とかっていうものは君の中にあるんだろうか。
僕はそれが全く感じられない君を恐ろしいと思ってしまう。
肥大した自尊心を抱えている自分さえまだ可愛気があるように思えた。
__夏が僕たちを見つめている。
21gの幸せを飲み込めたなら。 薮柑子 ロウバイ @wisteria1230
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