18g

「逢沢さん…?」


泣いている、というのは少し違うだろうか。

痛みや苦しみの表情ではない、気持ちを透過しない涙。


勝手に流れる涙、身体とその透明な血はまるで彼女の意思とは全く関係なく、むしろ涙そのものが自ら流れ出しているような、熱のない涙。

絵のような不気味で綺麗なその横顔を、僕はじっと見ていた。


何で泣いてるの?君も泣くんだね。僕は、なんて声を掛けたらいい?

そんな風に解決しようのない疑問と焦りと不安が僕の脳を右往左往する。

何をどうすればいいのかなんて自分本位な僕には分からない。

それでも僕は、逢沢さんに何か言うべきだと思ったから、

嘘と諦めでカラカラの肺に空気をおもいっきりに吸い込んで、

いつもよりもずっと大きな震えた声を鳴らす。


「夕焼け、綺麗、だね。」


眼下の彼女を見ることができなかった。何故かはわからない。

ただ、僕はそうすべきだと思った。震えた声は茜に吸い込まれていく。

眩しすぎる夕焼けを見つめる僕を、逢沢さんは泣きぬれた瞳で見つめている。

鳩が豆鉄砲を食ったように、大きな真っ黒い瞳を輝かせて。


「喜咲くん…。」


「夕焼けって、なんか、寂しくなっちゃう、よね。」


口八丁で誰かと会話できる様な才能と経験は僕にはなかった。

いつも作られた受け答えしかしなかった自分を、今回ばかりは呪いたくなった。

声は震えるし、自分でもいったい何を言ってるのか訳が分からない。

でも、それでも。

僕は彼女に声を掛けなくちゃと思っていた。


当の彼女は、何故か安心したような顔で、笑った。

笑っているのに、彼女の落とす影は茜色を割くように深く、暗かった。


「…ふふ、変なの」


こつん、と道端の小石を蹴る逢沢さん。

僕はもう何も言える事などなく、震え始めた足を踏ん張るしかない。

そんな瀕死状態の僕に、彼女は笑う。

まるで世界の何もかもを呪うような、純粋な笑顔だった。


「…喜咲君。私ね、嘘つきだから分かるの。」


逢沢さんは静かに語りだす。時間がゆっくり流れていく。

むしろ、僕らが時間に追い越されていく。

秒針のうるさい音でさえ僕らを置き去りにして時を刻む。


「喜咲君、私の事好きでも何でもないでしょ。」


その一言で、僕の身体は一気にひび割れた。

君のその澄んだ瞳が少し陰るから、僕はもう何も言えなくなってしまう。

骨の髄まで暑いような冷たいような何かが通り抜けていく。

首のあたりがジンジン焼けそうなほど熱くてたまらなかった。


そう、図星だった。

見透かされていた、初めから、見抜かれていた。僕が嘘つきであることも、逢沢さんを本気で好きになれていなかったことも。何もかも、知られていた。

一番気づいてほしくなかった彼女に___。


「そ、んな、こと…。」


否定できない。

真実を、周知の事実を否定できるほど、僕は意志の強い人間ではなかった。

ただ今は彼女にそれを責められることの恐怖と恥ずかしさでどうにかなりそうだった


「でも別にいいんだ、私。」


「え…。」


逢沢さんは、泣いていない。

恣意的な涙も、感情的な涙も、僕への叱責も何もない。

ただ、彼女が彼女の中で出した答えだけがそこにいる。彼女の身体を借りてそこで僕に言葉を投げているだけのように。

 

「いいの、片思いって楽しいから。

おはようって言うだけでも、偶然目が合っただけでも、嬉しくなるの。」


その言葉は乙女の強がりか、もしくは彼女の本心か。

僕には何もわからなかった。

そもそもの片思いというものも、彼女の本心も、彼女が僕にそれを言う理由も。


そして逢沢さんは続ける。少し伏せた瞳のまま。


「…それにね、あの時。告白した時、喜咲君が断らないの分かってたもん。」


喉の奥が錆びついたみたいだ。もう声が出ない、言いたいこともなかった。

 何が恣意的な涙だ、何が気持ちを透過しないだ。

涙も気持ちもないのは僕自身じゃないか。保身の為に平気で嘘を吐いてきたせいだ。


「何で?」


「うーん、内緒。」


 彼女ははぐらかす。

僕はお得意だったはずの取り繕った笑顔を浮かべるのさえ馬鹿馬鹿しくなって

ただじっと茜色の逢沢さんを眺めていた。

取り繕う気力も、泥臭く弁解する程の勇気も、もう何処にもなかった。


「…別れる?」


 その言葉に彼女は眉をひそめた。


「それ、私に言わせるんだね。」


静かに、しかしはっきりと落胆した声で僕を咎める。

僕はまた地雷を踏みぬいたらしい。世の男性はどうやって女性と上手くコミュニケーションを取れているのか、僕には到底わからなかった。


「…ごめん。」


「いいよ、別に怒ってないから。」


知ってる。怒りよりももっと恐ろしい感情だ。骨が軋むほどの落第印だ。

彼女はまた続ける。僕は彼女の淡々とした業務説明みたいな質問と説明に従って応えるほかなかった。


「喜咲君は、私の事嫌いだった?」


「え?いや、嫌いじゃ…ないよ。」


 そう、決して彼女が嫌いだとか、憎いだとかいう悪意を抱いていたわけではない。

ただ興味がないだけ、そう。それが問題だったのだ。強いていうなら苦手なだけ。


「そっか…。」


「…。」


彼女が黙ると僕も黙る。お互い何も言うことがないのだろうか。

そう思っていたのに、彼女は僕のいる方に向き直り、いつものまっさらな笑顔でこう告げた。


「じゃあさ、もう一度だけ、あと少しの間。恋人ごっこしよう。」


 蒸した世界を乾いた涼しい風が通り抜けていく。

逢沢さんの長い綺麗な髪が茜の空を泳いでいた。

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