差し伸べた手の先に

すぐり

痛みの分だけ貴方を知る


 暖かい。

 僕の掌のうえで、小さく鮮やかな赤が溢れ出す。白くなっていた手に、徐々に薄い桜色が広がっていった。僕は、そのときにやっと気が付いたんだ……。

 そう、とても大切なことに。


――どうして、今まで分からなかったのだろうか。







 高校最後の夏休み。この日はまさに夏らしい日だった。湿度の高いジメジメする暑さの中、ラムネの瓶のような透き通った水色の空に、入道雲が溶けるように広がっていく。ジィジィジィ……と頭に響くような蝉の声。走る子供の声や、遠くの家から聞こえる風鈴の音色。

 世界が夏に染まる中、僕は公園で気分転換をしていた。受験が迫る中、息が詰まるような勉強漬けの生活に嫌気が差したのだ。噴水の近くにあるベンチに座り、大きく息を吸いながら公園を見渡すと、自分だけ時間が止まったような感覚に陥る。しかし自分だけの時間が止まっても、吸った息を止めても、入道雲は広がり蝉は鳴き続ける。

 世界は止まることなく動き続けているのだ。




 見渡した公園は昔と比べて寂しく思えてしまう。

 多くの遊具があり子供の声が響いていたこの場所も、今ではベンチとポストくらいしか残っておらず、人もまばらになってしまった。時の流れを実感する。

 あの頃は見上げていたポストや噴水が小さく見えた。昔に比べ、僕はどれほど大人になれたのだろうか。もちろん外見だけではなく内面に関しても。

 そんなことを考えていると、噴水の近くで走り回っていた男の子が転んだ。一瞬公園の空気が止まった後、泣き声が響き渡る。僕はその様子を見て手を差し伸べようとするも、あと少しのところで躊躇ってしまう。

 ――手を強く掴んで傷つけてしまったら。

 ――腕を勢いよく引っ張って痛めてしまったら。

 駄目だ。無駄な考えが、目の前で泣き続ける男の子に対し手を差し伸べようとすることを邪魔している。

 触れることが嫌いだ。怖いんだ……。

 誰かに触れること何かに触ることは、相手を想う優しさに加え、その相手を傷つけてしまう恐ろしさが存在する。だからこそ僕は、今まで何かに触れることから避けてきたのだ。

 そして今も逃げようとしている。手を差し伸べたら「もしかしたら傷つけてしまう」という、「もしかしたら」を理由にして。

 やっぱり僕はあの頃から成長できていないみたいだ。

 



 泣いていた男の子のもとへ、母親らしき女性が駆け寄ってきた。

「痛かったの? 大丈夫だよ。ほら泣かないの、お家帰ろうか」

 母親は迷わずにその子へと手を差し伸べ、起き上がらせる。優しく手を握り起き上がらせたその動きには、戸惑いも躊躇もなく、ただただ相手のことを想っているように見えた。

 その優しさが、その安心感が伝わったのだろう。いつの間にか男の子の涙は止まっていた。

「うん。帰る、お家帰る」

 泣き腫らし目を真っ赤にしながらも、嬉しそうな笑顔を浮かべる。

「帰ってお風呂に入ったら、おやつ食べようね」

「ん、早くおやつ食べたいよ」

 手を繋いで公園を出ていく親子。僕はその後ろ姿を見送っていた。躊躇と後悔を掴んだ手を握り緊めながら……。




 突然冷たい感覚が頬を伝う。気付かないうちに泣いていたのかと思ったが、どうやら違うらしい。雨粒が頬を伝っていた。

 徐々に空を白く染めていた入道雲が、いつの間にか真っ黒く色を変え、夕立を降らせる。遠くで鳴る雷が空気を震わしていた。次第に雨が強まり、髪や服が肌にぴったりとくっ付き始める。冷たい雨と重たくて生温かい服の混ざり合った感触が気持ち悪い。

 気持ち悪さを感じながらもベンチに座り空を見上げていると、少しずつ生まれる違和感に気が付いた。




 ――感覚が無くなっていく。

 呟いた声を、未だ身体を包むように鳴る雨音が掻き消してしまう。さっきまで聞こえていた蝉の声も、風鈴の音色もすでに耳に届かなくなっていた。聞こえない。音が無い。

 これでは僕以外が消えてしまったのだろうかと錯覚してしまいそうだ。

 掻き消された音の代わりに、香りが僕を刺激する。気付けば土の濡れる匂いや、草木から香る緑の匂いが漂っていた。命を感じる、安心するような、抱きしめられるような優しい香り。

 そして、止むことなく振り続ける雨が、世界の色彩を洗い流すかのように奪っていく。流された幾つもの色が地面で混ざり黒い川となる。空から溶け出した色が洗い流された景色を青く染め、見えているモノ全てが悲しさを含んだ。視界の隅に見える朱色の鮮やかだったポストでさえ、今では暗く寂しげにたたずんでいた。




 少しずつ世界から自分の存在が消えていく。

 激しく雨粒が体中にあたっているはずなのに何も感じない。親子の背中を見ながら強く握り緊めた手に爪が深く刺さっていた。しかし、痛みは全くなかった。雨に打たれ冷えた身体では、触れた柔らかさも硬さも、そして痛みも感じなくなる。

 これなら、差し伸ばした手で誰かを傷つける怖さや、触れたことで自分が傷つく怖さから逃げる必要もないのではないか。これが僕の望んでいた世界だったのかもしれない。

 今なら躊躇せず、誰かに手を差し伸べられる気がする。

 このまま、あの男の子の痛みが消えてしまえば良いのに……。そうすれば、傷ついて流す涙も無くなるのだろう。

 しかし、そんな感覚が無くなることに、痛みが無くなることに僅かに恐怖を感じている。音が消え、色が消えていく中で、自分の存在を確認できる唯一の手段が触れることだからかもしれない。もしかしたら、周りとの繋がりが消えていく恐怖なのかもしれない。




 ふと視線を公園の端に移すと、色が洗い流され灰色になった空間の中に、周りから取り残されたような純白の花を見つけた。ひと際目立つその白があまりにも綺麗で、思わず見惚れてしまう。

 公園の端はノアザミの群生地だ。その事実は僕が子供のころから変わらず、今でもノアザミはそこで咲き誇っている。紫色の花を咲かせるノアザミ。その紫の中に咲く一輪の白い花を見ていると、初めてこの場所に来たときの記憶が甦った。

 母親に手を引かれて連れられてきた記憶。

 ポストを見上げていた記憶。

 ベンチに座っても足が地面に着かなかった記憶。

 そして、公園の片隅に咲く紫色の花の名前を聞いた記憶。

 厳重に鍵をかけていた筈の記憶の引き出しが無理やり開けられ、中身を床にばら撒かれたかのように、大切な記憶と思い出したくない記憶がぐちゃぐちゃに混ぜられ溢れだす。その中に、ノアザミに関するものを見つけた。

 「あの紫色の花はノアザミだよ。そういえば、稀に白い花が咲くみたいだけどね」

 そうだ、これは花の名前を尋ねたときに聞いた話。

 いま、目の前で咲いている白い花は間違いなくノアザミの花だった。稀に咲くという白い花。その色に僕は引き寄せられるように近づき、冷えで感覚のなくなった手を伸ばす。あんなに手を伸ばすことに躊躇していたくせに、自分でも驚くほど抵抗はなく花に触ろうとしていた。

 花に手を伸ばし葉を撫でるように触ってみたがやはり感覚がない。しかし、一瞬だけ葉が指に引っかかったような気がした。




 指を見ると、赤く綺麗な血の粒が出来ていた。徐々に血流が手に戻ってきて、冷えて白くなっていた掌が徐々に薄桜色になる。

 それと同時に感覚が戻ってきた。じんわりと痺れる様な痛みと温かさが広がる手を見つめていると、あの話の続きを思い出す。

「ノアザミの葉には棘があるから気を付けるんだよ」

 遠くから眺めているだけでは、気が付かなかった花の特徴。

 この痛みは相手を知る痛みだ。自分から手を伸ばさなければ知ることの無かった、相手の事。僕は傷つき、あなたのことを知る。僕は傷つけ、あなたのことを知る。

 この痛みは、僕が生きて何かと繋がっている証拠になるのだろう。痛みを感じた所為か、色のなくなっていた世界が、少しずつ色づく。世界の輪郭がはっきりとし始めたころ、僕は改めて花に手を伸ばしてみた。優しく包み込むように触れる。

 触れた手には仄かな暖かさが伝わってきた。




 やっと、僕は気付いたんだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。

 相手の事を知るための痛みからは逃げてはいけないのだ。相手を想って生まれる痛みは、僕にとっての大切な繋がりだから。

 迷わずに手を差し伸べろ。もしそれで傷つけたり傷ついたりしたら、優しく抱きしめれば良いだけなんだ。心の中にあった靄が晴れ、色と音が戻った世界で僕は空を見る。少しだけ大人へと近付けたかな。

 遠くから蝉の声が風に乗って届く。




 いつしか夕立は止み、澄み切った茜色の空が広がっていた。

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差し伸べた手の先に すぐり @cassis_shino

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