僕はベル、アルティメット・ドッグ

鱗青

僕はベル、アルティメット・ドッグ

 その年の9月。埼玉県の奥座敷にほど近い堤防沿いの公園に、曼珠沙華が例年になく早く咲き誇った。隣接する古ぼけた交番もまた、花に彩られて中秋の気配に包まれている。

 宵闇が迫る頃、当直の巡査は残暑を追い払うように帽子を団扇にしながら警邏けいらから帰ってきた。

「本日も特記事項無し…っと」

 勤務歴と彼女いない歴とがそろそろ逆転現象を起こしかけている巡査である。そのも気合が抜け切っていた。

 今夜は泊まりだ。車道に顔を向け、頭の後ろで腕を組み瞑目。

 リラックス態勢に入った彼を切羽詰まった女の声が叩き起こした。

「お願い!救けて‼︎」

「ふファイっ⁉︎」

 入口に現れたのは、十代後半から二十歳そこそこの黒いニット帽の女だった。

 女のやってきた方角が人口密集地ではなく、曼珠沙華のライトアップ時刻が過ぎて闇に沈んだ公園である事から、咄嗟に巡査は「公園デートの後で彼氏と喧嘩でもしたのかな」と思った。

 しかしその推量は、女が顔いっぱいに心配の青白さを塗りつけながら、血染めの布の塊を胸に抱いているのを見た時に弾けて消える。

「お願い、この子を死なせないで!」

 間抜けな表情を脱ぎ捨て、俊敏な警察官に戻った彼は、女を自分の座っていた椅子に掛けさせるとすぐにその抱えていた存在ものを確認した。

 そして。

「なんじゃこりゃ⁉︎」

 昭和平成をその上に通過させた歴史ある交番の床にずっこけた。

「なんじゃこりゃって何よ!」

「い、いやだってあんた警察うちで扱うようなモンじゃないでしょ」

 その鉄臭い赤で汚れた存在が、女の腕の中で弱々しく身震いした。「ばふ」とクシャミのような音をさせ、半分くらい乾き始めた布地がまくれる。

 そこから覗いたのは、まごうかたなき犬のマズル。

「そら人間だったら事件にもなるし救急車ぐらい呼びますけどね。あんたの持ってるそれ、犬でしょ?ペット?まさか公園内にいた野犬?だったら放した方がいい。最近じゃ狂犬病持ちの犬が増えてるっていうし」

 女の拳がデスクを打つ。ドン!という意外に大きな音が交番に鳴り響き、窓ガラスといわず壁といわず振動させた。

「この子は特別なの!いいからなんとかして‼︎」

「なんとかったって…」

 仕方ない。近所の動物病院でも検索して案内してやるか。元来人の好い巡査はそんな風に気を取り直して立ち上がり、先ほどの衝撃で落ちた壁の指名手配ポスターを拾おうとした。

 その動きが中腰で止まる。

 関節や筋肉の動きを確認しているようにゆっくりと、巡査の首が回った。

「あんた…まさか」

 ポスターをつまんでいない方の巡査の手が、彼の右腰に伸びる。そこには日本の警察官が携行を許されている標準的な拳銃が提がっていた。

「お願いだからベルを…ベルを…」

 傷ついた犬をなりふり構わずかき抱く女のニット帽がずれた。封印が解放されたように、その隙間から青の波がなだれ落ちる。

 巡査の喉仏が唾液の通過で上下した。視線がポスターに落ち、そこにカラープリントされた写真をなぞる。

 派手なマリンブルーに染めた長髪を背後になびかせた鼻の高い人物。黒いニット帽を被せたら、ちょうど彼の目の前で犬を抱いて泣いている女と瓜二つになる。

「…カラーギャング『ブルーレオポルド』の拝島エナ?」

 女と巡査の間の空気に開演前の劇場のような沈黙が流れた。

 一番近くの信号が青から赤になり、また青に変わる。田圃を想わせるのんびりした童謡のメロディ。

 女はしっかりと頷く。

 続いて、その腕の中でぼくが一声、吠え声を上げた。

🐶

 僕はさらわれた。

 9月始め。世間は新学期で、それは僕の生まれた研究所のある秩父の田舎でも同じだった。

 僕には既に物心がついていた。自分が『実験動物No.1029』という呼称である事も、運動のため中庭に放される以外は白くて清潔で柔らかな箱で暮らしている事も、自分が犬と呼ばれる生き物の一種でしかも珍種である事も分かっていた。だって僕は特別アルティメットなんだもの。

 その日、朝昼二回の訓練と運動レクリエーションと晩御飯といつもの注射を済ませ、蛍光塗料でほんのりと明るい箱の中でうつらうつらとしていた。

 突然の悲鳴で左耳が跳ね上がった。

 更に重なる非常ベル。僕は狭い箱の中で精一杯ウロウロ。

「No.1029…これね。思ったより大きいな」

 突然の科白。それは高く澄んでいた。

 女。ホッとしてくるんと巻いた尾ごと尻を下につける。研究員でも優しいのは大体が女。何か事故だとしても、僕を助けに来てくれたに違いない。

「とりま電流切るか。私達まで感電しちゃう。それから表にあった台車で車まで運ぼ。他の研究員やつらに紛れて、いかにも一般市民の業者らしくね。いい?ガス」

「おオーケー、エナ」

 今度は男。喋り方に特徴があって鼻にかかったダミ声。

 それからガタガタしたもので箱ごと移動。距離がやたらに長く感じる。と、急に動きが止まった。鼻先が箱の内側にぶち当たる。

「何をしてる!君達は誰だ⁉︎」

 聞いたことのある太い声。いつも白衣でなくスーツを着ている研究所の所長だろう。

 ドスンバタンと床を乱暴に踏む音。ぐしゃ、という骨に響く音に続いて、バタリと誰かが倒れる。

「キック一発でのされるとか軟弱。あと女の子の扱いはもっと丁寧にね」

「ななんてとこ蹴るんだエナ。男はそこをやられると再起不能だぞ」

 男が女を叱る様子が伝わる。

「それをどこに持っていく気だ…」

 所長の声がくぐもってる。なんで苦しそうなのかな?

「返品はしないから安心して。壊れないようせいぜい大事にするわ」

「どこの差し金だ!」

「つまらない事聞かないで」

 カチリ。これはなんの音か知らない。

「早く私の服の裾を掴んでる手を離さないと、その頭に風穴開けて流れを良くしてあげるけど?」

「エ、エナ。そこまでしなくていい」

「私に指図しようっての?じゃガスあんたが戦えば。でかい図体して」

 女の方がどうやら偉いらしい。男は黙る。

 箱がまた動き始め、それからうんざりするほど長い時間、僕は内側に閉じ込められた。

🐶

 水平方向にスピードを上げたり落としたりして、かなり遠くまで来たらしい。

 箱が所在無げに揺れる。また台車か何かに移し替えられたんだ。一度停止。それからなんだか内臓がずんずん下がってく感じ。エレベーター?

 底面が傾く。元に戻る。丁寧に地面に降ろされたと直観。

 いつものように箱の側面がスライド。

「なんだ、二重に檻になってんじゃん」

 あの高い声がして、箱の内側と外の世界を隔てている格子も外された。

 あたりは明るい。反射的に頭を下げて唸る。

「うわー目シパシパさせてる。間抜けな顔」

 唐突に脇の下から掬い上げられた。

「ボスの依頼主が大金積んで欲しがるブツがこれ…なんか期待外れ」

 照明に目が慣れて、僕はポカンとした。

 こんな綺麗な人間は見たことがない。

 その女は薄いセーターに、フリルのついた白ズボンを穿いていた。マリンブルーの髪は怒る獣のたてがみのように背後に広がり、額は丸く灰色がかった瞳は大きく、鼻は細くて柔らかで、唇は健康そうに光っている。

「恐ろしい化物クリーチャーかと思ってたのに。何の変哲も無いバカそうな仔犬ね」

 魅力的な唇から出る、鼓膜を伝って心臓まで蕩かすような甘い響き。おまけにとても良い匂い。

 胸の奥からウズウズ。この顔を舐めたい。

 僕の開けっぴろげの口から涎が滴った。

 ぺろーん。

「やだっ汚い!」

 僕は乱暴に投げられて宙を舞う。デスクの角に激突!

 間一髪、ミットのような広く厚い掌でキャッチされた。

「ここらエナ!実験動物を勝手にケージから出したら危ないぞ」

 横向きになった視界には、もったりした癖のある話し方をするツナギの男がいた。糸目で色黒で眉毛と睫毛が変に長い。あと汗と煙草とガソリンと溶剤の匂いがする。

 確実に僕より強い。これまで見た人間の中で誰よりも体が大きくて太い。

 怖い。鼻からキューンと空気が出た。尻尾がヘタレる。

「かか、かかかかか」

 いきなり変な声になる男。

「可ッ愛いなァー!」

 男の顔がぐしゃりと歪む。髭面に押しつけるように僕をハグした。太い腕に巻かれた、文字盤の広い群青の腕時計が当たって痛い。

「う潤んだ目にミルクの匂い!か、かーわーいーいーぞーぉぉぉ‼︎」

 細い目尻を垂れさす大きな男。熱いし臭い。

「そこどいてガス」

「な何をするつもりだエナ、その銃はなんだ」

「殺すのよ、そのバカ犬を。私の顔を汚い舌で舐め回したんだもん」

「そそりゃ犬は舐めるさ、本能だ」

「分かってんの?もしそれがウィルス宿主型の生物兵器だったら、あんたも私もお陀仏よ?」

「だ大丈夫だきっと、研究所のデータに微生物関連のものは無かったし、第一そんな危険があれば先に言われるだろう。だからその物騒な物を下ろせ」

 女は『銃』の丸い筒になっている部分を僕に向ける。

「エナ!」

 少しの間そうしてから、女…エナは銃をポケットに収めた。

「世話はガスがしなよ。私はだからね」

 男…ガスがホッとして、また僕を強く抱き締めた。なんとなく少し舐めてあげる。

 うぇ、塩っぱくて油っぽい。後味に焦がされたみたいな苦味がある。

「そそうだ名前つけなきゃな。白くてモコモコしてるし、ううーん」

 ああでもないこうでもないと胡座になるガス。何か良い物が貰えるのかなと待つ僕。

「ベル」

 僕とガスはエナを見た。

の首元んとこ。顎の下に黒い模様があるよ。丁度カウベルみたいに見えるから、ベルって名前でいいじゃん」

 名前?

「ずずるいぞエナ!」

「早くつけたもん勝ちよ。なに興奮してるの」

 名前…

「お俺だって、名前つけたかったぞ!」

「意外なとこに拘るね。犬好きなのも意外」

 名前!

 ガスの膝の間を抜けて走る。エナに飛びつく。

「きゃっ!何よいきなり!」

 もうただの『エナ』じゃない。ご主人だ!

「ちょこれ、コイツ!なんとかしてガス、もうっ離して!」

「おお前が名付け親だからな。飼主として認めたんだろ」

「ちょっとぉ⁉︎」

 生まれて初めてのプレゼント。おやつよりもオモチャよりも嬉しい贈り物。

 僕は感謝と歓喜のしるしにエナの顔を千回くらい舐めまくった。そのあと気の狂ったように怒りにまかせたエナからたっぷり威嚇射撃を浴びた。床には伏せた僕の形に弾痕が残った。

 こうして僕はベルに、エナはご主人になった。

🐶

『…で起きている類似の事件はカラーギャング間の抗争と思われます。カラーギャングとは体の一部や持ち物に特定色を使い、仲間同士や敵対組織の判別をしており、90年代には米国でスニーカーの色から勘違いされた中学生が射殺されるなど…』

 雑音混じりの誰かの声で目が覚めた。

 お腹の空き具合で朝6時くらいだと見当がつく。

 冷えた床を気持ちよく走って声を辿る。小さな事務室のような処に出た。

「よようベル。もう起きたのか。ラジオの音がうるさかったかな?」

 回転椅子をグギギと苦しませながらガスが振り向く。声は腕時計から聞こえていた。ガスが竜頭をいじると音声は消える。

「おお前は偉いな。エナはまだ高鼾だぜ」

 片手には香辛料と肉の匂いのするカップ。箸で細長い物を啜っている。

 僕のお腹が高らかに歌った。

「め飯だな。待ってろ」

 後脚を畳んで前脚を伸ばし、直立不動の姿勢。

 僕の前に、見た事のない形の食物がこんもり盛られた皿が置かれた。

「く食っていいぞ」

 お預けが解かれた。匂いを嗅ぐ。脂肪と肉と、植物の混じった物。

 口に入れた。美味しい!

 がつがつと食べた。ガスが笑う。お代わりをくれる。それも平らげる。

「ち小さい割に大食いだなお前。急がないでいいんだぞ。たっぷりあるからな」

 止まらない。研究所にいた時より明らかに食べ過ぎなのに。

 ガスが持ってきてくれるご飯は、研究所での餌とはまるで違っていた。

「よ四食も平らげたか。こりゃ準備してある量じゃ足りないかもしれないな」

 ガスも自分のカップの物を食べる。

 そうか。僕はこれまでいつも一人で食べていた。

 誰かが一緒に食べていてくれるだけで凄く美味しい!

「騒がしいわね…」

 あ!エナ!満腹でヨタヨタ足元に寄る。

「ハイハイ。元気ねお前は」

「お遅かったな。古巣はよく寝られたか」

「反対。昔の夢にうなされて…てかガス、その空の容器は?一人打上げのつもり?朝っぱらからどんだけ食うのよ」

「お俺じゃない。ベルだ」

「嘘⁉︎確かにデブみが半端ないけど」

 エナは僕を高く抱えた。舌を伸ばすけど届かない距離。うーん残念!

「ん?なんか頭…少し大きくなった?バカ犬」

「おお前も食うか?インスタント食品を結構用意してくれてあるぞ」

 エナは僕を床の段ボールにポイと落とす。

「いらない。太るし不味いし。それより返信は?」

 首を振るガス。エナの顔色がみるみる険のある朱に染まる。

「一晩中?何も?」

「わWi-Fi状況が極端に悪いんだ。そのせいなのかメールも着信もない」

 エナは花弁はなびらみたいな唇に自分の指を噛む。

「こちらの通信は送れてる?」

「た多分な」

 ガスが右腕をかざす。群青の大きな腕時計。文字盤を操作すると床に緑の光で文字の列が写った。

 ざっと目を通してエナは溜息をつく。

「こんな事は初めてね。おかしな展開になってないといいけど」

「ここれまでが順風満帆だったんだ。たまにはトラブルもあるさ」

「あっちゃダメなのよ!」

 空気が軋んだ。尻尾と背中の毛が逆立つ。

 歯を食いしばって床を睨むエナ。腕組みをして踵を返す。

「どどうするんだ」

「寝る。自分で起きるから入ってこないで」

「ままたか?気分転換に外に出てくりゃいい。そうだ、ベルも連れて行けば──」

「で?トイレの世話も私がするの?真っ平御免よ」

 エナは自分の寝床に帰っていく。

 振り返ってガスは僕と目を合わせた。

 僕はというと床に座り込んで盛大にオシッコ。

「ややれやれ、お姫様のおっしゃる通りかもな」

 ガスは困ったように言いながら、糸目の奥で笑っている。

 「そうだね!」と言う代わりに僕も一声吠えた。

 その日はそのままどこにも行かず、訓練もなかった。ご飯をモリモリ食べ、そしてトイレの場所をガスに教わって終わった。

🐶

 次の日。

 夢の中ではエナやガスと追いかけっこをしていて楽しかったのに、目が覚めた時は体のあちこちが痛かった。

 のそのそガスの処に行く。

 吠え声をかけると、腕時計で音声を流していた(誰かが話しているのではなかった)ガスがゆったりと振り返り──

「よよおチビ。なんかお前声が太くなってきて…」

 その逞しい顎がガクンと下がる。咥えていた箸がカランとテーブルに跳ねた。

「エっ…エナ!おいエナ!ちょっと来い‼︎」

 ほどなくして首を回しながらエナが現れる。

「何怒鳴ってんの。寝過ぎて頭痛いんだから静かにして…ん?」

 エナは僕を一瞥するやガスに駆け寄り、血相を変えて襟首をねじり上げた。

「あの仔犬をどこへやったのよ⁉︎」

「ち違う、こいつがあのベルなんだ!」

「目が細いからって起きたまま寝言はやめて!あの小さくてフワフワの仔犬がたった一晩で1m以上も大きくなるわけが…」

 エナの指先が僕を示す。一昨日とは違って爪には何も塗ってない。しっかり嗅いでからぺろりと舐める。

「きゃあ!こ、この感触…まさか…」

 やっぱり素のままの方がエナは良い。爪も肌も。余計なものをわざわざつけるのは何かの防御なのかな?

「ママジでそうだ。顎の下をよく見ろ、こんな模様の犬を二匹も揃えられるか?」

 エナはガスを放し、僕の前に来た。

 あれ?エナはしゃがんでいないのに、昨日よりも目線が合ってる?

「…これがあの仔犬?」

 僕は壁に立てかけてあったガラスをふと見やった。

 そこにいるのは、背中を丸めたエナの前で直立不動の姿勢になっている白く長い毛皮の雄犬。

 立派な体格。目元も顎もがっしりしていて肩に力がある。尻の上にくるんと尾を巻き上げてて、中々サマになっている。

 誰だろ?僕の他にここに犬がいるなんて知らなかった。

 僕が立つと彼も立つ。僕が近づくと彼も近づく。僕がにらむと彼も睨む。僕が吠えると彼も──吠える真似だけをした。

 そして彼の喉笛にも、僕と同じベルの形の模様。

「どどういうことなのか分からんが、昨日からやたらと食っていたのも関係するかもな」

「食べれば食べるだけ成長する?そんなバカバカしい事あるわけない!」

「げ原因は知らんが、それ以外考えられん。──ベル!」

 急に呼ばれて、慌てて「ばふ」と振り向いた。

 ガラスの中で知らない犬も振り向く。そうか。このぼんやり透けている犬は、僕自身の像なんだ。

「ほほらな。中身は前と変わらない」

 エナの顔が呆れてる。

「それにしても育ち過ぎ…後脚で立ったら私の肩に背が届きそうじゃない」

「ササモエドの亜種だろ。大型犬、グレートピレネーズなんかの血が入ってるかも知れない」

 ガスは片膝立ちになり、僕の両頬をわしゃわしゃしてくる。

「お俺もびっくりした。…生体兵器というのは生き物を成長させる遺伝子や薬品かもな」

「私やガスが巨大化してないんだから、前者じゃない?」

「そそうとも限らん。成体には作用しないとか種族の壁があるとか、他の要因もあり得る」

「ふーん。ま、そっちの方はガスに任せるよ。私の役目は荒事だけだもん」

「わ分かった。ボスから連絡を待つ間、できるだけ分析して整理しておく」

 相談しながらいそいそと僕用のご飯を皿に盛ってくれるガス。エナは少し離れて、片肘を抱くような格好でテーブルに腰掛ける。

「いずれにせよこの犬が目的のブツってのは証明されたし、任務の半分は成功ね」

「ああとはボスに引渡すだけだな」

 僕は三回お代わりした。沢山食べたためだけでなく、体が大きくなったせいもあって、足取りが鈍重になっている。

 エナの足元で横向きに寝そべる。僕の脇腹を、エナはブーツの底でぞんざいにこする。

「しっかしデカくなったねえ。小さなままだったら可愛かったのに、こんなだとウザいだけだわ」

 ショック。だって僕は僕のままなのに、体が大きくなったからダメなの?そんなのないよ。

「こら、吠えるんじゃない!っとに鬱陶しいったら」

「な何かしてほしい事があるんじゃないか?」

 ガスは腕時計に没頭している。タッチパネルを操作して、色んなファイルや情報を検索しているらしい。

 昨日気付いたのだが、この部屋は色んな本がある。目につくものを片端からエナの前に集めた。

「何のつもりコレ。ひとの足元にこんなに積み上げて」

 その一冊を取り上げて、エナは眉を寄せる。

「広辞苑?」

「よ読んでくれとねだってるんだろう」

 エナはガスに向けて「は」と「あ」の最大の音を発した。

「このバカ犬が?まさか」

「ななりは大きくても中身は子供ってやつだ。暇なんだろ?丁度いいから読み聞かせてやればいい」

「面倒くさ!」

「そそうは言っても俺はボスとの通信の回復とかベルの受けた実験内容の調査で忙しい。やってやれよ」

「えー⁉︎」

 エナは頬をプックリ膨らまして腕組みをし、ゴミ箱から溢れた汚物を見るような目で僕を見下ろす。

 おもむろに自分が寝ていた奥の部屋に向かうと、一冊の本を持って来た。

「あんたにはコレでちょうどいいよ」

 エナは床に脚を伸ばすと、大きくて紙も厚いそれを膝の上に載せた。僕もその隣に陣取る。

 血のように赤い布表紙には薔薇の上に『美女と野獣』と浮彫されている。

「ったく生意気。私なんか絵本読んでもらった事なんてロクにないのに」

 ひと息を長く吸い込んで、エナは語り始めた。

「“昔々ある処に、王子がおりました”」

 王子様!誰だろう。僕の事?

「クンクン鼻鳴らしてんじゃないよ、邪魔!…“王子は見目美しく賢かったのですが、心ばえはとても醜いものでした──”」

 僕達の肩を遥か後ろから見やりながら、ガスはきっと微笑んでいた事だろう。

🐶

 エナは笑わない。

 研究所の人達は皆、白帽にゴーグルとマスクを徹底していたけど、ゴーグルの奥の目の表情やマスクの中の口角の変化は分かった。

 彼らは僕がフリスビーを捕る遊びや、ボールを追う遊びをしている様子を見てよく笑っていた。

 人間が笑うと出てくるあの独特な声。コロコロして耳に気持ち良い。僕は好き。

 エナは怒るし、驚くし、感情があるけれど。

 笑いに限っては全く見せない。なんでだろう?

 一方ガスはよく笑う。僕とよく遊んでくれるし、何よりご飯をくれる。あとトイレを掃除してくれる。

 でもガスは嘘をつく。

 エナの前にいる時と、僕と一緒の時とでは言葉数も内容も変わる。

「エエナは振舞いが乱暴だよな。可愛いのに」

「いいくらなんでも男に冷たすぎだよな。可愛いのに」

「す少しはベルに優しくしてもいいのにな。可愛いのに」

 云々。僕が膝に頭を載せている時はほとんどいつも愚痴ばかり。

 そんなに辛いならちゃんと伝えればいい。それにそう言っている割に、エナの命令を聞いている時のガスはちょっと嬉しそう。元々糸目いとめで笑ってるように見える顔だから、本当は違うのかな。よく分からない。

 ガスが腕にしているのはスマートウォッチといって、ネットやプログラミングができる便利な道具。そういう物を使いこなせるほど頭が良いのに本心でエナと話す事はないのだから、ガスは人間でもバカな方なのかも。嘘をつくのはバカのする事。

 僕は今凄く大切な事を学んでる。

 僕やガスに色々な命令をしたり怒ったりするエナがいて。

 エナや僕の世話をしてくれるガスがいて。

 蹴られて殴られて叩かれて。

 怒鳴られて叱られてからかわれて。

 痛い事もたくさんある。けど、これが『生きる』という事。

 研究所にいたままだったら知らず終いだった色んな事が、二人に拐われたから体験できる。

 こんなに恵まれた僕だけど、実はまだ一つだけ欲しいものがある。

 エナに褒めて欲しい。ご主人から褒められるのは、僕が持っていない経験だから。

 たった一つそれだけが、今僕の一番欲しいもの。

🐶

 それから次の日も、そのまた次の日も待ちわびた連絡はない。

「へ下手に動いたらボスからの連絡と入れ違いになる危険がある…ベルの持ち主だった組織の連中も俺達を探してるだろうしな」

 ガスは「あんたサボってるんじゃない⁉︎」とエナからボコボコにされ、靴で尻を踏まれながらそんな風に言う。

 エナはみるみる機嫌が悪くなっていく。

 しかも気分が高まると物に当たり散らす癖がある。

 建物の中の花瓶やらコップやら皿やら、割れる性質のものは壁や床に投げつけられ叩きつけられて粉々になった。

 そんな時は、慰めようと側に行くと僕まで怒鳴られる。

 僕の体の成長はどうやら止まったらしい。頭から尻尾の先まではもうガスくらいになり、手足も筋肉がついて動き易く軽くなった。

 拐われて5日目。

 エナの臨界点が限界点となり、破綻のラインを越えた。

「ふざけんな‼︎」

 エナは手近の段ボールを蹴り飛ばした。その後ろにいた僕も、ついでに腹這いで床を滑る。

「依頼を着実にこなす!納期に遅れない!連絡の徹底!この3つは私達『ブルーレオポルド』の鉄則よ⁉︎いつまであのバカ犬の世話をしろっての⁉︎冗談じゃないわ‼︎」

 壁際に追い詰められたガスに向かって、両手に銃を構えたエナは一言ずつ弾丸をぶっ放す。

 科白を言い終わる頃には万歳したガスの形の弾痕が、壁に切り取り線の形を描いていた。

「ままぁ待て。取引の準備に手間取ってるだけかも知れん。不測の事態かも」

「はぁ⁉︎今まで一度だって連絡が遅れた事あった⁉︎それに日本国内は偽造I.D.の使用期限が短いのよ⁉︎このままボスの許に戻れなかったら私達、お終いなんだよ!」

「お落ち着くんだエナ。俺達の襲撃もニュースになってない。あの研究所が日本政府に繋がってないから、連中も表立って動けないんだろう。まだ余裕はある」

「うるさい!」

 ガスが今度こそ額を撃たれるかと僕はビクッとした。

 青い髪を振り乱してエナは出て行った。

 ガスは肩をすくめて席に戻る。

 僕はエナの歩いた後を匂いで追う。

 建物は平屋で、複雑な作りではない。初めて足を踏み入れたエリアもちゃんと迷わず歩けた。

 長い廊下の奥の部屋にエナはいた。

 本やぬいぐるみで一杯のその部屋は、なんだか不思議と懐かしい雰囲気がした。

 部屋の真ん中で細い両脚を抱え込んで座るエナ。その横へ座る。

「…何」

 もうそろそろ午前の訓練の時間。また本を読んでもらいたい。

 エナの袖に柔らかく牙を引っ掛けて顎を引く。

「ウザイな。引っ張らないでよ人の服を」

 横顔を押しやられた。でもやめない。

 きっと本を読めば元気が出る。本の中の物語は訓練のそれとは違って、凄くキラキラして楽しいから。面白愉快な冒険物もいいけど、やっぱりお姫様や王子様が出てくるお話がいい。

「こっち来ないで!犬なんかに私の気持ちは分かんないだろ!」

 今度は突き飛ばされた。

 エナは、ご主人は辛いんだ。そういう時どうすればいいかは本能で知ってる。

 てってって、と側に行き、子供みたいに泣き伏せるエナの頬を舐めた。

「煩い!どっか行け!」

 横っ面を殴られた。めげない。もう一度同じ事をする。

「やめろっつってんの!殺すわよ!」

 もう一度。エナは細い体から信じられないちからを出して僕を壁まで蹴り飛ばした。口から酸っぱい液が出る。

「私に構うな!」

 もう一度。

「このバカ犬!」

 もう一度。

「いい加減に」

 もう一度。

「…あんた、なんで…そんなボロボロになって…」

 片方の耳が衝撃でおかしくなってて、よく聞こえない。

 ガスの部屋から持って来た本を拾い上げて、エナの膝に落とした。深紅の表紙は『美女と野獣』。

「嫌だって言ってんだろ‼︎」

 エナの平手が大きく振りかぶる。

 その場で目を瞑る。

 今度はたれなかった。

 待つ。長い事…

 最後にエナは、僕を抱きしめてくれた。

 初めてだ!

「…嫌だ」

 温かい。エナのプルプルが伝わってくる。

「独りは嫌なの。置いてきぼりは、嫌だよぉ…!」

 僕を抱きしめながら細かく震えるエナ。

 その瞼から熱いほどの水が出てきた。

 涎じゃない。舐めてみる。うーん、ちょっと塩味。

「…バカ犬。大人しくしてればいいのよ!」

 うん。言う通りにするよ。

 四本の足を踏ん張って姿勢を固定する。

 エナのすべすべした指が僕の長い毛の房の間から抜ける。それが繰り返される。天国みたいに気持ち良い。

🐶

 ドアの軋み。重い靴の足音。

 ガスだ。

「な泣き疲れて寝ちまったか」

 僕は「ばふ」と応える。エナがしがみついて眠り込んでいるので、動くわけにいかない。

「と図書室か…あの頃のままじゃないか。道理でエナが寝床に使うわけだ」

 エナの隣に来られるよう、そばに少しだけ空いている場所を尻尾で扇いで教えてあげた。ガスは全然気付かず僕の前に座る。

「おお前もよくこいつに懐いたなぁ。こんな凶暴で我儘で、独善的な女にな」

 ガスが言う事がよく分からない。僕は唸った。

「ななんだよ怒るなよ事実だぞ?でもまあ…」

 大きなため息。煙草の匂い。

「む昔はこうじゃなかった。この施設に来たばかりの頃は。よく泣かされてここに籠ってた…お前の仔犬の頃みたく、白くて可愛い女の子だったんだぞ」

 エナは可愛い。皮膚の色は僕には分からないけど、少し薄いかも。

「は拝島は現代の財閥と言われる家柄だったんだ。エナはそれこそ蝶よ花よと育てられたんだろう。こいつ自身は語りたがらないが…」

 エナは僕の背中を枕に寝てる。子供の頃はどんな風だったんだろう?今の百倍くらい可愛かったのかな?

「エナが7歳の時に酷い詐欺事件に遭ってな。両親は離婚して家族はバラバラ。親族の誰も保護者をかって出ず、それまでちやほやして散々たかっておきながらエナをこの施設に捨てた。俺と同じように」

 捨てる。

 人間を?

 そんな事はあり得ない。間違ってる。

 あんまり驚いて耳を立てたのを、ガスは何か勘違いして笑う。

「お俺は見た目がこんなだから、他のガキどもに『ガイジン』言われて虐められてた。エナは俺を子分にする事でそれをやめさせた。…虚勢を張ってるうちに演技が本当になっちまったのさ」

 声が小さくなった。話の続きを求めて僕はガスの硬い膝に自分の顔を擦りつけた。

「な慰めてくれるのか。一丁前に」

 ガスは剽軽ひょうきんに口笛を吹く。

「そそんな事があって、エナは他人が信じられなくなっちまった。一緒に施設を脱走した後はもう、犯罪組織『ブルーレオポルド』に真っ逆さまさ」

 僕は鼻を鳴らして頭を傾げた。

 ガスが無精髭がツンツンしてる口元を歪めて、顎から背中を撫でてくれる。ガスの撫で方はざっくりしてるけど嫌いじゃない。

「も勿論俺は別だ。なんとなく兄妹みたいな感じで信用されてる。エナは持ち前の度胸と思い切りで実戦部隊、俺は手先が器用だから工作班…てな具合に組織の中でのし上がって来た。いわば俺達はボニー&クライドって感じかな」

 長い話が途切れる。僕はそこで顔を横にして完全に寝そべり、ガスの足首を舐めてあげた。

「ここんな話をしたところで、犬のお前には分からんだろうな」

 そんな事はないよ。

 ガスはニカッと笑った。これまでで一番優しい顔だった。

「ベベル、最後までエナの味方でいてくれよな」

 当たり前だよ!僕は背中を伸ばして吠えた。

🐶

 エナが再び目を覚ましたのは、お昼だった。

「あ!そうか!そうすれば良かったんだ!」

 きっと良い事を思いついたんだろう。興奮してる。

「買出しに行く。誰かさんのお陰で食糧が底をつきそうだし。本命は実地の情報収集よ!」

 ガスは細長い食べ物をカップから啜りながら渋い顔。

「お俺達は指名手配されてるんだぞ。わざわざ敵対組織でなく警察に捕まりに行くのか?」

「ガスは確かに体格も顔つきも目立つけど、私なら──」

 エナはどこからか出してきた黒いニット帽に長い髪をたくし込み、色の濃いサングラスをかけた。床に転がっていた適当な棒に紐をつける。そこを持ち手として、足元を確かめるように杖先をコツコツと打ち鳴らしながら歩いてみせる。

「どう?これなら変装として充分じゃない?」

 エナがあっという間に他人みたいになっちゃった。

 面白い!僕は吠える。

「ななるほどな、その変装なら職質される可能性も低いだろうし、ジロジロ見られもしないか。あとは──」

 ガスの親指が僕を指す。

 エナにはその意味が通じたらしく、肩をすくめて

「仕方ないね」

 と僕を手招いた。

「こらバカ犬、私の言う事ちゃんと聞きなよ?外に行くのはあんたの食べっぷりのせいもあるんだからね」

 いきなり言われて意味が分からなかったけど、地上に伸びる階段を周りに気を配りながら上っていくエナについて外に出た。

 空が広い!

 ここは研究所の中庭よりずっと明るくて見晴らしがいい。無限に続く畑と山、天高く飛ぶ鳥までいる。

 思わぬご褒美にワクワクして跳ね回る。フリスビーとかボールはあるかな?一緒に体を動かして遊んだら、きっとエナも元気が出る。

 どこからか「わうんわうん」という低い響き。耳の中が粟立つような、危険な印象のある音。

「こら、ソワソワしてないでこっち来て。盲導犬らしくリードつけるんだから」

 エナの言うことは絶対。気持ちは悪いけど、僕は首元に頑丈な革のベルトを受け入れた。

 加えてリードを結ばれている間、建物の入口に立てられた看板の文字を眺める。

『社会福祉法人:愛泉の杜』

 筆書きが見事で見とれていたら、僕の横からエナが躊躇なく踏みつけた。

 一回ではなく何回も。ガンガン、ゲシゲシ。

「こんなの誇大広告もいいとこ。卒業生の私が保証する」

 これは遊び?僕も看板に飛びついたり犬パンチを見舞ってやる。

 先程から聞こえていた「わうんわうん」の音が急に大きくなった。

 気がついたら、頭より少し高いところに黄色と黒の大きな虫が羽音もやかましく雲を成している。

 エナが悲鳴を上げた。それよりも一瞬早く僕は駆け出す。

 危険。あれはきっと危険。エナを、ご主人を安全な場所へ逃がさなければ!

「あれは雀蜂よ!──ほら、玄関の横のひさしに巣を作ってる!ここには夜に着いたから気がつかなかったんだ…」

 雀蜂。素早く飛び回るあの小さな生き物は、そういうモノなんだ。

 力任せにリードを引っ張って約100m。僕はエナの『いい加減止まれバカ犬キック』が飛んでくるまで走り続けた。

 エナとの外出はうまくいった。スーパー(コンビニより足がつきにくいとエナが言った。人間の足は増えるのかな?)でもホームセンターでも人間は僕の事を

「盲導犬ですか?偉いですねえ」

 と呼んで優しくしてくれる。

 『モードーケ』が何か知らないけど、褒めてもらえるのは嬉しい。

 スーパーで着替えや食糧、ホームセンターで僕のご飯(缶詰)を買うと、エナは大きな公園に立ち寄った。

「通信障害ですか?」

 仲良くなった子供連れの女とベンチで話しながら、エナはペットボトルをあおる。

 女は激しく頷いて話し続ける。

「そうなのよぉ。なんでも地崩れだか地割れだかで電波塔が倒壊したんだって。怖いわねぇ。この辺は田舎で環境が良いから越してきたのに、田舎なのも良し悪しね」

 女は『ママ』という。僕の頭に腰かけたり尻尾にかじりついたり耳を引っ張ったりしてくる乱暴極まる子供の母親。

「それはさぞお困りでしょうね。メールとかLINEとかはどうされてるんです?」

「それはホラ、有線なら大丈夫って事だから。家のネットを使うしかないのよ…貴女この辺に住んでるんじゃないの?」

 エナは何かごまかしながら色々な事を聞き出していた。

 会話の後半はママのつがい相手の親の悪口だった。子供が服の中に便をしたまま背中にまたがってきたので、僕はこの会話が永遠に続かないよう願った。

 帰りがけ、例の「わうんわうん」にまたでくわした。

「この辺蜂が多いね。あんた白くてよかったじゃん。こいつら黒くて大きい物を熊と勘違いして攻撃するらしいよ。黒い毛皮だったら刺されまくりだったね」

 夕焼けの中でエナは明るい黄色に輝いてる。僕達の影が並んで、道に長く浮かび上がる。

 首のベルトについた紐の先が、エナの手に握られているのを見上げて嬉しくなった。

 縛られるのは好きじゃないけど、エナと繋がれているのは最高。

「ねえ、ベル」

 不意のエナの言葉。

 なんだろう?

「あんたは私を裏切らないでよね」

 分かった!

「…あー、自分で言っててウケる。あんたバカ犬だし、そんな約束言っても無駄だよね。アハハッ」

 あれ⁉︎

 今のは笑いかな?エナは笑ったんじゃないかな⁉︎

「なーによ尻尾振って。自分は約束は守るっていうの?」

 僕は短く吠える。

 当たり前だから。

 約束を忘れるなんてあり得ない。エナの頼みは、ご主人の言葉は絶対だもの。

 歩きの幅が広がって肩が上がる。誇らしい。ご主人に頼られて初めて一人前…一犬前になれるんだ!

 帰ると早速エナはガスに『電波塔の倒壊』を話した。

 ガスは暫く腕をこまぬいて

「ななら有線でネット接続することになるが…正直やりたくない。枝がつきやすくなる」

 と腹から絞り出した。しかしエナが

「このまま連絡が遅れてボスに疑われる方が危険だよ!」

 とせっつくので、ガスは不承不承に腕時計と外から引いてきた電話線を繋ぐ作業に入った。

 ガスの腕時計から伸びる線と、床に伸びる線(電話線)をまとめる箱。うずくまって腕時計のパネルを目まぐるしく操作するガスと、その背中の後ろからのしかかって覗き込むエナ。二人の横で僕は転寝うたたね

 びっくりするほど早く

「よよし、コネクト!繋がった!」

「早く今の私達の状況を伝えて!」

 と興奮する二人に起こされた。

「ももうフォームに送信した。返事も来た!…『取引材料を保管するコンテナを持って明日中に到着する、待機せよ』だ」

「呆気なかったね。そうとなればズラかる準備!」

 ウキウキと奥の部屋に行くエナ。

 ガスは手の甲を噛んで複雑な表情になっていた。

「あ呆気ない…確かに。待ち構えてたように感じるのは俺の心配症のせいかな、ベル?」

 ガスの心の中が分かるのはガスだけだ。そんな簡単な事も分からないの?

 とりあえず名前を呼ばれたので僕は「ばふ」と答えた。

🐶

 久し振りに外に出たせいか、夕ご飯の後すぐ眠くなった。

 目覚めたのは、ガスの腕時計から流れる音のせいでも空腹のせいでもなかった。

 尻尾の付け根からムズムズするような妙な気分になって、灯りを消したエナの部屋の中で起き上がる。そして気が付いた。

 足元から立ち昇るおかしな匂い。

 視線を落とす。床のあちこちに、虫がひっくり返っている。沢山。数え切れないくらい沢山。

 急いでまだ起きていたガスの所に行き、袖を引っ張ってそれを見せた。

 ガスがハッと息を吸い込む。じわっと汗の匂いが濃くなる。

「い良い子だベル、よく教えてくれた」

 それからガスはエナを起こした。寝起きのエナは無断で部屋に入った事にまず怒ったが、ガスが虫の事を一言二言話すとすぐに黙ってついて来た。

 玄関ホールは暗かった。いつもなら外の月明かりが入っているのに、それさえ感じない。

 音はしている。ボールを膨らますようなシューッという音。

 車のタイヤと地面が擦れる音。

 人の足音。くぐもった呼吸と、機械のざわめき。研究所のようにマスクをつけた人間が何人もいる!

「電波は?」

「け携帯域はアウトだ。亢神経ガスを使ってきたあたり、研究所の連中で間違いないな」

 ガスとエナの声には不安と憤怒が入り混じっている。それにしても視界が悪い。

「なんで嗅ぎつけられたのかな。まさかボスが私達を売った?」

 ジャキ、とエナが銃を構える音がした。

「そそうとは限らん。ひとまず逃げてから考えよう」

 ガスが何か長くて重そうなものを振りかぶり、一気に出口に突進。ガラス製のドアに手にした物を振り下ろすと、闇が破れた。

 外の光と空気がどっと流れ込んでくる。

「目貼りしてガス吸わせるとか、いやらしいね!」

 エナがガスに続く。僕もそれについて行く。

 エナは僕が守らないと!

 外に出ると鬼がいた。

 違った。ガスだ。まさかりを振り回す赤鬼のように金属パイプを使い、全身を(頭もすっぽり!)黒ずくめの服で覆った男達を薙ぎ倒していく。

「デートは昼間に決まってるのよ、野蛮人ども!」

 と叫びながらエナは両手で銃を撃ちまくる。

 僕はエナに黒服の男が近づかないよう精一杯吠えた。

「よしバカ犬、私の傍を離れんじゃないよ!」

 了解!

 この喧嘩はエナとガスが勝つ。そう思った。

「ガス、隠してある車に走るよ」

 というエナの科白が終わるやいなや、近くの藪が爆発した。

 僕は見ていた。爆発の前に赤い光線が藪に向かって細く伸びたのを。

 そしてガスが、まるでそうなるのが分かっていたかのように爆発とエナの間に全速力で割り込んで盾になったのを。

 地面に折り重なっている二人に恐々近づいた。上になっているガスは頭から血を流している。ボロボロだ。

 エナは…?

 ケホッ、と小さく咳をして、僕の大事なご主人は勇敢な大男の下から這い出した。

「しぶといな。幸運の女神は同性に優しいらしい」

 黒服の男が一人、前に進み出る。こいつは武器を持っていない。

を置いて離れなさい」

「ガスを助けて」

 エナは物凄い顔をしている。いつのまにか数台のごつい車が僕達を取り囲んでいて、ヘッドライトで昼間のように明るい。

「ガスを助けて。そうしたら言う事を聞く」

 男はのけぞった。

「この場で交換条件を提示できるのはどちらですか?」

 エナの額に汗の粒が浮いてる。緊張してるんだ。そっと側に寄り添う。

「観念してから離れなさい」

「殺すの?」

 エナの手が冷たい。

は大変危険なのですよ」

 がさ。大怪我で死んだようになっていたガスが腕を支えに顔を上げる。

「し処分するのか、ベルを」

「名前までつけましたか。いやはや『ブルーレオポルド』の野獣コンビ、拝島エナと円谷ガストンがどんな心変りを?」

「だ黙──」

 ガスが血を吹いた。エナが硬直する。

 男は笑う。僕は世界で一番この笑い方が嫌いだ。

「もうご存知なのでしょう?は安定した超成長遺伝子を持つ究極の生物兵器なのです。抑制剤を投与しコントロールしないと──生後二週間ほどで成体になる」

 エナが拳を握る。僕は唸る。

 エナを守るんだ。

「内臓や筋肉、中枢神経の成長速度を劇的に早める遺伝子という事は即ち、人間に応用すれば兵士の増産が可能という事なのです。よろしいですか?紛争地では兵士の最年少は5歳。体格も知能もそれで足りるのです。の持つ遺伝子ならば短期間で成人の体格の兵士も、反対に子供の体で大人並みの知能を持つ兵士も作れます」

 ガスが何か言い捨て、血の混じった唾を吐く。

「分かりますね?この技術を人間に応用すれば、独裁国家やテロリストは数年間のうちに簡単に何万もの兵士を手に入れることができるのです」

 ガスの背中の筋肉が、激しい憤りに燃え上がるようにうねる。

「危険だから…殺すのね」

 エナは秋風に髪をなびかせ、その後ろ姿は仕方がないと語っていた。

「バカ犬。ここにいな」

 いやだ。離れたくない。

お座りステイよ!言うことを聞くの、ベル!」

 いやだ。だって。

 エナを守るって、ご主人を守るって決めたのに。

「言う事が聞けないなら、もう私の犬じゃない‼︎」

 ずしん。

 金属のように重いその言葉で、僕は姿勢を正した。

「…そうよ。そのまま…」

 エナは振り向かなかった。静かに僕から離れていく。自分を抱きしめるように腕組みしながら。

 その指先がエナの肘に食い込んで白くなっているのを、僕は後ろから見ていた。

 死にそうに辛いよ。

「エエナ…俺の事はいい…ベルと逃げろ…」

 ガスが言った瞬間。

 ビッ。何か速いものがエナの頬をかすめた。

 男がチッと舌打ち。

「ヘタクソめ!」

「すみません、次は外しません」

 男の仲間が叩頭する。

 エナの手が頬を触る。そこから血の匂いがプンプンしている。

 撃たれたんだ。

 僕じゃない。エナが。

「そう。殺されるのは貴女です、拝島エナ。そこの彼も」

「な…なんで」

 仲間から銃を引ったくり、男が構える。

「言ったでしょう?は危険な存在だと。核ミサイル然り殺人ウィルス然り、危険な物ほど高値がつくのです…闇の市場ではね」

「じゃあベルは」

は貴重な完成品。この先死ぬまで大事にされるでしょう。貴女達は別ですが。ここで始末させてもらいます」

 気が付いたら僕は飛んでいた。

 男が目一杯伸ばした腕めがけて。

 そして噛む。

 ブヨブヨの肉が口の中を埋めて、血の味が広がった。凄く興奮した。でもすぐに、凄くいやな気持ちになった。人間を噛みたくない。でもエナが危ない目に遭っている。

 厭な事でも、しなきゃならない。

「クソッ、こいつ──!」

 男は怯んで銃を取り落す。

 その隙に僕は走った。建物の方へ。

「ベル⁉︎」

 違うよエナ。逃げたりなんかしない。

 あった。固い袋のようなはまだ庇の下に、昼と同じように、しかしひっそりとぶら下がっていた。

 渾身の力を込めてジャンプ。2回目で額がに当たり、乾いた音と共に落ちてくる。すかさず顎に咥えて走り戻る──間に合え!

 男は僕の牙で切り裂かれた腕を庇い、後ろに退がっていた。

 その代わりに7、8人の仲間が、ガスとエナに銃を向けている!

 くらえ!

 僕はその内へ咥えていた物を投げた。

 地面にバウンドしたから、沢山の──無限の──「うわんうわん」が怒り狂って溢れ出た。

「は、蜂だぁっ‼︎」

 大混乱。

 男も、エナとガスを囲んでいた仲間も、二人に倒された連中も必死になって逃げ惑う。

 僕は大騒ぎの中からエナを引っ張り出した。思わず力が入り過ぎたものだから、裾のボタンが千切れ、服は台無し。

「ベル、なんで私を、私達を助けて──」

 きっと怒られる。叩かれる。嫌われる。

 どんなに怒られてもいい。エナを救けなきゃ。

 エナを引きずって、車の一台に向かう。

「待ってベル!ガスがまだ──」

 一瞬動きを止めた時、僕には見えた。

 雲霞うんかのように人間に集まる蜂の奥で、男が性懲りも無く銃を構えているのが。

 するべき事は単純。エナと僕の高さの差を埋めるための、ジャンプ。

 そしてそのまま開いていたドアから運転席にエナを押し込む。

「エエナ、構うな行け!」

 ガスの声とともに、何か輪っかが飛んで来た。僕は無意識に口でキャッチ。群青の腕時計。

 エナは無言でベルトを締め、車を発進させる。他の車に激突しながら、敷地を出て車の専用の道に乗り上げた。

 水平移動。拐われた時もこんな風だったっけ。

 あの時よりずっとスピードがある。

「…バカよバカバカ!とんだバカのお人好しよ、ガス!」

 あんまりバカって言ったらガスが可哀想。本当の事なのかも知れないけどさ。

 荒れているエナの邪魔にならないよう、僕は軽く鼻を鳴らした。

「あんたもよ、ベル!どうして私を見捨てなかったのよ!」

 今度は僕に向けられた怒り顔。

 それが、すぐ心配顔になる。

「…あんたそれ、血…?」

 鼻を鳴らす。吠えるには、あまりに痛いから。

 さっきジャンプした時、お腹を熱いとんがったものが通り抜けた。

 撃たれたんだ。腰から下が、ずっくり血で濡れているのが分かる。

 傷口がズキズキ疼く。

 もう走れない。エナを守れない。悲しい。

 助手席の前の出っ張りに、ガスが最後に投げ渡してくれた物がある。

 スマートウォッチ。

 僕は便利なタッチパネルに鼻を寄せた。

「ベル、動いちゃダメ!」

 無視。生まれて初めての命令違反。

 固くて四角い板に表示される文字を鼻先で押していく。丁寧に、一つ一つ。

「これ…」

 エナが僕の肩に手を置く。振り仰ぐだけの力がもう、ない。

 腕時計の光る文字盤。そこにはこう出ている。

“ごめん”

 と。

「あんた──言葉が分かるの」

 血が流れて弱っている僕は、臆病な犬みたいに鼻を鳴らした。エナが察して、運転しながら僕を支えてくれる。

 分かってる。研究所で訓練されていたから。

 人間の言葉というものを。

「そんな…始めから⁉︎だってじゃあ、なんであんた」

 エナの言いたい事も、自分が答えるべき言葉も分かってる。だって僕は特別アルティメットなんだもの。

“エナに拐われて良かった”

「──…!」

“生きてきて嬉しい事ばかり。ご飯を貰えた。本を読んでくれた。笑ってくれた。番号で呼ばれていた僕に名前をくれた”

「ベル…」

“一緒にいられて嬉しい。僕だけだったら分からなかった。世界が綺麗で楽しいのはエナがいるから。ありがとう”

「──お礼なんて」

“だけどごめん”

「え?」

“もうエナを守れない。僕はいなくなる。ごめん。ごめん。ごめん”

 あれ?またエナの目から塩水が出てる。

“いなくなる前にお願いがある”

「…何よ」

“褒めてくれる?”

 エナが口許を抑えた。怒涛の如く両眼から水を出して。

「…バカ。あんたやっぱりバカ犬よ。何にも分かってないじゃない!」

 分かってるよ。

 僕は特別な犬。

 だけど、それはちっとも良い事じゃなかった。

 普通の犬なら、名前をもらって普通なご飯がもらえて普通に遊んだり散歩に連れて行ってもらえたのに、研究所ではどれもやってもらえなかった。

 僕がやっと犬に──No.1029という実験動物なんかじゃなく、ベルという犬になれたのはエナのお陰。あとガスも。

 特別であり、普通の犬になれた。

 エナは──世界で一番のご主人。

 だからエナが生きている事が僕の倖せ。つまり世界で一番倖せなのは、僕。

 いつか読んでくれた本に書いてあった“奇跡”は、きっとこの事。

「──褒めるもんか!」

 エナはハンドルに拳を叩きつけた。

「あんたなんか、ベル、絶対褒めてなんかやらない!だって──私をこんな不幸のどん底に落とすバカ犬を褒めるわけないでしょ⁉︎」

 思いがけず怒られた。

 一体何を間違ったのかな。

「私に褒められたかったら、こんな事で死ぬんじゃないよ!主人を一人残して死ぬ犬なんて、最低のバカ犬なんだからね!」

 どうすればいいの。

「警察に行く!事情を話して保護してもらう。あいつらだって警察の中までは手が出せない筈よ」

 でも。それじゃエナが捕まってしまう。警察に捕まるのを何より恐れていたのに。

「──もうそんなの、どうだっていい。だって」

 まるで言葉を交わしているように、僕とエナは見つめ合うだけで気持ちが通じていた。

「私にはベル、あんたがいるもの」

 エナの微笑み。

 ああ、そうだ。

 その通り。

 僕の頭の中を綺麗で楽しいものが通り過ぎていく。

 初めてエナの顔を見た事。

 ガスに抱きしめられた事。

 『餌』ではなく誰かと一緒に『食事』した事。

 訓練の教材ではない『絵本』の事。

 変装して外に行った事。

 頭の中のエナは笑顔で…

「交番があった!あそこで救けてもらおう。もう大丈夫だからね‼︎」

 車を降りたエナが僕を抱えて走る。揺れる。それが心地よいリズムになる。柔らかな布のような眠りが僕を包んでゆく。

「ベル…ベル?」

 エナの胸の中で、その体温でほどける綿わたの塊なった気分。

 こんなに満ち足りた気持ちになったのは初めて。

 『名前』。エナから一番最初にもらった贈り物が、エナ自身の声で何回も繰り返される。

 流れ出る血液とともに意識を溶かしながら、思う。

 僕はこれ以上なく倖せな犬。

「ベル───────‼︎」

 エナの叫びは9月の闇夜をつんざいて、堤防の上にいつまでも残響を伸ばしていった。

 🐶

 疲れた。

 ぼくたちの鼻はタッチパネルを押すようにはできていないんだ。人間の手は本当に便利だよね。

 掴む事ができる。いじる事ができる。奏でる事ができる。作る事ができる。

 一番は、撫でられるっていう事。きっとぼくたちを撫でる為に手を持ってるんだね。

 あれからどうなったか?この文から分からない?文体が違う?二年も経てば進歩するさ!

 ガスは病院に運ばれて、そこから刑務所に移った。時々会いに行くと運動場で遊んでくれる。前よりもっともっと強くなった感じがする。毎日お風呂に入ってるからか、石鹸の良い香りがするようになった。

 あとよくエナの事を僕に訊く。どうやらあそこを出たらエナのところに戻って来る気らしい。それだけじゃなくて、なんだかちょっと赤くなってモジモジする。

 ガスはいつかエナと群れを作りたいんだろう。でもまだダメ。僕の評価をクリアするには頼りない。エナと子供を守れるぐらい甲斐性がついたら、考えてもいいかな。

 エナは僕を連れて出頭した事と、生物兵器を自作していた犯罪組織の摘発に寄与した事で恩赦になった。

 僕の口添えもあったしね…僕だってたまには我儘を言うよ。それが許されるくらい頑張ってるし。なかま達の教官として、本物の盲導犬や警察犬を育ててるんだ。

 僕はなんたって特別な犬アルティメットドッグなんだから。

 話はここまで。そろそろ行く時間。

 これから先の事?

 どうしても知りたいの?

 答える代わりにこの言葉を使おうかな。

 めでたしめでたし!

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僕はベル、アルティメット・ドッグ 鱗青 @ringsei

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