石の城 ~暁の魔女と薔薇の騎士~

THEO(セオ)

全1話

 遥か遠い北の国。

 極光揺らめく大地の果てにその石の城はあった。

 魔女が住む、と土地の民は言う。

 とある美貌の騎士が、故国を追われてその城の見える街まで辿り着いた時、季節は冬を迎えようとしていた。どこか適当な金持ちの家に護衛として雇ってもらおうと、騎士は立派な家々の扉を叩いて回ったが、しかし、彼は薔薇の紋章の描かれた盾を持っていた。遠い大国の女王直属の近衛部隊、薔薇の騎士の紋章だ。そんな高貴な身分の男が、なぜこんな鄙びた土地に流れてきたのか、剣呑な空気を主人達は感じとり、誰も彼を雇おうとはしなかった。その上、宿の親爺達まで彼を泊める事を嫌がった。口々に、今夜は部屋が塞がっております、と見え透いた嘘で追い払うのだ。

 さて、その日の宿にも困った騎士は、もはや策無しと魔女の城に向かって馬を走らせた。せめて雨露をしのぐ屋根だけでもあれば、と彼は考えていたのだ。だが、石の城は彼の想像とはまるで違っていた。

 美しかったのだ。まるで夢でも見ているように……

 何もかもが輝くばかりに美しい。冬間近だというのに庭園は花に溢れ、大勢の召使いが懸命に手を入れたように金色の窓枠は輝いている。城の白い石壁までが、磨かれてサッパリとしていた。

「これなら、あるいは雇ってもらえるかも知れないな」

 越冬の住処を求めていた騎士は、恐れも知らず城の表の大扉を押し開けた。驚く程軽くその巨大な扉は開き、不意に、中からひとりの黒い尼僧服を纏った女性が現れた。

「何かご用ですか?」

 その黒衣の女性は抑揚のない声で言った。

「この城の主人殿はいらっしゃらないかな? 私の名はウィルヘルム・シュレンダリィ。訳あって国を出奔し、今は仕事を探している身だ。護衛にでも雇ってもらえないかと、ご城主に訊ねてはくれないだろうか?」

「城主は私です」

 それは妙にきっぱりした声だった。シュレンダリィは一瞬面喰らい、俗界にある色っぽい女城主との一冬のアヴァンチュールを期待した自分を内心で嘲った。そんなうまい話があるものか、と。目の前にいるのは尼僧だ。

「そうですか。いや驚きました。土地の者どもは、この城は……あ、いや……」

「ああ、魔女の城だと言われたんですね。そうかも知れない」

 彼女は、不思議に深い色の瞳を伏せて呟いた。少しだけ子供じみた繊細な容貌。絹糸のような長い黒髪、射干玉の瞳。額には異国の神を崇める徒が信仰の証に彫る赤い花の入墨がある。彼女の持つ双色は北の土地には珍しく神秘的な美しさを醸し出していた。鬱蒼と茂る梢に隠された暗く静かな泉のような黒に、新鮮な血のような赤。

 シュレンダリィが思わず見惚れていると、どこか寂しげに彼女は微笑んだ。しかし、すぐに様子を取り繕い、人形のような穏やかな笑顔を浮かべた。

「遠目に見れば、私はこの通り黒い尼僧服を着ていますから、怪しげな魔女に見えたのかも知れませんね」

 なにも可笑しくないのに、可笑しそうに彼女は笑い、夕辺のお茶でもご一緒にいかがですか、とシュレンダリィを招き入れた。

 案内されたのは南の塔にある広く快適な応接室だった。王が私的な謁見に使用するような。

 それにしても、なんという豪奢な調度の品々か。水晶のシャンデリア。ダマスク織の絨毯。優美な彫刻、絵画。そして金色に輝く真鍮の飾りがあちこちに上品に取り付けられて……いや、違う、これは本物の黄金の輝きだ。鍍金ですらない。

 シュレンダリィは呆然と城の中を見渡したが、城主はその様子を面白そうに見つめただけだった。

 城主はラダトーヤ・ミュリという名であるらしかった。異国風の初めて聞く響きだ。ラダトーヤが自分でそう名乗ったのだが、果たしてそれが本名かどうか。なんとも神秘的な雰囲気の人物だけに、シュレンダリィは確信が持てなかった。

「あなたを雇う事はできません」

 開口一番、ラダトーヤははっきりとそう言った。

「でも、越冬の宿にお困りなら、一冬だけこの城で過ごして下さっても構いません。ただし、北の塔には立ち入らない事が条件です」

 一瞬、先を案じて絶望しかけただけにラダトーヤの申し出はありがたかった。

「願ってもない。ぜひ置いて頂きたい。正直、路銀も尽き、仕事も見つからずに困りきっていたのです」

 シュレンダリィは感激した、という態を装ってラダトーヤの手を握った。初見で尼僧だと判ってはいたものの、俗世の女であって欲しい、と奇妙な願望を抱いたからだ。単純に彼女の手に触れてみたかったせいもある。ラダトーヤの柔らかな美貌は蠱惑的だ。どこからどう見ても尼僧なのだが、なにか不思議な艶やかさがある。しかし、

「冷たい……」

 ゾッと背中を汗が伝った。ラダトーヤの手は氷のように冷たかった。

 悪魔と契約を交わした魔女は、氷の肌をしていると言い伝えられている。

 まさか……

 シュレンダリィは、つと驚いた顔でラダトーヤを見てしまった。

「冷えていますね。手がこんなに冷たい」

 シュレンダリィはごまかすように言い、

「そうでしょうか?」

 ラダトーヤは本当に分からないという顔で答えた。どこか不自然に見える程、その態度は自然だった。

 冷や汗はなかなか引かなかったが、シュレンダリィはこじんまりとした西の部屋に案内され、朝昼晩の三回の食事は中央のホールで、入浴は別館の浴場で、あとの時間は自由にしていい、と説明を受けた。

「あなたに会いたければどの部屋を訪ねればいいのです?」

「東の塔へ。私は大抵そこの書庫で読書をしていますから」

「読書? 本を読まれるので?」

「ええ、人の歴史に興味があるんです。その類いの本なら飽きない程度には揃っていますよ。興味がおありなら、好きに読んでくださってかまいません」

「興味は……いや、お言葉に甘えます。あなたと一緒に過ごせるなら、読書も悪くはない」

 シュレンダリィは、多少やましい気持ちを含めてそう言った。ラダトーヤは少しだけ困ったように微笑んだが、それ以上何も言わなかった。



 その城がおかしい、と気付いたのは、それからしばらく経ってからだ。

 シュレンダリィはほとんど一日中ラダトーヤの隣で過ごした。だから、彼女が城の仕事を何もしていないとすぐに気付いたが、しかし、それにも関わらず、時間になると立派な食事の支度が整っている。誰も手を加えていないのに城内はいつも掃除が行き届いた状態で、大理石の広い浴室も垢じみた様子は全くなかった。召使いを見かけませんね、と言えば、召使いなどいません、と返事が返ってくる。どうやら本当に、この城にはラダトーヤと自分以外には誰も存在してはいないようなのだ。なのに、誰かがラダトーヤの世話をしている。いや、何かが、と言った方が適当だろうか。そう考えて、シュレンダリィはうすら寒い思いで身震いした。

 ラダトーヤは、魔物に取り憑かれているのではないか?

 城の不思議について考えると恐ろしい思いに駆られたが、それでもラダトーヤの側を離れがたく、シュレンダリィは理性を騙し騙し冬の日々を費やした。



 そんなある日。

 シュレンダリィが城を訪れてから二ヶ月程が経っていただろうか。ふと、彼は禁を犯してみたくなった。つまり、立ち入ってはならないと、最初の日、ラダトーヤに言われたあの北の塔に唐突に登ってみたくなったのだ。

 コーン、とひとつ鐘が鳴った。

 朝食の用意が整ったという合図だ。あの鐘は誰が打っているのか? それすらも不明瞭なまま、彼はこの城で、二ヶ月も過ごしてしまったのだ。いいかげん、その秘密に近付いてもいいのではないだろうか?

 シュレンダリィは軽い興奮を押し隠して、ラダトーヤとふたりきりの朝食の席に向かった。ラダトーヤは相変わらず穏やかに笑い、彼女が好きだという歴史を楽しそうに語り、シュレンダリィの過去の恋を微かな羨望の眼差しで聞いた。

 ラダトーヤはとても魅力的だ。控え目な仕草のせいで一見地味に見えるが、その実、素晴らしく整った顔立ちをしている。伏目がちな瞳は静かな夜の泉のように輝き、繊細な輪郭と形の良い唇は、まるで妖精のような不思議な魅力がある。じっと見ていると、不埒な気分にさせられる。

 あなたに誘惑されてしまいそうだ、とシュレンダリィは何度も口説いた。彼は本気でそう言ったのだが、ラダトーヤはまるで取り合わなかった。あまりしつこくせまって困らせるのも憚られるし、ラダトーヤの機嫌を損ねて冬の荒野に追い立てられてはまずい。シュレンダリィは、ラダトーヤが冗談めかすうちはそれ以上追うまいと決めていた。だからこそ、禁を犯したくなってしまったのかも知れない。

「私はこれから書庫にこもりますが、あなたはどうしますか?」

 毎朝の恒例になった控え目な誘いの言葉がかけられ、シュレンダリィは一瞬迷ったが、初めてラダトーヤの誘いを断った。

「申し訳ありませんが、私は今日、独りの部屋で書き物をしたいのです」

「大切な方への手紙ですか?」

「ええ、まあ」

 シュレンダリィは曖昧に答えて食堂を辞した。昼食は必要ありません、と付け加えて。

 ラダトーヤは、なぜか寂しそうな視線でシュレンダリィを見送った。



 北の塔への回廊は黒い扉に閉ざされていた。

 シュレンダリィは扉に近付き、ふと、その黒い表面に細い金色の文字が刻まれているのを見つけた。それは驚くほど繊細な、糸のように細い文字。うっかりすると見落としてしまいそうな程の……

 どこか乱暴に刻まれたその文字は、もう随分と古いようで、掠れてほとんど読めなくなっていた。

「アウローラ……?」

 アウローラ。北の国の言葉で極光(オーロラ)を意味する。何か別の意味もあった気がするが忘れてしまった。

「オーロラの塔、って事かな?」

 重い扉を開いてみて驚いた。季節は厳しい冬のさなか。

 それなのに……

 花だ。

 溢れる程の花が咲いている。

 この城を訪れた時は、まだ花盛りだった他の庭――それも十分に不思議な事だが――も二ヶ月が経った今では、みな一様に深い雪で覆われてしまったというのに、北の中庭だけは美しい春の花で埋め尽されていたのだ。いや、春の花だけではない。初夏の花も、盛夏の花も、初秋の花も、晩秋の花まで……

「なんという景色だ……」

 百花繚乱。噎せ返る香気が鮮やか過ぎて気が狂いそうになる。

 その時、ザンと一陣の風が吹き、嵐のように花々が揺れた。ザワザワと耳障りにシュレンダリィの侵入を咎めるように枝鳴りは続き、そして突然ぴたりと止んだ。

 ハッ、とシュレンダリィは振り返る。誰かがそこに立っていたような、そんな気がする。しかし、じっと辺りを見渡したが、物音ひとつ起こらず、人の気配は絶無であった。

 シュレンダリィは得体の知れない恐怖に囚われた。北の塔には悪魔がいるのかもしれない、もうこのまま引き返そう。そうも思ったが、しかし、子供じみた迷信に挫けるのは悔しく、己を叱咤して無理に先に進んだ。

「バカバカしい。きっと召使い達が住んでいるのさ。どういう理由かは知らないが、ここの女城主は召使いの姿を見られるのが嫌いなんだろう」

 もっともらしい言い訳をしてみるが、空々しい。

 キイィッ、と軋んだ音が響いて、北の塔の扉は重たく開いた。ここの扉もまた漆黒で、金色のアウローラという掠れた細い文字が刻まれていた。

 カツンッ、と黒大理石の床が音をたてる。床も黒ならば、壁もまた黒い石で組まれている。把手や窓枠は見た事もない不思議な闇色の金属で、しかし奇妙な程キラキラと輝いている。天上を見上げれば、やはり黒い飾り布で覆われ、黒水晶のシャンデリアが並んでいた。

 北の塔はどこもかしこも闇夜のような漆黒に彩られていたのだ。

「悪趣味……とばかりは言えないな。これはこれで美しい」

 黒大理石の床は所々に金を含み、それがキラキラと夜空の星のように煌めく。磨かれた表面は、まるで澄んだ鏡のようだ。いや、暗い水面のようと言ったほうが相応しいだろうか。世界がふたつ。上方下方に同じ姿で佇んでいる。

「誰かいないか?」

「おおい、誰かぁ」

 シュレンダリィは大声で呼んでみるが、返事どころか物音ひとつ返っては来なかった。ただ己の谺だけが深々と響いた。

 誰もいない……

 誰もいないのだ。つまり、この城には、あの美しい城主と自分以外には誰も存在しない。

 シュレンダリィは愕然とその場に立ち尽くした。

 決定的だ。ここに誰もいない以上、ラダトーヤは普通の人間ではなかったのだ。

 立ち去るのであれば今であった。しかし、シュレンダリィは動けなかった。ラダトーヤの寂しげな微笑がチラチラと頭を掠める。

 あの人を独りで残して行けるのか?

 魔物かもしれない。

 それでも……

「行ける、はずがない……」

 シュレンダリィは呟いた。それは深い諦めにも似た、溜息のような呟きだった。

 意を決して奥を見ると、階段があった。北の塔には部屋らしい部屋は見当たらない。他の三方角の塔に比べると随分とこじんまりしているから、きっと最上階にしか部屋は造られていないのだろう。

 いっそ、すべてを見ておこう。

 シュレンダリィは短く息を吐き出し、そのまま階段を昇り始めた。階段は螺旋で狭く勾配が急だったが、明かり取りの窓が沢山造られていたので足元は明るかった。どれくらい昇ったのだろうか。いいかげん足が疲れてきた頃、上方から仄かな緑色の光が射した。

 木漏れ日によく似た柔らかな光。

 それは黒い壁や床に反射して揺蕩うように揺らめいた。

 シュレンダリィは光に呼ばれるように走り出し、最上階の部屋に飛び込んだ。

 その部屋に扉は無かった。ただ黒いレースのカーテンが幾重にも垂れ下がり、微かな風にそよいでいた。

 緑の光の理由はすぐに分かった。部屋の黒い石壁にも、黒大理石の床にも、イバラの蔓が茫々と生い茂っていたのだ。

 そこは黒と緑の荊の間。

 想像していたよりも広い室内には、ポツンと中央にひとつ、豪華な天涯付きの寝台が据えられているだけで、他には何も調度はなかった。四方の窓は開け放たれ、爽やかな風がそよぎ、巨大な薔薇窓からは色硝子越しの光が燦々と降り注いでいる。

 寝台にはやはり黒いレースのカーテンがかかっており、中の寝具も黒い絹で統一されていた。

 そっとレースのカーテンを退けてみる。

「男……?」

 寝台には灰色の髪をした青年が静かに横たわっていた。

 死んでいる?

 いや、眠っているのだ。

 肌にはうっすらと血の気が差し、触れてみると確かに温かかった。

「いったい、この男は誰なんだ?」

 シュレンダリィが呟いた時、突然背後で声が響いた。

「見てしまったんですね」

 驚いて振り向くと、そこには泣きそうな目のラダトーヤが立っていた。

「あなたが秘密を暴こうとするならば、それを押しとどめる力は私にはありませんでした。だから、北の塔には立ち入らないで下さいと、お願い、したんです。でも、あなたは見てしまった」

「待って下さい。悪気はなかった。ほんの好奇心で」

「いいんです。見てしまった以上、あなたには知る権利が生まれた。それが私を縛る古い掟」

「掟? 古い掟だって?」

 カツンッ、と乾いた足音が響いた。ラダトーヤに近付かれ、ハッとシュレンダリィは後ずさった。無意識だった。後ずさってしまってから後悔したが、ラダトーヤは傷付いた表情で瞼を伏せた。

「シュレンダリィ、私に怯える必要はない」

 涙を流すのかと思った。しかし、彼女は泣かなかった。ただ寂しそうに、諦めたように、それでも優しく微笑んだだけだった。

「怯えなくていいんです、シュレンダリィ。私には、たった二つの魔力しかありません。そう、確かに私はアウローラと呼ばれるべき者かもしれないけれど……」

「思い、出した……」

 アウローラとは、夜空に妖しく光る極光のことであり、それを紡ぎ出すと言われる魔女のことでもある。

 魔女……?

「しかしあなたは……」

「ええ、尼僧です。神に純潔を誓いました。だけど私は呪われていて、寂しさに耐え切れず、彼に抱かれた。だからアウローラと、魔女と蔑まれるようになったんです」

「彼に抱かれた? 彼? そこの眠っている男ですか? なぜこの騒ぎで目覚めないんです? あなたの恋人なら、今すぐ起き上がってあなたを庇うべきだ」

 シュレンダリィはなぜか憤ってそう言い、ラダトーヤは寂しげな表情のまま、独り言のように虚ろに呟いた。

「あなたは、私を苛んでいるのですか?」

「そういうつもりはない」

「なら、庇われる理由もない。それに、彼は何があっても目覚めない。永遠に呪われた眠りの中で生き続ける、私と共に……」

「待ってくれ、待ってくれ。混乱する。あなたの言う事が理解できない」

 カツンッ、と再び床が鳴った。今度はシュレンダリィも後ずさらなかった。もう、これ以上ラダトーヤを傷付けたくなかった。恐怖は相変わらず彼の胸に居座り消えなかったけれど、それでもシュレンダリィは踏み止まった。

 ラダトーヤは、涼やかな香りを残してシュレンダリィのすぐ横を通り過ぎ、部屋の中央の寝台に近付いた。彼女が片手を翳すと、レースのカーテンが自ら翻り、寝台に眠る青年の姿を露にした。ラダトーヤは、青年の横に腰を降ろし愛しそうに恋人を見つめる。それから、ためらいなく青年の頬に触れ、深い溜息をつき、やっと思い出したようにシュレンダリィに視線を向けた。

 その刹那、長い時間を彼女は彼と共有したのだと、嫉妬にも似た想いがシュレンダリィの胸に込み上げる。ふたりの間には何者も入り込めないのか、そう考えてしまって愕然とした。

 彼は、真剣にラダトーヤを愛し始めてしまっていたのだ。

 こんな奇妙な場所で、思ってもみなかった相手に恋をした。時間を巻き戻したい。せめて、つい先刻、彼女と共に朝食をとったあの時まで。

 もう手遅れだ、と、泣き叫びたい衝動にかられたが、シュレンダリィは凍り付いたように突っ立っていた。一歩でも足を動かせば、一言でも言葉を紡げば、縋りついて愛を請う醜態になってしまいそうで、彼は怖かった。愛の恐怖にとって代わられ、それまでの異形に対する恐怖は消えていた。人は、なんと愚かで無神経なのかと、シュレンダリィはいっそ大声で笑ってしまいたかった。

 ラダトーヤはじっとシュレンダリィを見つめている。

 話を聞いてくれますか、とその唇は動き、シュレンダリィはなかば呆然としたまま頷いた。恋の痛みが彼を支配していた。

 恋人の灰色の髪を撫でながら、ラダトーヤは淡々と語り始める。自分の過去を。罪を。呪いの顛末を。



 彼の名前はルーク・クリストフ。海の向こう、雪のように輝くアルビオンの王子でした。私は、彼に出会う以前からずっと、永劫に生きる呪いをかけられて彷徨っていたのです。

 なぜ呪われたかって?

 私が人殺しだからです。今は誰も知る者はいない太古の戦で、王国の軍を率いて大勢の命を奪いました。私は人の身で戦女神と祭り上げられ、不遜にもその権能を我が物のように考え違いをし、驕り高ぶっていました。私の指揮する軍は、幾つもの敵を破り、そのせいで幾つもの国が滅びたのです。数え切れないほど沢山の命が、私のせいで消えて行きました。その罪で呪われたんです。

 私の主、荒野の神はこう言いました。罪が洗い浄められるその日まで、おまえは永劫に生きるだろう……

 神の御慈悲で、私にふたつだけ魔力が授けられました。ひとつは住む場所を支配できる魔力。こうして城での生活が快適なのは、その魔力のお蔭です。私が望めば、食事も何もかも思いのままに整います。

 もうひとつは、恐ろしい力です。

 己の不老不死を分け与える魔力。

 不老不死……

 そう不老不死です。私は永遠に老いる事もなく、死ぬ事もない。だけど、ただそれだけです。誰とも何も共有できはしない。永遠の命は、永遠の孤独。不老不死など求めてはいけない。多くの王侯貴族が、莫大な財宝と引き変えにそれを求めてきました。でも、私は一度も与えなかった。永劫の時は闇の牢獄。誰かに自分と同じ苦痛を強いる事はできない。ずっとそう思っていました。

 でも、彼に出会い、愛を告げられ、私は揺れてしまった。

 私は彼に肌を許しました。アルビオンにはほんの二、三年逗留出来れば良いと私は思っていた。しかし、それが四年になり、五年、六年、十年と過ぎるうち、いつしか私が年をとらないという事が人々の噂にのぼるようになりました。私が彼に抱かれている事も、彼らには判っていたようです。私の生まれた国では異教徒と愛しあう事は珍しい事ではなかった。でも、彼の一族では最大の禁忌だった。彼は国を追われ、私は彼を自分と共に生きるようにそそのかした。初めて、不老不死を分け与えたのです。

 最初の百年はとても幸福だった。次の百年は少しだけ憂いが混じり、その次の百年は溜息に支配された。人々は、私達を魔物と呼んで追い払い、私達は追われる度に新しい住処を探さなくてはならなかった。年をとらないというだけで、私達はどこにもいる事ができなかった。

 そうしてあちこちを彷徨い、やっとこの極寒の大地に辿り着いた。住む人は少なく、城を構えてひっそりと暮らしているだけなら、遠巻きに冷たい視線を送るだけで、関わって来ようとはしなかった。私達にはそれで充分でした。

 だけど、こんな土地でさえ、彼と私の関係は快くは思われなかった。悪戯で入り込んだ子供に偶然見られでもしたのでしょうか。異教徒の私が、正しき神を奉じる彼に妻のように愛されていると人々に知られ、私はアウローラと蔑まれるようになった。

 アウローラはそもそも南方の暁の女神だった。私は、アウローラが朝を呼ぶ女神として信仰される土地にも暮らした事があるのです。それが、この最果ての地に流れ着いた時には、魔女を指す言葉にまで堕ちてしまっていた。笑いましたよ。まるで自分自身の事のようで。よくもこれ程転落したものだ、と。

 彼も、もう耐えられなかったのでしょう。突然、糸が切れたように笑わなくなり、暗く陰鬱に、もう何も見たくない、眠ったまま二度と目覚めないで済めばいいのに、と唱え続けました。そしてある朝、とうとう本当に目覚めなくなっていたのです。

 あとは、ご覧の通りです。



「では、あなたはずっと眠ったままの彼とふたりで、いや、独りだ。こんな男といてもあなたは独りだ。ずっと一人きりで暮らしてきたんですか?」

 シュレンダリィは驚きよりも、ラダトーヤを置いて眠り惚けている青年に対する怒りで叫んだ。なんという酷い男だ。彼女に愛されているくせに、こんな寂しい思いをさせるなんて。この冷たい石の城に、たった一人でラダトーヤを置き去りにするなんて……

「彼が眠りに就いてから、まだ二十年しか経っていない」

「そんな話をしているんじゃない。愛しているなら、あなたを放っておいて良いはずがないんだ。そうでしょう、愛しているなら……」

 シュレンダリィは、きつくラダトーヤの手を握りしめた。一瞬、ラダトーヤは驚きに震え、信じられないものを見るようにシュレンダリィを見つめた。

「どうして? 私が気味悪くないんですか? 怖くないんですか?」

「怖い? どうして? あなたは可愛い人だ。私は、たぶんあなたを愛している」

「たぶん?」

 ラダトーヤは、その言葉に微かな愉快を感じたらしい。愛していると言いながら、たぶん、と疑問符をつける男の無責任な放埒に、ラダトーヤはのびやかな自由さえ、強ささえ感じて微笑んだ。その笑顔は春の小さな花、金雀枝の黄色い花の満開のようだった。

 甘く優しい微笑みに勇気を得る。シュレンダリィは自分の御都合主義に少しの嘲笑を贈り、それでも、恐怖を感じたのは一瞬だ、自分はこの人を愛している、と自信を持って頷いた。

「いや、もうはっきりとわかった。愛しています。初めて会った日から、ずっとあなたに惹かれていた」

 キスを、しても? 手を握ったまま、虫の羽音のように微かな声でシュレンダリィは請う。

「シュレンダリィ……」

 ラダトーヤは、ほんのわずかにシュレンダリィに身を傾け、彼の胸に頬を寄せようとしたかに見えた。しかし、急にかぶりを振り、切ない声で訴えた。

「いや、ダメだ。私には彼がいる」

 灰色の髪の青年は、ラダトーヤが腰掛けたその寝台に、まるで彼に守護される存在のように安らかな寝息を立てている。美しい、赤子のような眠り。静かで穏やかな、光の中の安息。唐突に、シュレンダリィは激しい嫉妬に苛まれた。彼にはそれ程あなたに近くある権利などない。かつて持っていたとしても、もう、そんな権利は放棄してもいいはずだ。あなたを放っておく男など……

「眠っている男なんていないも同然だ。私なら、あなたを決して孤独にはしない」

 シュレンダリィはラダトーヤを強引に引き寄せ、腕の中に包み込んだ。寝台から引き上げられ、抱き締められて、ラダトーヤは戸惑いの声をあげる。あ、とか細く呻いて、それから、崩れるようにシュレンダリィの胸に頬を寄せた。

「本当に? シュレンダリィ……」

 ええ、とシュレンダリィは答えたが、ラダトーヤは苦悩の吐息を幾つも漏らす。

「ああ、でも、やっぱりルークを愛している」

 未練を込めて、ラダトーヤは寝台の青年を見つめる。シュレンダリィは、ラダトーヤの顎に指を当て自分の方を向かせてから言った。いっそ、青年を見つめるラダトーヤの目を塞いでしまいたかった。

「彼を愛していても構わない。それは彼とあなただけの問題だ。それと同じように、これは私とあなただけの問題なんです。そうでしょう? 愛は相対的なものじゃない。誰かと比べて、よりどちらかを愛しているなんて、そんな問答は無意味だ。ただ、私を愛してくれるかどうか、それだけを考えて下さい」

「あなたを愛するかどうか?」

「そうです。あなたと私以外、すべての条件を取り去って、ただ私の事だけを考えて、それで私を愛せるかどうか」

 沈黙があった。ほんの数秒。ラダトーヤは一度俯いて、それからまた顔を上げて、花が散るように儚く、けれど鮮やかに笑った。

「ずるいな、シュレンダリィ。そう言われたら、もうあなたを拒む口実がなくなる」

「ラダトーヤ……」

 ああ、想いは通じたのだ。

 シュレンダリィは一分一秒でも早く、眠る青年からラダトーヤを引き離してしまおうと焦って彼女を抱き上げた。その性急な仕草にラダトーヤは笑う。笑うが、シュレンダリィはそれでもよかった。

「ラダトーヤ、場所を変えましよう。ここではいけない。私はあなたが欲しいが、ここでは、ここでだけはいけない」



 ふたりは北の塔の中庭で、花に埋もれるように抱き合った。シュレンダリィは、ザワザワと揺れる花の鳴動の中に足音を聞いた気がして、あの灰色の髪の青年が嫉妬にかられて起き上がったのではないかと幾度も背後を振り返ったが、人影は毫もなかった。ただ、うるさい程の枝鳴りがいつまでも響き、その音は、ラダトーヤの不貞をとがめているように思えた。かつてすべてを捧げ、今は絶望に眠り続ける恋人を裏切って、次の男を招き入れるのか、と……

 事が済んだ後、ラダトーヤは声もなく静かに涙を流した。なぜ泣くのか、と訊ねると、わからない、と彼女は応えた。

 シュレンダリィはラダトーヤの涙を拭おうと、彼女の果実のように瑞々しい頬に手を伸ばした。

「触れてはいけない」

 鮮やかな拒絶に驚いてシュレンダリィが手を引くと、ラダトーヤは泣き笑いを浮かべてシュレンダリィを見た。甘えのこもった、だけどどこか卑屈な、それでも溜息が出る程美しい顔だった。

 花びらのような唇が切々と言葉を紡ぐ。

「私を本当に愛しているなら、私の感情の涙に触れてはいけないのです。これは呪いの毒。私を愛している者が触れれば、永遠の命の軛に繋がれてしまう。シュレンダリィ、私を愛しているなら……」

 それは、警告のふりをした誘惑だった。こちらへ来い、私を愛しているなら、今、この涙に触れて永遠の命を得よ、と、そうラダトーヤは言っている。

 永遠の命……

 ドクンッ、と強く心臓が跳ね上がった。

 なんという、恐ろしい誘惑だ。

「恐ろしい。私は、私は……」

「シュレンダリィ」

 今度ははっきりと、ラダトーヤはシュレンダリィを呼んだ。招いた。永遠に閉ざされた闇の中へ。

 あの涙は永遠の命。

 触れれば永遠の命を得られる。永遠にこの人と生きて……

 永遠に……──!



 それから、彼がどうなったのか、誰も知る者はいない。

 ただ、禁忌の一線を踏み越えてまで愛に殉じようとする人間は少ない。

 少ないからこそ、その希少な例のみが記録されるに値するのではないか。

 愛の為に犠牲になった者だけが、語り継がれるに相応しいのだ。

 おとぎ話の結末は、つまりは、そうあらねばならない……



fin

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