光の筋は海へと
すう、と隣で柳が息を吸うかすかな音が耳に届く。
……聞こえる?
こころのなかで恐る恐る尋ねてみる。
うん。とてもはっきりと。
よかった。教室に入ったらぜんぜん通じなくなってびっくりした。
ふふ。
不意に柳が笑うので表情を確認しようとすると、柳は視線をそらしてどこか遠くを眺める。
なに? どうしたの?
あの教室、携帯電話の電波が入りにくいらしいよ。
え。
休憩時間ちゅうの教室の様子をおもいうかべる。時間と試験のあいだの空白の時。じろじろ見ているとおもわれるのが嫌で周囲の観察はあまりしていなかったけれど、言われてみれば携帯電話を触っているひとは少なかったような気がする。けれどなぜ柳がいまそんなことを、と考えてはっとする。
わたしたちのこれって、電波を介しているということ?
だって、あの診察室も携帯電話が使えないでしょう? あそこ、地下にあるから。
ショッピングモールは? 電波、入るでしょう?
でも、携帯電話を使っているひとが多いから通じにくくなることがある。
まさか。
まさかね。
それは冗談が過ぎるとおもいながらも否定しきれないじぶんがいる。わたしたちの秘密のなかでもこころの声で会話ができるのは柳との最上級の特別だというのに、もしも柳が言うように携帯電話とおなじ仕組みだったらすこしがっかりしてしまう。美しい絵から絵の具を剥がしたらまったく別の、価値のない落書きが現れるような、そんな感覚。たとえほんとうでもそれは嘘であってほしい。わたしたちのからだが電波に言語をのせて語りあっているのかもしれないという一説を、医者の息子に今度聞いてもらおうとおもう。
医者の息子といえば、と朝考えていたことをおもいだす。
ケーキ、どこで買おうか?
ケーキ?
朝、言っていたでしょう? 模試が終わったらケーキを買おうって。医者の息子にもお礼をしないと。
ええ、それは医者の息子のぶんのケーキも買うということ? 必要かしら?
柳のめんどうくさそうな、いじわるを言う声が返ってくる。
必要だよ。きょうのこと、いろいろと助けてくれたじゃない。
ううん……まあ、そうね。ケーキ屋さん、見ていきましょう。高校に着くまでに一軒あったから。
え。そうなの?
川沿いを歩いたでしょう? そこの土手から降りる階段の正面にあったよ。気がつかなかった?
川沿い。桜並木、初夏の光を失いつつある葉桜の昏い色、そこには桜の残像を伴わせて、春のにおいがしそうになる、川、宛先の海のみえないような町中で、水が絶え間なく流れる穏やかな音と落差工による跳躍した音、道路に下りる階段、皮膚を沿わせたら熱い擦り傷をつくってしまいそうなコンクリートでできた、その先には……行きしなに通ってきた道をおもいかえしてみたけれど、ケーキ屋さんがあったかどうかは記憶になかった。
まあ、そうね。行ってみたらわかるわよ。
模試を受けていた中学生たちの流れにあわせて歩いていく。たいていのひとは電車で来ているらしく、駅の方面にむかっていた。土手に上がる階段が見えてきたところでその正面へと視線を滑らせると、マンションだかアパートだかのかつては白かったであろう灰色の正方形のタイルが一面に貼られている建物の一階にくすんだ青色のテントが控えめに出ていて、その上に看板が掲げられている。〈ケーキハウス那都愛 NATSUME〉。朝は気にもとめていなかったところにケーキ屋さんはあって、いま、その存在を認知する。看板も雨や雪にやられているようで色を褪せさせる縦向きの筋がいくつも入っていて、いったいいつからこの場所でお店を構えているのだろうと時代を遡りたくなる。そんな想像をしても真実なんて決してわからないのに。
中の様子をうかがいつつ柳が扉を開けると、からん・りん、とドアベルが鳴り響き、ショーケースのむこうにある部屋からコックシャツ姿の老婦人が出てくる。首もとには臙脂色のスカーフタイが結ばれていて、おなじ色のハンチング帽の後ろがわからお団子状にひとまとめにされた白髪混じりの髪がのぞいている。
「いらっしゃいませ」
来店の挨拶を受けて老婦人にあたまをすこし下げてから、ショーケースのなかに貴重な美術品のようにしんと並べられているケーキの名前を一個ずつ確認してこころのなかで復唱していく。フルーツケーキ、ガトーショコラ、ベイクドチーズケーキ、モンブラン……途中からわたしのこころの声に寄り添わせるように柳のこころの声があたまのなかで響く……ガナッシュ、モカケーキ、抹茶ロール、プリン・ア・ラ・モード。
ストロベリーショートケーキ。
求めていたケーキはどの店のものでも似たような祝福の赤と白で変わりばえがしないような気がするのに、いざ目の当たりにするとどのケーキよりも色鮮やかだと感じる。
唯花。
こころに呼びかけられる。柳のほうに顔をむけると、柳は爛々とした目でわたしを見つめていて、ことばよりも先に表情のほうが言わんとしていることを発している。感情を、心境を、胸の奥底に隠しておくのが上手な柳が、ケーキの前では素直だった。
うん、いいよ。
わたしが微笑むと、すみません、と柳は老婦人に声をかけた。
「ストロベリーショートケーキをふたつ」
「はい、ストロベリーショートケーキがおふたつですね」
「あと、えっと、おすすめのケーキはどれですか?」
「そうですねえ」
老婦人は顎に手をやり、わたしたちがいるのとは反対がわからショーケースをざっと眺める。あれ、とおもう。考えるときのその仕草のせいか、老婦人の上に透過された医者の息子の姿がかぶさる。そうやって物を考えるひとはほかにもいるのにどうしてそう感じるのだろう。柳だって似たような所作をみせるし、わたしだってそうだというのに。
鑑みる時間を終えたようで、老婦人の視線が柳の目にまっすぐむけられる。
「ベイクドチーズケーキはいかがでしょうか? ショートケーキの甘さとはまた違って、さっぱりとたべられるとおもいますよ」
「ベイクドチーズケーキ……」
チーズを焼いたもの、ということ?
柳に質問されたのだとおもって、そうなんじゃない、とよく知りもしないのに返答しようとしたら、柳のこころの声は続けられる。わたしに話す隙を与えずに。
さっぱり? というのは、甘くないということ? あのひとは甘いほうがいいのかな、あのひとは……そうだ、コーヒーを飲む。とびきり苦いのを、胃が荒れてよくないのに。お砂糖、駄目なのかな。ブラックがすきなだけ?
「それは、コーヒーに合いますか? えっと、すごく苦いやつなんですけど……」
仰天とはこのことを指すのではないかとおもうほどにわたしは驚いていた。あたまのなかで感情を司っている小さなわたし、なんていう物言いはファンタジーが過ぎるけれど、小さなわたしがのけぞるような気分になる。柳は、医者の息子が嫌いになってしまったのだとおもっていた。あるいは忌まわしい二次性徴と伴って訪れるもの。反抗期というものに柳も罹っていて、もっとも身近にいる大人である医者の息子に抵抗したくなってしまっている、そういう時期なのだと納得するように理解していた。わかったつもりになっていた。
拳に力が入る。
鼓動が速くなる。
「そうですねえ、とても合いますよ」
「じゃあ、ベイクドチーズケーキをひとつ」
「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
ぱた、ぱた、と老婦人がレジスターのボタンを右手の人差し指で丁寧に押していく。
「それではケーキの準備をしますね。一三八九円、ご用意ください」
老婦人はレジから離れ、後方にある棚に手を伸ばす。白くて薄い板紙を一枚取ってショーケースの上に置き、線に沿って折っていく。底と周囲の三面までを完成させると、今度はトングを持って柳が注文したケーキを入れていく。ストロベリーショートケーキ、ストロベリーショートケーキ、ベイクドチーズケーキ。どのケーキも、どの一片も、綺麗に切りそろえられている。フィルムを巻きつけられた断面までもが美しい。けれど生クリームやスポンジやチーズでできた柔らかいはずのものが包丁やトングのような金属でできた硬いものに触れても崩れないのは魔法みたいだ。
こんな穏やかな魔法をわたしも持っていればいいのに。
そんなことを考えて、脳をはしっていった不愉快な感情を掻き消す。いったいなんの不愉快だったのか。感じきって正体をつきとめることもできたのだろうけれど、闇から伸びてくるいやに指先の尖った手に全身をぐるぐると捕らえられてしまうイメージでもっときもちのわるいところに陥ってしまいそうだった。
「細かいの、持ってる?」
はっとして隣を見ると、柳は財布の小銭入れの部分をひらいて右手の人差し指で硬貨を探っている。
「何円?」
「三八九円。大きいのしか持ってなくて」
スクールバッグの前のチャックのところから財布を取りだして柳とおなじように小銭入れをひらく。百円玉、三枚。五十円玉、ない。十円玉、六枚。一円玉、ない。
「おれも持ってない。千円ずつ出しておつりを分けよう」
「そうだね」
わたしたちは小銭入れをとじる。代わりに紙幣やカードを入れる部分をひらき、千円札を取りだして金属製のカルトンに、ふわ、ふわ、と置く。
「二千円お預かりしますね。おつり、半分ずつにしましょうか?」
「え。いいんですか?」
「もちろんです。では」
老婦人がレジスターの横に立てかけていた古くさい電卓を出して、画面をこちらにむける。
「二千円お預かりしましたので」
2、00、0、と老婦人にとっては逆さに向いている電卓を器用に打つ。
「六一一円のお返しで、割る二で三〇五円と三〇六円。一円だけ差が出るけれど喧嘩しないでね」
その言いかたがどこかおどけていて、ふふ、と柳もわたしもつい笑ってしまう。他人と話して、それも大人相手にこう愉快なきもちになるのはひさしぶりだった。そういえば、わたしたちにもおばあちゃんがいたのだったなとおもう。おかあさんのおかあさん。わたしたちに柳と唯花という性別の名前を与えたうちのひとり。おばあちゃんはとうに亡くなっていて、おかあさんもああなってしまったから、名前の由来は聞けずじまいだ。おばあちゃんが逝った理由も知らなくて、それが小学校に入るまえだったことしか記憶にない。彼岸花のように唐突に、大きな秘密を抱えて産まれてきたから、わたしたちにも縁故があって血族がいることをつい忘れてしまう。
老婦人はレジスターから硬貨を深い皺の多いつるつるとした指でつまみあげ、わたしたちの手のひらにのせた。半分に割って出た余りの一円玉は柳の手のひらにある。
「ふたりは双子ちゃんですか?」
「そうです」
と、わたしは反射神経よりも速くて滑らかなんじゃないかというくらいに嘘の返事をする。けれど、双子ちゃんという言いかたがかわいらしいせいか、いままでに訊かれたその類の質問のどれよりも嫌な気がしなかった。そんなものではない、わたしたちはひとつの存在だ、といつもなら怒りをおぼえるのに。
「ふふ、やっぱりそうなのね」
そう言って老婦人はケーキを詰めていた白い箱のさいごの一面を閉じて、白い手提げの紙袋に箱を入れ、内がわにたたみこまれていた持ち手を引っ張りだすとレジスターまでゆっくりと運んだ。
「はい、素敵な双子ちゃん、お待たせいたしました。気をつけてお持ち帰りくださいね」
「ありがとうございます」
右手で紙袋の持ち手を掴み、底に左手を添えて慎重に持ち上げる。箱がまっすぐになっていることをよく確認してから左手を離すと、美しいたべものが入っている箱は想像よりも重たくて持ち手を持っている手に力を入れて平衡をたもつ。秘密とか、心配事とか、そういうこと以外で神経質になるのはケーキを家まで持ち帰るときくらいなのではないかとおもう。柳が先を行き、扉を開けてくれる。から・からん、と店内に入ったときとおなじドアベルの音がわたしたちの退出を見守ってくれる。傾いた陽射しの暖色が視界に入るものすべてを夕刻に染めあげ、道路をはさんで向かいのところに模試会場への行きしなに通った土手にあがる階段がある。はたと出てきたお店を振り返る。ケーキハウス那都愛はちゃんとそこにある。あのケーキ屋さんといつも生活している世界がおなじ現実のなかにあるということがなんだか不思議だった。
階段、気をつけて。
うん。
柳は先を歩きつつ、足もとを注視してわたしがケーキごと転ばないように気をつけてくれる。わたしは段差を伴う移動でケーキが傾かないように箱の底に左手をあてる。コンクリートの階段は靴ごしでもわかるくらいにざらざらとしていて、これくらいではつまずかないだろうとおもいつつも爪先がとられないように気をつけて段差をのぼっていく。
階段をのぼりきると、川が夕陽を反射して光の筋になっていた。もっと上空から臨めば、光の筋は海へと流れこんで。海は、光を寄せあつめてできているのかもしれなかった。土手の並木道は朝よりも妖しい昏さを増して、肌では感じとれないような柔い風が木々の枝を葉を微かに揺らしている。そのなかを、まだ最寄りの駅に辿り着いていない模試の受験生たちがちらほらと歩いている。
ケーキ屋さんのひと、いいひとだったね。
そうね、嫌な感じがしなかった。
え、と意外におもいつつ、おもったことがこころの声にならないように胸のうちにとどめる。柳のことだから、お馬鹿さん、と嘲笑するのだとおもっていた。そうやって他人をいともかんたんに信じようとしてとなじられるとばかり、なんて、さも柳が冷酷な人間のように想像してしまっているけれど、ほんとうのところはわたしのほうがうんと冷めているのかもしれない。
チーズケーキ、美味しいといいね。
ふふ、不味かったところでたべるのは医者の息子じゃない。
またそうやって意地悪を言う。医者の息子のために一生懸命考えていたくせに。
そんなこと――。
「そんなことないって!」
柳のものでもこころの声でもない、なにかを否定する大きな声を耳がとらえる。前方から聞こえた気がする声の源を辿っていくように視神経を集中させる。それまでは気にとめていなかったけれど、すこし間をあけて前を歩いていた集団がみんな足をとめている。四人。わたしたちが通っている中学校の女子の制服を着ている。
光記ちゃん?
どこがそう見えたのかと言われると説明できない。けれど、なんとなくでそう判別しているじぶんがいた。ということは、ほかの三人は夏音ちゃんと奏美ちゃんと聖奈ちゃんだ。いまのはただの会話だろうか。そのわりに声が大きすぎやしないだろうか。
揉めている?
唯花?
むこうが立ちどまっているからといってこちらも静止するわけにもいかず、歩きつづける。そうしているうちにあっという間に距離が縮まっていく。
「はいはい。奏美、聖奈、行こ」
ほかのふたりを従えようとしている夏音ちゃんの声は呆れを含んでいて、いったいなんの話をしていたのだろうとおもう。おもうだけで想像はつかない。奏美ちゃんと聖奈ちゃんはなにも言わない。こういうとき、いつもそうだ。険悪な雰囲気を組み立てていくのは夏音ちゃん。それに当てられるのが光記ちゃんで、奏美ちゃんと聖奈ちゃんはただ見ているだけ。
「待ってよ、なんでそうなるの!?」
道をすっぽりと覆ってしまうくらいに枝葉をのばしている桜の木の影のなかで、歩きだそうとする夏音ちゃんの腕を光記ちゃんが掴もうとする。
「うっざ」
「えっ……」
夏音ちゃんは伸べられた手をやたらとまとわりついてくる蝿にやるように振りはらう。ずるる、と光記ちゃんの足が滑り、靴からじょじょに姿が縮み消えていく、その一瞬が引き伸ばされてやけに長くて、そして冷静に、光記ちゃんが川へと落ちていっているのだと理解する。柳にケーキの箱を押しつける。走る。夢のなかにいるみたいに足が重たい。それでも走らなければならない。はやく、もっとはやく……誰かがなにかを叫ぶ。叫んだとわかっても音がよく聞こえない。急斜面になっている川表をそのまま走る。ころころと川にむかって転がっていく光記ちゃんに飛びつく。ぎゅっと目をとじる。彼女のあたまを引き寄せた右手が地面に擦れて熱がはしる、はしりつづける。なにがなんだかわからない――失態、医者の息子に怒られる、外に出られなくなる、学校にすら行くことを許されない、幽閉の日々――わからないとおもいながら、こころの奥深くはこれからのわたしたちの処遇について冷静に考えている。頬が冷たい、手が、肩が、腕が、腰が、じわじわと冷たく、服から重たくなって、息を吸おうとした鼻から水が入ってきてむせる。あたまの奥がつんと痛くなる。脳にじわじわと浸透していくように痛みの治まる感覚がきもちわるい。水面から顔を出す。目をあけると夕焼け空がある。足の裏をつけていたはずの土手はそびえたつようで、ここは……この身は、川に到達している? ほんのすこし前まで光でできている気がしていた川のなかにいる。地面に擦れていた手がじんじんと脈打っている。夢でもみているのだろうか。そうおもってしまうくらいに体感も感情もどこか遠くて現実味がない。
けほ、けほ、と胸もとで温いものが咳きこみ、光記ちゃんを抱えていたことをおもいだしてわたしはからだを慌てて起こす。
「光記ちゃん」
呼んでから、しまったとおもう。いまのわたしは柳だ。
「えっと……大丈夫、か?」
川の音がただつづく。無理やり男の子のような口調で話しかけてみたものの、どうだろうか。柳は光記ちゃんのことを光記ちゃんと呼ばない。でも、やってしまったことはもう取り返せないから、光記ちゃんが不審におもわないことを祈るしかない。
光記ちゃんのからだは川に浸かった左半分がぐっしょりと濡れていて、湿った部分の制服の色が濃く変化している。視線をもうすこしずらせば顔がちゃんと見えるけれど、傷だらけなんじゃないかとか、血まみれなんじゃないかとか、変な想像力がはたらいてしまって直視することができない。視野の隅でなんとなく見えている感じだとそんなことはなさそうなのに。
「谷野?」
名字で呼んでみる。口のなかがふわふわする。ともだちになるまえに呼んでいたはずなのに、舌先が滑るみたいでうまく発音できているのかわからない。
「……だい、じょうぶ。ごめん」
光記ちゃんの声は震えていた。わたしはおもいきり目線をそらしながらも、彼女のからだを抱き寄せる。柳はこんなことをしない、わたしがわたしの姿であってもこんなことをしてはいけないと。わかっていながらも、それでもからだが動いていた。
嘘だ。
大丈夫じゃないでしょう。
そうおもいながら、柳だったらそれをどんなふうに口にだすかがわからなくて黙りこむ。遊びにいくのに電車に乗ったときも、クレープのときも、光記ちゃんはなにが起こっているのかを誤魔化そうとしていた。でも、そろそろ無理なんじゃないか。とはいえ言語化するには、認めるには、恐ろしいことにもおもえて、手も足も出ないような、途方もないきもちになる。
どうすれば、このひとは救われるのだろう。
「柳!」
不意におとこのこの姿の名前を呼ばれて、さしてなにも見ていなかった視線をめぐらせる。どこかからここまで下りてきたらしい柳が走ってくる。その後ろをついていくようにもうひとりの人影もこちらにむかってくる。医者の息子だ。朝見かけたときとは違ってわたしたちの中学校の校医の変装をしている。やっぱり模試会場の近くにいたのか、なんて冷静に考えているうちに柳と医者の息子はすぐ目の前までやってきた。
「びっくりした……」
柳はわたしのすぐ隣にしゃがみ、濡れた肩に触れると額を押しつける。
「死んじゃったらどうしようかとおもった……」
「ばーか。なんで唯花が泣くんだよ」
震える声を謗り呆れる響きでたしなめて、けれど、もしわたしがわたしで柳が柳だったらもっと混乱して噎び泣いてしまうだろうなとおもう。医者の息子もすぐそばまで歩み寄ってくる。そして光記ちゃんとわたしに視線をあわせるようにかがんだ。
「東くん、谷野さん、まずは川から出ようか。動けるかな?」
「はい」
「動ける? えっと、光記ちゃん」
「……うん」
わたしが正面から手をとり、柳が背後から肩を支えて、せえの、とかけ声とともに足先に力を入れる。靴の裏で川底の石がじゃりじゃりとうごめく。途中、光記ちゃんが足をとられそうになってよろめき、わたしの手を強く握る。
「ご、ごめっ……」
「いや、別に」
「手! 柳くん、血が」
「血?」
光記ちゃんがちゃんと立ち上がったのを確認してから手を離し、両の手のひらを眺める。右手に川の水と混ざって透過された血がまとわりついている。くる、と右手をひねって小指がわを見てぎょっとする。産まれたときからある桜色の傷痕の表面がびりびりと剥けてえぐれていた。傷は深いらしくいまも血が溢れつづけていて、それを見た瞬間に手の痛みが急激に増す。
わたしの怪我を見た柳が右手へと手を伸ばそうとする。
「怪我してるじゃない、柳。手当てしないと――」
「ああ、東さん、ぼくがやるよ。だから」
医者の息子はことばを途中で切ったけれど、傷に触るな、と言いたいのがわかった。柳は素直に従って、伸ばしかけた手をひっこめる。いまここでわたしたちが手を繋げば、わたしが負った傷はあっという間に癒えてしまう。おたがいの身を溶かしあって、型に石膏を流しこむように傷のないからだをつくりあげてしまう。そんな不自然なことを光記ちゃんの目の前でやってはならない。どんなに傷ついても。痛くても。助けに行ったのが、怪我をしたのが柳じゃなくてよかった。わたしだったら、医者の息子に言われようが誰かに見られていようが、柳が傷ついているのを見過ごすことはできなかっただろう。
怪我をしているということを意識すればするほど血の溢れる速度があがっている気がした。痛い。痛いけれど、こころが痛めつけられるよりはましだ。谷野さんは痛いところないかな? と医者の息子扮する校医に尋ねられている光記ちゃんは、夕陽のせいか、それともこのできごとに付随した心象なのか、いつもよりも影がさしてみえた。
「わたしは、大丈夫です」
光記ちゃんのほうが、ずっとずっと、痛い。
One. 夏迫杏 @b0mayuun
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