つぎの春
水の音が遠ざかる。道路に降りてすぐのところに見ただけで学校だとわかる、ベージュ色の直方体の建物が数棟並んでいて、敷地を囲っているらしい常緑樹のつらなりに沿って歩いていくと校門が現れる。わたしたちが通っている中学校の校門とそっくりで、桜の木が植わっているところもおなじだけれど、黒くて大きな門の横に掲げられている学校の名前は高校のものだった。スクールバッグのなかから受験票をとりだして確認すると、ここが会場らしい。目的地に辿りついたというのに知っているひととも、ましてやほかの中学校の生徒も見かけていなくて、やはり早く来すぎたらしい。
氏名 東 柳
フリガナ アズマ リュウ
「柳?」
自らの名前でわたしのことを呼ぶ。ことばをわざわざ口から放って、人前に出るまえにその声がわたしのものになっているか試しているらしい。
「どうかしたの?」
「……いいや、別に」
柳の口調を探しつつわたしも便乗するように声をだした。わたしや、サワノ医院で話しているときにはあまり気にしていないことば遣いや発話の速さや間の取りかたを、中学三年生のおとこのこの話しかたに寄せていく。なにかに親しみを抱こうとせず、めんどうくさがりで、ぶっきらぼうに。音楽記号のように雰囲気を言語化して、表現の仕方の指標にすり替える。演技をしているようなものとはいえ、柳を知りたいと願いながら、きょうのわたしは柳なのだった。
柳だったら、わたしに――唯花に、いまこの瞬間なにを伝えるだろう。
いつも柳から受けてきたことばの数々をおもいかえしながら考える。もしかしたら、そのこころのほんとうのところはいままでもわかっていなかったのかもしれない。でも、意地悪を言うこともときにはあるけれど、柳はいつだって優しかった。
「おれたちなら大丈夫っておもっただけ」
「ふふ、すごく強気だね?」
「わるい?」
「いいや?」
唯花の姿でわたしの顔を見上げる柳はひとをからかおうとしているときの笑みを浮かべていて、わたしはいつもこんな顔をしているのだろうかと勘繰ってしまう。それとも、これは柳自身の、柳という魂自体の表情なのだろうか。
ん、と柳は伸びをして、はあ、と息を吐く。
「ありがとう、柳」
「なにが?」
「わがままを言ってしまったから」
こころの奥に押しこめて隠していたつもりだった後ろめたさが柳の口から飛びだして、柳はわたしのすべてを察しているのだとわかってしまう。どんなときでもわたしのこころを観察しているのだ。それなのにわたしときたら、柳のわからない部分を垣間見るたびに動揺して、馬鹿だ。
ふと、学校の保健室で校医のふりをした医者の息子と話したときのことがあたまをよぎる。
「……唯花が望むなら叶える」
あのとき柳が放ったことばを今度はじぶんの口で、舌でくちびるで、一音一音正確に発音した。模試を受けることにいい顔をしなかった医者の息子に、懇願に見せかけて反抗を試みたこのことばを柳の本心だと信じたい。晴れていても湿気の多い空気が重苦しい。物事を正解にする風は吹かない。梅雨の季節の、恋しいようで煩わしくもある太陽の光が肌を射して、雫になりきらないただべたつくだけの汗をにじませようとしてくる。柳が言ってくれたときはこころに光がともるような温かさを感じたことばが、じぶんで言ってみるとおこがましくて愚かしい。わたしばかりが夢をみて、わたしは柳の願いを叶えようとしたことがあるのだろうか。
お馬鹿さん。
空耳なのか、柳が口にしたのか、それともこころの声なのか、そう聞こえたような気がした。
「柳ったら、なに言ってるの。わたしたちの望みだからわたしたちで叶える。違う?」
「え……?」
柳の顔を見下ろすと、柳はわたしの表情をずっとうかがっていたようで視線がばちりと合う。その視線の交わりかたがあまりにも鋭くてつい顔をそむけたくなるけれど、それでも柳がまっすぐに見つめてくるから逃れられない。光の強い、けれど夢や希望に満ちた爛々としたものなんかではなく、じぶんを持った者の瞳。それはわたしのふりをして生まれたものじゃない。柳自身のものだ。
「運命を踏み越えてどこまで行けるのか、知りたいのはわたしもだよ。唯花だけの感情じゃない」
柳――。
たったいままで不安で締めつけられていたなんて嘘みたいにこころが解かれていく。柳の手はあいている。その手を、人目を気にすることなく堂々ととることができればどんなにいいか。愛に導かれたら考えることをやめて目をつぶったまま走ってゆけるのにともおもうけれど、わたしたちは、わたしたちだ。
校門のむこうの、校舎のほうから私服姿の若い大人がふたり出てくるのが見えた。談笑しているらしいふたりの横に向き気味の顔が不意にこちらに気がついて、たっ、と小走りをしはじめる。人間のシルエットが迫ってくる。パンツルックの女のひとたち。いかにもこの場所に現れそうな。この高校の先生なのか模試の監督として雇われたひとたちなのか、その両方なのかはわからないけれど、きょう出会うべきひとびとと出会うことができたらしかった。
わたしたちのすぐ目の前までやってくると、彼女たちのうちのひとりが微笑みかけてくる。
「お待たせしました。おはようございます……ええと、受験票をお見せいただけますか?」
柳がスクールバッグの前ポケットのチャックを開けて手をつっこんでいるのを横目に、わたしはすでに手に持っていた受験票のおもて面を女のひとのほうに向ける。
「ありがとうございます。北校舎二階ですね。あちらの校舎の二の一の教室にお入りください」
校門からいちばん近くにある校舎を示しながら女のひとが案内をする。ありがとうございます、と礼を述べると柳がスクールバッグから探りだした受験票を続けざまに見せる。
「ありがとうございます。あちらの校舎の二階の、二の二の教室にお入りください」
「ありがとうございます。行こっか、柳」
「おう」
わたしたちは始終微笑んでいる女のひとにあたまを軽くさげて、高校の敷地に足を踏み入れた。もうひとりの女のひとは校門を入ってすぐのところにある掲示板の、緑色のざらざらとした表面に大きな紙の上部の角を当てがっている。大きな紙になにが書かれているのかは見えなかったけれど、画鋲かなにかでとめて掲示しようとしているらしかった。
指示されたとおりの校舎に入り、蛍光灯が発する光の、目にはみえない点滅の波長が白い壁にぶつかって眩しいと感じて、わたしたちが通っている中学校の校舎内は完全には明るくないのだと気がつく。暗すぎるというわけではないのだけれど、窓外からの自然光をもっと頼りにしている感じがする。じろじろと、はじめてやってきた場所を観察するときの眼球の動かしかたで周囲を見渡して、この壁の真白はもしかしたら建物自体が新しいからそのように見えているのではないかとおもえてきた。木材や塗料のあたらしいにおいこそしない。けれど、日々の塵が舞い降りてできた綿埃や土足が持ちこんだ砂埃から発生する場所を古びた印象にする空気の、変に輪郭のあるもわもわとした臭気は感じられなかった。なんなら医療施設であるはずのサワノ医院の表向きの姿よりもよっぽど清潔で病院じみているかもしれない。
わたしが二の一の教室。柳が二の二の教室。ふだんの学校生活でも違う教室に通っているけれど、知らない場所で離ればなれになるのはこころ細い。わたしという個体だけで灯台のない海に漕ぎだそうとしているみたいだ。ゆっくり歩いていたつもりでもあっという間に辿りついてしまった二の一の教室を扉に嵌めこまれた硝子ごしに覗いてみると誰もいない。つぎの模試はもっと遅い時間に行こうと決心して、つぎなんてあるのだろうかという疑問があたまのなかを過ぎ去っていった。
教室の前で立ちどまったわたしの隣から、柳が一歩を踏みだして、この先にあるニのニの教室へと進もうとする。
「じゃあ、またあとで。頑張ろうね、柳」
「うん。……ご武運を」
ふふ。そんなことば、どこで覚えたの? わたしって、そんなことを言うの?
振り返ることなく、歩を進めながら、柳はこころのなかで笑った。
さあ?
ことばはいつの間にか視覚や聴覚に忍びこんで感情になる。
教室に入り、机の隅に置かれているカードに記された数字を辿っていく。じぶんの受験番号と照らしあわせていき、じぶんの席を見つけだして着席した。知らない誰かの席が、きょうのわたしの居場所だった。机は中学校のものよりもひとまわり大きくがっしりとしていて、天板の木の色が明るい。傷ひとつなく、むらなく施されたニスの加工が天井の蛍光灯をぬらりと反射して、ここはどこまでも眩しいのだった。小学校よりも中学校のほうが、中学校よりも高校のほうが、校舎も黒板も備品もみんな大きく、綺麗になっていく。そのことに、時の流れと、じぶんの成長とを重ねあわせて、この先は喜ぶことができるだろうか。暗闇ですらない無の未来に色彩が宿る日は訪れるだろうか。
どうなのだろう。
でも、そうだ。
想像するということは、わたしは未来を強く望んでいる。
ねえ、柳。そっちは――。
ひとつ隣の教室にいる柳にこころの声で話しかけようとしてはっとする。柳の返事もまだなのに、ここではこころの声でのやりとりができないことを直感した。この教室にはわたしひとりしかいないし、柳がいる教室だってきっとそうだろう。喧騒というノイズはない、けれど真っ白な壁に声がはじかれてむこうがわに決して届かないような感覚に陥る。ほんの数分前まではあたまのなかで優しく響いていた柳の声がちっとも聞こえなかった。まるでサワノ医院の秘密の診察室にいるみたいだ。わたしたちの私情の交信の猶予を与えない、静謐ゆえに張りつめて、呼吸のかすかな雑音も許さない空間。わからない問題はおたがいに質問しあって解こうという魂胆は、どうやらすでに打ち砕かれてしまっているらしい。そうして、混乱しそこねたようにただ呆然としているうちに模試を受けにきたほかの中学生たちがちらほらと姿を見せ、やがて教室内の座席はすべてひとで埋まった。知らない制服姿の中学生がやはりたくさん来ている。おなじ中学のひとも、とくに柳のクラスメイトたちを大勢見かけるけれど、ふだんの教室とは違って誰も口をひらかない。沈黙の空間にいるとき、そこに存在している人間の数が多ければ多いほど緊張は透明なくせに大きく膨らんで空間を圧迫し、息苦しくなっていく。
空白の時間が過ぎ去っていくのを待つ。勉強した箇所を反芻するでもなく黒板があるほうにただ顔をむけて息を殺し、間延びした一秒一秒を痛いほどに感じてようやく、教室の扉が開いて紙の束を抱えた大人が入ってきて教卓にあがる。室内の静けさの濃度がさらに増すなかで、おはようございます、と大人が言うと、おはようございます、と受験生たちがばらばらに、呟くように返事をする。長い長い眠りからさめたかのように、時の流れと生きている自覚が合致して現実になっていく。
「それでは、まずは国語科からの試験になります。これからこちらの問題用紙の冊子を配りますが、合図をするまで開かないでください」
このひとがこの教室の試験監督らしく、落ち着いた口調で注意事項を述べた。それからふだんの学校生活で先生が生徒たちにプリントを配るときとおなじように、一番前の席に座っているひとに問題用紙の冊子を数部手渡していく。そして指示されるでもなく、受験生は冊子を一部取り、後ろの席のひとに渡す。このプリント類を配る動作を、わたしは、わたしたちはいつの間に学んだのだろう。前の席のひとから――おなじ中学のひとだったけれど名前もわからない、知らないも同然のひとから――冊子がまわってくる、わたしはそれを一部取り、後ろの席のひとに――柳のクラスメイトで、イデラさんという名前だ――冊子をまわす。前に向き直って表紙に書かれている文字を読む。
月日乃市中学生模試
国語
試験時間60分
※開始の指示があるまで冊子を開かないでください
「それでは、つぎにマークシートを配布します。こちらはお手もとに渡りましたら、左上の氏名欄と、受験番号の記入を進めてください」
試験監督はそう言うと、先ほどとおなじようにマークシートを配りはじめる。手もとに届いたマークシートは生成り色ですこしだけ紙が厚い。今回の模試や高校入試はマークシート式だと聞いてはいて、対策もしてきたけれど、マークシートを実際に見たのははじめてだった。左上には名前をカタカナで書く欄と、五十音に割り振られた数字をうっすらとつけられたガイドをなぞるようにして書きこむ欄がある。わたしはきょうのために探しだしておいた、小学生のころに使っていた、中学生になってからは使わなくなったHBの鉛筆の、きゅ、と音の鳴りやすい芯をマークシートに当てて指先に力を入れる。
アズマ リユウ
子音 137 911
母音 131 233
濁音 □■□ □□□
半濁音 □□□ □□□
愛しい名前だからとおもって、そして柳が書く字だからとおもってゆっくりと丁寧に書いたつもりが、小さいユがおもいのほか大きくなってしまって柳のことを理由にしてしまう。りゅう、と読む漢字はいろいろとあるけれど、りゆう、という単語は理由しかない、そんなことをおもう。いまごろ、柳はわたしの名前と数字を書いているのだろうか。柳とわたしの筆跡はよく似ている、ほかのひとが見ても見分けがつかないくらいに、けれど柳の字のほうが綺麗にみえていつも不思議だった。続いて受験番号を書きこみ、長方形の細長くて小さいマーク部分の周囲をなぞってから中を塗りつぶす。マークの形のとおりに鉛筆を動かしているのにすこしはみだしてしまう。今度は内がわから外がわへと塗り進めてみるけれど、まだ塗っていないマークよりもひとまわり大きくなっているようにみえる。こんな不格好な塗りかたで採点のための機械は解答を認識してくれるのだろうかと不安になってくるけれど、塗り直したところで次こそ正確に塗りつぶせるという自信もない。ぼわぼわとした長方形の羅列。なにかのシルエットを表すかのように、あるいはまったくの自由に並んでいる。
この学校のチャイムが鳴る。どこかの国の教会の鐘の調べだというその音は、中学校でいつも聞いている音色よりも電子音くさくて、けれども軽やかで洗練しているようにも聞こえる。黒板の上に取りつけられている淡泊な銀縁の壁掛け時計を見上げる。長針が十二のところをぴたりと示し、九時を迎えたのだった。
試験監督が口をひらく。かちゃかちゃ、と文房具に触れる音が各所で起こる。
「それでは、解答を開始してください」
発話の前の息遣いの時点でみんな問題用紙の表紙の端に指をかけていたようで、合図とともに紙を繰る音が一斉に発せられる。トラックに膝と手をつき、スタートの合図とともにスターティングブロックを蹴って飛びだす陸上選手のような瞬発力で模試がはじまったことに呆気にとられてから、わたしも一歩遅れて表紙をめくる。
柳。
こころのなかで名前を呼んでも返事はない。
聞こえていない、のだよね。
こころは静かなままだ。わかってはいたものの、柳とほんとうに通じあうことができないのだとつい確かめてしまう。相手の応答がない呼びかけはただの独り言に過ぎない。ましてこころのなかで行われたことなんて、おもっただけでしかない。
問題を解きはじめるまえに冊子のすべてのページに目をとおす。大問一が論説文、大問二が小説、大問三が古文と漢文。高校入試への対策も兼ね備えるようになった中学三年の授業で、試験を受けるときは問題の配分をまずは確認することが大事だと先生が言っていた。ページのはじめから順番に解いていく必要はなく、かんたんなものや得意なものから解いていい。論説文、古文と漢文、小説の順に解き進めていこうと決めて、最初のページに戻る。書籍から切り離されたある一部分の文章を目で追いながら、問いかけにあたる文章の横に線を書きこみ、その答えになっている文章の横には二重線を入れてイコールでつないでいく。これも中学の国語の先生から教わったことで、文章を読んでいる段階でこの作業をやっておけば後々問題を解くときにどこを読み返せばいいかがわかりやすくなる。古文と漢文は随所に散りばめられている文法のパズルをじぶんの知識と照らしあわせて解いていくだけ。覚えていることは解けるし、記憶のなかにないものは解けない、それだけだ。でも、この模試はほとんどの問題が四択になっていて、完全に覚えきれていないものも選択肢を見ればある程度は推測して答えを選びとることができる。
残り三十五分。論説文と古文と漢文は予想どおりすらすらと解くことができた。かんたんすぎるとさえ感じるほどに、順調に。ページをいくらか戻って、飛ばしていた小説の問題にとりかかる。
〈大問二 次の小説を読み、各問に答えよ。
ここまでのあらすじ:四、五年に渡る彼女の家庭との闘争を経て主人公の彼は彼女と結ばれる。さらに二年ものあいだ母と妻となった彼女の板挟みになっていた彼は母の死後ようやく平穏を得るが、今度は妻が肺病に罹ってしまう。彼は小説家の仕事をこなしながら妻の看病に明け暮れる日々を過ごす。
ダリヤの茎が干枯びた繩のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。……――〉
彼女の悲鳴のような罵りと、彼の理智に偏った返答、そのなかに本来の小説には存在しない傍線が紛れこんで、出題者の思惑がふたりの世界を搔き乱している。それはまるで彼と彼女すら知らない、もう取り戻すことのできない解決策をねじこもうとするかのようで居心地がわるい。
〈「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍から離れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは、(a)檻の中の理論である」〉
〈「あたし、淋しいの」
「(b)いずれ、誰だって淋しいにちがいない」〉
そうしてなすすべのないふたりはからだを病んで、こころを病んで、人生の行きどまりに辿り着いてしまう日の予感をとめられなくなる。
〈彼女の曾ての円く張った滑らかな足と手は、竹のように痩せて来た。胸は叩けば、(c)軽い張子のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。
出典:横光利一「春は馬車に乗って」〉
作品名のさいごの一文字まで目に入れこむようにして読んでから設問を眺める。溜め息が出た。こういった試験の、小説の読解問題が至極苦手だ。檻の中の理論とはどういったものか、いずれ誰だって淋しいにちがいないと言った彼の心境とは、このことばの比喩の種類は、この作品が伝えていることはなにか……知るものか、とはすこし違うけれど、生きている人間の数だけある答えをひと束にまとめることを強要されているように感じる。それは途方もないことにおもえて、怒りに近い感情が湧き起こって手がとまってしまう。中学校の定期試験では授業ちゅうに先生が答えをあらかじめ提示していることもあるけれど、今回の模試のばあいはそういった手掛かりすらない。
柳……。
猫の手も借りたい、ということわざにその名を入れこむように呼びかける。しかし、こころのなかに大事な声は灯らない。柳とわたしでひとつの存在とはいえ今回ばかりはわたしひとりでなんとかしなければならない。なにより、これは柳の名前で受けている模試なのだ。こころを奮いたたせて考える。わたしのなかに答えがないのなら、柳の思考の道筋を想像すればいい。こういうとき、柳ならどう考える? どう解答する? ゆるく握った手から浮かんだ人差し指を顎に押しあてて、長い睫毛を伏せて、目を細めて、その奥にある頭脳はどう解釈する?
――そうね、面白い、と一口に言えるかはわからないわね。
ふっと柳の声が聞こえた気がして、けれどそれはあるときの会話のおもいでが音声化されて脳内に鳴り響いただけだともすぐに気がついた。いつ、どうしてそんなことを話したのか、そうだ、たしか柳が不意に本から視線をはずした瞬間をみつけて、その小説は面白いの、とわたしが話しかけたのだ。
――面白く読みたいというわたしの意図がはたらいているから、面白いとおもっているのかも。……ごめんなさい、頓智みたいなことを言ってしまったかもしれない。でも、唯花がわかってくれたら嬉しい。こんなこと、唯花以外に言ってもぜったいにわかってもらえない。
大丈夫、わかるよ、とそのときわたしは返事をして、なにもわかってなんかいなかっただろうにわかったつもりになって、柳の難しい言いまわしを理解できるじぶんに酔いしれていた。恥ずかしいことだ、いまになって顔が熱くなってからだが縮こまる。わかっているふりがいちばんよくない。でも、捻じれているようにもおもえるような感覚をもってしてふだん小説を読んでいる柳は、試験の小説の読解問題で誤答を繰りだしたことがない。
〈②次のうち、「(b)いずれ、誰だって淋しいにちがいない」と言った彼の心境にもっとも当てはまるものを選べ〉
つまり、柳が読みとっているのは彼の心境ではない。設問のむこうにいる出題者の心境のほうだ。だとすれば、出題者がこう答えてほしいと願っている答えを選べば、あるいはこう間違えてほしいと企んでいる答えを選ばなければいい。四択のなかの、聞こえのいいことばが書かれている数字をマークしていく。聞こえのよすぎるものは避けて。これが正しい解答方法なのかはわからない。けれど、わたしにとってはこのほうが考えやすかった。模試が終わって、そのときも覚えていたら柳に小説の読解問題の解きかたをきちんと訊いてみることにしようと決める。
はい、鉛筆を置いてください、と試験監督が止めの合図を口にして国語の試験が終わる。顔をあげて時計を見ると十時になっていた。
「では、座ったままで結構ですので、まずは解答用紙のマークシートを後ろの席から順番に前の席まで送ってください」
上半身を後方にひねって、後ろの席からまわってきたマーク済みのマークシートを受けとってじぶんのシートを重ね、わたしとおなじように座ったまま軽く振りむいている前の席のひとに手渡す。各列の一番前の席に集まったマークシートを試験監督が順番に回収していく。
「はい、それではつぎに問題用紙の冊子を前の席まで送ってください」
問題用紙も集めるのかとすこし驚きつつ、ほかのひとたちに遅れをとらないように先ほどの動作を繰り返して問題用紙の冊子を前の席のひとにまわした。変なことを書かなくてよかった、とおもう。このあと試験監督や中学の先生たちが冊子の中を確認するのかどうかはわからない。とはいえ、仮になにか書いてあるのが見つかって、それがわたしによるものだと断定されたとしたらめんどうなことに巻きこまれてしまうかもしれない。それだけは、じぶんの身を、そして柳の身を守るために避けなければならなかった。
十五分間の休憩をはさんで、数学の試験がはじまる。六十分経てば、また十五分の休憩時間。それから英語の試験。四十分あるお昼休憩は医者の息子が買ってくれたチアパックの固形物がほとんどないゼリーをたべるというよりは飲みくだして――柳は嫌がっていたけれどちゃんと口にしただろうか?――、簡易的な食事を終えてからは自席でじっと過ごし、理科の試験がはじまって、十五分休憩をして、今度は社会の試験がとり行われる。そうして規則正しすぎるくらいに時間が割り振られた模試がおわる。
社会の問題用紙の冊子とマークシートが回収されたあと、ずっとこの教室で模試を取り仕切っていたのとはまた別の試験監督がプリントとマークシートの束を抱えてやってきた。
「それでは、最後に中学校コードと志望校コードの記入をしていただきます。先ほどまでの模擬試験とおなじく、氏名欄と受験番号の記入をお願いします。中学校コードと志望校コードについてはプリントに記載しておりますので、そちらをご参照ください」
試験監督が説明して、マークシートを配りはじめる。その後に続くようにして、後から教室に入ってきたもうひとりの試験監督がプリントを配り歩く。二種類の配布物が続けざまにじぶんの席に届く。マークシートは解答用のものとおなじように名前をカタカナで書きこむ欄と五十音の母音と子音に割り振られた数字をマークする欄、それから受験番号を書きこむ欄とその数字をマークする欄があって、それらの横に中学校コードと志望校コードの欄が追加されている。わたしはプリントを見る。まずはじぶんが通っている中学校のコードを探してマークシートに書きこんでマーク部分を塗りつぶし、つぎにずらりと並んでいる高校の名前と志望校コードを目で追っていく。
職員室の前に設けられている高校紹介のラックから通信制高校のパンフレットを抜きとったところを奥沢先生に見られた。今週のはじめのことだ。模試を受けるときに志望校を書く必要があると知ってからどこの高校にするか考えていた。どうする? と学校の帰り道で柳に訊いたら、唯花が望むようにしていいよ、と言って雨がいまにも降りだしそうな曇り空を見上げた。わたしの望むように。わたしたちがどこかの高校に通っている未来は太陽を直視するみたいに眩しすぎてうまく想像できなかった。とりあえず現実的とおもえたのはいつだったかのホームルームで学校説明会のプリントをもらっていた通信制高校だった。大半の授業は自宅でレポートとして取り組み、単位をとるのに必要な日数だけ学校の授業に出席する。それなら学校に行けない性別のときでも――両方とも男、あるいは女になってしまったときや、性別がないときでも――学校の勉強ができる。煩わしい外出も最小限に抑えられるし、安牌だとおもったのだった。
――東さん、通信制高校受けるの?
その口調があまりにも鋭くて驚いた。
――えっと、はい。そのつもりです。からだがあまり強くないので、出席日数が少ないところなら行けるかなとおもいまして。
――でも学校に行かないといけない日に体調を崩して休んだら、それこそまずいんじゃない?
――ああ……。
奥沢先生に言われてたしかにそうだとおもった、その隙にわたしはちょっとおいでと手招きされていて、あれよあれよという間に職員室の隣にある空き教室に入り、先生とむかいあわせになって座っていた。はじめて訪れた場所。授業では使われておらず、ひとの出入りが少ない空き教室は凝縮された埃の臭いが充満していて、電気をつけても明るさがさして変わらず、夕陽が光源となって室内をオレンジ色にぼうっと照らしていた。
――将来どうしたいかって、考えてる? 大学に進学するとか、就職するとか。
大学。就職。それはわたしにとって過多な未来で、身の内に取り入れて浸透させる前に零れ落ちてしまうようなことばだった。
――ああ、ええと……考えていません。
――そっかそっか。ううん……通信制もわるくはないとおもう。それこそさっき言った体調面が心配なくらいかな。このあいだのテストは三日とも出席してくれてたけど。
ん? と奥沢先生は疑問符を孕んだ声を喉に絡ませた。
――先生?
――いや、出席日数のことなんだけど、そこまで気にしなくてもいいんじゃないかなあとおもって。春先は欠席多かったけど、ゴールデンウィークが明けてからはそうでもないでしょ?
――そう、ですか? けっこう休んだとおもうんですけど……。
――ああ、もしかして東くんの欠席日数と混ざってる?
顔がかっと赤くなったような気がしてうつむいた。ふたり合わせるとたしかに多いけど、ひとりひとりだとそうでもないんだよ? 相手の目を見ずに聞いたのに、ことばは脳を直接刺激するようだった。双子も大変だねえ、と先生が独り言のように口にする。他者からみればそうなのだ。わたしが学校に行っていない日に柳がわたしのふりをして教室にいることを知らない、他人からしてみれば。いつ、男女どちらの姿で学校に行ったかなんて数えていられない。それくらい〝アダムとイヴの逆襲〟という現象は目まぐるしく発生していて、夜ごとにからだを溶かして、朝がくるたびにきょうの己の姿を確認しなければならなかった。
――だから、そうだね……出席日数のことはひとまず置いておいて、成績、内申点で考えると公立のいちばん難しいところも狙えるとおもう。でも、けっこう遠いから通うのが大変かな。青星が丘の駅で乗り換えて西ノ果まで行かないといけないから、うちの中学から受ける子もぜんぜんいないし。
西ノ果。青星が丘からマンションの最寄りの駅まで電車に乗るときにいつも車内アナウンスで流れる、存在は知っているけれど行ったことのない場所の名前にとても惹かれているじぶんがいた。
――そこは、共学ですか?
――うん、共学だよ。……ああ、東くんもおなじ高校がいいということかな?
――そうですね。おなじ高校なら困ったときに助けあえるので。
――なるほどね。よし、じゃあ今度の模試で志望校にしておいて、判定見てみよっか。
――はい。
じぶんの口から出た返事の声が期待に満ちた中学生らしい響きをもっていて驚いた。その後、帰りに志望校のことを柳に伝えた。面食らうという語では大袈裟すぎるけれど、柳はどこか驚いたような表情をしていて、行きあたりばったりではじまった進路相談で決めることではなかったかもしれないと後悔していると、わるくないんじゃない、と柳は肯定した。それが唯花の望むことなら。いつもそう言ってわたしの意見を尊重する柳の望みを、わたしはいつか聞くことができるだろうか。
奥沢先生に勧められた高校の名前を見つけて志望校コードをマークシートに書き写し、マーク部分を塗りつぶす。ここにわたしたちの未来がある、そんな実感はまだないけれど、この時間軸上につぎの春があることをぼんやりとおもった。水仙が咲く、梅が咲く、桜が咲く、花水木が咲く、破滅することをわかっていてやってくる季節が。
鉛筆を置く。ほかの受験生たちも記入を終えているようで、筆記用具を動かすときの角ばった雑音はやんでいた。
「まだ記入が終わっていないかた、手を挙げてください。……はい、みなさんお済みのようですので、後ろからマークシートをまわして回収してください」
上半身をよじり、後ろの席からまわってきたマークシートを受けとって前の席にまわす。いちばん前の席に集まったマークシートの束を試験監督が回収していき、教卓に置く。
「それでは、これで本日の模擬試験は終了となります。みなさんおつかれさまでした。このあと、廊下、校門、それから最寄りの駅ですね、たいへん混雑するとおもいますので気をつけてお帰りください」
ふたりの試験監督が一礼する。受験生たちも軽くあたまを下げるのを見て、わたしも真似をする。そして試験監督たちが退出すると、わ、と沈黙が破られ、それぞれ近くの席に座っている顔見知りやともだちと口々に会話を交わしはじめた。先ほどまでの緊張感は嘘みたいにほどかれて、寸前までの模試というできごとも存在しなかったのではないかとおもってしまう。試験ちゅうはあまり見られなかった周囲を確認すると、やはり柳のクラスメイトが何人もいて、けれど話しかけられることはなかった。ふだんの教室でも柳は誰とも関わりをもっていないらしく、柳のクラスメイトとは雑談をしたことがない。
――唯花って周りと関わらないようにしているわりにともだちがいるでしょう?
今朝の会話をおもいだす。そうだ、はやく柳と合流して校舎から出なければならない。わたしは立ちあがる。柳がいるほうの教室にはわたしのクラスメイトが、ともだちがいるかもしれない。彼女たちに捕まると柳に大変なおもいをさせてしまう。
廊下に出て、校舎の出口へとむかうひとびとの流れに逆らって歩きつつ、隣の教室のほうに目をやる。以前いっしょに遊びに出かけたおんなのこたちが誰かを囲んでいるのが見えた。わたしだ。わたしの顔をして模試を受けていた柳は、今朝心配していたとおりにおんなのこたちに捕まってしまったらしい。
なるべく傍まで近づいてから口をひらく。
「唯花」
わたしの名前で柳を呼ぶと、柳はこちらに顔をむける。わかりやすすぎるくらいに安堵の表情をうかべて。
「なにしてんの。行くよ」
「はーい!」
ごめんね、じゃあ先帰るね、と柳はおんなのこたちに口早に告げてわたしのもとに駆け寄り、それからは並んで歩いて校舎を出る。外はもう陽が傾きつつあって、わたしたちが室内で模試を受けているあいだも地球は回っていたのだった。摩擦のない宇宙空間で絶え間なく自転して、公転して、移ろうということを知らない。
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