決められた道
――教室の後ろがわの壁一面に貼りつけられた、クラスメイトたちが書道の授業で書いた夢、夢、夢、夢、希望、夢、希望、希望、夢、夢、夢、希望、夢、夢、希望、希望、希望、夢、希望の文字に沿って縮むように墨汁が滲んでいる半紙が風に煽られてひっくり返ってしまうほどに揺れている。男の教師の声が教室内にいる生徒に降り注ぐ。神さまのお告げのように。……ええ、これは、この星が生まれてから黴のように蔓延り漂っている運命がとざしてしまった未来から、きみたち子どもを守るための護符です。百億年の遺伝子配合が、血液循環が、天気予報のように不正確にかつ誠実に辿ってきた奇跡に似た必然の応酬、人間は未来を選んでいるようで、ほんとうは未来のがわに選択されて生きている、わかるかなあ。だから将来というものは世界からすれば過去形で、絶望でできています。……まあす……まあす、とマイクをとおして話したかのように語尾が反響する。突風がべちゃべちゃと汚い音をたてて半紙を翻して食い散らかしていく。壁には二か所の隙間があって、それはわたしとあなたの夢か希望を掲示するためのスペースで、けれど習字セットは家に忘れてきてしまった。目にはみえないはずの風が大きな塊となって身震いをしてから、わたしの右手に牙を突きたてる。どく、どく、と心臓の音をそのまま移したかのように噛み千切られた皮膚が鼓動して、やがて、梔子のぽってりとした白色の花びらが吹き零れる。参観日だった。ずらりと並ぶだれかのおかあさん、おかあさん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、おかあさん、いもうと、おとうさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……。それぞれの顔に視線を与えて、けれど、探している顔はない。あ、消える。体内を満たしていた梔子の花びらのさいごのひとひらが舞う光景は、写真に撮るべきもののように美しかった――目をあけると眠気がまだ眼裏とまぶたの縁に気だるくこびりついていて、すこしでも目をとじればふたたび眠りの無の世界に墜ちこんでしまいそうだった。息を大きく吸って、吐く。じりじりと重たいまぶたを意識的にひらいてあたりを見渡してみても景色は眠る前となんら変化していない、せいぜい窓を塗りつぶしていた夜の闇が朝の光に変わって電気を消している室内をほの明るく照らしている程度で、花々が陽光を求める呼吸も、ずうともぴいともいわない柳の美しい寝息も、すべてが損なわれることなく寝室にある。わたし自身も、おそらくは。ほんとうにきのうが日没と日の出によって滅びたのだろうかと疑わしくなるけれど、シーツのなかでじぶんの裸に手のひらをすべらせてみて、きのうは女だったからだが男のからだに変化していて、やはり時は進んでいるのだと思い知らされる。そっとシーツをめくって柳の裸を覗き見る。わたしのほうにからだの正面を向けている柳の胸もとには不格好な谷間ができていた。柳もまた性別が変わっているのだった。わたしはシーツから抜けだして、音をたてないように気をつけながら薄く湿った床に足の裏をつけて立ちあがり、昨晩柳が脱ぎ捨てたトランクスを拾いあげて身につけた。
熱をおびた眠りの湿度を振り切って寝室を後にして、ダイニングテーブルの上にビニール袋が置いてあるいつもの朝とは違う光景にすこしどきりとする。これはきのう医者の息子から受けとった品で、じぶんでここに置いたのだと言い聞かせるように事実を反芻しても、見慣れなさが緩和することはない。ビニール袋の中身はぶどう味のゼリーが入っているチアパックで、柳はゼリーなんてたべたくないと口をとがらせたけれど――ぶどう味といってもそれは果実ではなくゼラチンだし、人工的につくられた味でしかない――果物くらいしかまともにたべられるものがないわたしたちにとっては気休めの食事にすぎないとはいえ、模試の会場に昼食としてほんものの果物を持っていっては目立ってしまう、そのことを気にかけてくれた医者の息子のこころ遣いが妙に沁みて、きょうの模試がおわったらサワノ医院に行ってお礼をきちんと伝えたいとおもう。とにかくありがとうと言いたかった。きのうは学校の帰りぎわに優しい校医のふりをした医者の息子からビニール袋を押しつけられただけで、それはわるいひとたちがわるいものをやりとりするときの無言のぶっきらぼうさに似ていて、ことばを交わす隙がなかったから。
冷蔵庫のまえで柳がなにをたべたがるか想像して、いちご、と単語をおもいうかべたような気がしてから、はっとする。これはじぶんの考えごとの声ではなく柳のこころの声だ。カウンターキッチンからリビングに顔を出すと、からだにシーツを纏わりつかせた柳が恨めしそうな顔をして寝室の扉の前に立っている。
「おはよう、柳」
「おはよう、唯花」
「体調、わるい?」
「ううん、体調はいいのだけど……」
「けど?」
「きょうだけは唯花になりたくなかったなって」
「え」
おもいもよらなかったことばがわたしの声で返ってきて、足もとになにかがあるわけでもないのになぜだかずっこけたようにからだが前のめりに揺れた。
「柳、わたしのこと嫌いになったの?」
「ああ、そういう意味ではなくて」
「じゃあどういうこと?」
「唯花って周りと関わらないようにしているわりにともだちがいるでしょう? だから、その……模試の帰りにどこかに連れていかれたりしない? クレープ屋さんとか」
ぶふ、とわたしはくちびるにおもいきり息があたるちっとも綺麗ではない、下品な笑いを吹きこぼしてしまう。たしかにあの日のクレープの記憶はひどいものだ。おもいだそうとするとからだが震えだす。胃のなかがぎゅるっと動く、あのきもちわるい感覚。けれど、あれはわたしの身に起こったできごとであって柳が体験したできごとではない、それでもクレープ屋さんは柳にとっても地獄のような、いいや、地獄なんて見たことがないからほんとうは形容なんてできっこないのだけれど、このさほど長くもない人生のなかでもっとも酷い響きを放つ悪の存在と化しているらしい。あの日のおんなのこの悪意とそれに乗ったわたしの責任をものや場所に転嫁するのはとてもかんたんだった。
「なんだ、そんなこと」
「そんなことって」
「大丈夫だよ。もし誘われたとしても、このあと家の手伝いがあるからすぐに帰らないといけないって言えばわかってくれるから」
「そう?」
「うん」
わたしがなんの気なしにそう返事をすると、柳は息をすこし詰まらせるような黙りからをしてから肩の力をふっと抜いてにやりと笑った。
「唯花ってやっぱり器用ね。冷酷なくらいに」
「ふふ、それは褒めてくれているの?」
「もちろん」
いちごだよね、と確認すると、うん、と柳は声をだしてうなずいてからダイニングテーブルの席につく。ベランダの白いカーテンは朝陽に透かされきらず、外は晴天ではないらしい。練乳は? いらない。甘いものはあたまの栄養になるよ。それ、よく聞くけれどだれが言いはじめたのだろうね。さあ? いつもどおりの日常、のようですこし口数が多くって、わたしたちはきょう行われる模試に緊張しているらしい。行ったことのない場所で、知らないひとが大勢いるなかで試験を受ける。なによりも本題の模試。模試にむけて――というのは変かもしれないけれど、その先にあるかもしれない高校受験も視野に入れて――勉強をしてはみたものの、学校の試験よりも範囲がうんと広くて、まだ習っていないところもすこし出ていて、いくら勉強をしても取りこぼしがあるような気がしてならなかった。
一個しかないボウルに山がふたつになるようにいちごを盛りつける。その片方の山に練乳をかけてからダイニングに運び、柳の隣に座って手をあわせる。
いただきます。
手の皺と皺をあわせたら幸せになるというコマーシャルのことをおもうけれど、もうずっとテレビを見ていないからいまも放映されているのかはわからない。
ごろごろと大きないちごをスプーンで掬う。探しているわけではないけれど、スプーンと揃いの模様のフォークはまだ見つかっていない。柳は用意したスプーンを使わずにいちごを指で摘まみあげる。いちごの先端からわたしがたべるほうの山にかけた練乳が、ぽと、と一滴落ちる。
「けっきょくわたしのいちごにもかかっているじゃない」
「だってボウルがひとつしかないから」
「いちごがもともと入っていたパックがあったでしょう? あれも使えばよかったのに」
柳のごくあたりまえで的を射た指摘にぽかんとしてしまう。一部分が乳白色の甘い膜にうっすらと覆われた柳の指先のいちごが、柔らかなくちびるに押し当てられて、先端が前歯に噛みちぎられる。
「あ、そうか、そうよね。ごめんなさい、ぼうっとしていて」
「まあ、いいんじゃない? 練乳もたまにはいいかも。このいちご、けっこう酸っぱいもの」
どこのいちごなのかしら、と柳は独りごちて、いちごのことや器のことにはそれ以上言及しなかった。わたしもスプーンで掬ったままになっていたいちごを口のなかに放りこむ。練乳の甘さが口腔にひろがるけれどそれは一瞬で、強い酸味が舌を痺れさせる。噛み砕いているようで上の歯と下の歯をすり抜けていくだけのようなじゃりじゃりとした痩果が口のなかからなくなっても酸味が消えない。
「ほんとうだ。すごく酸っぱい」
「でしょう? 練乳、もっとかけよう」
「とってくる」
わたしは立ちあがってキッチンのがわにふたたびまわる。朝はいまだになんでもないような顔をして、時は穏やかだ。わたしたちの素足に踏み固められた藍色のキッチンマットはごわごわとして、ところどころになにかをこぼした液体の痕跡が――なにをこぼしても必ず白い輪っか状に乾くシミが――残っている。それを踏んでも足の裏が汚れるわけではないけれどなんとなく避けて通って、冷蔵庫をあけて、練乳のチューブを取りだす。ふだんはあまり使わない練乳。チューブ容器には黄色い花の飾りを額につけた牛のイラストが描かれている。牛の乳からつくりだされたものとはおもえないような甘い粘液が、けれども元を辿れば牛がいてはじめて存在するのだった。
ダイニングテーブルまで持ってきた練乳のチューブを柳に渡すと、わたしのいちごの山も含めて渦を描くように練乳をかけた。渦の線はすぐに淡くなっていく。輪郭を失ってボウルの底に沈んでいく。はじめからなにもなかったかのように、見ている者たちを騙して。
柳は片手にチューブを持ったままもう片方の手でいちごをつまんで齧り、ううん、と呻る。
「ほんとうに酸っぱい。ショートケーキに入っていたら泣いてしまうかも」
「でも、ショートケーキは甘いじゃない。練乳よりも、なんというのかな、すっとは消えない甘さというか」
「なにを言っているの、唯花。ショートケーキのいちごは特別で、ご褒美なんだよ?」
そういえば、小さいころの柳の好物といえばショートケーキだった。見るだけでしあわせになれる、赤と白の、祝福の色を纏ったケーキ。電気を消した部屋のなかで、年齢の数だけ灯した蝋燭の火のゆらめきをふっと吹き消して、暗がりに蝋の溶けたにおいがそっと広がる。見えにくいものや見えないものほど美しいこの世界で、蝋燭のにおいはいっとう美しい。小さな火の明かりがなくなってもぼんやりと浮かびあがるように見えるその祝福のケーキを、けれど、わたしたちはもう長いあいだ目にしていない。おかあさんはお願いすればなんでも買ってくれるけれど、荷物は宅配でくるから果物よりも足がはやくて崩れやすいショートケーキを頼んだことはなかった。
「たべたい?」
「え?」
「ショートケーキ。きょう、おわったら買いにいこうよ」
「え、でも、誕生日はもうすこし先でしょう?」
「いいじゃない、いつたべたって。きょういちにちのご褒美だよ」
「ふふ、それいいね。なんでもない日のお祝いみたいで」
「アリス?」
「そう、不思議の国のアリス」
まあでも、模試があるからなんでもなくはないか。柳はそう付け足しながらも瞳を輝かせて、おもいを胸のうちにとどめておくことができなかったのか、想像上の未来でショートケーキを買って並んで歩いているわたしたちの後ろ姿が映像としてわたしのこころに静かに、穏やかに流れこんできた。折り目のとおりに組み立てられた礼儀正しい箱を決して乱雑に揺さぶらないように、背筋と、箱を持っているほうの腕をぴんと伸ばして歩いていくのだ。じぶんよりもうんと身長の低い子どもと手を繋いで歩くときよりも、もっと丁寧な感じで。こういうときの想像は映画みたいに、じぶんの目には見えるはずのない自らの姿も景色のなかにいて、自らを平然と演じている。
味蕾への刺激が強すぎるいちごをたべきって――それは食事というよりも後のわたしたちが酸っぱすぎるいちごに苦しまないようにいまのうちに胃のなかへ処分しておくという作業めいたものだった――、練乳が残っているボウルをシンクに持っていって水につけてから寝室にむかうと柳が先に着替えはじめていて、水仙の花びらのような柔らかいイエローのブラジャーの肩紐に腕をとおしているところだった。からだを横たえて眠っているときには不格好に弛んでしまう乳房は、ほんのすこし膨らんでいる程度で女の特徴と呼ぶには不十分にみえるのに、ぐ、とブラジャーのホックをとめると女の胸になる。そして胸も腹も平にひとつながりになっているわたしのからだの、わたしの下半身には男のものがあって、黒いトランクスでそれを隠している。からだの歪なでこぼこ。こうしてわたしたちはイヴが気づいてしまった恥を隠すための下着に性別をあらわにされる。
「いつもそんな目をしているの?」
「え?」
不意に柳が質問を投げかけてきて、わたしはワイシャツに腕をとおそうとしていたのをやめて顔をあげる。柳はブラウスの釦を上から順番にかけようとしているところだった。
ひとつめ。
「おんなのこを見るとき」
ふたつめ。
話しながらも、柳は手をとめない。
「すごく、恍惚とした目をする。それだけで感じているような」
みっつめ。
よっつめ。
いつつめ。
釦はあっという間にすべてとじられる。ブラウスが上半身の皮膚を――とても白い肌色を――覆い隠し、裾の下からはブラジャーとおなじイエローのショーツを覗かせて、そのからだを守っているのか守っていないのかよくわからない。ごきゅ、とさして溜まってもいない唾を空気といっしょに呑みこんで喉のどこかの骨だか肉だかが軋む。
「おんなのこを我が身の一部にしたがるおとこのこみたいな眼差し。そう言ったほうが適切かしら」
「ごめん、軽蔑した?」
「いいや、わたしもきっとおなじだもの。愛の許可に飢えているから。でも……」
柳はわたしがいるほうに顔をむけた。わたしだって女の姿のときはおなじ顔をしているはずなのに、表情筋の動かしかたが違うのか、それとも頰の肉の量がすこし違うのか、大人のような顔つきをしている。同時に、ぶらんこやすべり台の順番がなかなかまわってこなくて拗ねる子どもみたいな感情もそこにたたえて。
「そんな目、わたし以外にはしないでよね」
「う、うん」
返事をした声がうわずってしまう。柳は、ぷい、と目線をそらして制服のスカートを身につけ、腰のところを巻いて裾の長さを調節する。膝頭から十センチ上。短すぎない、と尋ねると、そんなことはないよ、この制服のスカートはこれくらいの長さがかわいいもの、と柳は言ってくるりと一周回ってみせた。スカートは翻るほどの丈がなくて、ほんのすこし空気をいだいて、二等辺三角形とか、カラーの花とか、花屋で買われるのを待っているビニールのカバーのつけられたガーベラをおもわせるような膨らみかたをしただけだった。そのスカートさえ履いていれば柳はだれから見てもおんなのこだとおもわれるに違いなかった。
柳こそ、わたし以外の目にとまらないで。
そう言い返せばよかったのかもしれないとふっとおもいついたけれど、話題はすでに消滅していて、わたしは一度着かけていたワイシャツの袖に腕をとおす。アイロンをやたらとかけたような肌触り。女子の制服と男子の制服だと女子のもののほうを着ることが多くて、男子のワイシャツを身に纏うと生地の堅さに驚いてしまう。ワイシャツだってブラウスとおなじ柔らかい素材でつくってくれたらいいのに、でもそんな注文はどこも受けつけていなくて、がさがさとした質感に、透明に傷つけられる。
ネクタイの具合を、リボンの具合を、おたがいに確かめあう。朝食をゆっくりとたべたりお喋りをしながら着替えていたわりに、家を出ようとおもっていた時間より三十分も早く支度がおわってしまって、だからといって家でやることもなかったのでわたしたちは出発することにした。どちらの性別になっても使えるようにチャームの類をつけていないスクールバッグには教科書とノートを入れていなくて、いつもの端正な四角いかたちがぺちゃんこにひしゃげている。荷物は受験票、ペンケース、電車の定期券、財布だけで、ヘリウムで膨らませた風船のように鞄だけが浮きあがってどこかに飛んでいってしまうのではないかと心許なくなるくらいに軽い。マンションのエントランスを出ると朝陽はすでに朝の淡く澄んだ空気を脱ぎ捨てた光りかたをしていて、空の色も青みが強くなっている。夏の姿が世界に迫りくる気配。けれど、ほんとうに訪れるのは雨季が春の残り香を洗い流してからだ。丸みを帯びた暖気がふとした瞬間に冷えこんでしまう、安定しない、危うい温度がじょじょに暑さの一択にならされていく。横断歩道のあるところまで待たずにゆるいカーブを描く道路を渡る。休日だからなのか車通りはいつも以上に少なくて、静寂の時間が押し寄せてくる。世界にはわたしたちしかいないのではないかと錯覚しそうになる。街の通りすがりのひとびとや、クラスメイトや先生たちがいない世界。院長や、医者の息子や、おかあさんも存在していない世界。ほんとうに柳とわたししかいなくて、だとすると、わたしたちすらいなくなったら世界は消滅するのだろうか。それとも、無人のままはじまる術も終わる術もなくただそこにありつづけるのだろうか。
長くは生きないだろうといったことばかり考えていた。
未来はいつも、一日の、時計の針が深夜零時をさすところまでしか存在していなかった。たとえば三日後に医院の診察があるとか一週間後に学校の試験があるとか、近日ちゅうにある予定は把握しているものの、それはことばでしかなくて、ことばの先にある内容のことは無に等しく感じていたようにおもう。そしてこの性別の安定しないからだの秘密を守るために、あるいは悪意から身を守るためにはたらかせてきたあたまの底なしの疲れがついに底をみつけて、息絶えてしまう日はそう遠くないと漠然と知っている気がしていた。
けれど、ここさいきんはこれからずっと先も生きているのではないかと想像する回数が増えてきている。中学校を卒業したあと。成人する日。これまでの微笑みによって生まれた皺が深く刻まれたままになった、うんと大人になったわたしたちの姿。それが叶わなかったときのこころの大怪我も顧みずに大胆になって、愚かしいかもしれない。
最寄りの駅の改札を通り抜けてしばらくホームで待っていると電車の到着を告げるアナウンスが流れだす。七時三分、もっと遅い時間の電車でよかったのにふだん中学校に行くときとおなじ時間に駅にやってきたのだと気がつく。わたしたちは車両に足を踏みいれた瞬間から――それよりも前から窓越しにちらちらと――車内を見渡して、空いているふたりがけの席をさっと見つけだして腰をおろす。それは円状に並べられた教室の椅子をおしりで取りあうゲームよりもうんと容易い。たとえ空いている座席がなくてもドアのそばやつり革がさがっているところに立っていればいい。ゲームオーバーを決して迎えない日常の風景だ。がたん、と扉が閉まり電車が動きだす。通路がわに座っている柳が、緊張している? とわざわざ声を出して、さいしょのキの音を掠れさせた言いかたで問いかけてきて、柳は緊張しているらしかった。表情には出ていないけれど。ふふ、けれど中学校に行くよりは楽しいじゃない。そうかしら、と柳は本来なら完璧にわかるはずのわたしの感情を汲み取りきれなかったようで首をかしげる。
何百回と車内から眺めてきた、眺めることしかできない風景のなかにある田園は土の色一色だったのがいまは田植えを終えて若い緑色を携えているけれど、その変化にさえも感動できないくらいに見飽きてしまっている。かつて住んでいた家を発ち、現在住んでいるこの町は凡庸で、静かで空気が綺麗だということ以外にこれといったいい点がない。まえに柳が読んでいた小説に出てきたサナトリウムという場所のことをおもう。病院とはまた違う、染みつくように罹患した病気を治すためだけにひとびとが過ごす健やかなる土地のこと。けれど、そこから出ていくことができたひとの物語を柳は読んだことがない。だからわたしも知らないし、サナトリウムのなかでだれかの大切なひとの物語は終わる。みんなみんな病に蒸されて、死んでいくばかりだった。
ひと駅、またひと駅と電車が進んでも風景には変わりばえがない。この電車はわたしたちが乗り換えで一度降りる青星が丘という都会の街と
わたしたちは指先を触れあわせるだけの手の繋ぎかたで地下に通じる階段へと歩いていく。光のたゆたいでできた――光の届かない部分さえも麗しくつくりあげた――ホームから打って変わった、薄暗くて、光がその周囲だけを紡ぐことしかできない蛍光灯がともった、かさかさとした地下道を進んでいく。ほとんどの路線が先ほど降り立ったホームから発着するというのに、都会の駅から乗り換えで乗車する電車だけ地下道を抜けた先にあるもうひとつの駅舎がホームとなっている。こちらのほうが後になって増築されたものだけれど、もっとも新しい技術が駆使されることもなく、美妙が追い求められることもなく、建物の材質がただ新しいのだということしか注目するところがない。これも医者の息子がまえに言っていた。ステンドグラスのホームと新しいホームとの落差、むかしに比べてこの地域で使うことのできるお金が減っているのだということ。災害による建物の倒壊が増えてひとびとが美しいものをつくりあげる気力を失ってしまったのだということ。だからこのあたりの土地はいつか質素で無味な建物で覆われていく、それはじぶんたちの将来を想像することよりも容易く判断ができた。
中学校に行くときに乗る七時二十三分の特急電車を見送って、きょうはそのつぎに来た普通電車に乗りこむ。模試の会場となっている高校の最寄りの駅が普通電車しかとまらないのだった。いつもは乗らない電車だからどれくらい混むのか読めなかったけれど、特急電車に乗るひとのほうが多いらしく、普通電車はそれほど気を張らなくても座席に腰を落ちつけることができた。ただ、特急電車とは違って座席が二人掛けではなく七、八人掛けで緊張をおぼえる。わたしたちの隣に見知らぬだれかが座るかもしれない。車体に三つ設けられている扉をぎょろぎょろと観察して、ひとが乗りこんでくるたびに身を縮こまらせる。スーツではないけれど仕事に行くためのかちりとした格好の女のひとは長いシートの端が空いているのを見つけてすかさず歩み寄り腰をおろす。スーツのジャケットを抱えた男のひとは扉のそばに立つ。はやく扉が閉まってほしいと願っていると、ぴゅうぴゅっ、とホイッスルが鳴って、まもなく発車します、と車掌のアナウンスが――別の人物だとわかっているのに先に乗っていた電車の車掌とおなじような声と発音と息遣いによって告げられるアナウンスが――流れて、がたんと扉が閉まる。望みのとおりに。わたしたちの隣にはだれも座らなかった。神さまなんて信用ならないとおもっているけれど、いまこのときばかりは味方をしてくれたようだった。特急電車だと都会の駅を出発して一分も経てば窓外の風景を一瞬で吹き飛ばしてしまうくらいに速度をあげるけれど、普通電車はいつまでもおなじ速度のまま、いつもは見えているようでよく見えていなかった風景を流す。高層ビルでできた街並み。モノトーンの、いつでも曇りの色をした。この電車が青星が丘から
ずっと生きていく?
そうおもってから、やはりわたしはこれから先も生き長らえるという未来を軽率に夢想しているのだと気がつく。
どうしたの? 唯花。
ううん、なんでもない。
三分経過して、いつもの特急電車ではとまらない青星が丘のつぎの駅に到着する。あと四駅。ぱらぱらと降車するひとたちがいて、一方で乗車するひとはほとんどいない。電車の扉が閉まる合図のホイッスルが鳴りはじめたとき、Tシャツ一枚にジーパンというラフな格好をした高校生くらいの男のひとが閉まりかけた扉のあいだに身を滑らせて、後から似たような服装の男のひとたちがぞろぞろと乗りこんでくる。ここはじぶんたちだけの世界だと言わんばかりに談笑しながら。駆けこみ乗車はおやめください、と叱責しているようで面倒くさがっている車掌の声がマイクをとおしてがさがさと流れる。わたしたちは身を固くする。わたしは座席の端に座っているからともかく、柳の隣はがら空きだった。野蛮なひとたち。若いおんなのこの見ためだからといってじとりとした目で品定めをする無礼者。そして我が物にしようと連れ去る凶悪犯。ない罪をそのひとたちになすりつけていないとこころがやっていられなくなる。男のひとの集団がわたしたちとおなじシートに腰をおろしはじめる。いざとなったら降りる駅まで座って過ごすのは諦めて、柳をつれて扉のあたりに立っていることにしよう、とこころに決める。そのほうがちょっかいをかけられるよりはいい。
あ。
ことばにしてはあまりにも短くて、それが柳のこころの声だと気がつくのにワンテンポ遅れた。
柳!?
こころの声までもひっくり返ってしまう。顔を柳のほうにすこしだけむけると、その隣に男のひとが、けれどTシャツとジーパンではなくて、青星が丘から乗って扉のそばでスーツのジャケットを抱えて立っていた男のひとが座っているのだった。どうしていまになって。
ごめんなさい、びっくりさせて。隣、よく見てごらん。
え?
柳に言われるがままに、隣に座っている人物を視野に入れこむように眼球を動かす。なにもなくても微笑んでいるような柔和な顔つきに、見覚えがある、と考えるよりも先に感じとる。
医者の息子!
正解。
いつものぼさぼさあたまにいじわるな目つきでもなく、校医の変装をしているときのやさしさを寄せ集めて完成しているような表情でもなく、また別の、どこにでもいて知らず知らずのうちにすれ違っているような成人男性の姿だった。小さく溜め息をつく。もしかしていままでもどこかへ行くたびに医者の息子はこうして、なんて想像をして、いやそんなわけは、と否定しようとする。けれどそれに足る材料が見当たらない。柳もわたしも、医者の息子も、おたがいの存在を認知しながら知らないひとのふりをする。わたしたちはわたしたちの秘密に素手でがさつに触れようとするひとびとの無意識な悪意に対してなにもできやしないけれど、それらから守られることにだって無力だ。医者の息子がこの地域から出られないのとおなじ。わたしたちも医者の息子の視線から逃れることができない。
ついていくわけにもいかないって言っていたのにね。
ついていく方法をおもいついたということなのかな?
さあ? どこまでついてくるのかしら?
ここがサワノ医院だったら、またきみらはこそこそと、どうせおれの悪口だろうけどさ、と文句を言ってくるところだろう。けれど、視野の端にいる医者の息子は眉ひとつ動かさずに顔を正面にむけている。その視線の先にはおそらく車内広告や車窓の景色がある。乗客はほかの乗客の顔をじろじろと見てはいけない、礼儀というのか、そういう暗黙の決まりがあるから。
ほんとうに過保護だよね。迷子になるとでもおもっているのかしら。
ね。過保護だよね。
わたしたちはこころのなかで悪態をついて、けれどほんとうは安堵のきもちでいっぱいだった。男のひとの集団のうちのひとりよりも医者の息子が隣に座ってくれるほうがずっとましだし、わたしたちに危害を加えないことはわかりきっていた。
あと三駅。
あと二駅。
あと一駅。
時は前進しかしない。
つぎは……とわたしたちが降りる駅の名前が告げられて、柳が立ちあがり、わたしもそれにならって腰をあげて、いっしょに扉のそばに行った。医者の息子はついてこない。ついてくるのはここまでということだろうか。それとも駅に到着して扉が開いたら立ちあがるのだろうか。わたしたちが追っ手の存在に気がついていて、そして医者の息子もそのことをわかっている、両者公認の尾行。とはいえ、緊張する。もしわたしたちが目的の駅で降りようとしなかったら、そのときはホームに降り立つように促すのだろうけれど、いまは視線をばちりとあわせないようにしながらわたしたちの動向を見守っているだけだ。ふと、うんとむかしのひとはまもるという一語に見守るという意味をもたせていたことをおもいだす。静かな行為で、わたしたちは守られている。電車の走行速度が落ちて、駅の端から端までにすべての車両を収めるようにして丁寧に動きをとめてから扉が開く。わたしたちはホームにそっと降り立ち、おなじ駅で降りたひとびとがどちらにむかって歩いてゆくのかを観察しつつ、流れについていくようにして左へと進んでいく。模試の開始時間までまだ一時間以上もある。そのせいかわたしたちとおなじ制服を着ているひとは見当たらない。ほかの学校の制服姿のひとはいくらか見かけるけれど、それが模試の会場にむかっている中学生なのか自らが通う学校にむかっている高校生なのかは判別できなかった。世界が、下手をすれば両腕を伸ばした直径の距離しかないかもしれないわたしたちには知らないことのほうが多い。
進んだ先の階段を下りるとすぐに改札があり、駅を出るとはじめて訪れた町の目新しさに眩しさをおぼえながらも、けれど目が慣れてしまえばそれは電車から眺めていてよく知っている、大きな川の流れている景色だった。ジオラマとか、大層な人生をかたるボードゲームの部品とか、つくりもののようにわかっているようで遠く感じていた並木道。春を過ぎた桜の葉は昏くて。木陰は静寂を充填した冷たい空気を生みだして。でも、陽光のすべてを遮ろうとはせずに、ひと葉ひと葉があつまってできた隙間から光の破片をちろちろと地面に落とす。ここに実際に立たなければ見えることのない光景が生きものの細胞の細やかさで粟立ち、成り立っている。そして遠くから見ているだけではわからなかったことがほかにもあると気がつく。犬の散歩をしているひとやぴたっとしたウェアに身を包んでランニングをしているひと、ここを通り道にしてどこかにむかっている人間の存在が、生活があって、木々が立ち並ぶだけの直線だとおもっていた景色は息をしているのだった。
目的のものをあまりじろじろ見ないように、気配を探るようにして周囲に注意を配る。医者の息子らしき姿はみとめられない。
電車、降りなかったのかしら。
医者の息子?
うん。
柳が首をほんのすこし左右に動かす。
……いないみたいね、あのひと。でも、ずっとついてこられても嫌じゃない。他人を装っているとはいえ不自然だろうし。
それは、そうだけれど。
なに、不服なの?
そうじゃないけど、どこに行ったのかなとおもって。
そんなの知らないわよ。どうせおなじじゃない、監視していてもいなくてもわたしたちは決められた道しか歩いてゆけない。いなくなるなんてできないのだから。
……そうかなあ?
むかいあっているわけでもないのに隣にいる柳に睨まれているような気がした。つづきをこころの声にしてしまわないように脳内に霧散させる。きょういちにちのわたしたちは医者の息子が想定していたわたしたちではない。諦念と時の流れに身を任せて、時がくれば花弁をただ散らせる花のような、従順なわたしたちではないはずだ。もうすでにいなくなっているのだ。模試を受けたいと言ってから柳はいっしょに勉強をしてくれていた。協力してくれているのだとおもっていた。けれど、違ったのだろうか。ほんとうは嫌だったのではないか。自問自答のように交わしていた会話がふつりと途切れてしまうと、急に不安が、身の内から皮膚を刺す。寒くもないのに震えてしまうような、不安定で、じぶんの意思ではない不気味な感覚。
風は都合よく吹いたりしない。だから木々の葉擦れも起こらない。静かだった。きもちの乱れを誤魔化したいときに限って世界に音がたりない。
そんなに不安?
え?
柳の指がわたしの指先を撫でる。
隠そうとしても無駄。わかっているでしょう、ことばにしなくたって感情のやりとりはできる。それがわたしたち。
……そうだね。
医者の息子なら大丈夫よ。あのひとならいつもどおり、いるべきときにはいてくれる。だから名前を失ったのでしょう?
……うん。
わたしたちはおたがいの考えをかんたんに感じとることができるはずなのに、違うよと言いだすのはどうしてこんなに難しいのだろう。おなじひとりの人間の、ひとつのこころのはずなのに、どうして。肉体に、皮膚に隔てられてしまえば違う人間だとでも言いたいのだろうか。水の器みたいに、容れものが違えば中の水のかたちが変化するような。
わたしたちはそうじゃない。
それはごくふつうの人間たちの鈍感さで、愚かさで、触れなさで、遠さだ。
そう言い聞かせてもどうも駄目だった。きょうはときどき訪れる、柳のこころに距離を感じてしまう日なのかもしれない。
木陰が明けて、延々とつづいているように見えていた並木道の桜の木々は尽きて土手から道路へと降りる、コンクリートの、かつては異物のようにかたちも素材も存在もつくりものめきすぎていたであろう、けれどもいまは風雨にさらされてくすみ、景色に馴染んでいる階段が現れる。不意に水音が大きくなって川を見ると落差工があって、二段に隔てられている川をひとすじのものに仕立てあげるための飛沫をあげながら水が流れ落ちていく。急に現実に引き戻されたような気がした。それは夢をみたあとの居場所の不確かさに似ていて、わたしは目をあけたまま、歩きつづけたまま、眠っていたのではないかとおもえてくるのだった。それならいっそのこと、先ほどのすれ違いを起こしたような会話はすべてわるい夢であってほしい。柳の顔をちらと確認する。感情的なものを消し去ったただ美しい顔の造形がそこにあって、あたまのなかにあるはずの考えごとのことばのかけらの数々は伏せられているようでなにも読みとることができない。柳がおもいを隠すのが上手なのは知っている。でも、いつか柳のおもいのすべてがほんとうにわからなくなる日が来たら、わたしたちはどうするのだろう。離ればなれになるのだろうか。それとも双子という表向きの属性にしがみつくようにしていっしょにいようとするのだろうか。ひととひとがともに生きていく理由としての愛を、わたしたちには許されていないから。胸のうちで不安が沸騰していく。
柳を、知りたい。
ともに産まれて、人生のなかでもっとも長い時間傍にいるというのに、おかしなはなしだとじぶんでもおもう。この知りたいというきもちは純粋な興味や知識欲ではなくて、ひとつの生命体としての隷属を強いるための欲求なのだろう。どうかしている。あたまを冷やした方がいい。
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