天秤
わがままを言うなという医者の息子の叱責も、最善を提示した院長の願いも押しのけて、わたしたちはおかあさんといっしょに家に戻った。柳とわたしが溶けあってしまったあとのように。デジャヴのように。けれど、あのときよりもおかあさんはずいぶん弱っていて、家にいてもなにもせずにリビングのソファに座ってぼうっとしていることが多く、事態は深刻さを増しているのだとようやく気がついた。ときどき、聞きとれないような小さな声とじぶんの口のなかにことばをしまっておくようなはっきりとしない滑舌でなにかを呟いていて、怖かったのを覚えている。まるでおかあさんが人間でなくなっていくようで。おかあさんのほうがもっとなにかを、わたしたちや、わたしたちの秘密が引き寄せる不愉快な現実を怖れていただろうに。
肌寒い日曜日の、水を注ぎすぎたコップのようにたぽたぽと足もとに時間が零れるような昼下がり、ふつうの食事をとることをすっかり諦めてひとくちもたべなかったピラフの表面が冷めて固まっていくのを、わたしは見つめていた。おかあさんも焦点はあっていなかったけれどおなじほうに視線をむけていて、そしてある一瞬ぱちと電流で繋がれたように目が合った。皮膚がコンクリートに擦れてしまうような熱い痛みをおびた空気が流れていた。
――……ごめんなさい、たべられなくて。いつも、残してばかりで。
なにか言わないといけないとおもった。けれど、なにを言うのが正しいのかわからなかった。おかあさんとは長らくまともに口をきいていなくて、これといった話題もなく、とりあえずすぐ目の前でピラフが無駄になっていくことを謝ったのだった。
ぐぐぐ、とお腹がなにもないのに栄養を吸収しようとして大きな音をたて、空腹をからだじゅうに伝えた。ダイニングテーブルの中心に飾られた水分が抜けて正気を失ってしまっている白百合の横の、小さな籠に視線を奪われる。その中にはみかんが入っていて、やたらと色鮮やかにみえた。温かい料理から漂う食材と調味料が絡みあった旨みのあるにおいを嗅いでも渇いたままだった口腔が唾液で湿っていく。はっと気がついたときには、手がみかんのほうに勝手に伸びてそのざらざらとした皮の手触りを指先でなぞっていた。猫の額で抜け落ちた、細やかで柔い毛を集めとるように。そこでわたしの手がとまっていればよかった。みかんから手を離して、その手を行儀よく膝の上に戻していれば、いびつでも、不確かなものであっても、わたしたちとおかあさんの生活を守ることができていたかもしれなかった。けれどもわたしはそのみかんをひとつ掴みとり、欲のままに、果実をあらわにするために存在しているんじゃないかとおもえるようなみかんの皮のへその部分に親指を突きたてていた。ひとひら、またひとひら。花のかたちをつくりあげるように、あるいは愛するひとを全身で愛するための時間に服を一枚ずつ脱がせていくように、果実から皮を剥いでいく。ふっと湧いた食欲に喜びを感じたというよりも、形のあるものを傷つけていくことに邪な快感をおぼえていたのかもしれないと、思い返してみて想像する。とにかくわたしはみかんの皮を剥くことに夢中になっていて、皮を取り払った果実がいやに光っているように見えていた。このときはまだ知らなかったけれど、のちに中学校にあがってから国語の授業で習った古い物語の、竹取の翁というひとが特別な竹を見つけたときのような感動に近いものがあったようにおもう。わたしは丸く連なっている果実を半分に割り、三日月型の一片を薄皮が破れてしまわないように慎重に力を加えて剥がし、口に含んだ。柑橘類の酸っぱさと甘みが混ざった水分がからだに浸透していくような気がした。それはひさしぶりにこの身に訪れた、美味しい、という感覚だった。おかあさんがつくった料理や学校の給食をたべても砂を噛んでいるようでただ苦しかったのに。わたしはみかんのかけらを続けて口に入れ、それを何度も繰り返し、いつのまにか一個のみかんをたべきっていた。
不意に視界に銀色のものが飛びこんできて、テーブルで跳ねてわたしの左目にぶつかった。
――んっ……。
咄嗟に手で目もとを覆う。目の下の皮膚に熱がはしる。それから眼球が圧迫されて起こる鈍い痛みがじわじわと滲みだして、ひとりでに涙が溢れて頰を伝った。手にしみついたみかんのにおいを吸いこむと喉もとで苦味に変わった。おぼつかないまばたきで、左目の痛みにつられてうまくあけられないでいた右のまぶたをようやくひらく。周囲を見渡してみると、テーブルのむこうにはおかあさんのぎょっとして青ざめた顔があり、じぶんが座っている手前のほうに視線をなぞらせていくと一か所テーブルの木材がえぐれていて、椅子のそばに唾液が乾いた跡のある使ったあとのスプーンが落ちていた。どうやらおかあさんが手もとにあったスプーンをこちらにむかって投げたのがわたしの左目に当たったらしいということがわかった。はじめは奥底に沈んでいて鈍かった眼球の痛みがじょじょにある一か所に集まってずきずきと鼓動するように痛みだす。そんなことは起こらないとわかってはいても、ぼろ、と眼球が神経と繋がったまま落ちるところを想像するのがやめられなかった。
薄目に映りこむ狭く細い視界ではコントラストを強くしすぎた写真のように見えるものすべてがぎらついていて、なにを見ているのかよくわからなかった。けれど、階段を下りてくる足音が聞こえてきたとき、よく見えていなくても柳がリビングにやってきたのだと察していた。この家には柳とわたしとおかあさんしか住んでいなかったから。
――唯花!
ただごとではない状況に気がついたらしい柳が悲鳴のように名前を叫んでこちらに駆け寄ってきた。左目を押さえつづけるわたしに向かいあうように立って、わたしの肩を熱い手で掴んだ。
――なにがあったの?
――目、に……。
ことばを発しようとしたらまぶたから流れきらなかった涙が雪解け水のように喉に落ちて絡んでむせた。鼻水をすするとプールで息継ぎのタイミングを違えたときみたいにあたまの一部分がきんと痛んだ。わたしの手をとれば一部始終の記憶を、それからこころに話しかけて意識を傾ければ通じあうことができたはずなのに、柳はそうしなかった。わたし自身混乱していたし、もしかしたら柳も戸惑っていたのかもしれない。
――おかあさんが投げたの?
床に落ちていたスプーンの存在に気づいたらしく、柳が震える声でおかあさんに問いかけた。
――ごめ、ん……ごめんなさい……。
――わたしに謝ってどうするの。唯花に謝って。
――え……?
目もとから手を離してまぶたをおもいきりあけた。すこしぼやけていたものの、痛みと涙でぎらついて歪んでいた視界は平行にならされて、眼球の熱も引いてきていた。おかあさんはやつれた顔を妙に紅潮させて、瞳に涙をためて柳とわたしの顔を見ていた。
――唯花は……あなたじゃ、ないの?
じぶんの顔から必要以上に熱がすっと引いていくきもちわるい感覚に襲われた。おんなのこの姿をした柳は急に力が抜けてしまったような無自覚な感じでわたしの肩からぷらんと手を離して、感情をこらえようとしたのか奥歯を噛みしめて押し黙っていた。わたしたちのこうであってほしいという願いで膨らませた風船のようなものが、もうすぐ破裂してしまう。すぐそこに迫ってきている未来のことを予感するのはたやすかった。おとこのこの姿をしたわたしは顔に涙の筋を残しながら驚いて一度あいてしまった口をとじることができなくて、きっと間抜けな顔をしていたとおもう。
――なにを言っているの?
テーブルに置かれたままになっていた飾りや愛でる対象といった役割を終えている萎れた百合の花が香ったような気がした。強くて、蒼くて、酸素をおびやかして、息苦しくなるような。
――おかあさん……わたしたちの見分けもつかなくなったの?
このときからわたしたちとおかあさんのあいだに流れる空気が完全に変わってしまった。冷たい沈黙の澱に脚をとられているだけだったのが、おかあさんに一歩でも近づこうとすれば不本意に置き去りにされた剣山を踏みつけて流血してしまうような。そしてそれはおかあさんもおなじで。
いいや、ほんとうはずいぶん前からそうだったのだ。
わたしたちが感覚を鈍らせて気づかないようにしていただけで、ほんとうは。
院長と医者の息子の忠告の意味を、わかってはいたつもりだったけれどようやく正しく理解した。理解せざるをえなかったし、もう現実をねじ曲げられるほど鈍感になれなかった。わたしたちの身になにが起きても、なにも信じられなくなっても、おかあさんは性別や姿に惑わされることなくどちらが柳でどちらがわたしかを間違えることはなかった。わたしたちが溶けあってバケモノのようになってしまったあの監禁のあとも、受けいれるかどうかはさておき区別はついていたようにみえた。それが母親というものだとおもいこんでいた。けれど、違ったのだ。母親は産んだ子どものことならなんでもわかるものなのだと、わたしたちのほうが勝手に期待して、甘えていたのだった。医院で進められていたわたしたちがおかあさんのもとを離れて暮らすという計画に賛同せざるをえないときがきてしまった。
こころという器官がからだのどこにあるのかは知らないけれど、そのたった一部分が麻痺してしまうと全身が動かなくなるらしい。おかあさんはついに料理も掃除もしなくなり、ただ息をしているだけの置き物のようになってしまった。寝室から出てこない日が増えて、リビングにいるときは膝をたててソファに座り、両手であたまを押さえながらなにかをぶつぶつと口走っていた。わたしたちがリビングに現れても動揺も恐怖もせず、うつろな視線の焦点をあわせようともしなかった。
――はまの……。
あるとき、おかあさんがなにを呟いているのかはっきりと聞こえた瞬間があって、わたしたちはリビングの扉のあたりで立ちどまった。おかあさんがつけるのを忘れていたのか、それともどうでもいいとおもっていたのか、リビングの電気は消えていて、窓からは何時になっても淡いままの冬の景色から放たれるぼんやりとした光を受けいれているだけで薄暗かった。
――浜のゆうれいが……浜のゆうれいが……。
浜のゆうれい?
聞きとったものの意味がわからなくてこころのなかでつい復唱してしまうと、ああ、と柳がこころの声で返事をした。
「アンネ・リスベット」だよ、唯花。
アンネ、リスベット?
アンデルセン童話。ちいさいころ、おかあさんがよく読んでくれたでしょう? 人魚姫とか、親指姫とか。
そういえば、そうだったかも。
「アンネ・リスベット」も一度だけだったけれど聞かせてくれたわ。いやに悲しいはなしだったからよく覚えてる。醜いからといってかつて手放したわが子が海で溺れ死んで浜のゆうれいになってしまって、主人公のアンネ・リスベットは償いとして浜のゆうれいのためにお墓を掘るの。そうして神さまはそれを母の愛として、浜のゆうれいは成仏して、アンネ・リスベットも天国に旅立つ。でも……。
でも?
わたしたちがあまりにも長い時間視線を送りつづけていたせいか、一瞬だけ目があうとおかあさんは膝を抱えこむ腕の力を強めて、ペディキュアをしていない乾いた爪先がその場で踏ん張って足の指の色を黄色っぽく血液の分散した色に変化させていた。
――おかあさん。
柳が口をひらいた。すると、おかあさんはたったいま目がさめたといった生気が宿りなおした表情をして、柳のほうへというより声がしたほうへ目線を与えた。
――浜のゆうれいなんていない。そんな心配、しなくて大丈夫だよ。だっておかあさんは、わたしたちをほんとうに愛そうとしたことがないんだから。
冷たくて鋭い、刃物のような声だった。
――柳……?
名前を呼んでも柳は反応せず、おかあさんの前まで歩いていって両の手で肩を掴んだ。感情の抜けたおかあさんの顔は熱だけが消えたかのように白くなっていった。窓が閉ざされて、酸素の薄まった生活が古びていくにおいのこもったリビングの隅で大きな綿埃がふっと動いたのをなぜだか覚えている。
――そん、な……こと……。
――そんなことない? ほんとうに? じゃあどうして恐れるの。どうしてわたしたちの秘密をわかっているのに認めないの。受け入れてくれないの。それでわたしたちを愛そうとしているとでも言いたいわけ? 浜のゆうれいが現れるくらいに?
おかあさんのか細い声が発しようとした抵抗を柳はいともかんたんにはねのけた。おかあさんはことばを失ってくちびるを震わせていた。嫌な予感がした。雨が降って水かさの増した川に危ないとわかっているのにわざと足を踏みいれていくような。わたしは変に高揚した胸騒ぎに突き動かされてふたりのあいだに割って入ろうとした。
――柳、やめて!
――唯花は黙ってて! このひとには言い聞かせないとわからない。
一瞬だけこちらをむいた柳の目の色にわたしは怯んでしまった。柳をおかあさんから引き離そうとした手を不自然に浮かせたまま一歩下がる。それだけの動作なのに足がもつれそうになった。家じゅうの空気が不必要な音とともに凍りついていた。柳の目はいつもの水分量の多い潤んだものではなく、眼球に電気が流れこんでいるような人工的なものに近い光りかたをしていた。
ごめんね、おかあさん。
そのときわたしにできたのは、こころのなかで謝ることと、濁流のような嫌な予感がどうか的中しないでほしいと祈ることだけだったのだろうか。折にふれておもいかえすたびに、ほんとうはもっとどうにかできたのではないかと後悔する。けれど、いつも答えは見つからなかった。
ぞわ、と皮膚の表面にだけ冷たい風が滑っていった気がした。
――ねえ、目を見て。
おかあさんの肩を掴んでいた柳の手がふわりと離れて、今度は顎先に触れてくいと持ちあげた。視線が逃げていこうとすると柳はもう片方の手をおかあさんの頰に伸べて顔が動かないようにして、目を見てって言ってるの、といらだちをことばにしてぶつけた。わたしは柳の行動を、おかあさんの怯えを、景色のように眺めることしかできなかった。それでいてからだのほうはあたまのなかよりも感情的で、心臓が痛いほどに鳴り、汗でじっとりと湿った手のひらをひらいたりとじたりした。
薄暗いリビングで柳の目がぬらりと、真夜中の猫の目のように光ると、ふっと笑みを漏らした。
――わたし、おかあさんなんて大嫌い。わたしたちを愛そうとしないおかあさんのことなんて。だから、ここを出ていくわ。
おかあさんが息をのむ。その瞳がぐらりと揺らいで大粒の涙がぼとぼとと落下した。
――汚い涙。内心ほっとしているくせに。それとも……ほんとうにここにいてほしいの? わたしたちといっしょに暮らしたい?
どうしてこんなに冷たくてぎらついた声色で、溶けだすことを知らない氷を胸に埋めこんでいくようなことを、柳はいともたやすく放つことができるのだろうか。言い淀むこともなく、ひどくなめらかに。いっしょに生まれたひとつの存在のうちの半分である柳が引き起こしていく状況がわたしにも恐ろしくおもえた。そして、柳が容赦なく突きたてていく感情がわたしのなかには一ミリたりともないと言いきれないことも。あのころはわたしたちの男のほうの姿が声変わりをまだしていなくて女のほうの姿とひどく似た声をしていた。だから、柳が言ったことはほんとうはわたしが言ったのではないかと錯覚することもよくあって、戸惑った。
じぶんの意思だったのか、それともただの震えだったのか定かではないけれど、おかあさんのあたまが上下にこくんと動いたようにみえた。柳の瞳が放っている妖しい光がおかあさんの瞳にも宿りつつあった。
――じゃあ、わたしたちの愛しかたを教えてあげる。まずは……そうね、服でも買ってもらおうかしら。とびきり似合う服。それから、わたしたちが空腹にならないように果物をたくさん。おかあさんは知らないのかもしれないけれど、わたしたち、もうそういうものしかたべられないから。あとコスメなんかもいいね。そういう年頃だし。お花もたくさん欲しい。外に出なくても季節を感じられるように。……とにかく。おかあさんが贈ってくれた素敵なものに囲まれて過ごして、おかあさんからの愛に満たされることができれば、わたしたちはまたここに戻ってくる。わかった?
意地汚い大人みたいな相手に逃げ場を与えない悪どさをもった要求でもするのかとおもいきや、柳は欲しいものを買ってほしいとねだるわがままな、子どもじみた願いを述べただけだった。すこし拍子抜けしてしまったけれど、無理もない。他人に暴かれたくない秘密とか、おたがいを愛してはいけないとか、おかあさんとの関係性とか、ここは物語の世界なのではないかとおもってしまうくらいにわたしたちの生活や人生はひねくれているけれど、あのときのわたしたちはまだ小学生だったのだ。
けれど、おかあさんは首を縦に振ったのだった。はねのけようとおもえばいくらでもそうできたはずなのに。柳の瞳から乗りうつった光に自らの瞳を脅かされて、まるで、洗脳されたみたいにほかの考えには及ばなかったようだった。こうしてわたしたちはかつて住んでいた家を出ていま住んでいるマンションの一室に引っ越し、おかあさんから定期的に送られてくる愛としての品々に取り囲まれた暮らしがはじまった。
なるべく目立たないように気をつけて改札を通り抜け、電車に乗りこんで、春は周辺の空気ごと花の色に染まっていた桜並木の、葉陰の暗がりを含む深緑色を窓外に眺める。初夏の陽光に照らされて、春を脱ぎ捨てて、けれど、このあと陰鬱な雨の季節がくることを桜の木々は知っているのだろうか。ふとそんなことを考えてみて、知っているはずだとおもいなおした。あの桜はじぶんよりもうんと長い月日をこの堤で生きてきたのだから。桜だけではない。植物のほとんどが成長によって姿を変えながらも、根っこのところではずっとおなじ命をつないでいる。
気が遠くなるような時の流れ。
柳もわたしもその一瞬にすぎないけれど、これまでの日々がずいぶんと長く感じるのは、傷ついて、傷つけてきたからかもしれない。
二人掛けのシートの通路がわに座っている柳は、座席についている狭い肘掛けに肘を立てて頬杖をついている。天井を仰いでぼんやりとしているようにみせかけて、その実、考えごとをこころの声にしてしまわないように気を張っている。こういうとき、柳の息遣いは慎重になって妙に規則正しくなるからわかる。二秒吸って、二秒吐く。綺麗すぎる呼吸の連なり。かつての柳は感受性に皮膚を張りつけただけのような、一か所でも傷ができて破けてしまえば、逆上して、素手で触れるには熱すぎる感情を放出させていたけれど、いまの柳はそういったものを隠すことがずいぶん上手になった。それに比べてわたしはなにも変わっていないような気がする。静かにひっそりと生き延びていくという義務や、院長と医者の息子がしてくれている努力の数々。それらを無慈悲に破るようなことを、わたしはいくつもしている。世界からみてたった一瞬の時の流れが、柳とわたしに違いを与えようとしているのかもしれなかった。
ささやかな森を通り抜けてマンションが見えてきたころには十五時近くになっていた。暑さというより多すぎる湿気によって引きだされた額の汗を手で拭うけれど、また新しい汗がだらだらと出てくる。ちらと柳のほうに目をむけると首もとに汗が流れていて、首に触れている髪がじっとりと濡れている。それでも表情が涼しげで、汗さえもきらめきの一部に変えてしまうのを、憧れに似た感情で眺めた。
マンションの入り口の前で佇む人間の姿をみとめて、わたしたちは顔を見合わせる。にこやかで優しい校医の変装をといた医者の息子だった。
どうする?
どうする、って。無視するの?
はやく部屋に入りたいよ。暑いもの。
それは、そうだけど。
「おい」
わたしたちが逡巡してつい歩みをとめた一瞬を医者の息子は見逃さなかった。柳の口が曲がり、わたしに似た、けれどもちっともわたしではない美しい顔が歪む。
「いや、時間はとらせないよ。振り込み、しておいた。千春さんはひどい風邪で寝込んでただけで、振り込みのことはちゃんと覚えてたよ。それだけ」
「それだけ」
「ああ、それだけだ。母親の名誉と、子どもの自尊心のためにな」
おれも長居は無用だな、と呟くと、医者の息子は湿気で膨らんでしまった前髪を掻きあげながらわたしたちの横を通り過ぎていった。
「くだらない」
柳は軽いため息をついてからわたしの手を掴んでマンションのエントランスへと進んでいく。すこし強引な振る舞いに従って、エレベーターに乗りこむまでわたしは振り返らない。医者の息子もこちらを振り返ったりはしない。それが、わたしたちが日常にまぎれこんで生きていくためのルールだった。他人どうしのふりをする。いまのこの場面を誰も見ていないとしても、医者の息子とわたしたちに深いつきあいはないのだと装わなければならなかったし、わたしたちのために名前を失って死んだ男に情を抱いてしまえば、なにかを犠牲にして生き延びていく罪悪感にやられて気がおかしくなりそうだった。
エレベーターが動きだし、足の裏が床に強く吸いつけられる重力がやわらいでいく。いま身をおさめている機械が上昇しているのか下降しているのか曖昧になる。階数を示す数字のランプから目線をはずして柳の横顔を見る。秒数できちんと決められた呼吸をして、おもいをどこかに追いやっている。目のふちがこころなしかいつもより赤いような気がする。それが柳のほんとうの感情なのだと信じたかった。足元に強い重力が再来して、エレベーターの扉がひらく。いつもはエレベーターの中のほうが機械のにおいで息苦しいのに、きょうは外のほうが湿気が多くていくら息を吸ってもからだが酸素を求めている感覚がやまない。湿気に覆われた世界は雨に濡れた砂のように凝縮していた。
柳が制服のズボンのポケットから飾り気のない輪っかだけがついた鍵を取りだして鍵穴に差しこみ、鍵をあける。いつもおこなっているはずの一連の動作のひとつひとつに見惚れて、この一瞬をなぜだかずっと記憶して生きていくのではないかとおもった。そうおもったこともすぐに忘れてしまうとわかっているはずなのに。室内は空調を切っていたわりに涼しくてすぐにでもフローリングや寝室のベッドに寝転んでまどろんでいたくなるけれど、まずは食事をしなければならなかった。お昼ごはんの時間はとっくに過ぎていて空腹の感覚が鈍くなってしまっていたけれど、いざ冷蔵庫をあけて果物の缶詰を見ると息をひそめていた食欲が湧き起こる。
「柳はなにをたべたい?」
「ううん、寝たい」
なんだか疲れた、と呟くと、柳はダイニングテーブルにうっつぷしてじぶんの腕に顔をうずめる。
「ねえ、柳」
「なあに?」
「胃がからっぽだとからだによくないよ」
「知ってる。……唯花って、ときどき世話焼きになるよね」
「そう?」
「そう。でも、元気になってよかった。もうあんな変なものたべないでよね。迎えにいけるところにいて。わたしには……」
「には?」
冷蔵庫のなかのパイナップルの缶詰に手を伸ばしつつことばのつづきを待ってみたものの、つぎに聞こえてきたのは寝息で、柳はなにかを言いかけたまま眠ってしまったようだった。わたしはプルタブを引いて、缶詰にスプーンを二本入れてリビングのほうへ回る。腕にうずめられた柳の顔はすこしだけ横をむいていて、覗きこんでみると眉間に皺が寄っている。悪夢に迫られて、睡眠という無意識の安らぎさえも奪われているような表情の歪み。わたしが感じとっている以上に柳は疲れているらしい。期末考査のあいだ、わたしは戸籍通りの女の性別で目ざめることができたけれど、柳は一度だけどちらの性別でもない状態で朝を迎えた。きょうは休んだら、と提案してはみたものの、柳は大丈夫と微笑んで男物の制服を着た。男らしさ、のようなものも、女らしさ、のようなものも削ぎ落とされたからだは先端にかけてひょろひょろと細いのに胴体は赤ん坊のように柔らかな空気を抱えこんだ丸みを帯びて、身につけるようになって三年めになるはずの制服が中学校に入学したばかりのころのように着用している本人よりも偉そうで、柳自身も制服に体力や栄養を奪われているようにみえてなんだか痛々しかった。サワノ医院で心身のストレスをリセットするために性別をならすときとは違ってひとりでに性別が消えるときはからだの状態がひどく弱ってしまうのに、柳は無理をして登校して、学校から帰ってきてからも最後の復習をしようと言ってからだをふらつかせながら教科書とノートをひらいていた。
わたしが模試を受けたいなんて言いだしたから?
秒針の音がうるさい。こん、とダイニングテーブルに缶詰を置いても柳は目をさまさない。柳の寝顔を見るのはすきだ。すきだけれど、きょうはひどく不安なきもちになる。一日を滅ぼすための眠りが、柳そのものを巻きこんで永久に消滅させてしまいそうで。
失ってきたものの数はきっと多い。これからももっと失っていくのだとおもう。息をするようにという比喩のままに、生きている、それだけで。わたしたちの秘密と天秤にかけて均衡になれない望みや愛だとかを捨てていく日々にただ絶望するのではなくて未来を追い求めてもいいのだとおもえるようになったけれど、その未来に柳がいないのは嫌だ。
柳は、天秤のどちらがわに載っているのだろう。
植物園の温室のような、空調で温度と湿度が一定に保たれた寝室に入る。ベッドの上で眠りからさめたまま、植物の蒼い香りの移ったくしゃくしゃのシーツを持ってリビングに戻り、柳のからだに巻きつけるようにして被せる。朝目がさめてベッドから起きだしてくる柳はいつも古代ギリシアの衣服のようにシーツを纏っていて、それの真似をしてからだにシーツをあてがっていくものの、シーツは衣類というより蚕の繭のように丸みを増して不格好になっていくばかりだった。成虫になることを許されない虫のための残酷な衣。むかし、小学校のなにかの授業で繭雛をつくったとき、仮に繭を失わずに成虫になったとしても蚕は飛びたつことができないのだと担任の先生から教わったのをふとおもいだす。蚕の成虫はどこにも行けないで、なにも知らないで、愛玩動物のような目をしてただ息絶える。それだけの命が存在するのだった。
……ごめんね、柳。
なにか特定の失敗のことをというより全般的に謝ってみてしまう、それではいけないのにそうすることしかできないつもりでいるじぶんの甘さが憎い。わたしには柳しかいないのに、どうして無理をさせて、大事にできないのだろう。
いっこうに起きない柳のことを横目で何度も確認しながら、ダイニングテーブルに置いた缶詰をじぶんの手もとに引き寄せる。ドーナツのように真ん中が空洞になっているパイナップルの繊維にそってスプーンを、にゅる、と差しこむと果肉はいともかんたんにほどけた。一口大に切り分けて、スプーンで掬いとって口にはこぶ。果物の缶詰のシロップ特有の粘質の甘ったるさが口腔にひろがり、淡い痺れに変換された酸味が舌先にじわりと刺さる。
わたしたちは、ほんとうにどこにでも行けるのだろうか。
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