偽の物語

 わたしたちが鍵のかかった寒い書斎から救出されたあとのことだ。この肉体の秘密を――アダムとイヴの逆襲と呼ばれていることを――知ってからも、死にそこなったおかあさんと三人で暮らしつづけた。おかあさんの精神状態やわたしたちのからだのことを懸念事項として院長と医者の息子は反対したけれど、それでもあの家こそがわたしたちの帰るべき場所なのだと当時はおもっていたのだった。

 すこしの入院生活を終えてわたしたちは帰宅した。恐る恐るではあったけれどただいまと言って、おかあさんも喉が渇ききったときに出るような掠れた細い声でおかえりと言って、家族三人の生活が再開した。沈黙の時間は増えたもののもとの生活とさして変わることはなく、わたしたちは時間になれば小学校に行き、そのあいだおかあさんは家で過ごしていた。過ごしていたというより引きこもりがちだったといったほうが正しいのかもしれない。けれど、出来合いのものではなさそうなきちんと調理された料理が食卓にまいにち並び、玄関先の花々が枯れるようなこともなかったから、必要最低限の外出はしていたのだとおもう。

 学年があがるごとにプールの授業を見学するおんなのこが増えていることに気づき、わたしが授業に出席しつづけているのは不自然なのではないかと恐れはじめた夏の夜。夕食の最中に椅子から転げ落ちて、大好物のハンバーグを床に吐きだした。性器から血が溢れだす痛みや苦しみは知らないけれど、それと同等なのではないかと想像してしまうくらい、からだじゅうが気だるくて、汗が出るのに寒くて、死にそうで、手足の感覚がじょじょに消えて動けなくなった。わたしは家に駆けつけた医者の息子におぶられて、サワノ医院ですぐに診察を受けた。でも、風邪でもなく、胃や食道や腸の病気でもなく、精神的な抑圧からくるようなものでもなく、原因はわからなかった。あのときは嘔吐のあとの喉もとにすわりのわるいまま残る喪失感や焦燥感に邪魔をされてよくわかっていなかったけれど、おもえば医者の息子の白衣は日焼けで剥けた皮膚のようなごちゃごちゃとした灰色の塵にまみれていて、わたしのからだは一度溶けだしていたらしかった。柳とひどく愛しあうでもなく、ひとりでに。

 その後も夕飯のおかずを口に入れては嘔吐する日々がつづいた。小学校の給食も完食しているようにみせかけて、トイレにすぐさま駆けこんで吐きだした。柳が吐いているところは見たことがないけれど、隠れて吐くかなにもたべずに過ごすかしていたらしくて、わたしたちのからだはみるみる痩せっぽっちになっていった。それと比例するようにおかあさんの顔色はわるくなり、頬がこけて影をたくわえ、目もとの腫れぼったさが際立つようになった。担任の先生に家でどういうふうに生活をしているのかとしきりに質問されるようになったのもそのころで、柳もわたしも質問の意図がわからずにいつもどおり過ごしていると一点張りをするように答えつづけて、けれどもおもいかえせば、食事がうまくとれないのだと伝えればよかった。そうしていれば、わたしたちはおかあさんを守ることができたのかもしれなかった。

 平日の、学校がある日の夕方だった。ジジジジジ、と古めかしい玄関のベルの音が家じゅうを突き抜けるようにけたたましく鳴り響き、柳とわたしは二階の子ども部屋から玄関にむかった。なんの疑いもなく扉をあけるとスーツを季節はずれに着こんだ見知らぬ男が立っていた。

 ――もう大丈夫だよ、ユイカちゃん。

 見知らぬ男の手がわたしの無防備な手に伸ばされて、わたしはとっさに手を引っ込めて後ずさりをする。心臓が激しく鳴り、知らない男に名前を呼ばれたことや急に触れられそうになったことの理由のつかなさにあたまのなかが真っ白になった。そのわりにどこからともなくカルキを含むプールの水に濡れた髪が乾きだすときのにおいがしたことはわかった。その日はプールの授業があったのだろうか、おもいだせない、もうそのあたりの、幼いころ特有の些細で緻密なプロセスを含んだ記憶は失くしてしまって、忘れてしまっている。寒くもないのに震えてしまうからだをその場に直立させるのに必死でいると、柳がわたしと見知らぬ男のあいだに割って入り、見ていたのは後ろ姿だったはずなのに、きっ、と睨みつけたことを察した。

 ――きみがリュウくんかな? 可哀想に、こんなに痩せて。おとこのこなのに……。

 ――誰?

 ――サイトウっていいます。ことし赴任してきたばかりだから面識はないかもしれないけど、きみたちの小学校の先生だよ。担任は一年二組。

 ――せん、せい?

 ほんとうだよ、と付け加えて知らない男は微笑みを浮かべる。疑いの響きを孕ませた声で訊き返す柳を納得させようとするような慌てた言いかただった。うまくはたらいてくれないわたしのあたまは、サイトウという名前の先生がいたような気にもいなかったような気にもなっていて、ますます混乱するばかりだった。

 ――とにかく、ぼくはきみたちふたりを助けにきたんだ。おかあさんとおはなししてくるから、表の車に乗って待っててくれる?

 ――助けにってなにから? わたし……ぼくたち、困ってなんかいません。

 ――秘密にしなくていいんだよ、リュウくん。きみたちの姿を見ればわかる。だから……。

 このあとサイトウという男がなにを言ったのかを、わたしは、わたしたちは、うまく聞きとることができなかった。目の前の景色が玄関のむこうから差しこむ光に溶けこんで白んでいき、なにを見ているのかが曖昧になる。耳鳴りが鼓膜の内がわで乱反射しつづけるような感覚に襲われる。顔から温度が引いていき、体温が血液の源の、心臓のほうへと凝縮されていく。

 わたしたちの秘密が露見してしまった。

 話したこともない、けれどもわたしたちの行動範囲にいるというこの男に。

 息も切れるような激しい恐怖に襲われて、わたしたちは幼い想像力でこうおもったのだった。これから不気味なくらいに真っ白な施設に連れていかれてなにかの実験台にされるのだと。その想像はいちからなされたものではなくて、以前院長が言っていたこと――〝アダムとイヴの逆襲〟の存在は一般的ではない、世間に知れたらどこぞやの病院や機関の実験台にされてしまう――に起因するのだけれど、当時のわたしたちはそのことに気づいていたのだろうか。

 わっ、と大きな音がした。それが柳の叫び声だと気がつくのにすこし時間がかかった。そして、叫び声だとわかった瞬間には柳の拳がじぶんたちよりも身長があるはずの見知らぬ男の頰に達している。脳が目の前の光景から得られる情報を処理していく速度が追いつかず、理解に及ぶまでの差が広がり、どんどんずれていく。

 ――唯花、逃げて!

 ――え?

 柳がひとに暴力をふるった、男を殴った、その男は打たれた拍子に舌かくちびるを切ったらしく血を出している、それからここから逃げろと指示されたのだとようやく気がついて、けれどもそのときには殴ったまま宙ぶらりんになっていた柳の手首を男が掴んで、リュウくん、落ち着いて、リュウくん、と繰り返していた。わたしは、柳を離して、とくちびるを動かしたつもりだった。けれどそれが声になっていたのかは定かではない。

 ――唯花、わたしのことはいいから! はや……。

 男の手を振りほどこうともがく柳がことばを途切れさせた。そのときはわからなかったけれど、柳はきっとわたしの背後に視線を奪われていたのだとおもう。わたしはその意味を察することができずにただその場で立ちすくんでいるだけだった。そうして、事態はわるい方向へと、冬の日の坂の上から転げ落ちる雪玉のように、加速して、降り積もった雪を身に纏わりつかせて、ある一点で停止して破裂する。

 ――あなたが、ふたりのおかあさんですか?

 ――え……はい、あの……どちらさま……でしょうか?

 ここでようやくわたしは振り返り、おかあさんがそこにいることを認めた。騒ぎを聞きつけてリビングから出てきたのだろう。男は柳の手を無意識にふっと力を抜くようにして離し、柳はよろめきながらわたしに近づいてそっと腕をまわした。わたしたちは身を寄せあって大人たちの様子を見守った。

 ――この子たちが通っている小学校の者です。サイトウといいます。話があって来ました。

 ――あの……えっと、担任の先生……。

 ――あのひとじゃ駄目なんですよ! あのひとは、あなたのことを見過ごす気でいる。だからぼくが来たんです。子どもたちは秘密にしているようですが、こんな痩せっぽっちな姿を見たら誰だって気づきますよ。

 ――え、えっと、待って、ください。一体なんの……。

 ――とぼけないでください。子どももまともに育てられないなんて、あなたは母親失格です。ねぐれ、うっ。

 不意に見知らぬ男がつんのめって、紅色の綺麗な、けれども季節にはそぐわない厚手の玄関マットの上に倒れこんだ。玄関の重たい扉から変装した姿の――当時は保健室の先生ではなくて隣のクラスの担任を受け持つ先生に扮していた――医者の息子が現れて、倒れた男に馬乗りになり、首に腕をかけた。

 ――独りよがりな正義を振りかざしてんじゃねえよ、ばーか。

 ――うう……。

 男の呻き声が止んだのを合図に、医者の息子は首にかけていた腕を解く。男はうなだれたあたまを玄関マットに押しつけて、ぴくりとも動かず、静かになった。ふと、遠くから蝉時雨が聞こえたような気がしたけれど、ただの耳鳴りだったのかもしれない。

 ――殺したの……?

 口も喉も痛いほどに渇いていて、けれど、それでも訊かずにはいられなかった。視覚の情報とそれを理解するまでのタイムラグがようやっと埋まりはじめていた。

 ――殺してない。気絶させただけだ。とりあえず話は医院に着いてからするから。

 千春さん! とおかあさんの名前を呼びながら医者の息子は気絶しているという見知らぬ男を踏み越えて、靴も脱がずに玄関にあがっておかあさんに駆け寄った。ぺたんとその場に座りこんでいるおかあさんの、青ざめて、震えて、声には出さずになにかを呟くくちびるの動きが、血の出るような怪我よりも痛々しかった。

 その後、電車に乗ったのだか車に乗せてもらったのだかは忘れてしまったけれど、わたしたちは夢のようになめらかに、そして唐突に、家からサワノ医院に移動していた。雑多な受付で院長が待っていた。医者の息子が混乱したおかあさんと気絶した見知らぬ男の処置を済ませ、それからみんなで秘密の診察室にむかい、そこで事のあらましを聞いた。ものをうまくたべられずにやつれていくわたしたちを目撃したあの男が、担任の先生に何度も事情を訊き、説明を求めていたこと。担任の先生はいつもどおり過ごしているというわたしたちのことばを信じてくれていたこと。けれど、それを聞いたあの男のなかではおかあさんがネグレクトをしていてわたしたちに食事を与えていないのだと、虐待をして殺そうとしているのだという筋の流れのいい偽の物語が形成されていたこと。ネグレクトだと言い切れる決定打がないから様子を見ていると言うばかりで児童相談所に連絡を入れない担任の先生とあの男がもめているところを、先生に扮した医者の息子が仲裁に入ったこと。そうして、担任の先生と医者の息子の言うことを聞かずにあの男はわたしたちの家を訪れ、柳とわたしをありもしないおかあさんの魔の手から救い、保護しようとしたのだということ。妄想から生まれた存在しない悪意に正義を振りかざそうとしたあの男の行為は、余計なお世話、という一言で片づけられる。けれど、この日のできごとはそれ以上に、わたしたちとおかあさんの関係に影を落としたのだった。路地裏の、真昼間でもべっとりと空間に張りついてはびこっているような、なにも育てることのできない湿っぽくて冷たい影を。

 おかあさんの身にふりかかったすべての物事が必然だとしたら、ぜんぶわたしたちのせいなのだとおもう。妊娠ちゅうに夫から暴力を受けたことも、自信を失くしていったことも、わたしたちを書斎に監禁したことも、自殺しようとしたことも、みんな。あの男の乱入によって、わたしたちの秘密が、〝アダムとイヴの逆襲〟が引き寄せてしまったのだと嫌でもわかってしまう。もう限界じゃろう、と真っ白な壁に囲まれた秘密の診察室で、椅子に腰かけた院長が低い身長相応の短い脚を組んだ。顔に対して大きすぎる眼鏡のレンズが蛍光灯の光を反射させて、その奥にあるはずの瞳はよく見えなかった。院長の正面に立っていた医者の息子がいつものように立っていた。白衣のポケットに手を突っ込んで偉そうな感じで壁にもたれかかり、けれど不敵な笑みは浮かべずにうつむいて。あの男の介入を防げなかったことをわたしたちは決して責めなかったけれど、医者の息子にとってもあの日のことは苦いできごとになっていたらしかった。

 ――このまま過ごしていれば、きみらも千春さんも壊れてしまう。距離をとるべきじゃな。

 院長はふだんとおなじ口調で、ふだんよりも老人じみたしわがれた声で淡々と考えを述べた。

 ――距離?

 ――離れて暮らすってことだよ、柳。千春さんに引っ越してもらうのは負担になるだろうから、きみらのほうが出ていくことになるな。

 出ていく、ということばが脳みそのどこかを震わせた気がした。じぶんたちが住んでいるはずの家が急に過去のもののようになって、記憶と呼ぶには現在に近すぎる家の風景がセピア色に染まっていった。会話はわたしの頭上で、わたしの意思とは関係なく紡がれて、不穏な未来を絡ませながら進んでいってしまう。

 ――うむ、手頃なマンションを見繕わにゃならんな。他者の介入が少なく、かつ、ここから遠すぎず近すぎないところの。

 ――北のほうは? このあたりに比べたら田舎だろ。

 ――待ってよ。

 ――おお、いいかもしれんな。少々不便じゃが、その代わり閑静じゃし空気も綺麗じゃ。

 ――ねえ。

 ――わかった。手筈はこっちで整えておく。

 ――ああ、頼んだぞ馬鹿孫。

 ――無視しないでよ!

 柳が大きな声を出して院長と医者の息子はようやく会話をやめ、秘密の診察室にそよ風のように静けさが流れこんだ。静けさはひとがいるから発生した。ふたりが話しつづけるものだから柳が口を挟もうとしている声はじぶんのこころのなかの声なのだろうかと勘違いしそうになっていたけれど、違った。院長と医者の息子はわたしたちが家を離れるはなしを強行しようとして、柳を無視しようとしたのだ。

 ――わたし、出ていかないよ。おかあさんといっしょにいる。三人で暮らしていく。

 迷いがなくきっぱりとした、意思の強い言いかただった。

 ――柳、わしはあのときにも止めたはずじゃよ。

 ――嫌だ、こんなのおかしい! わたしたち、なにもわるいことしてないよ。秘密も漏らさないように過ごしていたし、おかあさんだっていつもどおり生活していたもの。

 ――それでもじゃ。勘違いじゃったとはいえ、サイトウ、じゃったかのう? 彼はきみらを小学校のほかのこどもたちとは違うと感じた。そして深入りしようとし、家にやってきてきみらの目の前で千春さんを傷つけた。もしこの馬鹿孫の到着がすこしでも遅れていたらきみら自身ももっと大変な目に遭っていたじゃろう。

 ――それはあの男が!

 ――そうじゃ、あの男がわるいんじゃ。じゃがそれは同時に、きみらが危うい状況におるということでもある。〝アダムとイヴの逆襲〟を横に置いたとしてもきみら家族が崩壊しているように見えるというふうにも捉えられんかね? 残念ながらきみらは、秘密とは関係なしに他者の視線という危険にさらされておるんじゃよ。

 ――嫌だ……。

 呟くような拒否は小さいのに悲鳴のように聴覚を貫いた。はあ、と医者の息子が文字にしたようにわかりやすい溜息をつく。

 ――柳、わがままはよせ。

 伸びすぎた前髪からのぞく乾いた瞳がわたしたちに鋭い視線を送っていた。

 ――わがまま? 子どもが親といっしょにいたいとおもうのがわがままだと言うの!?

 ――それで千春さんが、きみらのおかあさんが死ぬかもしれなくてもか? 赤の他人の薄暗い好奇心に晒されて、ネグレクトなんて濡れ衣きせられてさ。

 ――そんなの、やってないんだから堂々としていればいいじゃない。犯してもいない罪に怯える必要なんてない!

 ――なあ、ほんとうはわかってるんだろ? きみがそうおもっていても、そう振る舞えるとしても、千春さんは違うんだって。じぶんの母親がじぶんと違うことに戸惑ってるのか、子どものじぶんを守ってくれるはずの存在がちっぽけで弱いことに愕然としてるのかは知らないが、じぶん本意の正しさをまくしたてるな!

 医者の息子のことばの語尾はたしなめようとしているようで怒りも込められているような気がした。柳が反論のことばを呑んで、歯を食いしばるようにして押し黙ったのがわかった。

 ――こんなのサイトウ先生とやってることがおなじだぞ? それできみらはどれくらい傷ついた? どれくらい困った? それでもその言いぶんをとおすっていう……あ……。

 変なところでことばが途切れる。医者の息子がわたしを見て、おなじようにわたしのほうに顔をむけた柳の手がこちらに伸びてきて、わたしの頰から涙を拭った。わたしは泣いているのだと気がついて、気がついてしまうと嗚咽まで溢れだした。悲しいできごとが起こりそうな予感と、柳と医者の息子のぐらぐらと沸騰した感情に当てられて混乱して、反論のことばが組みあげられていく代わりに涙がこみあげてきたらしかった。涙はじぶんの体内から出てきたはずなのにひどく冷たかった。

 ――これこれ、怒鳴ってはいかんじゃろ。正しさなんてもんはひとそれぞれじゃよ。食い違うてしもうたときは最善なものを選びとっていくしかない。……わしも、押しとおそうとしすぎたな。すまんかった。

 これ、おまえも謝らんか馬鹿孫、と院長がせっついて、ごめん、と医者の息子はむくれたまま短く謝った。

 ――柳、唯花。わしらがおもう最善は、親子とはいえ離れて暮らすことじゃ。おたがいが精神をすり減らしてしまわんように。これ以上辛いおもいをせずに済むように。きみらがというよりも、千春さんのほうが限界に達してしもうておるようにわしらには見えるんじゃよ。

 残酷、がどうのこうのという単語を聞いたような気がするけれど、そのときの記憶はここでふつりと、ホワイトアウトを伴って途切れる。どうやって泣きやんだのかも、家に帰ってどう過ごしたのかも、起こった物事を説明していくための叙述的な過去に含まれていてもいいはずなのにこれといって覚えていない。大きなできごとと大きなできごとの繋ぎ目はそれほど重要ではないということなのだろうか。あのときはすべてを記憶して、一生覚えているものだとおもっていたのに。

 唯花、見て。

 え?

 柳の呼び声で記憶に潜りこんでいた意識が現実に引き戻されて、まぶたをとじていたわけでもないのに眠りから覚めたばかりのときのように瞳に真新しい光が差しこみ、わたしの肉体は初夏の暮れの、梅雨入り前の、ぬるく湿気が多くて息苦しくなる空気を浴びている。見て、と言われただけだけれど、なにを見ればいいのかはすぐにわかった。薔薇のアーチだ。ピンク色の小さな薔薇が息をつくようにいくつも咲いている。他人の家をじろじろ見るのはよくないことかもしれないけれど――だって泥棒だっておなじことをする――、この家のひとが丁重に育ててつくりあげたのだという気配をもっているこの薔薇がすきだ。

 綺麗。

 うん。いつ見ても、ほんとうに。ここが帰り道でよかった。

 可憐だとおもう一方で、よく見てみれば萼にずっしりと据えられた構造的な花びらの集まりも、神さまがわざわざ後から付け足したような棘も、鋭利で、地球上の空気を突き破って生きていく強さがあることに気がつく。

 柳みたいだ、とおもった。

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