第3章 梅雨/役目、偽の物語、天秤、決められた道、つぎの春、光の筋は海へと

役目

 x²+5x+6=0、ってなんだっけ?

 (x+2)(x+3)=0、だからx=-2と-3。

 だから、ってどういうこと?

 ん、-2と+2で0、-3と+3で0、0×0=0でしょう?

 そうか、なるほど。

 x²-10x+24=0はわかる?

 えっと……(x-4)(x-6)=0で、x=4と6。

 正解。つぎの問題は解けそう?

 えっと、x²+2x+3=……。

 はずれ。左辺に移動させるときはプラスマイナスを逆にしないと。

 そうだった。x²+2x-3=0、(x-1)(x+3)=0、x=1と-3。

 解答用紙から顔を上げて黒板の上に設置されている時計を確認すると残り十五分くらいで、あと一問解くには充分な時間だった。わたしは隣の教室にいる柳のこころにむけて質問する。

 最後の問題は? 二次方程式の解の公式を成り立ちも含めて答えなさい、というの。

 ううん、覚えてない。唯花は学校休んでたよね、このあたりの授業のときは。

 うん。教科書に載っていたのかな。困ったね。

 うん、困った。……。

 柳、寝ないで。この問題、配点が十五点もあるんだよ?

 ……。

 終了時間まで考えてみようよ。すこしでも書いておけば部分点をもらえるかもしれないし。

 ……嫌だ。公式って、覚えた型を適応させれば計算が楽にできるのがいいところでしょう? こんな問題おかしいよ。そんなに重要?

 ううん、でもテストに出題されているものは仕方がないし……。

 ……。

 質問の答えを濁してすれ違わせたのが気にくわなかったようで、柳の声は聞こえなくなった。うるさくしてはいけないという作為によって生まれた静寂のなかで、シャープペンシルで文字や数字や記号を書く鋭い打音と芯が紙に擦れる音が、なにかの信号のように、意味のあるもののように響く。おたがいの記憶を共有できるわたしたちにとって、テスト勉強のような記憶力を必要とする学習はほかの人間よりも得意だ。わたしが勉強をしていなかったとしても、柳が勉強をしていればおたがいの手の傷痕を合致させることでその学習内容をわたしも得ることができる。今回の中間考査だと、柳が国語と数学、わたしが理科と社会、英語は半分ずつ割り振ってテストのための勉強をして、記憶を共有している。テストちゅうにわからないところが出てきたとしても、柳とこころの声で相談をすればある程度は解くことができる。わたしたちはそれぞれの教室に通いながら、ひとつの、ひとりの人間なのだった。出題範囲だと把握していなかったところや勉強をしていなかったところがわからないのはほかの人間と変わらないのだけれど。

 成り立ちの部分は置いておくことにして、二次方程式の解の公式を書いてみる。 えっくす、いこーる、に、えー、ぶんの、まいなす、びー、ぷらすまいなす、るーと……手をとめる。根号の左がわの、Wの途中からVを書きはじめようとするような不安定なかたちがうまく書けなくて消しゴムで消し、もう一度書こうとするけれど、先ほど綺麗ではない根号を書いてしまったときに解答用紙についた筆跡の溝にシャープペンシルの先が吸いこまれてしまい、また上手に書けない。ふたたび消しゴムをかけると今度は先に書いていたプラスマイナスまで消えてしまい、けっきょくすべて消してしまう。この問題がおとといから三日間にわたって行われている中間考査の最後の問題だった。けれど、それだけだ。中学校の勉強はこれからも続くし、ほかの勉強だって続いていく。もう一度二次方程式の解の公式を書きつけながら、来週の週末にどこかの高校で行われる中学三年生模試のことを考える。

 家庭訪問の数日後、ショートホームルームの時間に中学三年生模試の案内が配られた。受験勉強の成果と現在のじぶんの実力をはかるための模試だと男の教師は言っていて――そのときわたしは男の姿で、柳のクラスに出席していたのだ――、クラス全員に受験することを勧めていた。週末の休みがなくなってしまうことを嘆いたり面倒くさがったりする声があがる教室のなかで、わたしは模試の案内のプリントを柳の机に入れずに小さく折りたたんでブレザーのポケットに入れた。そしてわたしの姿でわたしのクラスに登校した日に、模試の申し込み用紙を担任の奥沢先生に提出した。どこにでも行けます、という奥沢先生のことばが家庭訪問の日以来あたまのなかにずっと残っていた。そのことばは、いつかは大事なものではなくなるとわかっていながら小箱にしまいこんだ綺麗なビーズとかシールとか、そういった些細でときどき取りだして眺めたくなるようなものになりつつある。本来の意味以上に美しくなって。

 ほんとうにどこにでも行けるというのなら。

 どこに行けるのか、どこまで行けるのか、知りたくなった。

 ようやく根号の不安定な書きだしから横線までを上手に書きあげて、続きを書く。びー、じじょう、まいなす、よん、えー、しー。解答の一部分として公式を書いてみたものの、導出を書くためにもうけられた空白が目立つばかりで無様におもえた。

 模試を受けると報告すると、柳は顔の向きはそのままで眼球だけを動かしてわたしをぎろりと睨み、聞いていないけれど、と一言だけ呟いて溜め息をついた。柳がなにをおもったのかをこころの声として聞きとることはできなかったけれど、途方にくれたような、申し訳なさのような、梅雨入りまえの初夏の不意の肌寒い気温に似た感情がかすかに流れこんできた。勝手に決めてごめんなさい。わたしは柳に相談しなかったこと、柳の私物になるはずだったプリントを盗んで提出したこと、その瞬間にいたるまでにおこなったよくないことをすべて含めて謝った。すると、学校のテストと違って出題範囲が広いよ、いっしょにたくさん勉強しないとね、と柳は感情をあまり纏わせずにぶっきらぼうに言って、わたしは柳に許されているのだとわかった。

 解答用紙をさっと見直して顔を上げる。終了時間までまだ三分も残っている。クラスメイトたちは余った時間をどう過ごすのだろうかとおもっても、周囲を見渡すとカンニングになってしまうから顔を正面以外に向けることはできない。頬杖をついて、わたしのひとつ前の席にすわっている奏美ちゃんの後ろ姿を眺める。右肘が動いているからまだ解答を書きつけているのだろうか、けれどもそれにしては肘の動きかたが大きい。横書きの文字を書くとじょじょに右に移動していくはずの肘が妙なくらいに左や上に寄っていて、これは落書きをしているのかもしれないとおもう。わたしもなにか、絵は描けないけれどことばを書いてみようと緩く持っていたシャープペンシルを握りなおし、問題用紙の空白部分にペン先をつけてずっと昔から耳で聞いて知っていることばを書きつける。

 Everything was beautiful, and nothing heart.

 柳が読んだ本に出てくることばなのだろうとおもいながら、英語で書かれた本を読んでいるところは見たことがないからほんとうにそうなのかは自信がない。覚えたころは英語を習っていなくて、意味もわからずにただ呪文のように記憶していたことばを胸のうちで翻訳してみる。

 すべてのこと。

 すべてのもの。

 なにもかも。

 は、美しかった。

 そして、そうして、なにもない。

 心臓、こころ、感情は。

 ――すべてのものは美しく、そうして想いはなにもなかった。

 どういうことだろうと考えはじめようとしたところでチャイムが鳴り、教室のいちばん後ろの席にすわっているクラスメイトたちが立ちあがって解答用紙を回収しはじめる。

「ちょっと、なに落としてんの?」

「ご、ごめん……」

 静かに突き刺すような低められたおんなのこの声と謝るおんなのこの声が聞こえてそちらに顔を向ける。二列隣の夏音ちゃんの席の、机と机のあいだの狭い通路で光記ちゃんがしゃがんでいて、床に落ちた解答用紙に手を触れようとしている。その手を、こん、と上履きを履いた夏音ちゃんの爪先が蹴る。たまたま当たったのかわざと当てたのかわからないような、攻撃と呼ぶには緩やかすぎる衝撃だった。光記ちゃんは気にする様子もなく解答用紙を拾って立ちあがり、教室の前方へと歩いていく。夏音ちゃんの席のほうに視線を送りつづけていると、さらに一列隣の、夏音ちゃんの斜め後ろの席にすわっている聖奈ちゃんとはたと目が合い、そしておなじようなタイミングで目をそらす。柳以外の人間の感情はことばとなってこころに飛びこんでこないから正確にはわからない、でもいまの聖奈ちゃんの目の伏せかたから感じとったのは気まずさだった。光記ちゃんは教卓のあたりにいる先生に解答用紙を渡している。夏音ちゃんは後ろの席のひとと話しながら笑っている。ふたりのおんなのこのいたって自然な振る舞いを見ているとさっきのことはやはり見間違いだったのだろうかと記憶があやふやになっていく。映写室ごとフィルムが燃えて、映像が縁から焦げながら縮んで消えていくように、見えなくなっていく。テスト監督をしていた先生が解答用紙を持って教室を出ていく。入れ替わりに奥沢先生がやってきてショートホームルームをはじめ、実際に起こったはずのできごとの記憶はますます薄まり、忘れていく予感だけが強まっていった。

 ペンケースとクリアファイルしか入っていない、テスト期間ちゅうの軽すぎるスクールバッグを肩に提げて教室を出ると廊下で柳が待っていた。周囲ではおなじように教室を出たひとたちがめいめい話している。テストの出来栄え、このあとあるらしい部活動の時間の確認、遊びにでかける約束とか。

「お待たせ。柳のクラス、いつも終わるのが早い」

「ああ、先に出てきたから。ほら」

「え?」

 柳に言われて隣の教室を見てみると、中にいた柳のクラスのひとたちが扉からいっせいにに出てくる。どうやらショートホームルームを欠席したらしい。

「駄目でしょう。ちゃんと教室にいないと」

「嫌だよ、あのひと話が長いし。えっと……」

「松原先生? 名前、そろそろ覚えてあげようよ」

「ううん、だって――ん」

 言い訳をしようとする柳の肩に白衣姿の背の高い男のからだがぶつかる。

「おっと。ごめん、東くん」

 白衣姿の男は申し訳なさそうに短く謝ると、立ちどまりもせずに生徒たちでできた人波のなかを突き進んでいく。

「いえ……」

 柳は人波からひょっこりと出ている男の茶髪のあたまを睨みつけ、それからそっと目を伏せてブレザーのポケットに手を入れて小さな紙切れを取りだして静かに溜め息をつく。

「呼びだし?」

「うん。行こう」

「……はーい」

 わざと間延びした、間抜けな返事をしてみる。わたしたちは会話が聞きとれるような聞きとれないような放課後開始直後の喧騒の、生徒たちの群れに加わり、もうその背中は見えないけれど白衣姿の男を追うようにして進んでいく。行き先ならわかっている。廊下の突き当たりまで来て、階段を降り、一階の校舎の出入り口近くにある保健室の扉を柳が勢いよく開ける。病院の中とよく似た、けれどもすこし違うにおいが鼻腔に滑りこんできた。手に入れやすい消毒液の薄っぺらいにおいと、適度に換気されていることを感じる微かな外のにおいの混じりあった、清潔で潔癖すぎないにおい。扉を開けてまず見える正面のところに教職員用の銀色とも灰色ともつかない事務机があり、そこに白衣姿の男が、いわゆる保健室の先生が着席している。

「いらっしゃい、東くん、東さん」

 どうぞ、入って。

 白衣姿の男は朗らかな口調で笑みを浮かべながら入室を促すことばを付け加えた。好感度の高いモデルや俳優のような完成した優しい雰囲気を纏わせて、男女を問わず生徒から、先生からも人気のある人物像そのものだ。けれど、それはあたまのてっぺんから爪の先まで徹底的に施すと逆らいがたく、討ち破れない盾になる。なにを言っても、攻撃しても、かなわなくなる。そのことを本人もわかって演じている。

「失礼、します」

「あはは、なんで警戒するの。さ、東さんも入って」

「……はい」

 白衣姿の男の指示に従ってわたしも保健室に足を踏みいれ、後ろ手に扉を閉める。こん、という扉が閉まりきる鈍い音とともに、試験中とはまた違う静けさが押し寄せてきた。

「こんなところでなんの用なの? 医者の――」

 し、と白衣姿の男がくちびるに人差し指をあてる。その背後にあるカーテンをかけられていない窓から木々が大きく揺れているのが見える。さわ、さわ、とほんとうに聞こえているのかわからない葉擦れの音が鼓膜を震わせている気がした。

 おもえば、ここはサワノ医院の便宜上つくられた受付とよく似ている。

「奥沢先生と松原先生が仰ってたよ、きみらが模試を受けるって。とても驚いた」

「……それが、なんですか? わるいですか?」

「まさか。大丈夫なのかなあとおもっただけだよ。よく学校を休むきみらが、模試の日に体調を崩さないとは言い切れないからね。ぼくが様子を見にいけたらいいけれどもそういうわけにもいかないし、第一きみらだって嫌でしょう? 保健室の先生に付き添われて模試を受けるなんて。どうするの?」

「ふつうの先生はそんなこと言わないとおもいますけど」

「ごめんね。あいにく、ふつうの先生じゃないから」

 終始目からきちんと笑うこの男にはやはりひとに言うことを聞かせるための迫力があり、ただの心配事を伝えるためにわざわざ診察の日を待たずにここに呼びだしたわけではないことが嫌でもわかってしまう。これは忠告で足止めなのだ。この男の――保健室の先生を演じている医者の息子の視界からわたしたちがはずれていくことを許さないという宣言。春先にショッピングモールで倒れたことをおもうと、逆らうのは難しいようにおもえる。

 柳といっしょに生きてゆければいい、それ以外のものはなにもなくていいとおもうきもちは変わらない。けれど、ずっとこのままでいいのだろうかと不安がっているじぶんも存在している。そのことに気づいてしまった。外に出るのは学校に行くときかサワノ医院で定期診察を受けるときだけで、ほかの用事は断るようにしてマンションの一室に閉じこもる。からだのつくりがほかの人間と違うだけでふつうの中学生らしい中学生でいることを、ほんとうに諦めなければいけないのだろうか。ほんとうに、どこにも行けないのだろうか。

 唯花。

 胸のなかで柳の声が響く。

 なに?

 模試、どうしても受けたいんだよね?

 う、うん。

 どうしてそんなことを訊くの、と問いかけるまえに柳は口をひらく。

「わかっているつもりです」

「うん、言ってごらん。ぼくはきみらとは違うから、きみらがおもっていることはことばじゃないとわからない」

 保健室の外の、どこか遠いところからなにかの部活動をやっている生徒たちの準備運動のかけ声が変に反響した音声として聞こえてくる。

 いち、に、さん、し。

「体調のことを考えると、不用意な外出は避けたほうがいいとおもいます。わざわざ出かけていく必要はないですし、ひとが多いところはとくに疲れるから消耗する」

 ご、ろく、しち、はち。

「じゃあ、どうして行きたいのかな?」

「正直、はっきりとはわかりません。言いだしたのは唯花ですし、理由もちゃんとは聞いていません。でも、唯花が望むなら叶えるのがいっしょに生まれた者の役目だとおもうから。もしものことがあったら、そのときはいままでどおり静かに過ごします。だから……お願いします」

 いち、に、さん、し。

 ご、ろく、しち、はち。

 に、に、さん、し。

 ご、ろく、しち、はち。

 すこし間伸びしたカウントがきちんと聞こえる沈黙の瞬間がいくつも続く。白衣姿の男は右手の人差し指を顎に押しあててわたしと柳を交互に見る。学校に潜りこんでいるときは絵に落としこんだような線の目の、微笑みの眼差しを放つ男のまぶたがひらいて、いつもの瞳の具合に戻っている。お世辞にもいいとはいえない冬の夜の冷気のような目つき。わたしたちが愛しあわないように、どこにも行かないように見守る視線はときどき窮屈だけれど、いまはなぜだかほっとする。この目は嘘ではないとわたしは知っている。

 ふう、と医者の息子の目をした白衣姿の男は息を吐く。

「……こんな日が来るとはな」

「え?」

「いや、なんでもない。それより東くん、東さん。新たな一歩を踏みだそうとするきみらに伝言だよ。模試の受験料の振り込みがまだだって担任の先生たちが仰ってた。たしか期限は今週の金曜日だとおもうけれど、振り込みはおかあさんにお願いしているの?」

 柳とわたしは顔を見合わせる。模試の受験料のはなしはわたしから電話でお願いしていた。家庭訪問のときとは違って、わたしがで。おかあさんはちゃんと聞いてくれているような受け答えをしていたし、奥沢先生から模試の申し込み用紙と引き換えに受けとっていた銀行の振り込み用紙もかつてわたしたちが住んでいた家の古びた郵便受けに入れておいたはずだ。

 使えないひとね。

 そんなこと、言っちゃ駄目だよ。わたしたちのおかあさんなんだよ?

 柳の暴言のようなものに言い返してみるものの、胸のなかで凪の海が雪に降られて凍っていくような感覚に襲われていた。押し寄せることもしないで、陽射しもないままに浜辺を乾かしていくような。

 ――ゆうれい……浜のゆうれいが……。

 おかあさんの呻くような、苦しげな声が脳裏で鮮明に蘇って、みり、と体内のどこかが痛んだ気がした。このあと柳が怒ったという記憶は事柄にとどめておいて、なるべく平たくして詳細までおもいだしてしまわないようにする。

「どうやら手違いが起こっているみたいだね。ぼくがおうちの様子を見に行くついでに振り込んでおくよ」

「……すみません、お願いします」

 柳があたまをすこし下げたのにあわせて、わたしもあたまを下げて、お願いします、と小さく言う。構わないよ、と言われて顔をあげると、医者の息子はまた白衣姿の男の優しい顔をつくって笑った。準備運動のカウントの声がいつのまにか聞こえなくなっていることに気づく。

「さあ、保健室に長居は無用だよ。元気な生徒たちはなおさらね」

「呼びだしたのは先生のほうでしょう?」

「あはは、ごめんごめん。ご足労ありがとうございました」

 保健室を出るとショートホームルームを終えていっせいに教室を出た生徒たちの人波は消えてなくなり、東がわに窓がある廊下は充分に陽射しを取り入れられないせいかどこか冷たい空気が閉じこめられていて、いてはならない時間にまで校舎に残っているような愉悦感に近い感覚がからだのなかをはしる。場所は問わず、静かでだれもいない環境はすきだ。知らず知らずのうちに気を張っている精神がゆるみ、落ち着いて呼吸ができる。けれどいまは、考えごとをしているじぶんのこころの声があたまのなかでやけに大きく鳴り響き、反響して音が濁っていくようで落ち着かない。柳に聞こえてしまうのではないかというくらいに、なんで、どうして、と繰り返してしまう。いままで、おかあさんはわたしたちが願ったことをなんでもやってくれた。かつて住んでいた家を出ていくことも許してくれたし、マンションの一室を借りてもらうことも、食料やおやつとしての瑞々しい果物、甘ったるいシロップに浸されて水分に満ちたフルーツの缶詰といった生きていくために必要なものを手配してもらうことも、わたしたちの望みどおりに行動してくれた。それなのに模試のことだけ、どうして――考えていくうちに、おもいあたってしまう。それらのお願いは、で柳がお願いしてきたことなのだと。偶然だろうか。偶然だったらいいなと、冷たい日陰の廊下を進みながら鼻の奥がぎゅうと熱くなっていくことに気づかなかったふりをする。そうして、おかあさんになにかあったのではないかとおもうまえにじぶんの願いばかりを押しつけようとしていた寒々しいこころもなかったのだと、意識を慎重にそらしていく。悲しいきもちになりすぎないように。

 校舎を出ると運動部の活動をしている生徒や顧問の先生たちの声が飛び交っている。初夏のとくべつなきらめきを纏わせていた葉桜は、なにも姿を変えていないはずなのに夏へとむかうごとに昏めいていき、複雑に緑の色数を増やしていく。茶色く乾いた色になるころには季節という世界を失いながら足もとに舞い落ちて、見上げた空を広くしていくのだろう。春の終わりの、桜の屑とおなじように視覚では気づかないくらいの穏やかすぎる速度で滅びながら。学校にこれといった用のない生徒たちはとっくに帰ってしまったようで、通学路に中学校の制服を着ているひとの姿はない。

 隣を歩く柳のほうへ右手を伸べると、柳の左手に指先をそっと掴まれる。

 唯花、大丈夫だよ。あのひとのことは医者の息子に任せておけばいい。そのほうがあのひとも混乱しない。

 優しすぎて、逆に電気的で痙攣するような衝撃を帯びた触れあいに比べて平和な響きをもたせようとしているふうに聞こえる柳のこころの声は、まるでじぶんに言い聞かせているかのようだった。まっすぐにゆけばかつて住んでいた家に辿りつく道を白い大きな犬のモンドがいる家のところでそれる。つぎに曲がる目印にしている家の、目隠しの役割も担っているらしい躑躅が熱く鮮やかなピンク色の花を咲かせている。微風に薄く湿った花びらをざわつかせながら、満開の頂点をすこし超えて、ところどころに太陽と寿命とに灼かれたしみのくたびれた模様がある花々は毒さえも美しく抱いている。

 大丈夫だよという柳のことばに、わたしは安心させてもらっているようにおもう。柳はいつだって強い。三年まえも柳が大丈夫だと言ってくれたから、わたしは生き延びている。

 こころの奥底に押しこめていた記憶はときどき火をかけられたようになって、水が沸騰するときの勢いがあって堅い膜を膨らませる泡沫みたいに数々のおもいでを掻き分けて上層部にのぼりつめてくる。そういうときはおもいださないようにつとめるほどに、その日の気温も、湿度も、においも、痛みも、器官的に蘇ってくる。

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