この手を伸ばせば
終業のチャイムの、階名の正しくはっきりとした電子的なベルの音に鼓膜を震わされながら、夢のなかにいるよりも不器用でのろまな手つきで机のなかを探る。しまったままになっていた春めいて角のするどい教科書や空白のページばかりのノートをスクールバッグに詰めこんでいく。わたしが体調を崩して登校できないでいるあいだに机のなかは、興味のないものを乱雑に扱う柳の生活範囲と化していてごちゃごちゃと散らかり放題になっていた。授業やホームルームで配られるたびに押しこまれていたらしい、くしゃくしゃの、ざら紙で刷られた薄暗くて読みづらいプリントを眺める。不必要についた折り目や皺をひとつひとつ伸ばしながら輪郭の線の淡いタッチの花々が描かれたクリアファイルに収めていき、家庭訪問に関するプリントだけがないのは柳が重要な事柄だと判断してきちんと保管した証なのだと察する。
きょうが家庭訪問の日だった。
わたしは長らく帰っていないかつて住んでいた家の様子を想像する。前に帰ったのはきょねんの五月だ。きょうとおなじで、家庭訪問の日だった。だから、玄関先のプランターには黄色に黒い顔のような模様のはいった、薄いピンク色の、中心にはそれよりも強い配色の濃いピンク色を抱えた、パンジーやビオラといった蝶の翅よりも柔らかくて脆い、けれども永遠の命を携えたスミレ科スミレ属の花が、水やりのたびに硬くなっていく養分の多い土を覆うように咲き、五月の、水で溶きすぎた透明に近い絵の具の水色の印象を含んだ風に揺らされている。ニスがこってりと塗られたような艶とところどころに乳白色のくもりのある木製の玄関の扉の、雨や手垢でかさついた金色のノブを掴んでそっと引くと、灰色の靴脱ぎ場のすこし先に少々季節はずれにもみえる、けれども家によく似合った紅色の分厚い玄関マットが敷かれている。左手にはわたしたちが寝起きをしていた部屋に続く階段が、右手にはリビングに続く廊下が、まっすぐに伸びている。家を構成するなんらかの木のにおいとどこかに飾られているらしい花のかすかな香りとともに。鈍い金色の小さな額縁にしまいこまれたモネの絵画――雑誌の切り抜きほどの薄っぺらい――レプリカや、春や夏や秋や冬を迎えたことを告げた花々を閉じこめた押し花の数々が壁に並び、玄関に吊るされた暖色の電球が与える遠い光に照らされて、足りない光のぶんだけ引き伸ばされた影を闇にむかって大きくぼんやりと射しこんでいる。薄暗い廊下を進んでいくごとにリビングの様子が見えてくる。座り心地のよい焦げ茶色の革のソファにおかあさんが――ここまで想像して、おかあさんの姿だけが黒抜きになっていて上手におもいだせないことに気がつく。やがて、映像として記憶していた家の光景はテレビを消すように真っ暗にぷつんと途切れた。
「唯花ちゃん」
「ん、なあに?」
わたしのことを呼ぶ聖奈ちゃんの声が聞こえて、手をとめてそちらに顔をむける。聖奈ちゃんは帰り支度がすでにできているらしく、ベージュ色に小さなドット柄の入ったリュックサックを背負っている。
「柳くん、廊下で待ってるみたいだよ」
「え?」
廊下がある右がわに視線を送る。上半身をすこし反らすと、扉と窓のあいだにある柱のむこうに柳の姿を見つけた。ぱちりと目があう。けれど、見つめあう、という一分よりも長い一瞬を迎えるまえに、柳がふっと視線をそらしてうつむく。
柳……?
「ほんとうだ、気づかなかった。教えてくれてありがとう」
こころからの呼びかけに応答がないのを気にしつつ、いま目の前で発生している会話に変な間をつくってしまわないように聖奈ちゃんにお礼を言う。柳は足もとに視線を投げつけるようにうつむいたまま顔を上げない。
「あー、聖奈また柳くんのこと見てんの?」
わたしのひとつ前の席で荷物をまとめていた奏美ちゃんが椅子に座ったまま振り返り、話の輪に加わる。また、というのはどういうことなのだろうと考えているうちに聖奈ちゃんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「違うよ! その、違うの、唯花ちゃん」
「違うの?」
「うう、違うくはないんだけど、えっと……」
おんなのこたちのあいだでは常識のようになっているらしいはなしの流れがわからずただ鸚鵡返しに質問したつもりが責めているような声色になってしまったようで、聖奈ちゃんは困ったように呻く。いっぽうで、奏美ちゃんのほうはにやにやと楽しそうな笑みを浮かべながら聖奈ちゃんの表情を、わたしが投げかけた質問に対する反応を見ている。
「聖奈は柳くんがすきなんだよねー」
時がとまったのか、それとも時の流れからぷっつりとはずれてしまったのか、柳くんかすき、という台詞が放たれた一瞬だけが浮き彫りになって、むこうがわの光が見えないような長いトンネルに投げかけた声のように反響する感覚にとらわれる。からだと心臓を繋いでいるであろう血管が軋むような、どんなふうに与えられて感じているのかわからない妙な痛みをおぼえた。
「ああ、ちょっと! かなちゃん声大きいよ!」
「あはは、聖奈のほうが声大きいじゃん」
「ううう、かなちゃんの意地悪……」
わたしが不思議な痛覚にとらわれているあいだにもおんなのこたちの会話は進んでいく。聖奈ちゃんは頬をますます紅潮させて、いまにも涙が零れてしまいそうなくらいに瞳を潤ませている。かわいいな、とおもった。おもったと同時に、今度は息がうまく吸うことができていないような苦しさが胸を圧迫していく。
聖奈ちゃんは恋をしているのだ。
ごく普通の、人間のおんなのことして。
「告っちゃえばいいのに」
「そんな、恥ずかしいよ!」
「けど、ことしで中学卒業じゃん。高校違ったら一生言いそびれちゃうかもよ?」
「そうだけど……」
開いていた窓から初夏の風が吹きこんで、陽射しと影の模様を孕んだ白いカーテンが膨らむ。聖奈ちゃんの髪を、奏美ちゃんの髪を、そしておそらくわたしの髪を撫ぜて、水色の心地良さをもつ風は教室のなかを吹き抜けていく。わからない。なにがわからないのかわからないままに、不明瞭としかいえないことだけがはっきりとしている感情が、硝子窓に結露して零れていく雫のように無力な感じでぽたぽたとこころとおもわれる部位を冷たく濡らしていく。
鼻の奥が熱く、痛くなる。
「あ、わたしそろそろ帰るね」
「そっか、柳くん待ってるもんね。ばいばい!」
「うん、またね」
物を入れすぎて原型からすこし膨らんでしまっている黒い革のスクールバッグを肩にかけ、わたしはおもいきり口角をあげておんなのこたちに手を振ってから教室を出る。廊下の往来に一瞬立ちどまってから柳のもとまで歩いていく。壁にもたれかかっていた柳はようやく顔を上げてわたしと目をあわせる。男子の制服を着たその姿は猫背気味で、すこし伸びすぎていて目にかかってしまっている前髪を手で払わないものだから、前髪から落ちる影が大きく、こころなしか睨まれているような気分になる。
「……お待たせ」
「うん、待った」
「待ってるなら言ってくれればよかったのに」
わざとむくれた声を出すと、柳は口を結び、代わりにこころのなかでことばを放つ。
監視。
監視?
あのひとたちに唯花がいじめられてないか見てたの。
わたしは吹きだす。
「柳って、ときどき性格わるいよね」
「ふふ、唯花が大事なだけだよ。さ、行こう。おかあさんが待ってる」
「……うん」
わたしたちは当番のひとたちがいくら掃除をしても埃っぽく、鼻の粘膜に粒子をまとわりつかせるざらざらとした空気が滞留している廊下を並んで歩き、校舎を出て、校門を通り抜ける。わたしが学校を休んでいるあいだに桜の花はすっかり散ってしまい、道端に桜の屑――春という世界の終焉――としての茶色い塵が寄せられて、なだらかで長く続く山をなしていた。ふと、おんなのこたちとショッピングモールまで遊びにいった日の待ちあわせのことをおもいだす。鬱々としながら、視線をあげられずに学校にむかって歩いていた。待ち人の姿をみとめてキャスケットのつばをあげると、桜の花びらに降られている光記ちゃんが立っていて、わたしに大きく手を振った。その記憶は鮮明な写真のようだった。妙な眩しさをもってあたまに焼きついている。じぶんにとって優しいひとが、ほかのひとたちにとっては疎ましい存在だとしたら。わたしはどうすればいいのだろう。あの日の行動は正しかったのだろうか。しばらくのあいだ忘れていたくせに、手遅れに湧きあがった感情の扱いに煩ってしまう。
花の雨はもう降らない。代わりに春のつぎの、初夏という世界を新緑が連れてくる。太陽の光を引き寄せる特別な輝きをもった青葉が桜の木々を覆い、風に撫ぜられて木漏れ日を揺らし、カメラのシャッターを切るときの穏やかな強さをもった、美しい季節だ。そして、きょうの家庭訪問さえぶじに終えることができれば、わたしたちもほんとうに初夏を迎えることができる。
いつもは迂回して通らないようにしている道を歩いていく。白い大きな犬がいる家で右に曲がらずに、そのまままっすぐ。その家を通りすぎたとき、白い大きな犬が、わん、わん、と主張の強い声で吠えはじめる。わたしたちが帰り道を間違えたとおもったのだろうか、と一瞬だけ考えてから、そんな都合のいいことが起こるわけがない、ただの偶然だと訂正する。犬の声にかぶさって、窓が開けられる擦れた音と、モンド、どうしたの、と急に吠えはじめた飼い犬に呼びかける女のひとの声が聞こえてくる。そうして、あの白い大きな犬の名前はモンドで、吠えているところに遭遇したのははじめてかもしれないということに気づく。犬の声につられて意識は背後にむきながらも、目ではわたしたちがかつて住んでいた家がある住宅街の狭い通りの、懐かしさと見慣れなさの混じった光景をとらえ、犬の声がいつのまにか途切れていることに気がついたとき、わたしたちはかつて住んでいた家のまえまで来ていて、呆然とする。記憶のなかでは玄関先のプランターに植えられたパンジーやビオラの花びらが風で揺れているのに、実際の家の玄関には花がなく、空気が混ぜられた形跡のない、水も与えられていない白っぽく乾ききったがさつな土が入れっぱなしになっている、薄汚れてところどこに割れ目の入った冷たい白色のプラスチックのプランターしかない。胸のなかに冷たい水を流しこまれるような淋しい不快感に襲われる。わたしの、わたしたちの記憶はどこかでねじれていて、憶えていた光景はこの家を出ていくまでのものであり、わたしたちが出ていってからのこの家は、時をとめて季節を移ろわせることをやめてしまったのだとおもいださざるをえなかった。
柳が玄関のドアノブを握り、ゆっくりと開く。施錠はされておらず、蝶番が錆びついているらしくぎいぎいと軋む音がした。神経をいくら尖らせても開閉のたびに音を鳴らしてしまいそうだとおもう。この扉が古びてしまっているだけでなくあまり開閉されていないことを示しているような気がして、怖くなる。おかあさんは、ずっとここで生活をしているはずなのに。夫がいなくなっても、わたしたちが出ていっても、おばあちゃんが死んでも、ずっとずっと、おかあさんはひとりきりでこの家に住んでいるのだ。
家に入って扉を閉めてしまうと、中は記憶よりもはるかに暗く、リビングに明かりがついているのかもわからない。けれど、玄関ホールに紅色のマットが敷かれているのは変わっていなくて安堵する。脱いだローファーを綺麗に揃えようと前かがみになると、柳もローファーを脱ぎ、けれども靴脱ぎ場には置かずに右手でかかとのところをつまんで持ちあげたのが横目に見えた。
じゃあ、わたし二階にいるね。
「え?」
柳の発言に驚いて、こころのなかでの会話につい声をだして反応してしまう。
待って。柳、来ないの?
わたしがいたらおかあさんが混乱するでしょう。
でも。
でもじゃないの。わたしじゃ駄目なんだよ。愛されるべきひとが傍にいたほうがいい。お願い、唯花。
……わかった。
わたしがうなずくと柳はゆるく手を振り、子ども部屋がある二階への暗い階段を電気もつけずにのぼっていく。右手で靴を持ち、左手は制服のズボンのポケットに入れて。ワイシャツの裾がブレザーからはみ出している不良めいた後ろ姿は、凛と、振り返ることもうつむくこともしない。まるで未来しか見ないと決めているかのようなおとこのこの背中は華奢なわりに広く大きい。ふう、とため息をつくようにわたしは鼻から脱力の息を吐く。
「……それなら、そんな淋しい顔をしないでよ」
こころでおもってしまえば柳に伝わりかねないおもいを、わざと口で呟いてこころのなかから追いだした。
スイッチを押して玄関ホールの暖色の電気を灯しても、光の色が柔らかすぎて廊下に沈むように漂う闇を払うことはできない。廊下を進むごとに明かりの波長は弱くなっていく。物を正しく見るには暗すぎるのに、壁に飾られている額縁のなかの押し花が色を失っているのがわかってしまう。命を失ってから訪れる花びらの透明な死。わたしが記憶している、ひびが入りながらも完全には壊れていなかった家族の日々は、もうここにはない。たとえわたしの記憶が認めなかったとしても時間がすべてを押し流してしまう。おもいではおもいだすごとにでたらめになっていく。
恐る恐る歩を進めて陽もまだ沈んでいないのにやたらと暗いリビングまで近づいた。入り口のところで一度立ち止まってから室内をそっと覗くと、おかあさんが電気もつけずにひとりきりでソファに腰かけている。
「おかあさん?」
ただ座って正面をむいているだけだったおかあさんの顔が呼び声を追ってゆっくりと動き、わたしの目とおかあさんの目が合い、いまここに、おなじ空間にいることをおたがいに認知する。柳とよく似た目だ、とおもう。痩せ細ってほんとうに臓器が入っているのだろうかと疑わしくなるような骨と皮だけのからだでおかあさんは立ち上がる。
「ゆいか……?」
「うん。ただいま、おかあさん」
唯花、ともう一度娘の名前をはっきりと呼んで、おかあさんは絨毯のやわらかい摩擦によろめきながら入り口に立っているわたしのほうへ駆け寄ってくる。そして、骨の輪郭がそのままわかってしまうような腕をわたしに巻きつけて抱きしめた。きつく、きつく、その細い腕のどこに力があるのかというくらいに、強く。おかあさんの腕のなかは窮屈で、じぶんの骨が軋むようで、小さな積み木でできた塔みたいにあっさりと崩されてしまいそうで、けれども苦しいとは言わなかった。おかあさんがそうしたいのなら、いまだけはわたしを離さないでほしかった。いまの関係に回復の見込みもないのにこんなことをおもうのはわがままで、おかあさんのことも、わたしのことさえも傷つけてしまうかもしれないのに、それでも。
「元気だった?」
「うん」
「……あの子は?」
声の震えとともに、わたしを抱きしめるおかあさんの腕も力が抜けて頼りなくなる。
「元気にしてるよ。きょうは来てない」
「そう……」
どこかほっとしているような穏やかな響きに、よかった、とこころのなかでおもっているのが透けてみえてしまったような気がした。わたしだっておかあさんと柳が会うことや話すことを恐れているのに、おかあさんが柳を怖がるのは嫌だとおもってしまう。あの子、なんて言ってほしくない。
おかあさんが腕にふたたび力をこめる。わたしのことばに安心したらしい。
「唯花」
「うん」
「愛してる」
「……うん」
おかあさんの腕のなかにいてもこの家のにおいがわかる。埃でも芳香剤でもなく、ここで生活を送ってきた人間の気配のにおいがこの家には満ちていて、そのにおいのなかには小学六年生のときまでここで過ごしてきたわたしと柳のものもあるはずなのに、柳はこの場にいない。だからおかあさんは子どもへの愛をわたしにだけ告げるのだった。柳は、愛することを要求しては春を滅ぼす強い陽射しのように愛を八つ裂きにして、おかあさんを何度でも壊してしまうから。泣きそうになる、水分量の多い感情を押し殺して、おかあさんのからだが見ためよりも温かいことだけを感じとるようにする。
ジ、とも、ブ、ともつかないくすんだ金属が連続して擦れる、玄関の古くさいブザーの音が一筋の光が射しこむように、それよりも突き抜けるようにうるさく鳴り響く。
「先生たちかな? わたし、行ってくるね」
わたしはされるがままにじっとしているのをやめておかあさんの上腕に手をついてからだを離す。そして、おかあさんの手が名残り惜しくわたしのほうへゆるやかに伸びているのを見えなかったふりをして、通りすがりに電気のスイッチを押しながら玄関にむかう。
柳、聞こえてる?
……ん。
ん、って。柳、寝てたでしょう?
寝てないよ、すこしうとうとしていただけ。先生たち、来た?
うん、これから家に入ってもらう。
わかった。会話の内容、こっちに流して。
了解。
古びた玄関を開けると蝶番がやはり軋んだ。電気をつけたけれど、時刻どおりの陽光を浴びせられつづけている外は眩しく、目が眩んでしまう。その光のなかにわたしの担任の女と柳の担任の男が並んで立ち、不愉快な音を鳴らしながら開いた扉のなかを覗きこんでいた。
「こんにちは」
と、女のほうと男のほうがほぼ同時に言った。
「どうぞ」
先生たちを迎えいれて、電気をつけても薄暗い廊下を歩いていく。果てのないようにみえる廊下だ、とおもう。家のなかの雰囲気から担任を受け持っている生徒の生活環境を察しようとする先生たちのまなざしが鋭く動きまわっているのが、前を歩いていてもわかる。陽も落ちていないのに薄暗い家。額縁に入れて飾られてはいるけれど元がなんだったのかわからなくなりそうなほどに色を失っている押し花。粉塵となって舞っているらしい埃のざらざらとしたにおい。先生たちは、わたしたちをどのような子どもだと見做すのだろうか。
電気を灯したリビングは先ほどよりもずいぶん明るく、けれども煤けたような、淡い闇のヴェールがかかっていて、柔らかい光といえば聞こえはいいけれど、明るくなりきらないこのリビングは、家は、どこか駄目になっているらしい。ふたたびソファに座っているおかあさんは、視界の隅でわたしと先生たちの姿をとらえて立ちあがり、お辞儀をした。それを見て、どうもおかあさん、と大人が初対面の人間と顔をあわせたときに出す笑い声をたてながら男のほうがあたまをさげる。
「柳くんの担任の松原です。こちらが唯花さんの担任の奥沢先生」
「奥沢です。よろしくお願いします」
「ああ、ええ、と……」
おかあさんの視線がさまよい、定まらず、やがては憂鬱の症状が隠しきれずにうつむいてしまう。もともとひととすぐに打ち解けられる性格ではないけれど、ひとへの苦手意識が強まっているらしく、家庭訪問で先生たちがやってくるとおかあさんは毎回こうやってうまく話せなくなる。担任がずっと変わらなければ繋がりを持つ時間の長さだけおかあさんもこころを許しやすくなるかもしれないのに――こちらとしても好都合なのだけれど――、担任は毎年変わった。おまけに柳とわたしは戸籍上では双子ということになっているから別々のクラスに振り分けられてしまって、家庭訪問にやってくる担任の先生の数も自動的にふたりになってしまう。
「松原先生、奥沢先生。こっちの広いほうのソファに座ってください」
わたしはおかあさんがはじめに座っていたソファに先生たちを誘導してから、おかあさんはこっちね、とおかあさんの手を引いてシングルソファに連れていく。それから部屋の隅に寄せられた、ソファとおなじ素材の革が張られているらしいスツールをシングルソファの傍まで運び、手のひらで表面をうっすらと覆っている細かな埃を払ってから腰をおろす。
「それでは、はじめさせていただきますね。よろしくお願いします」
「ああ、え、よろ……しく……」
横目でおかあさんの顔を確認するけれど、うつむいていてよくわからない。男のほうの模範的で白い歯の目立つ笑顔がそうさせているのか、いつにも増しておかあさんのことばは語尾にかけてもごもごと曖昧になって、お願いします、と言ったのもほとんど声になっていない。家庭訪問のあいだの質問はこちらでほとんど答えるようにしておかあさんは極力話さなくてもいいようにしようというのがきょうのこのときを乗りきる作戦だけれど、この様子だとうまくいくか不安だ。おかあさんが最低限の挨拶を口にだせるかどうかも怪しい。
唯花?
ん、ああ、ごめんなさい。これからはじまるところ。おかあさん、すこし調子がわるいかも。
調子って、歯切れがわるいのはいつものことでしょう?
そうだけど、でもきょうはかなりまずいみたい。
「ああ、あの、ご無理はなさらないでください」
「え……」
「柳くんと唯花さんからおはなしは聞いておりますので。その、ご体調がよろしくないのは」
「は、はい……申し訳、ございません……」
柳のこころにむけて、男のほうの台詞とおかあさんの不意の謝罪を一言一句そのまま流しこむように胸のうちで唱える。
ああ、あのひとが喋っているの? その……なんだっけ、名前。
松原先生?
そうそう。
そうそう、って。じぶんの担任の先生の名前くらい覚えなよ。
すぐにおもいだせなかっただけだよ。とにかく、そのひと平均的な正義感を振りかざす勢いだけの熱苦しい人間だから、おかあさんも話しづらいんじゃない?
はあ……。
「そんな、謝らないでください。あの、僕たちも精一杯サポートしますので」
男のほうはソファに座ったまますこしだけ身を乗りだすようにしておかあさんにことばを伝える。そして、二階にいる柳に伝えるために男のほうのことばを反芻しながら、胸やけのような、どこかきもちわるく居心地のよくない感覚に襲われる。このひとは、おかあさんや、もしかしたらわたしたちのことも支えようとしている。支えてやらなければならないと、じぶんがなんとかできるとおもいこんでいる。薄暗く埃っぽい家と、体調が優れず上手に話せないおかあさんと、学校をよく休むわたしたちを星座のように結びつけて物語にしているのだ。哀しく、遠い物語に。ほんとうに可哀想なおかあさんが、表層から得た想像だけで可哀想だとおもいながら接してくる人間の、優しさという満足感をうまくかわせるわけもなかったし、惨めなきもちになっても無理はなかった。
「それで、最近のご体調のほうは……」
おかあさんは男のほうと目をあわせず、ぱさぱさとした、照明できらめくように毛先が透けてしまう髪が顔を覆っている。しぜんと膝に置かれている手が、手の内になにかを隠しているでもなくぎゅっと握られて、震えている。
「……すこしずつ、良くはなってますよ」
会話を途切れさせないようにわたしは口をひらく。
「まだいっしょに暮らすのは負担になるかなあとおもうので、わたしたちはおばあちゃんの家で暮らしてますけど」
「そっか……はやくおかあさんといっしょに暮らせるようになるといいな。寂しいもんな、親もとを離れるのは。学校もかなり遠いし」
なにそれ、くだらない。
「……ふふ、そうですね」
曖昧に笑って誤魔化しておく。柳、口がわるいよ、と注意しようとして、それがほんとうに柳の声だったのか、それともわたし自身がおもったことだったのかがわからなくなってやめる。わたしたちが進んでこの家から出ていったことを知ったらこの教師はどんな顔をするのだろうかと、くだらない想像をしかけたところでまた男のほうが会話を紡ぎだそうとする。
「きみたちは、どうなんだ?」
「はい?」
「四月のあいだずいぶん欠席していただろ。柳くんが登校してきてもきみは休みだったり、その逆も。もう大丈夫なのか?」
「ああ……わたしも柳もからだが弱いからすぐに風邪をひいてしまうんです。季節の変わり目だったのもありますし。喘息とかアレルギーとか、そういうのも多くて」
嘘を話しながらこころに耳を傾ける。ことばは流れこんでこないものの、柳の不機嫌な沈黙を感じる。クラスメイトとショッピングモールまで遊びにでかけ、そこで変なクレープをたべて以来体調を崩していたなんて現実味のない、けれどもわたしにとってのほんとうを言えるわけがない。もちろん、四月のあいだ学校に行っていたのが、男の姿であれ女の姿であれ柳だけだったということも。わたしたちの真実は、この世界では偽物にしかならない。
男のほうはこの回答で満足したらしく、なるほどなあ、と頷いた。
「たしかにここ最近は寒暖差も激しかったもんなあ。まあ、これから高校受験もあるんだし、いまから体調を整えていったほうがいいぞ。きみたちの未来がかかってるんだから」
未来があるなんておもいこんで、馬鹿みたい。
「……はい、気をつけます」
にたにたとした嫌味が顔に出ないように口角を上げて慎重に微笑む。
「あ、あの」
男のほうが繰りだす会話にずっと口をはさめずにいたらしい女のほうの教師が、慌てているわけではないけれどなにか意見を提示するときの、割れるとわかっている風船に針をあてがうときの憶病と覚悟を兼ね備えたようなおもいきった声をひとつ上げる。
「どうしました? 奥沢先生」
「その、唯花さんも柳くんも進路希望調査の提出がまだだったとおもうんです」
「え?」
進路希望調査?
聞き覚えのない単語が耳のなかに滑りこみ、疑問符があたまのなかで分裂してちいさくちいさく増えていく。
「ああそうだ、そのはなしをしようとおもってたんでした」
「高校進学だとはおもうのですが、志望校など、いまのところどのように考えていらっしゃるかお聞かせいただけますか?」
「……ええと」
女のほうのひとつひとつの語句を鮮明に述べていく口調は現実味を引き寄せて、曖昧さという逃げ場を残してくれそうになかった。提出ということはプリントだろうかと推理して教室を出るまえに整理した机のなかのプリントの題目をおもいだしてみるけれど、記憶にない。重要事項とおもわずに気にもとめなかったのかもしれない。
どうかした?
柳、進路希望調査って聞いてる?
もしかして唯花も聞いてないの?
うん。とりあえず、なにか答えないと。不自然でないことを。
ううん……。
すこし唸ってから、ふう、と柳が深い溜息をついたのがなんとなくわかった。どこかに――おそらくわたしたちが出ていってからもそのままになっている二段ベッドの下の段に――からだを横たえていて、寝返りをうったことも。リビングを照らしだす電灯が、部屋を舞う細やかな埃までもを、もわもわと、正確に照らしている。教師たちの視線はわたしに向けられている。わたしたちの進路、将来というものは、想像がつかない。それはごくふつうに生活している中学生の、未来は遠くぼやぼやとして現在とつながっていないように感じるといった、一種の現実の脆弱さとは事情がすこし異なっている。
高校には行かないだろう。
柳と話しあったわけではないけれど、わたしが漠然とおもいえがいている将来はそうなっている。柳もきっとおなじだ。教育を受ける義務から逃れられるということは、じぶんたちと、じぶんたちの秘密とを学校という集団に晒す必要がなくなるということでもあるし、嫌でもからだに帯びてしまう性別の輪郭にじぶんたちを押しこめて生きていく日々がこれ以上続くのは限界のような気もする。院長や医者の息子が日常生活を助けてくれるとしても、ひびの入ったコンクリートの壁に新たなコンクリートを流しこむように、嘘をなだらかにする嘘をつきつづけることでわたしたちが偽りになっていくのは嫌だ。
「……すみません、まだあまり考えられていません」
「柳くんからはなにか聞いていますか?」
「いえ、なにも」
「そうですか」
受験する高校を考えていないとも、受験するかどうかもわからないともとれるように言ってはみたものの、女のほうのその返答は、ある種の肯定なのか、それとも呆れからただ口をついて出ただけなのか、どちらの意味があるのかはわからなかった。じぶんの担任の目を、じっと見てみる。目は合わない、なにか適切なことばを考えるときの目のそらせかたをしている。おどおどと泳がせるでもなく、一か所のどこでもないところに視線を預けるような。男のほうも女のほうの発言を待っているらしくなにも言わない。おかあさんもずっと黙っている。柳もこころの声を押し殺している。うんと遠くで走っているらしい救急車だかパトカーだかのサイレンの音が、かすかに、けれども何度も濾過して透明にした水のような繊細な鮮明さをもって耳に届く。ここではないどこかの街で降る雨の音までも聞こえてしまいそうなくらいに静かだった。
ことばを待って生まれる静寂は精度を増すほどに息苦しくなっていく。足に重りをつけられて海に沈められるような、溺れるということをするまえに浮上できなくなってしまう感覚。女のほうの、閉ざされたくちびるを観察して、早く、と願う。早くこの場に適切な発言を与えてほしかった。こころのなかの、ことばというかたちのあるものにまだ昇華されていない感情の、ぶわぶわとした白い煙のようなものがうるさく膨らんでいく。
「……奥沢先生?」
時の流れがうんと遅くなるような沈黙に男のほうがついに耐えきれずにことばを発した。音がなくなっていたわけではないけれど、静けさに押しこめられていた音の数々が、波が打ち寄せるようにリビングに帰ってくる。冷蔵庫の低く震えるような動作音や家のすぐ外を走っていく車のエンジン音が耳に滑りこんでくる。
「ああ、すみません。黙ってしまって」
「どうかされましたか?」
「その、なんと言えばいいのか……適当なことは、言いたくなかったので。あの、おかあさま。唯花さんも」
「はい」
返事をして女のほうの口もとから瞳に視線をうつすと、今度は目が合う。横目におかあさんの髪が揺れて、ほんのすこしだけ顔を上げたのがわかった。
「進路希望調査をまだ提出していない生徒は、すこしですけど、ほかにもいます。この先どうするかを考えきれていない子や、行きたい高校がいくつかあって選びあぐねている子、志望校に対して学力が足りているか、受験までに勉強が間にあうかどうかで悩んでいる子もいます。でも、おふたりのばあいはそういうことではないような気がするんです。なんと言いますか……将来自体があるかどうかわからないような、そういった不安のような気がしていて。その、ご家庭の事情もありますでしょうし、わたしども教師がお力になれることは少ないかもしれません。でも、学力の面から見てのお話にはなりますが、おふたりともとても成績がいいので、唯花さんも柳くんもどこにでも行けます。だから、もっと自由に考えてみてもいいのではないかなと、おもいます。いま見えている範囲のことだけではなくて」
すみません偉そうなことを言ってしまって、と早口で女の教師が付け加える。
ほんと、知ったかぶって偉そうに、馬鹿みたい。なにか言い返してよ、唯花。
柳のこころの声に胸を突き動かされて悪態をつこうとして、やめる。唯花さんも柳くんもどこにでも行けます――女の教師が、奥沢先生が言ったことを、すこしだけくちびるをあけて舌先で転がすようにして呟いてみる。サイダーが弾けるようにじわじわと、あたまのなかになにかが広がっていく。なにかが。それは柳が読んだ本のことを話してくれるときに抱くことのある感情に似て、どきどきする、高揚感のある、そうだ、これは。
希望だ。
わたしたちがいままでに嫌々をするように手で耳を塞いで避けてきた、絶望と紙一重のところにあるきらきらとした期待。物語が内包している美しいもの。わたしたちには許されてこなかったもの。けれど、この手を伸ばせば、ほんのすこしでも伸ばせば、すぐに届くような気がした。――馬鹿だなあ、ここは小説の世界だ。このあいだ医者の息子がそんな台詞を放ったことを、いまなんとなくおもいだす。その台詞の真意はわからない、でも、ここがほんとうに小説の世界なら、柳も、わたしも、この生活の先に希望があることを願ってもいいはずだ。
「あの……」
喉も震えていないのにじぶんのほうから声が聞こえて、なにが起こったのだろうと数秒間動揺してから、その声が隣に座っているおかあさんのものだと気がついて身を固くする。
唯花。
うん、わかってる。
おかあさんがなにか余計なことを言いそうになったら割って入って止めなければならない。耳の、耳殻だか鼓膜だか神経だかわからないけれど、おかあさんのくちびるから漏れる呼吸やことばを考える間に発生する無音がたゆむ瞬間に集中力を傾ける。
「はい」
「子どもたちを……よろしく、お願いします。その、親では、あるんですけど……あるのですが、わたしから、唯花と……りゅ、柳に、してやれることも、その、すごく、少ないので……あの……お願いします」
おかあさんがあたまを下げる。額が膝にくっつくのではないかというくらい、深く、深く。おかあさんが言ったことをたどたどしいままこころのなかで復唱して柳のこころに流しこむと、教師たちのときとは違ってなにも文句を言わない。
「お任せください、おかあさん」
男のほうが場違いに大きく妙に誇らしげな声で述べると、それでは、このあたりでそろそろ、と奥沢先生が困ったような顔をしつつも微笑みを浮かべて家庭訪問の時間が終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます