わたしの声

 眠りの先のなにもないところから意識が蘇るのは唐突なできごとで、眼前に広がるのは眠るまえとおなじ景色だけれど、すでに別の時間が流れている世界だ。思考回路が覚醒していくごとに柳との繋がりが曖昧になっていく。右手を溶かしていた熱はすでに治まっていて、指が、掌が、徐々に輪郭を取り戻していく。点滴が体内に浸透した清らかな目覚めは健康的で、朝の空気のように澄んでいる。それなのに、淋しいような、どこかこころもとないきもちになるのはどうしてだろう。六角柱の設備のなかから硝子ごしに外を見る。設備を動かすための様々な色をつけられた丸や四角のスイッチがたくさんついている一角のまえで、院長が雨雲のような灰色の事務椅子の背もたれに体重をかけて、どこかを見ている。どこかを見ている、というよりも、どこも見ていないのほうが正しいのかもしれない。実際のところは顔の大きさに対して大きすぎる眼鏡にはまったレンズに蛍光灯の白すぎて周囲を薄暗くしてしまう光が映りこんでしまっていてよくわからない。その隣に医者の息子が腕を組んで立っている。伸ばしすぎて外がわに跳ねやすくなっている黒い髪は、きょうは落ちついていて、外の天気がいいことがわかる。眠っていたのはせいぜい一時間くらいのはずなのに、ここにいると時間の感覚がおかしくなる。もう、一年も、十年も、百年も眠ってしまったような浮ついたきもちになるのだ。そういえば、ここには時計がないのだった。

 六角柱のある一面の硝子に入っている切れこみが外がわにひらき、設備のなかを照らしていた暖色の明かりが消え、青みを帯びた灰色の淡い影が落ちる。右手が握られる感触がして視線をむける。柳がうっすらと目をあけて寝返りを打とうとしていた。手を握りかえしてすこし引っぱって目覚めを促すけれど、柳は起きようとしない。柳はどこで眠っていても寝起きがわるい。医者の息子が、こつ、こつ、と革靴で堅い床を鳴らしながら設備の扉のほうへ回る。

「柳、起きる時間だぞ」

 わたしは柳の左手をそっと払い、横たわっているからだに覆いかぶさって肩とシーツのあいだに両手を入れて引き寄せ、抱きしめるようにしてからだを起こす。皮膚の柔らかさをほんの一瞬だけ感じる。そのあとは骨の硬さだけが感じられて、あまりにも肉づきがわるいことに不安になる。柳のからだは点滴の作用によって性別が治まり、今朝よりも胸が小さくなっている。きっとわたしのからだの男の部分にもおなじことが起こっている。六角柱の設備のなかでわたしたちはホルモンバランスを調整されて、どちらの性別でもないからだに限りなく近づけられる。院長はこのことをリセットと呼んでいる。気まぐれに引き起こされる性別の変化はじぶんたちの気づいていないところで精神に負担をかけているらしく、その負担をやわらげるために一週間に一度どちらの性別でもないフラットな状態にからだを整えるのだ。むかしはそんなことをしてなんの意味があるのだろうかと疑問を抱いていたけれど、中学生になって性別が変化する頻度が高くなってからは効果を実感するようになった。きょうなんかは特にそうだ。しばらくここに来られなかったぶんのストレスがからだからすっかり消えている。

 柳を腕に抱いたまま医者の息子をじっと見る。けれど、医者の息子は顔をそむけない。わたしは仕方なく医者の息子に監視されたまま、優しく、壊さないように柳を抱きしめる。じぶん自身も壊れてしまわないように、腕にゆっくりと力を入れていく。

「唯花って、温かいね」

 わたしにしか聞こえないような声で柳が囁いた。

「柳も温かいよ」

「ずっとこうしているのが、愛じゃなかったらいいのにね」

「……そうだね」

 ほんとうにそうだったら、わたしたちはどれくらい救われるのだろう。

 すう、と鼻から息を吐く音ののち、うつむいていた柳は顔をあげてわたしの腕に触れてからだを離した。そうしないといけなかった。

「やっと起きたか、柳。おはよう」

「……うるさい」

 うわ、機嫌わるいなあ、と医者の息子が言ったのを無視して、柳は立ちあがってプリーツスカートの裾をおしりに撫でつけ、すこしずり落ちていたニーハイソックスのゴムをつまんで直す。わたしも立ちあがって皺を伸ばし、埃を払うように服をぱんぱんと叩いた。医者の息子はずっとわたしたちを見ている。

 六角柱の設備を出ると、院長が背中を丸めた老人らしい姿勢のわりに速い歩みでこちらにむかってきていた。

「普段よりもストレスレベルが高く出ておったが、気分はどうかね? 東のとこの」

「平気」

 院長の問いかけに柳が短く答える。先ほどよりも声に棘がなく、愛想がいい。おれ嫌われてるなあ、と医者の息子が苦笑する。柳と医者の息子は、むかしはもっと仲がよかった。年齢は離れているけれど、わたしたちがサワノ医院にずっと通っているのもあって幼馴染のような近しい関係だった。それが、いまでは溝がある。揉めるようなことはしないものの、医者の息子に対する柳の態度はサボテンのように尖り、雪の夜のように冷たい。医者の息子のほうもなんだかぎこちない。わたしと話すときとは違ってずいぶん気をつかっているし、気をつかっていないふりまでしている。そんなことくらい、柳にならすぐにわかってしまうのに。

「ううむ、それならいいのじゃが……きみら、そろそろ家庭訪問があるじゃろう。大丈夫かね? その、千春さんと――」

「大丈夫だよ。まだ電話はしていないけれど。でも、おかあさんはわたしたちを愛してくれているから。それに、担任にはふたりいっしょに来てもらうから一日で済む。おかあさんの負担も軽くなる。もちろん、わたしたちも。ね、唯花」

「え……ああ、うん」

 覚えのないはなしに戸惑いつつ、とりあえずうなずいておく。どうやらわたしが学校を休んでいるあいだに柳が家庭訪問のことを進めておいてくれたらしい。

「愛してくれている、ねえ」

 咎めるような、呆れるような、暗い感情の声で医者の息子が柳のことばを繰り返す。

「言い聞かせたの間違いじゃないのか?」

「うるさい。医者の息子には関係ない」

「はいはい、悪うございました」

 柳はへらへらと笑う医者の息子の横を通りすぎてエレベーターのほうへ歩いていく。幅の狭い華奢な肩の、凛とした女の後ろ姿だった。いいや、男の姿のときだって柳はそうだ。マンションの部屋にいるときのだらけた様子は消えて、強い意志をもった人間になる。じぶんひとりで生きてきたかのような、強かで、淋しくて、桜の花のような壊れやすい美しさを纏っている。おなじ人間であるはずのわたしですら触れたら破滅させてしまいそうな儚さがときどき怖くて、近づきがたい。

 そうなのだ。わたしはいつも柳のそばにいるようで、なにもできない。ただその生きざまを眺めているだけだ。おかあさんのことがあったときも、繋いでいた柳の手を離さないでいることしかできなかった。涙をこらえる柳を、泣かせてあげることができなかった。

 わたしは、強くて弱い柳を、いつか守れるだろうか。

「行くか。唯花も帰るだろ?」

「うん」

 医者の息子とわたしは柳を追って小走りでエレベーターにむかった。先に行って待っていた柳はこちらを一瞥して、不機嫌そうにふいと視線をはずし、ただの白い壁のようにしかみえないエレベーターの扉を見つめる。わたしたちを守るための、何事もない装いをした仕掛けの数々。いつ、だれが、どうやってつくったのか、不思議におもうところはたくさんあるけれど院長と医者の息子にはその成り立ちを尋ねたことはない。きっと、教えてくれないだろうから。それに、わたしたちにただ存在しているだけでいいと言ってくれたひとたちにどんな苦労をしているのかを訊くなんて申し訳ないような気がするから、たぶん一生知ることはないのだとおもう。エレベーターの扉の前まで来て、医者の息子はある一部分に手のひらをあてる。扉が音もなく開く。まずは医者の息子が機体に足を踏みいれ、つづいてわたしたちが乗りこむ。清潔なにおいが押し寄せる。院長は秘密の診察室からまだ離れる気はないらしく、わたしたちが眠るまえと眠りおえたあとに、おそらく眠っているあいだも座っていたであろう事務椅子に腰をおろし、背もたれに背中をあずけていた。ゆら、ゆら、と、止まりかけのオルゴールのようなゆるやかさで背もたれが揺れているのが見える。医者の息子が小さな数字のパネルに9344と入力する。エレベーターの扉が閉まり、機体が上昇した。いたって静かなはずの動作音が聞こえるくらい、ここには音がない。わたしたちも医者の息子もなにも話さない。無駄口をたたく癖のある医者の息子が黙っているから、ここでは話してはいけないのだとおもってわたしたちも黙っている。

 耳の穴に膜を張る耳鳴りのような動作音が聞こえなくなってエレベーターが上昇をやめ、扉が開き、わたしたちと医者の息子は迷うことなく機体から出る。そうして、医者の息子が先頭に立ち、鏡張りの廊下を進んでいく。廊下は行きしなとおなじで、帰りしなもどこを歩いているのかわからない、足の裏はちゃんと平面をとらえているのにふわふわと浮かんでいるような心許なさに襲われる。じぶんも、合わせ鏡のなかのじぶんの虚像の群れも、ふいと帰り道をなくしてどこかに彷徨うような錯覚にとらわれそうになる。わたしは、わたしはどこにいるの――。恐れることなんてなにもないはずだった。けれど、どうしてこうも、毎回恐怖を感じるのか。わたしたちだけを許して、何者かを遮断するための仕掛けのはずなのに、わたしはなぜだか鏡という鏡にずっと拒まれているような気がするのだった。

 医者の息子が立ちどまる。目の前にあるらしい鏡の一枚が自動ドアのようにゆっくりと横にひらいていき、ここが終着地点だとわかる。外がわから見てみればわたしたちは不自然なところから姿をあらわしていることになるけれど、この医院には来患がほぼないから気にすることはない。便宜上の受付の前まで来て、医者の息子は歩みをとめ、わたしたちは出入り口のほうへふらと歩いてから振り返る。

「じゃあ、また来週な」

「うん」

「あ、そうそう!」

 ちょっと待って、となにかをおもいだした医者の息子は受付の事務机に積まれた本の山の頂点にある数冊を一気に掴んでパソコンのキーボードの前に置き、低くなった頂点に君臨する二冊を手にとってこちらに表紙をむける。『ふたりの証拠』と『第三の嘘』という本だった。

「柳、これ持ってけよ。このあいだ渡した本のつづきだ」

「いらない」

 睨みつけるような視線を送りながらも、柳の細い首の、中央の一筋が上から波打つように動いた。わたしは笑いそうになるのをこらえる。

「そうか、いらないか。それは残念だな」

 医者の息子がなにもおもっていないような素振りで二冊の本を山の頂点に戻そうとする。あ、と柳がことばになりきらない声を出す。すると医者の息子は声には出さずに鼻の奥でくすぶらせた意地のわるい笑いかたをした。いま頂点に置かれている本に重なる直前で二冊の本を掴む指に力を入れて、もう片方の手で本屋の楕円形の持ち手がついているつるつるとしたビニール袋をどこからか取りだして二冊の本を入れた。医者の息子は受付の前まで出てきて、柳にビニール袋を差しだす。

「まったく、素直じゃないな。柳、そんなんじゃいつか後悔するぞ」

「しないよ」

 ビニール袋を受けとろうと柳が手を伸ばす。もうすこしで触れられそうなところで医者の息子がビニール袋を持っている手を高くあげる。背の高い医者の息子がこれをやると、ビニール袋にむけてどれだけ手を伸ばそうが柳には指先すら届かない。

「おれに言うことは?」

「……ありがとう」

 柳が渋々お礼を述べる。ひどく拗ねた声だった。どういたしまして、とわざとらしい口調で言いながら医者の息子はビニール袋を持った手をおろした。

 医院を出ると、ただでさえ大きな病院の影になって薄暗い場所に夕闇が降りていて、初夏とはおもえない暗さが深くたちこめている。夕闇は、夕陽の色だけを鮮やかにしてほかのものをすべて黒に染めていた。この時間の世界は一日を終えようとする空とシルエットでできている。陰気な日影の、大きな病院と小さな医院の敷地から出てしまうと、まとわりつくような湿っぽさが夕風の穏やかな冷たさに変わって柳とわたしからだを過ぎ去って、嫌な感じがしなくなる。大きな季節と大きな季節のあいだにある、冷たさだけが手触りになる、軽やかな夜のはじまりの気配だった。柳とわたしは示しあわせることもなく、おなじタイミングでおたがいの指先に触れて、手を繋いだ。煉瓦造りの駅の前は、これから電車に乗るひとびとと先ほどまで電車に乗っていたひとびとのふたつの人波を地上につくりだしている。交錯しているようにみえて規則正しい人波をすり抜けて、真新しいガードレールによって車道と隔てられている歩道にむかって歩いていく。先頭のガードレールからのびているオレンジ色の小さな反射鏡が車のヘッドライトに照らされてきらりと煌めいてはまた光を失う。キャスケットの星の飾りに触れる。夕暮れの空に星はまだ見えない。ほんとうの夜になっても、この場所からでは星の姿をとらえることはできない。ここはひとが多いから、地上の光が生みだした夜の黒に星々がまぎれて一等星すら輝くことをやめてしまうのだ。

 だからわたしたちは星が見えるほうへ帰っていく。ひとが少ない場所へ、できるだけ遠くへ、ゆっくりと、ゆっくりと歩いていく。

 ガードレールに守られた歩道に差しかかると足の指のつけ根に入る力がすこし強くなり、坂道をゆるやかにのぼっていっていることに気がつく。行きしなに下り坂だった道を帰りしなにのぼっていくのはあたりまえのことだけれど、よっぽどの傾斜がないかぎり、目は視界にひろがる道を平面としてとらえようとするから気がつきにくい。明確な頂上のない坂道は穏やかだ。ガードレールの反対がわには木々が生い茂っているはずだけれど、夕闇の効果でシルエット化して、その姿を一本一本の常緑樹として判別するのがより難しくなっている。ときどき、わたしたちが帰るほうからヘッドライトが滑るように南へ走り、流れていく。朝も昼も夜も、北にむかう車はほとんど見かけないのに、南へゆく車ばかり走り去っていくのはどうしてなのだろう。群れ、ということばを使うには数が少なすぎる車の、ぽつ、ぽつ、とした流れの帰る場所は、北のほうにはないのだろうか。

「……手」

 ふいに柳が口をひらく。

「手?」

「すこし冷たくなってきてる。唯花、寒いんじゃないの?」

 柳に言われてみて、からだが寒がっていることをはじめて認識する。ワイシャツの袖からはみだしやすく外気に触れやすい手首から夕暮れどきの冷えがそっと這いのぼり、腕全体が冷えてきていた。薔薇のかたちをした黒いカフスボタンの金具が、手首の小指がわのほうにある、尺骨の出っぱりにひっかかるように当たって氷のような冷たさを皮膚にちろちろと与えている。手を繋いだまま指先で柳の手のひらをなぞってみる。わたしよりもうんと温かい。じぶんの指先の冷たさが柳の柔らかい皮膚にひっかき傷をつくってしまいそうだとおもった。

「すこし寒いかも」

「わたしのジャケット、着る?」

「いい。それだと柳が寒いでしょう?」

「ううん……」

 柳はすこし唸ってから、じゃあ、とわたしの手を握ったまま黒いライダースジャケットのポケットに手を入れた。

「これでどうかな?」

 わたしはどこか驚くようなきもちで柳とわたしの手が収まっているポケットを見る。襟やファスナーのラインに沿って黒いレースがあしらわれたこのジャケットはわたしも気に入っていてよく着ているけれど、ポケットに手を入れて暖をとったことがなかった。ゆるく発光するような革製の生地につけられたポケットは真冬の夜に降りる空気に似た、張りつめた冷たさで満たされているような気がしていた。そんなところにわざわざ手を浸そうとはおもえなかったのだった。けれど、柳の手とわたしの手で狭苦しくなったポケットの中はとても温かくって、心地よかった。

 この体温を欲しいままにできる日がきたら。

 どれくらい、嬉しいのだろう。

「うん、すごく温かい。ありがとう」

「ふふ。これ、わたしも温かくていい感じ」

「あはは、柳は寒がりだもんね」

「唯花が無頓着すぎなの。体調あんまりよくないのにワイシャツ一枚っておかしいよ」

「そうかなあ?」

「そうだよ」

 すこし怒りながら、柳はわたしを心配してくれる。一台の車がカーブを器用に曲がる。ライダースジャケットのファスナーの引き手に描かれた銀色の薔薇がヘッドライトの光に触れた。きら、と柳の首もとで反射して、ただの金属に戻る。ジャケットのむこうがわにある裸はいまごろ性別を取り戻しているのだろうか。医院で性別のリセットを済ませたあと、わたしたちはどちらの性別でもない状態のままでいることはなく、大抵はその日の朝の性別に戻っていく。どうしてなのかはわたしたち自身にもわからないし、長年診察してくれている院長と医者の息子もまだ解き明かしていない。わたしたちの秘密は重大さのわりに曖昧で、浜辺の砂のようにかたちはあるけれどすべてを上手に掴むことができない。掴めたつもりでいても、指の隙間や、手のひらの端から、ぽろぽろと零れ落ちてしまう。夜の濃度が増していく。大きなカーブを曲がり終え、視界にひろがる道がふたたびまっすぐに伸びはじめたところで空を見上げると、青さを残した夜空に星々が輝いている。太陽が沈み、この街から見えなくなる速さをおもうと、初夏はまだ春に近い。春と違うのは、沈丁花のにおいがしなくなることと、桜の花びらが地面に落ちて踏み慣らされ、その色を失うことくらいだ。

 ふいに脳裏にこびりついていた衝動が疼き――ポケットから手を引き抜き、細い手首を掴んで駆けだして、夜がくるまえに、一日が滅びるまえに、あなたをぐちゃぐちゃに壊してしまうくらいに、後悔するくらいに抱きしめて、息継ぎを忘れた、あなたとひとつながりになって消えていくためだけのくちづけをして――、全身に流れだそうとするのをこらえる。

「……はやく帰らなくちゃっておもうけど、柳とこうしてるとずっと歩いていたくなるね」

 柳と大差ないはずのじぶんの声が低すぎて、嫌になった。

 時間をとめて。

 わたしを置いて、逃げて。

「お馬鹿さん。うちに帰ってもずっといっしょにいられるじゃない」

「でも、ポケットにいっしょに手を入れてくれないでしょう?」

 夕陽の光が山の縁で燃えるように照ってから、むこうがわにすうっと消えていく。すこしでも気を抜けば衝動にやられそうだった。けれど、わたしはあの日手放したはずの愛という感情に殺されるわけにはいかない。柳を失うのは嫌なのだ。わたしたちのために名前を捨てるという取り返しのつかないことをしてまで守ってくれようとしている人間だっている。わかっているはずなのに衝動は湧きだそうとするばかりでちっとも消えてくれない。この性別のときはとくにそうだった。あたまのなかなのか、それとも胸のなかなのか、いつか気が狂ってしまうのだろうと諦めるような感情がからだのなかに一筋の冷たい流れをつくっていた。

 ライダースジャケットのポケットのなかで、柳がわたしの手を強く握った。そうされて、わたしの手が柳の手を握っていなかったことに気がついた。

「大丈夫だよ、唯花。じきに夏がくるもの、寒くなくなるよ」

「そうかなあ?」

「そうだよ。それに……」

 わたしは柳の顔を見る。なにかを言い淀んだ柳は、夕陽が消えてしまった山のほうに視線を送っている。

「わたしたちはひとつでしょう? 朝も言ったけど、わたしは唯花がいればなにも怖くないよ。息をするのも、消えるのも。だから、逃げたりなんてしない」

「聞こえてたの?」

 さあ、どうだか。そう言って柳は微笑んだ。まぶたを彩るやわらかな虹色が夜の景色に映えて、目をそらせなかった。

 ありがとう、柳。

 わたしはポケットの中で柳と繋いでいる手に力をこめる。衝動がおさまりつつあった。

 小さな森の、月の光のせいでモノクロになりきれない闇を進む。新しそうとも古そうともおもわない、呼吸を失った灰色の、鉄筋コンクリートのマンションの整然としたロビーに入ってエレベーターに乗りこむ。医院の秘密の診察室に行くのとさして変わらない道筋を辿っている。けれど、ここには鏡がないし、行く先も的確に把握しているからなにも怖くない。上昇しているとわかりきっているエレベーターの、それでものろますぎてどこにむかっているのかわかりづらい動きに身を預け、機体にこもった息苦しいにおいを我慢するようにすこしだけ息をとめた。

 わたしたちが住んでいる十二階の部屋に行きつくまで、やはり誰ともすれ違わなかった。わたしはスキニーパンツのポケットから凹凸が少なく円形の小さなくぼみがいくつかついている銀色の鍵を取りだして、おなじ銀色をした鍵穴に差しこんで反時計回りに百八十度ひねる。がちゃ、がちゃ、という二回の音を伴う開錠の手ごたえがあることを指先に感じて、いままでこの扉に鍵がきちんとかかっていたことに安心する。きょうも秘密を暴かれることはなかった。そして、柳といっしょに部屋に入って電気をつけ、扉の内がわにあるつまみを回してふたたび鍵をかけてしまえば、ここはもうわたしたちの安息の地なのだった。奥にある寝室で咲いているであろう花々の水っぽい芳香が足もとに落下するように漂っている。いつもなら花の香りを追うようにフローリングに寝そべる柳が、きょうは腕をあげて伸びをして、首を回している。

 柳?

 こころのなかで名前を呼ぶと、柳は振りむいた。大きな瞳を鋭く光らせた、なにかに立ちむかうときの表情をしていてはっとする。

「家庭訪問のこと、おかあさんに電話しなくちゃ」

 ――そんな心配、しなくて大丈夫だよ。だっておかあさんは……。

 記憶のなかの柳の台詞が脳裏で当時のまま正確に再生されるのを、意識的にとめて、無理やり打ち消した。

「わたしが、電話するよ」

「ふうん。で?」

 柳の一言でわたしはなにも言えなくなる。胸のうちにある、ひとと話すためのことばをすべて奪われたかのように、くちびるが、舌が、動かなくなる。一方で、まだ冷静さを保っている脳みそが、柳が家庭訪問のはなしをきょう持ちだしたのはわざとなのだと悟っていた。わたしがを出せない、きょうを狙って。急に肩が重くなり、全身が気だるさに引きずられていく。柳に、電話をさせたくなった。おかあさんとはなしをさせたくなった。でも、きょうのわたしにはどうしたってとめることができない。

「……寝る。疲れた」

「そう」

 わたしは柳から視線をそらして、寝室にむかった。朝日とともに目覚め、花弁を瑞々しくひらいていた花々。それらが、夜になると所在なさげに花首をすこしうつむかせている。夜がなければ、花はずっと美しいままでいるのだろうか。太陽の光を透かして輝く月の眼差しでは、生きられないのだろうか。ベッドにあがり、花に湿ったシーツにからだを預ける。リビングから、ジ、ジジジジ、コン、ジ、ジジジジ、コン、と黒電話のダイヤルを迷うことなく回す音が聞こえる。枕に顔を押しつける。葡萄の味がするお菓子から漂うのとよく似たシャンプーのにおいと、頭皮の脂っぽいにおいが混ざった、枕の香を深く吸いこんだ。十個めの数字のダイヤルをまわした音のあと、しばらくしてから柳が受話器にむかって話しはじめる。

「もしもし、おかあさん? ……違うよ、おかあさん。落ち着いて。わたし、唯花だよ」

 おかあさんを騙ろうとする柳の声はまぎれもなくわたしの声だった。わたしは耳をふさぐ。それでも電話をする柳の声は手のひらをすり抜けて、ぼそぼそとした音に変換されてわたしの鼓膜に届いてしまう。

「……もう、おかあさん慌てすぎ。柳が電話するわけないでしょう? だって柳は――おかあさんのこと、大っ嫌いなんだから」

 と柳の声がいっしょくたになって、愛するべきだったひとを軽蔑した。まぶたの縁がふやけてひらいてしまわないように、ぎゅっと目をとじる――いつまでたってもそこは海だった。海のつぎには花園になり、やがては西陽の強い楽園になるはずだった。けれど、女は白く透きとおっているようにみえてざらざらとした砂浜の奥底の、この星の土くれの色がむきだしになるくらいに汚らしく穴をあけていくばかりで、海の碧は、遠く、遠く、空の碧を弾き、世界をひたひたと水の色に満たしていく。つかまろう。つかまろう。海には掬われないあなたがいて、わたしがいて、この心臓を差しだせば泡になって浮かびあがり、愛が存在しなかった創世記に昇華できるのに、女は見向きもしない。わたしたちは深海の、碧を吸いこむ闇に溺れるシャチなのだった。生命と死をふんだんにたくわえる海は増えていくばかりだった。視界が揺らぐ。痛みは飽和しない。こころのまだ傷んでいないところをすり抜けて乱反射し、ふにゃり、ふにゃりと、無垢のまま残っていた部分を確実に崩していく。あなたは、わたしは、属性としての女の呼び名を叫ぼうとして口をひらき、海水に責めたてられて息を失う――無意識が手を動かして目尻にこびりついた目やにを、薄氷を乱暴に割るように拭いとる。上半身を起こすとあたまの奥のほうが重たくぐらついた。ふっと眠りに墜ちたわりにからだもきもちもすっきりせず、なにもない暗闇に引きずられていってしまうような不安な感覚が残りつづけている。まどろみの気配がからだからじょじょに抜けて時間の経過を認識していくうちに、柳がおかあさんに電話をかけていたことをおもいだす。

 ベッドから脚をおろして湿った床に足の裏をつけ、ふと顔をあげると、柳が寝室の入り口に立っていた。しおれていくことを認めている花のような、穏やかな諦めをもった瞳の色をしている。

「電話、終わったよ。家庭訪問の日、家にいてくれるって」

「そう、よかった」

「それから、唯花のこと、ちゃんと愛してるって言ってたよ」

「……うん」

 柳のことは?

 こころに浮かんだ疑問をすぐに打ち消す。そうやって、すぐに訊いてしまえたらすこしは救われるかもしれないのに、なにも言えず、ただうなずくことしかできない。わたしは、わたしたちは、救いを求める弱さを、あるいは強さを持ちあわせていないのかもしれなかった。

 わたしは気にしていないふりをして立ち上がり、キッチンにむかう。すきなものさえたべられればそれで充分だといって、調理器具は雪平鍋が一個と、菜箸がひと揃い 、おたまがひと柄 。ほかに陶器の真っ赤な両手鍋と分厚い硝子でできたお気に入りのボウルがあるけれど、これらは医者の息子の忘れものであってわたしたちの持ちものではなかった。あまりにも物が少なすぎるキッチンは、すべすべとした光沢のある、白すぎるがゆえに暗い白色をした冷蔵庫ばかりが目立つ。冷蔵庫の扉の側面にある取っ手のへこみに指をかけてぐいと手前に引く。扉をぴったりと閉ざしていた磁力が破られ、密閉されていた空間から冷気とさまざまな果物の、混ざりあった、朽ちていくごとに馨しさの増す甘いにおいが溢れだす。わたしはみかんの缶詰とパインの缶詰がたくさん詰めこまれているなかから、プラスチックの容器に入っているカットメロンを取りだす。容器の蓋は八角形になっていて、秘密の診察室にある六角柱の設備と雰囲気が似ている。でも、六角柱の設備はわたしたちを守ってくれるのに対して、この容器は、かんたんに破れそうで破れない、それでいて傷つきやすい入れものでしかない。

 人間みたいだ。

 ふと、だれかの無理やり笑う顔が脳裏によぎり、けれどもそれがだれの顔なのか気づくまえに消えていく。

 冷蔵庫の扉を閉めても、放たれた甘いにおいはまだその場にとどまっている。キッチンの抽斗から持ち手の縁に蔦の模様の入った銀色のデザートスプーンを二本取りだしてダイニングテーブルにむかう。その途中で、リビングの床にからだを横たえている柳の姿が視界に入った。プリーツスカートはショーツが見えてしまいそうなくらい捲りあがっていて、上がわにきている左脚のニーソックスは膝下までずり下がっている。無防備な姿さえも美しいそのひとを、わたしは見て見ぬふりをする。けれども、その決心めいたものを守っていたのはほんの一瞬だけで、けっきょく視線を奪われてしまう。眠っているのだろうか。ダイニングテーブルにカットメロンの容器を置き、その上にデザートスプーンを乗せてから、柳の背中がわに膝をつき、そのままフローリングにぺたんと尻を落とす。柳の顔にかぶさっている髪をそっと撫でて払う。淡い虹色に彩られたまぶたはとざされている。鼻でも詰まっているのか、ぴい、ぴい、と甲高い音の混じった寝息をたてている。くちびるは乾燥して、白くなった薄皮がところどころめくれている。わたしは尻をあげてふたたび膝立ちになり、柳のからだをまたぐようにフローリングに手をつく。その寝顔にじぶんの顔を寄せていく。寄せながら、王子さまのくちづけで永遠の眠りから目をさますお姫さまの童話のことを考えた。永遠の眠りは、愛の力で解かれるという。そのときを迎えるまでに出会ったことのないはずのふたりが、いつ愛しあったというのだろうか。運命の赤い糸、ということばをおもいだす。柳の寝息を口もとに受けながら、乾いたくちびるに歯をたてて甘皮を噛みちぎる。んん、と柳が呻いたのがわかった。寄せ集めた桜の花びらのような色をした柳のくちびるにひとすじの血が浮かぶ。血はゆるやかに膨らみ、しずくのかたちになりきるまえにしぼんでまだ残っている乾いた薄皮を潤すように赤く滲んでいく。柳はまぶたをあけない。今度は歯をたてずにくちびるでひび割れに触れる。すこしだけ血の味がした。

 すきだよ、柳。

 胸のなかで感情をことばにすると、口のあたりが熱くなり、柳の皮膚と溶けあってひとつになっていく。わたしたちの未来のようなものを眠らせてしまった秘密は愛の力で解かれたとしても、すぐそばにいる大切なひとを失うことしか教えてくれない。猫のような、丸くて温かいものを抱くときの感覚をからだの外に追いやるように、ゆっくりとくちびるを離す。わたしとひとつながりになっていた柳のくちびるは蘇生されて、ひび割れも出血の傷もない、本来の美しい姿を取り戻している。

 不意に、肩になにか温かいものが当たる。無意識のうちにとじていたまぶたをひらいて肩のほうに目をやるとそれは柳の手で、正面に視線を戻すと眉間に皺を寄せて眩しそうな表情を浮かべている柳がわたしの顔を眺めていた。

「唯花、痛いよ」

「ごめんなさい。割れてたから、その、くちびる」

「ふふ、嘘つき」

 わたしの肩に触れている手が背中までまわされて、床に手をついた不安定な体勢のまま、されるがままに抱き寄せられる。口のなかには柳の血の味がまだ残っている。

「起こそうとしたんでしょう? ずうっと目を覚まさないとでもおもった?」

「……すこしだけ」

 もう、お馬鹿さん。耳でとらえたのかこころでとらえたのか定かではない柳の声があたまのなかに響いた。寝室から流れてくる花の湿ったにおいが、ふっと強く香る。

「未来は尽きないよ。わたしたちが過去から遠ざかっていくだけだから」

「そう――」

 ことばを発しようとしたわたしのくちびるが柳のくちびるに塞がれる。薄皮を噛む痛みも、ひとつながりになる熱もない、どこまでも優しいくちづけだった。それはあたまのなかを支配して、言おうとしていたことをどうでもよくしてしまう。同時に、淋しさがよぎる。柳からはじめたくちづけでわたしたちが溶けあったことはない。だから、わたしたちが消えるときは、わたしが愛に殺されるときなのだった。

 くちづけを終えたあとに訪れるほんの数秒の曖昧な間を押し破るように、柳とわたしは起きあがり、ダイニングテーブルの席につく。カットメロンの容器の上に置いていたスプーンにどちらのことだかわからない肌色のぶよぶよとした靄が反転して映りこんでいる。わたしは手を伸ばして二本のスプーンをそれぞれ柳とわたしの前に置き、カットメロンの容器と八角形の蓋を固定するために施された縦向きのセロハンテープの、すこし浮きあがってできた隙間に人差し指をそっと差しこみ、テープを剥がしていく。些細な角度の間違いで破れてしまわないように、ゆっくりと、ゆっくりと。けれども、あとすこしというところで力んでしまい、ぎざぎざになっているテープの端が容器にくっついたままその手前でするりと切れてしまう。それを見た柳が、容器に貼りついたままのテープの破片に爪をたてて削りとる。ターコイズブルーに塗られた爪の先がすこし縒れたのがみえた。八角形の蓋をとり、わたしたちはこれから口に含み、瞬間的にじぶんの一部となって、やがては排出されて消えていってしまうたべものに手をあわせる。

 いただきます。

 柳はスプーンでカットメロンを容器の隅に寄せて、器用に掬って一口で頬張る。わたしはカットメロンの中心のあたりにスプーンを、ぐ、と突きたてる。半分にするりと割れたカットメロンは容器のなかで滑り、スプーンから離れていく。こういった瑞々しくきらびやかでかたちの確かな果物はフォークを使ったほうがたべやすいけれど、スプーンとおなじ蔦の模様があしらわれたフォークはいつのまにかこの部屋からなくなっていた。間違えて捨ててしまっただとか、どこかの隙間に落としてしまっただとかではなく、気がついたときには忽然を姿を消していたのだった。新しいフォークを買うということも考えなくもない。けれど、いま食事をしているこの瞬間は不便におもっていても、食事を終えてしまえば不便さをあっさりと忘れてしまうせいで購入までなかなか至らないのだ。それに、おなじようにふっと姿がみえなくなったナイフが急に食器棚に現れたこともあるから、フォークだってまた気がむいたときに戻ってくるような気もする。

 半分に割ったカットメロンをさらに割ると、容器に溜まった果汁に繊維状になった果肉の屑が浮かぶ。

「唯花」

 柳に名前を呼ばれて、手をとめる。

「なに?」

「メロン、たべてないね。まだ食欲ない?」

「ううん。その……大丈夫。たべられるよ」

 たべものの代わりにお腹を満たしていると勘違いさせる透明な気がかりの数々を、なんでもない、と忘れたことにして、わたしは細切れにしてしまったカットメロンをようやく口に入れる。ウリ科の水分の、生きものを誘いだす、あるいは腐敗を進めていく甘いにおいばかりを含んでそのくせ無味に近い味が口のなかにひろがっていく。何度も切りきざんだせいでかたちを失いかけているメロン。それは固形物というよりも液体に近く、歯を確かにたてるよりも先に飲みくだしてしまうしかなく、食道をすうっと滑り、胃袋まで落下していく。そこに留まって、瞬間を引き伸ばして味わうことも知らないで。

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