秘密

 petalum。

 ラテン語で花びらという意味で、それが、わたしたちのほんとうの名前だ。

 十四年まえの六月九日、東家にふたりの子どもが産まれた。先に産まれた子ども、つまりわたしは唯花というおんなのこらしい名前を、後から産まれた子どもは柳というおとこのこらしい名前を、おかあさんとおばあちゃんから授かった。産まれた直後の性別にもとづいてそう名づけられたのだけれど、もしその場に父親がいたらそうはならなかったかもしれないし、実際のできごととおなじことが起こったかもしれない。わたしたちが産まれた日に、父親からpetalumというほんとうの名前が彫られた銀色の懐中時計がどこからともなく届けられるのだ。

 わたしたちがふつうの人間とは違っているとさいしょに気づいたのはおかあさんだった。産婦人科のベビーベッドで眠っているわたしたちの赤ん坊にしては肉の薄い手首につけられたネームプレートが入れ替わっていることがあったのだという。産婦人科医とおばあちゃんはだれかがいたずらをしたのだと言ってネームプレートを元どおりに、おんなのこに唯花のプレートを、おとこのこに柳のプレートをつけなおしたけれど、おかあさんだけはプレートが入れ替わっているのではなくてわたしたちの性別が日によって違うのだと主張した。もちろん、そんなファンタジーを聞きいれる人間はいなくて、プレートのつけなおしは退院の日まで行われた。ひょっとしたら、わたしたちの秘密のせいでいちばん苦しんだのはおかあさんだったのかもしれない。わたしたちの秘密に気づいていながら周囲に否定されつづけ、誰にも理解してもらえないでいるうちにおかあさん自身もこんなことはありえないとおもいこむようになっていたから。

 産婦人科を退院してからもわたしたちのからだは気まぐれに性別を変えることをやめなかった。最低でも一週間くらいのペースでおんなのこに変わったりおとこのこに変わったりした。小学校中学年くらいまではからだの気まぐれに疑問をもっていなくて、隠さなくてはいけないこととも理解していなかったから、柳が買い与えられていたおとこのこの服を着て唯花だと名乗ってまわりを驚かせるようないたずらめいたことをしょっちゅうやっていた。柳もいっしょになって、何度も。それでも、からだ自体の性別がほんとうに変化しているのだとおもっていたひとはいなくて、冗談が上手だといって笑ってくれた。おかあさんだけはとても怒るので、幼かったわたしたちはそれを面白がってわざといたずらをした。いまおもえばなんて残酷なことをしていたのだろうと胸が苦しくなるけれど、後戻りはできないし、これからも後悔しつづけるのだとおもう。

 これはいまでもはっきりと覚えている。小学五年生の秋、男子と女子で教室を分けられて授業を受けたことがあった。その日はわたしがおとこのこで柳がおんなのこだったけれど、産まれた直後の性別のとおり、わたしは女子の教室に、柳は男子の教室に入った。当時はまだ外見にさほど違いがなかったから、裸さえ見られなければ周りに性別が変化していることを悟られることはなかった。黒板に男性と女性の裸体が描かれた変に幼稚なテイストのイラストが貼りだされ、先生が決して笑みを漏らさない深刻な表情で性差について説明した。それから、男性器と女性器がなにかしらの方法――セックスのことだけれど先生ははっきりとは言わなかった――で交わり、おたまじゃくしのようなかたちをした精子が真ん丸の卵子に到達すると人間が誕生するのだということも話した。わたしはふにゃふにゃとした線によって描かれた正しいような正しくないようなペニスのイラストを見つめながら、いまじぶんの周りにすわっているおんなのこたちのからだは一生おんなのこで、わたしのように時おり男性器を携えることはないのだと知り、じぶんがふつうの人間から外れた存在であることをようやく悟った。おかげでわたしたちがどちらの性ももっているせいで変だとおもっていたことがいろいろと解決した。体育の授業のときに男子と女子で更衣室が分けられる理由とか、トイレの種類が違う理由とか。服装の違いや、メイクをするかしないかの違いはいまもよくわからないけれど。

 小学校から柳といっしょに帰宅して、まずはおたがいの手にある傷痕を重ねあわせてそれぞれが受けた授業の記憶を共有した。傷痕を介しておたがいの記憶を見るという能力はだれかから教わったわけではない。けれど、物心がついたころにはすでにやっていて、わたしたちは傷痕さえ重ねあわせればおたがいの身になにが起こったのかを知ることができた。おたがいが離れたところにいてもこころで会話することができるのもむかしからで、わたしたちはことばを使わなくてもわかりあえる。その理由を知ったのはもうすこし先のことだ。そして、わたしたちの日常が崩壊するのも。

 授業の内容は男女で分かれて受けさせられたわりにはほとんどおなじ内容で、しいていえば女子の授業だけ生理用ナプキンの使いかたの説明があったけれど、当時からわたしたちには生理がなかったので意味はなかった。これからも意味をなすことはないだろう。わたしたちはそのとき住んでいた家のじぶんたちの部屋にあった木製の二段ベッドの下の段に潜りこみ、服を脱がしあった。わたしの股間には授業で見たイラストとは違って立体的で生々しいほどの男性器があり、柳を仰向けにさせ太ももをひらいて女性器があることを確認した。それで終わりにして、元どおり服を着せあえばよかったのかもしれない。けれども幼かったがゆえに性器を見ただけではからだへの興味が途切れることはなく、じょじょに早まっていく心音を抱えながら、わたしは柳に覆いかぶさった。うんと顔を近づけて、どうやったのかはわからないけれど鼻と鼻がぶつからないように上手に顔を傾けて、はじめてのくちづけをした。わたしにも柳にも体温があるはずなのにくちびるには温度がなくて、じぶんたちの境目が曖昧に、いつしか溶けて消えていってしまうのではないかという不安に襲われながら、あるひとつの存在になっていくことに満足感と、そして愛を覚えた。わたしは夢中になってくちびるに吸いつき、柳もわたしのあたまに腕をまわして抱えこむようにしてくちびるを離さないようにした。そのときだった。どさ、となにかが倒れるような音がして、わたしと柳はくちづけをやめて部屋の扉のほうに目をむけた。扉はきちんと閉まっていなくて、その隙間から、洗濯をして綺麗にたたんでいたであろうわたしたちの服を床に散らばせて、おかあさんがへたりこんでいるのが見えた。

「おかあさん?」

 呼びかけてもおかあさんは顔を真っ青にしてがたがたと震えるばかりでなにも言わず、わたしたちがベッドの柵にかけていた服を着て歩み寄ろうとすると今度は足をもつれさせながらその場から逃げだした。わたしたちは顔を見あわせ、部屋と階段のあいだにある踊り場に散らばった服を拾い集めながら声を殺してすこしだけ泣いた。わたしと柳のあいだに生まれた感情を否定されたような気分になって、たとえば花占いが導きだした、すき、のひとひらが落ちてしまうようなそっと起こる悲しみを滲ませた涙だった。

 その日からおかあさんはおかしくなりはじめた。もともと憂鬱気味だったのが悪化して、長年堪えつづけていたらしい感情を放出するようになった。怒りとか、いらだちとか、あまり綺麗じゃないきもち。たとえば、からだがおとこのこに変化している日に柳のために用意された服を着るとなんでそんな嫌がらせをするのと泣き叫んでわたしの頬をぶつとか、わたしと柳が手を繋いでいたり肩が触れあうくらい並んですわっていたりすると離れなさいと怒鳴ったりとか、わたしたちの行動でなにか気にくわないことがあるとおかあさんは混乱して口や手に感情が出てしまうようだった。あるときは開かずの間になっていた書斎に監禁されたこともあった。埃っぽくて電気がつかない北向きの部屋は恐ろしいほどに暗く冷えこみ、時間がわからない空間で空腹と喉の渇きに精神を蝕まれて、つぎに明るいところで目をあけたときにはサワノ医院のベッドの上にいた。腕には診察のたびに受ける点滴がほどこされ、手のひらから腕にかけて傷とも痣ともいえない痕があった。日焼けをしたときのような、薄い表皮がめくれてできるまだらな痕や細かなかすがあり、右手の小指から手首にかけてはしっているはずの傷痕が丸く縮こまって梅干しのようにてらてらと、すこしでも触れたら血を垂らしそうななまものの光を放っていた。首を横にむけると腕を組んで丸椅子に腰かけている医者の息子が泣きだしそうな顔でわたしを見ていて、そのむこうにあるベッドで柳が眠っていた。

「ふふ、どうしてそんな顔をしているの?」

「笑いごとじゃない」

 医者の息子は目もとに手をあてて、すぐに離す。人差し指の側面が、きら、と光って蛍光灯を反射させ、このひとはほんとうに泣いているのだと気がついた。

「なにも覚えてないのか?」

「なにもって?」

 もう一度涙をぬぐい、鼻をすすってから、医者の息子は話しはじめた。

「きのう、ふたりとも定期診察に来ないから家まで様子を見に行ったんだ。じいちゃんといっしょにな。そしたら千春さんが……きみらのおかあさんがリビングでぼろぼろ泣いてた。手首血まみれにしてさ。死のうとして死にそこねたんだろう。きみらをバケモノ扱いしてしまったとか、どうしたらいいのかわからないとか、いろいろ口走ってたよ」

 このとき、わたしはどんな顔をしていたのだろうか。死ねなかったおかあさんにおもいを馳せるのにも、医者の息子になにか尋ねるのにも考えが追いつかなくて、あたまのなかからも喉もとからもことばが失われて黙りこんでいたようにおもう。そんなわたしを見て、おかあさんはいま隣の病院で眠っているから大丈夫だと医者の息子が教えてくれた。

 まあそれで、と医者の息子が溜め息まじりに言う。

「応急処置しながらおかあさんの譫言聞いてて、きみと柳が東先生の書斎に閉じこめられてるっていうのがなんとなくわかってさ」

 ぼうっとしたあたまで、東先生という聞き慣れない単語が父親のことを指しているのだと不思議と察することができた。父親の不在についてわたしたちは疑問をもったことがなかったけれど、死んだということはそれとなく知っていた。でも、なにをしていたかとか、どんな顔で、どんな性格の、どんなひとだったのかは聞いたことがなかった。

 医者の息子にとって東先生というのはごくあたりまえに存在することばらしく、わたしが質問しなかったからというのもあるだろうけれど、なにか補足することもなく話をつづけた。

「で、おれは書斎に行くことにした。おかあさんのほうはじいちゃんに任せてな」

「そこで、わたしたちは……」

「ああ。鍵をあけて部屋のなかを覗いたら扉のすぐ近くに倒れてた。きみの右腕と柳の左腕が溶けてくっついてる状態でな」

「……え?」

 医者の息子がなにを言ったのかがわからなかった。わたしはからだを横たえたまま右腕をあげた。

「でも、いまは柳とくっついてない。というか、人間どうしがくっつくわけない」

「おれとじいちゃんで引き剥がしたんだよ。すげえ大変だったんだぜ? がっちりくっついてるし、だからってあんま強く引っぱると腕ごといかれちまうし。……なあ、唯花」

 びゅう、と外で強い風が吹いたのが窓を閉めきっている部屋のなかにいても聞こえた。木枯らしの日だった。

「きみらは、いったい何者なんだ?」

 泣いたせいで赤い色をしている医者の息子の瞳がわたしの顔を見つめていた。見慣れないものを見るときの静かで鋭い視線だった。柳はまだ眠っていて、かすかな寝息をたてていた。何者といわれても、わたしにだってわからなかった。きっと柳にもわからなかっただろう。おかあさんにだって。わたしは右腕をさすり、わたしのものなのか柳のものなのか定かではない皮膚の屑がぽろぽろと落ちるのを眺めながら、緊張でこわばったからだを落ち着かせようと深く息を吸った。

 もし、ほんとうにバケモノだとしたら。

 わたしたちがこれまで生きてきた十一年間のおもいでが遠く霞み、ぱちんと弾けて消えていくような感覚にとらわれた。

 ふっと涙がこみあげてきてうつむこうとしたとき、部屋の扉が軋む音が聞こえてそちらに顔をむけた。院長が立っていた。そのときの院長は煙草を吸いおえたばかりだったのかやけに煙たいにおいを纏わせていた。

「じいちゃん」

 医者の息子が驚きを含んだ声で呟いた。院長は孫には目もくれず、大きすぎる眼鏡をとおしてわたしをじっと見据えた。

「話すときがきたようじゃな。場所を移したいんじゃが、動けるか? 唯花」

「わたしは大丈夫だけど、でも柳が」

「起きとるよ。そうじゃろ、柳? 寝たふりはもうやめじゃ」

 院長がそう呼びかけるので、わたしと医者の息子は柳が眠っているベッドに視線を移した。柳はまぶたをあけてむくりとからだを起こして目をこすった。気だるげで、堅くとざされた蕾のような、まだ眠りたりないといった表情で。陽光が白いカーテン越しに柳の細くて肌の白いからだを照らしだし、その日までに見た柳のなかでいちばん儚くて、それでいて百合のように力強い輪郭のある存在に感じられた。

 わたしたちはベッドから出て、医者の息子といっしょに院長の後ろをついて歩いた。むかった場所は、いまのわたしたちが毎週診察を受けている地下の秘密の診察室で、ただの壁だとずっとおもっていたところが扉であることや、その先に鏡張りの廊下があること、暗証番号を入力しないと動かないエレベーターがあることをその日はじめて知った。医者の息子も秘密の診察室の存在を知らされていなかったらしい。あたりにきょろきょろと視線を投げては、見入ったり、首をかしげたりしていた。

 六角柱の設備の前で院長は立ちどまり、わたしたちに背をむけたまま話しはじめた。

「もう十一年か。平凡な言いかたしかおもいつかないのがもどかしいが、長いようで短い、あっという間の十一年じゃったよ」

「前置きはいい。院長、話を聞かせて」

 柳が続きをせかす。すると院長は振り返り、六角柱の設備が放つ柔らかな白い光が逆光になって院長の皺だらけの顔や立ち姿に影がかかった。

「わるいが、もうすこしだけ前置きさせてくれんか。もうすこしだけじゃ。柳、唯花、きみらはアダムとイヴの話を知っておるかね? 禁断の果実の話といえばいいかな?」

 院長の問いかけに、わたしたちは目配せをして手を握りあった。アダムとイヴの話を、禁断の果実の話を知っているかどうか、意思疎通をするために。けれども、汗ばむほどにきつく手を握りあっても柳の声が聞こえない。柳もおなじだったようで、わたしたちは動揺しながらふわと手を離した。それが、院長の目にはわたしたちの答えとして映ったらしく、知らないようならまあいい、大人になってからのほうがピンとくるじゃろう、と責める声色ではないからっとした口調で言った。

「千春さんが身ごもったことがわかったとき、東は目の色を変えて喜んでおった。〝アダムとイヴの逆襲〟が完成した、とな」

「アダムとイヴの……」

 逆襲。

 柳がさいごまで言わなかったことばをあたまのなかで補いながら、逆襲という語の重苦しく物騒な響きにどぎまぎした。

「ああ、東は……研究者といえばいいかのう。医師ではあるんじゃが、わしやせがれやそこの馬鹿孫とは違う、ちょいと複雑な業種の人間でな。――〝アダムとイヴの逆襲〟と聞いて、さいしょはなんのことだかさっぱりわからんかった。せがれともめておったあたり、なにかしでかしたらしいのは察しておったがの。まあ、そのことさえ除けば妻の妊娠を喜ぶごくふつうの夫のようじゃったな、あの男は。そうして時は流れ……ああ、いまくらいの時期じゃったな。桜が散り、わしらの目前にひろがる世界が春を終えようとしておったころじゃ。それまで千春さんのお腹のなかの子どもはひとりだけじゃったはずなんじゃが、その日エコー検査をしてみると急にふたりになっておった。産院の連中もわしらサワノ医院の人間も腰を抜かしたよ。ホルモン分泌量は子どもひとりを妊娠したときと変わらんし、お腹のなかに何人おるかというのは妊娠五か月ごろにはわかるもんじゃろうに。まさか出産予定日間近になって双子とわかるなんてな。そのときじゃ。診察室から出てきた千春さんに、東が……手をあげた。忘れられんよ、あの瞬間は。さいしょは頬をうち、それから拳で千春さんの大事なからだを殴りつけようとした。わしらが止めに入って東を羽交い絞めにすると、アダムとイヴがどうのこうのと泣き叫んだ。狂気の沙汰じゃったよ」

「どう、して……?」

 たった四文字のことばが舌で絡まってうまく言えなかった。口のなかがからからに乾いていた。院長は音のしない静かなため息をついた。

「はっきりとしたことはわからん。これは推測じゃが、タイミングからして千春さんの身ごもった子どもがひとりでなく双子じゃという点が気に食わなかったのかもしれんな。わしらは千春さんの安全を考え、出産までまだ間があったが彼女を産院に入院させた。そして東との面会を謝絶した。以降、あの男は姿をくらましておる。そうせざるをえんかったとはいえ、きみらの両親の仲を裂いたのはわしらじゃ。申し訳なかった。……すこし話がそれたかもしれんな。きみらが産まれた日のことを話そう。十一年前の六月九日の、朝方じゃったな。千春さんの出産がはじまった。彼女の容態も、帝王切開も、いたって順調じゃった。ところがひとりめの子どもを、つまり唯花を取りあげたときじゃ。奇妙なことが起こっていることに気づいた。唯花の右手とふたりめの子ども、つまり柳の左手がくっついておったんじゃ。そこのところの皮膚が完全にひとつながりになっておった。わしら医師連中は大慌てじゃよ。すぐに切り離すべきだの成長を待ってからのほうがいいだの、えらい口論になったな。しかし一週間も経つと、きみらの小指の皮膚はひとりでに離れ、別々になった。薄い被膜が血液をそのまま透かしたような生々しい傷痕は残っておったが、あまりにも綺麗に離れとるもんじゃからあのときは拍子抜けしたのう。その後きみらは手のことなど忘れたかのようにすくすくと成長していくわけじゃが、千春さんがきみらの性別が日によって違うと言いだしてから、わしは〝アダムとイヴの逆襲〟とはいったいどういうことなのかを理解しはじめたんじゃ。要は、つまり、きみらは双子ではなくひとつの存在なんじゃよ」

「ひとつ?」

「そうじゃ、柳。男の性も女の性も持っているひとつの存在であり、ひとりの人間じゃ。男であることを、女であることを、そして性に境があることを知るまえのアダムとイヴのような、無垢の存在。そういう意味で東は〝アダムとイヴの逆襲〟なんぞと言っておったのかもしれんな。人間がふたたびエデンの園へ戻るための無垢を手に入れる逆行現象、といったところかのう。……東のほんとうの企みは、いまとなってはもうわからん。あれからずっと帰ってきておらんからな。じゃがな、あの男の目的なんてものは関係ない。きみらは柳と唯花としてここに、この世界におる。それだけでいい。それだけでいいんじゃよ。わしらサワノ医院の人間はきみらの生きる姿を見守ってきた。これまでの定期検診もきみらのからだが弱いからということではなく、日々性別が変化するきみらのからだが正常に機能しておるかを確認するために行なっていたことじゃ。そして、今回のことが起こってしまった。注意不足じゃった。きみらのことと同等に千春さんのことも見てやらねばならんかった。つらいおもいをさせてすまんかったのう。皮膚が溶け繋がりあおうとするということは、きみらがひとつの存在に還ろうとすることじゃ。そう考えられるじゃろう。しかし、これまでにそのようなことがなかったにもかかわらず、十一年経ったいま起こった。どうしてかわかるか? 柳、唯花」

 わたしたちは顔を見あわせた。柳のこころの声は聞こえなかったけれど、わからない、と言っているような気がした。わたしにもわからなかった。わたしたちは院長にふたたび視線を送った。院長は微笑んだけれど、優しさにどこか影を落とした、悲しい表情だった。

「愛を、知ったからじゃよ」

「あい?」

 柔らかい母音のことばは口のなかでしゃぼん玉が弾けるように儚く、どこか空虚な響きを放った。

「ああ、そうじゃよ、唯花。……千春さんがな、あるとききみらが子ども部屋のベッドで抱きおうているところを見たそうじゃ。接吻をしているようじゃったが、よく見れば口もとのあたりがぐちゃぐちゃに溶けて混ざりあっていたらしい」

 それははじめてくちづけをしたあの日のことだとすぐにおもいあたった。わたしは柳の顔を横目に観察した。柳の顔には皮膚の破れ目もひきつれもなく、変わったところはないようにみえる。じぶんのくちびるに指をあててみた。くちびるだってちゃんとついている。皮膚が溶けて柳と同化してしまうなんて嘘みたいだけれど、あのときの真っ青になって怯えるおかあさんの顔をおもいうかべると、そろそろ信じるべきだった。頬を打つ熱も、その反動も、痺れも、痛みも、バケモノだと罵る震える声も、夢をみているみたいに追いついていなかった現実がほんとうになりつつあった。

「なぜ抱きおうておったのかは訊かんが、きみらがむやみやたらに抱擁したり接吻したりするとはわしにはおもえん。ちゃんとした意味が、愛があるからそういうことをしたんじゃろう。じゃがな、科学で平たく語るとすれば、愛というのは別々の人間をひとつに結びつけるものじゃ。夢のない言いかたじゃが、子孫繁栄のための生殖活動に至らせる生理的要素ということになる。まったくの他人もひとつになれるんじゃよ。きみらの両親がそうであったようにな。つまりじゃ、そもそもひとつの存在であるきみらが愛に触れてしまうと、唯花も柳もそれぞれの姿を保つことができなくなり、完全にひとつとなった〝アダムとイヴの逆襲〟の姿に変化してしまうと考えられる。じゃから、きみらは――おたがいを愛すると消えてしまうんじゃよ」

 まぶたをひらいたまま、眼前にひろがる風景の色が淡くなり、影が射したことを覚えている。それは風景自体の変化ではなくて、網膜や視神経といった瞳の機能が鈍くなって起きているようだった。そのまま数秒が経過して、今度は景色が鮮明になった。涙があふれだして、目に映るものすべてを美しくしたのだった。

 はじめてくちづけをしたあの日の感情をおもいだしていた。柳に与えられた温もりが、透明ながらにわたしのこころとおなじかたちになって、胸のなかを満たしていく感覚。あのとき、これが愛なのだと直感した。わたしたちでたいせつに抱えていく愛なのだとおもっていた。

 意思疎通のできない空間で、わたしたちはおそらくおなじことを考えた。愛を手放すことだ。じぶん自身が消えてしまうのは怖かったし、柳がいなくなるのはもっと怖くて、嫌だった。すると、なんとなくおもいうかべていた将来のようなものが急に真っ暗になってみえなくなった。これからやってくる未来がすべて偽もののように感じられた。生きれば生きるほどに塗り固められていく、長い長い嘘だ。

「きみらにとっては残酷なことじゃが……ひとは、他者を愛するように仕組まれておるんじゃよ」

「どうして?」

 やけに低く、喉にひっかかるような声が尋ねた。はっとして隣を見る。院長を睨みつけるような、いらだった表情をしている柳の頬にひとすじの涙が伝っていた。これ以上涙がこぼれないように歯を食いしばっているのが見てとれた。

「ひとりで生きていかないためじゃよ。……筋が通っているようにみえて矛盾している、不可解なはなしをしてしまったかもしれん。大人がする卑怯なはなしじゃな、まったく。柳、きみは唯花のことはすきか?」

「……うん」

 柳がうなずいた。

「唯花はどうじゃ?」

「すき、です」

 わたしはあたまで考えるよりも先に口走るように、けれどもたどたどしい言いかたで返事をしていた。

「それでいい。おたがいに、凪いだ海のような穏やかな感情を保っていられたならば、きみらはいまの姿で生きることができる。これは老人のおこがましい願いかもしれんが、わしは、きみらにはきみらとして存在していてほしい。消えてほしくないんじゃよ」

 ふう、と溜め息をつくと、院長は皺だらけの顔でなにかを見上げた。視線を辿った先には医者の息子の長身が佇んでいた。

「これが柳と唯花の秘密じゃ。……さて、おまえさんは約束は守っておるのか?」

「ああ、あの約束? もちろん守ってるよ。例の震災以来だれとも会ってない。もう九か月くらいか、じいちゃんとこの子らと千春さんにしか会ってないよ。おかげで散髪に行けなくて髪もこんなだ。携帯電話も壊した。もうおれが生きてるとおもってるやつはいないんじゃないか? ……覚悟は、できたよ」

 医者の息子は右手で前髪をかきあげた。上向きになった前髪が重みで顔にすぐに垂れる。そのときまで気にしていなかったけれど、ずっと短く切りそろえられてきた医者の息子の髪はある日を境に伸び放題になっていた。

 約束とは、いったいなんのことなのだろう。

 たぶん、あのときのわたしは聞き覚えのないはなしに疑問を抱いていたとおもう。

 院長は拳を口もとにあててこほんとひとつ咳払いをした。眼鏡ごしの、濁りの多い黄ばんだ目が鋭く光ったような気がした。

「では、おまえさんには死んでもらおう」

「はは、そんなことだろうとおもってたよ。わかった。誠心誠意、死なせてもらうことにするよ」

 ふたりの会話は耳の表面を撫でる風のように、こちらの理解が追いつくまえに過ぎ去っていった。あたまのなかを浸していた悲しみがじょじょに薄まり、医者の息子が死ぬのだということにようやく気がついた。でも、どうして。これから死ぬというのに、医者の息子は微笑んでいた。

「待ってよ、どうして? なんで死なないといけないの!?」

 柳が声を荒げた。からだの横で拳が震えていた。

「柳、落ちついておくれ。ああ、そうじゃのう、きみらにはまだ話しとらんかったことじゃ。……きみらの存在は、まあ一般的ではない。性別が変化するなんてことが世間に知れたら、どうなるとおもう? どこぞやの病院や機関の実験台にされてしまうじゃろう。もし外の世界で体調を崩し、救急車なんぞでここ以外の病院に運ばれてしまったら大変じゃ。じゃから、万が一のためにこの馬鹿孫にはきみらのサポートに回ってもらおうとおもうてな。しかし、名前というもんは足がつきやすい。役所に行けばようわかるが、わしら人間は名前で管理されておるのじゃよ。個体識別番号みたいなもんじゃ。そんなやつがいないことを祈ってはいるが、きみらの周囲をうろつくこの馬鹿孫の名前から探りを入れられたら、きみらの秘密なんてあっという間に暴かれてしまうじゃろう。じゃから――」

「おれの名前を抹消するってわけさ。柳と唯花にはいつもどおり会ってたけど、おれは例の震災で行方不明になったことになってるんだ。そしてじいちゃんは、きょう付けでおれの生存を諦めて役所に死亡届を出すってわけさ」

「よく、わからない。名前がなくなったら 、大変なんじゃないの? どうやって生きていくの?」

「どうだろうな。大変かもしれないし、案外快適かもしれないぜ? 柳は……そうだなあ、『砂の女』を読んだことがあるか? 安部公房の小説だ。大江健三郎の『孤独な青年の休暇』でもいい」

 これから死ぬ男の問いかけに、柳は黙って首を横に振った。

「そうだよな。まあ、そういうことなんだよ。ただな、柳、唯花。おれはきみらを守るために生きる。それだけはもうわかってることだ」

 そう言って医者の息子がわたしたちに投げかけた眼差しは、熱くて、眩しくて、ひねくれてしまったわたしたちの物語をすべて正しくする光だった。

 その日、柳とわたしは愛を失い、医者の息子は名前を失った。

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