小説の世界

 九時ちょうどにわたしたちは玄関を出て、お揃いの黒いキャスケットを目深に被りエレベーターに乗った。キャスケットのつばの両端には星のかたちを模した金色の金属の飾りがほどこされていて、わたしたちはそれを気に入っている。触ると指先の油分で輝きが鈍くなるからよくないとおもっているのにわたしたちは癖で星を触ってしまうから、表面のところどころに白だか灰色だか銀色だかよくわからない濁った色のしみがついている。動いているのかとまっているのかわからなくなるくらい動作の遅すぎるエレベーターのなかで、柳はやはりその星のかたちをなぞるように指先で触れ、わたしもつられるように星に指をもっていった。手も繋がなければ、口もきかなかった。こういうときだけじぶんたちが別々の人間になったみたいに離れたもののように感じられて居心地がわるい。

 ねえ。怒ってるの?

 ……。

 柳はわざと沈黙する。わたしたちはおたがいのきもちや考えていることが手にとるようにわかる生きもののはずだ。けれど、ときどき感情が高ぶると波間をとおして海底を見ようとするときみたいに揺らぎが強くて柳のことがよくわからなくなる。どうしたものかと考えているうちにエレベーターは吊り下げられて宙に浮いた不安定な感じを保ったまま一階に到達した。

 ちいさな森を抜けて、道路沿いを駅がある南方面へ歩いていく。ゆるやかなカーブを描いている二車線道路は交通量が少ない。わたしたちとおなじく南へゆこうとする車がたまに走り去ってゆくくらいで、ぽつぽつと設置されている歩行者信号機も青に変わるのを待たずにむこうがわに渡ることができた。わたしたちは信号を待つのが嫌いなので車がこないうちにさっさと渡ってしまって、車道と銀杏並木と歩道と、山とまではいかないけれど初夏の特別なきらめきを纏っている常緑樹の一群が続く道を黙々と歩く。きょうは車通りがとくに少なく、誰かと出会うこともない。ひとが歩いていたり自転車を漕いでいたりするのはたまに見かけることがあって、やはり南に行こうとしているのでその横を抜かしたり抜かされたりするのだけれど、これほどまでに誰とも会わないことは滅多になかった。

 手を繋ぎたかった。

 手を繋いで、この世界にはわたしたちしかいないのだと錯覚したかった。

 横目で柳を見ると、柳はキャスケットの星をいじりながらわたしのほうを見ていて、目が合った。

「なに?」

 質問を投げかける柳の口調があまりにも鋭くて、いや、なんでも、とつい反射的に返事をしてしまう。おもえば柳が怒るのはわたしがおかあさんのはなしを持ちだしたときで、つまり、わたしはわざと柳を怒らせるようなことを口にしたのだった。そうしないと、柳がまた暴走してしまうから。いまは離れて暮らしているけれどわたしたちはおかあさんという存在に守られて生きているのかもしれないとおもって、これもまた柳に言ったら怒らせてしまうのだろうなとおもった。

 ふいに、右手に温度を感じる。柳がわたしの手を、わたしが望んだとおりにおたがいの指を絡ませる繋ぎかたで握っている。

「手……しばらく、繋いでいてもいい?」

 ひとつひとつの音がぶつぶつと切れた言いかたで柳が訊く。わたしは柳に握られている手に力をこめた。

「うん。いいよ」

 なるべく優しさと愛おしさをこめて了解のことばを告げると、柳はわたしの右肩にあたまを寄せた。先ほどまでの怒りがおさまったらしい。ほかの人間たちでいう仲直りという方法を柳はとらない。何事もなかったかのようにいつもどおり接しようとするのが柳のやりかたで、わたしのやりかただった。じぶんが間違っていないとおもうことについて謝ったり、相手に意見を押しとおしたりする必要はないのだから、わたしたちにとってこの方法は合理的だった。

「この世界にわたしたちしかいなければいいのに」

 飛行機雲が空を割っていく。

「ふふ、わたしもおなじこと考えてた」

「誰もいなければ、唯花が傷つけられることもないでしょう?」

「そうだね。柳が誰かを傷つけることもない」

「平和だ」

「うん。すごく平和」

 ふたりきりの地球を想像して、わたしたちは笑った。わたしたちは無干渉でいることと壊すことしか上手にできない。だから誰かといっしょにいることはできないけれど、わたしには柳がいて、柳にはわたしがいるから、孤独を感じることはない。それどころか、孤独を感じられるほどひとと触れあって通じあおうとしてこなかったからほんとうの孤独というものなんて知らないのかもしれなかった。

 歩道の脇で山のように茂っていた常緑樹の数がじょじょに減っていき、道が緩やかな下り坂になる。陽の光が眩しいと感じると、街に足を踏み入れている。車道と歩道を隔てているガードレールがのびていく先に、いつも電車に乗る駅の、乾いたみかんの皮のようなかさかさした色の煉瓦造りの建物が、すごろくボードゲームの建物のパーツのように地球に乗っかっている。駅の隣には真っ白で四角い病院の建物があり、その横にわたしたちが通院している医院の小さくて蔦に侵食された古臭い建物がある。大きな病院の建物が落とす影によって灰色に染まり、墓地や火葬場のような陽のある時間にもかかわらずどこか薄暗く不気味な雰囲気を醸しだしている。大きな病院と小さな医院が並んで建っているなんて変におもえるけれど、わたしたちの行きつけの医院――サワノ医院の経営者は大きな病院の院長であり、医院は大きな病院の別館に近いかたちで経営されている。だから来患があろうがなかろうが流行りもしないし潰れもしない。ただ明確に存在しているだけの場所。それがサワノ医院だ。

 駅前の道路は交通量が多いので信号が青に変わるのを待ってから横断歩道の上をはみだすことなく渡り、わざとらしく大きな病院の前を通りすぎてから、わたしたちはサワノ医院の時間の感覚を失うような暗い建物の前に立った。なぜか海辺に打ち上げられてしまう黒く湿った木の板を繋ぎあわせただけのような扉を開け、来患に気づいた医者の息子が読んでいた本から顔をあげたのを認める。光沢のない銀色のオフィスデスクに、受付、とゴシック体で書かれたプラスチックの白いプレートが置かれているサワノ医院の受付は、見るからに便宜上つくっただけという適当さが滲みでていた。

「おう、来たか」

 医者の息子は栞をはさまずにそのまま本をとじた。

「来た。なに読んでたの?」

「きみらの秘密のヒント。読んでみるか?」

 そう言うと、医者の息子は先ほどまで読んでいた本の下のほうを右手に収めるように掴み、表紙をわたしたちのほうに向けた。紺色のベースに黄緑色の丸の連なった図形が描かれている。端には白っぽい字で『プラナリア』と書かれていた。

「読まない。秘密は秘密のままでいい」

「はは、唯花らしいな」

 医者の息子は実に愉快そうに笑い、デスクの右がわで形成されている書籍の山の頂上に掲げていた本を置いてうねっている前髪が目にかかったのをさっと手で払う。

「よくわたしが唯花だってわかるね。柳かもしれないよ?」

「きみらを何年診てるとおもってるんだ。おれにほいほい話しかけてくるほうが唯花で、黙ってぎろぎろ睨んでくるほうが柳って決まってるんだよ。ただのともだちだったときからそう。なあ、柳?」

 名前を呼ばれた柳はわたしより一歩下がったところに立っていて、眉間の皺でぜったいに微笑んだりしないという意思を表明している。わたしたちと医者の息子の三人のつきあいは随分になるけれど、そのわりに柳と医者の息子のあいだには溝があり、柳にいたってはますますこころをとざしているような気さえする。

「……ヒントって、それ、小説でしょう? わたしたち、ノンフィクションなんだけど」

 柳が口をひらく。すると、医者の息子は鼻で笑う。

「馬鹿だなあ。ここは小説の世界だ」

「意味がわからない」

「わからなくていいさ。きみらがこの世界を理解するにはまだ幼すぎる」

 医者の息子は椅子をくるりと百八十度回転させて、 じいちゃん、来たぜ、と奥にいるらしい院長を大声で呼んだ。わたしの隣で、柳が舌打ちをしたり床を蹴りつけたりするのをこらえていた。はいよ、入んな、と院長のしわがれた声が返り、医者の息子は立ちあがってわたしたちを行くべきところに誘導した。通常の来患はでたらめのような受付を横切ってそのまままっすぐ行ったところにある診察室に通すらしいけれど、わたしたちのばあいは受付を横切った右がわにある一見ただの木の壁にみえるようにつくられた木製のスライドドアの先にある特別な診察室にむかう。医者の息子は指をかけるところもないのにいとも簡単にスライドドアを開き、足を踏み入れる。聞いたところによると、スライドドアのどこかに指紋認証システムと光彩認証システムが内蔵されていて、院長と医者の息子にしか開閉できないようになっているらしい。それだけではない。ドアの先にある廊下は全面鏡張りになっていて、ずっとここに通っているわたしたちでさえ合わせ鏡の無数の虚像に惑わされて、院長か医者の息子の案内がなければ迷子になってしまう。どこを歩いているのか、廊下の果てはどれくらい先にあるのか、いつも乗っているエレベーターがどこにあるのかさえわからない。

 わたしは本物の医者の息子の背中を見失わないようにじっと見つめながら、隣を歩く柳の手を握った。柳の指の腹がわたしの指のつけ根の関節に優しく触れる。それは、落ちついて、とたしなめてくれているようでとても安心する。わたしはこの、規則正しく狂おしい鏡面反射の廊下が苦手だった。ずっとむかしから。鏡の奥に吸いこまれていくように何重にも連なっていくじぶんのからだを見ていると、じぶんがじぶんでなくなるようで、何者なのかもわからなくなるようで、怖いのだ。柳は平気なのだろうか。ものの感じかたはわたしとほぼおなじのはずだけれど、この廊下を歩くときの柳は落ちつきはらっているようにみえる。

 柳。

 こころにむけて話しかけてみる。けれども柳からはなにも返ってこない。この廊下ではいつもそうだった。何度試しても柳の声が聞こえてくることはない。

 医者の息子がつと足をとめると、切れ目がないようにみえるのに鏡の壁の一部が自動で横に開き、そこがエレベーターであることがわかる。印のようなものはない。ずっとむかし、廊下の入り口から何歩歩けばエレベーターに辿りつくのかかぞえてみたことがあるけれど、毎回歩数が変わってしまってけっきょくわからなかった。医者の息子がエレベーターに乗り、わたしたちも続いて乗りこむ。いくら小さくて古びた医院とはいえ、エレベーターは医療機関らしくストレッチャーが二台くらい乗せられそうなほど広く、天気のいい日の雲のように白い色をしている。わたしたちが住んでいるマンションのエレベーターとは違って薬品と薬品のにおいが一度混ざろうとして相殺したような無臭という清潔なにおいがした。医者の息子は扉の右がわについている小さな数字のパネルで9306と入力してそのパネルの上についている丸いボタンを押すと扉が閉まり、機体が下降しはじめ、どこかの臓物がひゅっと冷えて縮こまるような感覚をおぼえた。わたしは医者の息子が入力する番号をいつも見て覚えてしまうのだけれど、エレベーターを起動するための暗証番号は毎回変わっていて、それがどのような法則をもって変わっているのかはさっぱりわからなかった。

 すべては、わたしたちを守るために。

 何重にも仕掛けられたセキュリティシステムを目の当たりにするたびにおもう。

 わたしたちが生きているだけで、秘密は、こんなに重い。

 五秒間下降してエレベーターの扉が開くと、そこには真っ白な部屋が広がっていて、白衣姿の小さな老人が部屋の中央にそびえている硝子で覆われた正六角柱の設備に手を触れているのが見えた。院長だ。医者の息子はエレベーターから降りてそちらに歩いていく。わたしたちは手をしっかりと繋ぎなおす。そして、ホワイトアウトを引き起こしそうな部屋のなかを進んでいく医者の息子の白衣のゆらめきを目でしっかりと追いかけながら後ろをついて歩いた。

「じいちゃん、連れてきたぞ」

 少々怒鳴るような声で医者の息子が声をかけると、院長は振り返り、顔の面積に対して大きすぎる銀縁の丸眼鏡のブリッジを親指と人差し指で上から挟むようにしてつまむ。それを押しあげて、生きた年の数だけある深い皺ひとつひとつに影を食いこませるようなしかめ面をした。

「うるさい、馬鹿孫が。聞こえとるわい!」

 院長は背伸びをして医者の息子に食ってかかろうとするけれど、どれだけ爪先立ちをしても医者の息子の肩のところまでしかあたまが届かない。そんな祖父を見て、医者の息子は意地わるくにやにやと笑う。院長は、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、医者の息子から離れ、わたしたちのほうに視線をうつして今度は顔面の皺をほどいて笑みをうかべた。

あずまのとこの、よう来たな。具合はもういいのか? ええと……」

 院長は右手で丸眼鏡の銀縁をつまんでわたしたちの顔を交互に見る。柳とわたしが顔を見あわせると、医者の息子がため息をつく。それから面倒くさそうにくちびるをとがらせてから、わたしたちのことを順番に指で差し示した。

「こっちが唯花でこっちが柳。いい加減覚えろよな」

「ほほう、きょうは逆になっとるのか」

 院長のしわがれた声が興味にそそられて明るくなる。これにまた医者の息子がため息をついて額に手をあてる。

「まったく。この子らに逆とかそういうのないだろ」

「そんなことはもちろんわかっておる。比喩みたいなもんさね。ささ、柳、唯花、まずは血液検査じゃ。まあ、その様子なら大丈夫じゃろうがな」

 そう言うと、院長は身長と年齢のわりに速い足取りで正六角柱の設備の横を通りすぎて奥へと進み、わたしたちと医者の息子もおなじほうへ歩いていった。奥にはもうひと部屋、白い長机がふたつと医療器具がならんでいる外来治療室のような空間がある。サワノ医院を訪れるとまずその部屋で採血をしてもらう。わたしたちはおのおのが着ているワイシャツやブラウスの袖を肘の上まで捲りあげて、医者の息子はわたしに、院長は柳に駆血帯を巻きつける。ただでさえ皮膚が薄くて青さの目立つ血管がさらに青さを増し、血管の周辺の皮膚に不健康な緑色が浮かびあがる。

「唯花、まだ顔色わるいな」

 これから注射針を刺す薄い皮膚にアルコール綿を滑らせながら医者の息子が囁いた。清潔なにおいのするアルコール綿は冷たく、後をひくひやりとした感覚がしばらくのあいだ皮膚の表面上に残り続ける。隣の長机ではもう何百回もやっているのに、ちょいとちくっとするぞ、と院長がおどけるような口調で言い、いつまでたっても注射が苦手な柳が嫌々をしている。

「そう?」

「あんまり食えてないんじゃないか? 隈だってひどいし」

「ちゃんとたべてるよ」

 胸焼けがしてたくさんたべることはできないけれど、というのは口に出さないでおいた。それから、目の下が暗いのは今朝泣いたからだということも。

「ほんとうか? まあ、それならいいけどさ」

 医者の息子は話しながら用意していた注射針をわたしの皮膚に突きたて、内筒を引いた。皮膚を突き破る痛みと注射針の異物感に見舞われながら、わたしの血液が、ゆっくりと注射器のなかをのぼっていく。そのじぶんの血が赤い色をしていることにほっとする。隣で採血されている柳の血も赤い。それはわたしたちがちゃんと人間であることを証明してくれているみたいで、ほっとしていた。べつに、血を見るのがすきというわけではないのだけれど。

「唯花、あんまり無茶すんなよ」

「してないよ」

「そういうところだよ。平気そうなふりして無茶するから、見ててひやひやする。このあいだのことだってみんな心配したんだからな?」

「それは……ごめん、なさい」

 心臓がいやにうるさい鳴りかたをして、脳裏にあの日のできごとがよぎった。それから、むかしのことも。医者の息子は鼻から息を深く吐いて、注射針を抜いて青痣になりつつある針の傷口にアルコール綿を当てがい、はい、押さえて、とわたしに傷口の圧迫をうながした。わたしは言われたとおりにアルコール綿の上から皮膚を押さえつける。

「おれはきみがいなくなったら嫌だからな」

「え?」

 アルコール綿から目線をあげる。聞こえたことばの意味がうまく捉えられなくて訊き返したつもりだったけれど、医者の息子が血液の処理の手をとめることはなく、それ以上のことは教えてくれなかった。

 採血のあと、わたしたちは正六角柱の設備のなかに入って点滴を受けながら白いシーツの上で手を繋いで、睡眠薬の透明な香りに満ちた空間のなかで眠りにつく。点滴で投与される薬に体内から溺れていく。繋いでいる手が熱くどろどろに溶けていくのを感じる。夢見心地のふわふわとした思考回路で柳との繋がりが完全になったのを理解してから、眠りの先のなにもないところまで意識を墜とした――。

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