第2章 初夏/捨てられないもの、小説の世界、秘密、わたしの声、この手を伸ばせば

捨てられないもの

 一度滅びるための夜を終えて陽が昇りはじめると、小さな鉢や花瓶に咲く花々がすこし縒れてしまった花びらを再びしゃんとさせ、その気配でわたしは目をあけた。柳はわたしの右手を掴んで夜の冷えを携えたまま、まだ隣で眠っている。花の発するかすかな音に疎いのだ。柳の左手を離さないように気をつけながらからだを起こす。あたまよりも先に肉体のほうが冴えていた。おへその下のあたりに硬く生温かい肉塊の先端が当たって、きょうの性別を把握する。柳がかぶっているシーツをそっとめくってみると、わたしのほうを向いて眠っているからだの胸のあたりがすこし弛んでいた。

 からだの昂りを抑えたくて、深呼吸をする。花や葉や湿った土のにおいが肺を満たしていく。しばらくぼうっとしておけばいい。そうすれば高揚が収まることはわかっている。けれど、からだに宿った衝動がいつか思考回路をやぶってしまうのではないかと不安になる。だから、この性別は苦手だ。

 寝室の時計は六時五分を差している。時計は木製で、もともと明るい茶色だったのが、湿気にやられて黒っぽくなっている。それがいつからはじまった変化で、いつ気づいたのかは覚えていなかった。ただ、わたしたちが秘密を抱えて過ごす日々が続けば続くほど時計は脆くなっていって、やがて崩れ落ちるのだろう。秒針の音と、花が陽射しを求めて動く音と、柳の寝息を聞きながら、そんなことを考えた。七時になっても柳が眠っていたら起こそうと決めて、わたしはふたたび寝転がり、シーツをかぶって軽く目をとじた――眼裏を覆う血色の闇に蛍光を帯びた青色が射しこむ。目が覚めたらおかあさんがいた。おかあさんは微笑んでいて、わたしが起きあがるとあたまを包みこむようにしてそっと抱きしめてくれた。赤ん坊をお腹に宿したことのある女のひとの柔らかくて懐かしいにおいが鼻をかすめた。けれど、気づいたときには、もう遅い。顔をあげるとそこは砂浜で、干からびてがさがさになったおかあさんに波飛沫がはじけ、動くことはない――目をあけるなり、涙が出てきた。手の甲で涙をぬぐって視界の揺らぎをとってから隣を見ると、柳が仰向けになって読んでいた本から視線をはずし、不思議がるような、それでいて冷めたようなじとっとした目つきでわたしを見ていた。

「泣いてる。いやな夢でもみたの?」

「さあ。でも、なんだか悲しいきもち。なに読んでるの?」

「『悪童日記』」

 そう言うと、柳は開いていたページをわたしに見せてくれた。

「〈髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない〉……」

 柔らかくて懐かしいにおいが、記憶のなかの、かつて生きていたじぶんの鼻をかすめたような気がした。そうだ、おかあさんの夢をみたのだ。柳の言ったとおり、わたしたちがもう二度と手に入れることのないような、いやな夢を。

 戻れないな、とおもう。

 日々は上書きをしすぎて壊れてしまった、巻き戻しのきかないカセットテープのようなものなのに、戻れないとおもうのは、そのとき五感に触れた感触をまだことばとして昇華しきれていないからだ。それを上手に語れるようになれば、後頭部でたぷたぷと揺らいでいるなんらかの感情が消えていくのかもしれないけれど、わたしには語る相手がいない。

「唯花も捨てられない?」

 柳の視線がわたしの瞳の奥を見透かしているような気がして、そっと目をそらす。

「別に。柳、そろそろ起きよう。きょうは医院に行かないと」

「そうだね。でもまだ……」

 柳が本をとじて枕もとに置き、わたしの顔へと手を伸ばし、目の下に人差し指をあてて潤んでいた瞳から涙をさらった。涙は雫のかたちにはならず、柳の指に平たく張りついた。

「泣いてるね。悲しいの、治るまで眠ってたら?」

「いい、平気。……柳は捨てられる?」

「ふふ、お馬鹿さん」

 まだ涙の乾いていない指で柳はわたしの頬に触れ、手のひらをあてる。寝起きの、湿度が充分にある温かな手だった。

「捨てられるよ。唯花がいるから怖くない」

「そっか」

 怖くない、ということは。

 柳は怖かったのね。

 頬に触れている柳の手の甲にじぶんの手のひらを重ねて、それから柳の細いからだを引き寄せて、壊れないように、壊さないように、ゆっくりと抱きしめる。手放したくないものならいくらでもあった、いや、できることならなにも手放したくなかった、のほうが正しい。だって、失うのはとても怖い。けれども、わたしたちがこの世界で生きていくための覚悟は大事なものを失っていくことと等しいのだった。

 柳を抱きしめながら、無意識のうちにとじていたまぶたをひらき、寝室の花々が求めている太陽の光が窓から射しこんでくるのを確かめる。桜を散らせて春の賑わいを奪った、初夏の輝きだった。もう五月になろうとしていた。わたしは初夏がすきだ。春によって濾過された世界や生活や時間が正しく流れていき、なんの変哲もない日々にしてくれる季節だから。

 またからだが熱くなって、起きぬけに引き起こしていた昂りがきちんとおさまっていたことに気づいて安心し、同時に、わたしはこのからだへの従属から逃れられないのだと、さっきとは別の、諦めに近い悲しみが押し寄せてきた。

 だから、きょうは医院に行く。

 わたしたちはくちづけて、数秒間の呼吸をおたがいに預けあってから、くちびるを離してベッドから出た。わたしは床にばらばらと置いていた下着類のなかから黒いタンクトップと黒地に赤いチェック柄の入ったトランクスを選んで身につける。柳は裸のままシーツを纏って寝室を出ていった。わたしも柳について寝室を出て、キッチンにむかった。フルーツポンチをつくろうかとおもったけれど、気力が湧かず、冷蔵庫の中からピオーネのパックをふたつ取りだした。ショッピングモールで倒れたのはもう二週間もまえのことになるけれど、体調はまだ優れなかった。おかげで学校にも行っていない。

 学校を休みはじめた数日のうちは、光記ちゃんのことを考えていた。あれからいやな目に遭っていないだろうかとか、ほかのおんなのこたちとうまくやっているだろうかとか。そういった心配のようなことをして、半日くらい家で眠る生活をつづけているうちに、やがて忘れてしまった。わたしの、目にみえるものへの興味なんて、それくらいのことでしかなかった。

 ピオーネをパックに入れたまま軽く洗い、透明なボウルに盛りつけてダイニングテーブルに持っていった。柳はまだドレッサーの前にすわっていて、鏡を覗きこんだりからだを引いたりしながらメイクの具合を確かめている。柳の手もとには円形のケースのコスメが置かれている。たぶん、受粉の済んだ桜の蕊のような濃いピンクと真新しい地球儀の海のようなはっきりとしたブルーとインコの体毛のようなきらびやかさと柔らかさを併せ持ったイエローの三色がホールケーキをカットしたときのようなみっつの扇型が円形に並んでいる、柳がさいきん気に入ってよく使っているアイシャドウだ。たしか春まえに出た新作だったとおもう。きっとまぶたの上でグラデーションをつくっているのだろうけれど、わたしにはあの三色をどう塗れば濁らず美しく仕上がるのか見当がつかない。わたしは柳のメイクが終わるまでダイニングテーブルの椅子にすわってからだを後方にひねるようにして柳の横顔を眺めていることにした。生まれたときからずっといっしょにいて、生きてきた日々の数だけ見ている顔だけれど、飽きることはなくて、むしろ愛おしかった。いつまでも見ていられる顔だ。茶色がかって透明感のある大きな瞳も、ほどよく高くてまっすぐな鼻も、すぐに微笑むことができるように端がすこし上がっている口も、どれもよく知っていて、すきだ。それがじぶんの顔ととてもよく似たものだとしても、わたしはじぶんの顔よりも柳の顔のほうが綺麗だとおもう。愛のような感情でそうおもう。

 ずっとおなじ顔を見てきたつもりでいるけれど、ときどきいま見ている柳の顔と記憶のなかの柳の顔が重なって、むかしと比べると顔の輪郭や目の丸みの具合が変化していることに気づき、大人になっていくことへの喜びと、これから先の未来がきちんと続くのか、あるいはどれだけ残っているのかがわからない混乱とが綯い交ぜになって、あたまのなかがくらくらすることがある。未来、というのは、意識してみても雨が降りだしそうな薄暗い灰色の雲みたいな靄がかかっているような感じでよくわからない。半世紀後、十年後、一年後、半年後、あしたのことも予想がつかない。わたしたちにとって大切なのは過去を振り切って存在するいまこの瞬間であるはずなのに、あしたのためになにかを選択したり、永劫を求めそうになるのはどうしてなのだろう。

 おたがいに無言のまま時間が過ぎ、柳がようやくドレッサーの前から立ちあがってこちらを振りむいた。アイシャドウは目頭からピンク、イエロー、ブルーの順番に淡い縦割りグラデーションになっていて、柳のまぶたに雨上がりの街や虹に似た光がともったみたいで綺麗だとおもった。

「お待たせ」

 柳がダイニングテーブルまでやってきて、わたしの右隣にすわる。

「まぶた綺麗」

「ありがとう。唯花にもやってあげようか?」

「ふふ、また今度お願いするよ。今日は……」

「そうだね、また今度」

 わたしたちは約束をして、手をあわせた。

 いただきます。

 柳は親指と人差し指でピオーネを二、三個つまんで、ひとつずつ順番に口に入れる。わたしも指で一個つまんで口に運んだ。前歯を立てるとピオーネの張りつめた皮は破けて、途端に崩れて柔らかい実が現れ、瑞々しい果汁が寝起きの口のなかに甘い水分を与えて少しの酸味が舌を優しくひりつかせる。

 果物をたべているとからだに残っていた眠気がほどけて消えて、じぶんのかたちを保っていられるような気がする。でも、眠りながら触れていた柳の手から体内に流れこんできていた柳の気配まで消えていってしまうのは寂しかった。

 柳がいるから、わたしはわたしでいられるのだ。

 風が吹いて、ベランダのカーテンが光りながら膨らんだ。

 さく、さく、と柳がピオーネを咀嚼する音が鼓膜を震わせる。大切なひとが、わたしの隣で生きている。唾液の絡んだ水音を立てながら口のなかのものを嚥下して、反動で息が鼻から抜ける音までも耳でとらえることができた。また二個同時にピオーネをつまもうとして、柳が手をとめる。

「唯花、あんまりたべてないね」

「そう?」

 じぶんの口から出た返事の白々しい響きにじぶんでも笑いそうになる。ボウルのなかのピオーネは柳がすわっている右がわのほうだけ減っている。それに対して左がわは山になっていて、左から右にかけてピオーネの斜面を形成していた。だいぶましになったとはいえ、あの日の嘔吐のせいで物をたべると未だに吐き気が喉の奥から突きあがってくるのだった。たべものを喜んでくれるのは口腔だけで、それ以外の器官は拒否反応を示していて、気だるく、重力に素直に従うように食道から臓器を重たくぶらさげていた。

「うん。こっちむいて」

「うん」

 言われるがままに柳のほうに顔をむけると、柳がわたしのくちびるに一粒のピオーネをあてがう。すべすべしたピオーネの皮の感触と水滴がくちびるを冷やす。

「ん」

「ほら、あーん」

「んん……」

 すこしずつくちびるをひらく。そしてピオーネを咥えるようにして口のなかに受けいれる。噛んでいるうちは平気だけれど、飲みこむとやはりすこしきもちわるくなった。表情を変えないように眉頭や頬の筋肉に力を入れるけれど、柳は訝しげにじっとわたしの顔を見つめつづける。

「あの日、なにがあったの?」

「え?」

 とぼけようとしたら、柳がわたしの右手をとり自らの左手の傷痕と重ねあわせた。

 これは、いつの記憶だろう。黒板の上に「One for all, All for one.」という学級目標が黒い油性マジックで書いてある淡い水色の画用紙が貼りつけられているから、柳はわたしのクラスのほうに出席しているらしい。だから、きのうのことなのだろう。この二週間のあいだに柳は四回学校に通っていたけれど、きのう以外の三回は柳として柳自身のクラスに通っていたはずだから。記憶のなかの柳は休み時間を自席で過ごしているようで、クラスメイトたちは立ちあがったりひとりの席に椅子を寄せたりしながらおしゃべりをしている。相変わらず、磨りガラス越しに面会しているみたいにみんな顔がぼやけていて誰が誰だかわからない。

『あの、唯花ちゃん』

 視界が声を追うように右がわに動く。ひとが立っている。この声は奏美ちゃんだとおもうと、靄が晴れて奏美ちゃんの顔が現れた。

『なに?』

 嘘もわざとらしさもない素直な疑問の声が柳の口から発せられる。

『えっと……体調、大丈夫?』

『うん、もう平気だよ』

『そっか。あの、ごめん……ごめんなさい』

 奏美ちゃんがあたまを下げる。泣きそうになっているのか、それとも泣いているのか、声が震えていた。柳は呆気にとられているようで、記憶のアングルは奏美ちゃんの髪をひとつにくくっている紺色のヘアゴムばかり捉える。ヘアゴムの先のするするとした長い髪が揺れて、奏美ちゃんが遠慮気味な感じでぎこちなく顔をあげた。

『……クレープ屋さんの隣、ラーメン屋さんだったでしょ?』

『そう、だっけ?』

 記憶を見ているだけでも柳の緊張感が伝わってくる。クレープ屋さんの隣はたしかにラーメン屋さんだったけれど、あのときおんなのこたちと遊んでいたのはわたしであって柳ではなかった。

『うん。それでね、ラーメン屋さんの前に置いてあった調味料をね、夏音ちゃんがクレープにかけたの、見えてたんだ。わたし、お店のほう向いてすわってたから。なにをかけたかまでは見えなかったんだけど、辛い系のやつだとおもう』

『……うん』

 ――なにが言いたいの。

 記憶のなかの柳のおもったことが映画の字幕のようにはっきりとした文字のことばとしてわたしのあたまのなかに飛びこんでくる。そのことばは実際には目にみえないはずなのに乾きかけの黒い絵の具のような暗い色をしていた。

『たぶんね、ほんとは光記にたべさせてからかうつもりだったんだとおもう。けど、唯花ちゃんがたべちゃって……その、ごめんなさい。わたし、とめられなくて』

 謝る奏美ちゃんからアングルが外れ、教室内をぐるりと見渡すように記憶の映像が動く。誰が誰だかわかっていないながら、柳は奏美ちゃんのはなしに出てきた夏音ちゃんの姿を探そうとしたのかもしれなかった。

 ふっと記憶の映像が消えてわたしの視界はいまいる部屋の景色に戻った。柳が傷痕から手を浮かせ、それからわたしの手首を掴む。

「なんで教えてくれなかったの? 酷い目に遭ったって」

 手首を掴む力が強くなる。爪がすこし食いこんで、痛い。

「酷い目って、変な調味料かかってたの知らなかったし、ああいう味なのかなって……」

「嘘。だいたい、あんなクレープたべること自体唯花らしくないじゃない」

「それは……」

 そのとおりだった。でも、光記ちゃんを放っておけなかったのもほんとうだった。説明のしようがないとはいえ、あのとき湧き起こったきもちに嘘はないのだ。間違ったことはしていないはずだ。

 柳が手の力を緩める。爪の食いこんだ痕の残る皮膚がひりひりと湿っぽく痛んだ。

「わたし、ようか? あのひとたちくらい壊しても」

「それは駄目!」

 わたしはわたしがおもった以上に叫んでいた。柳がはっと夢からさめたようにわたしの顔を見る。このはなしをしているあいだ、わたしたちはむかいあっているようで目をあわせていなかったのだった。

「そんなことしたら、柳がいちばん傷つくじゃない。おかあさんのときだって」

「あれは!」

 なにかことばを探すように、あるいは手繰り寄せたことばを見送るように柳は喉から呻きのような唸りのような音を出し、やがて、なにも言わないことにしたらしく黙ったままわたしの手首を離した。わたしのあたまのなかではあの日のできごとが暗い空間で煌々と流れる映画のように再生されていて、悲しいおもいでの微熱がぶり返す。眼球の裏の湿りが強くなっていく。

 柳はピオーネをひとつ口に入れ、ぬるい、と呟くにしてはやけに大きな声で言ってからボウルを持ってキッチンに行った。わたしはキッチンの横の短い廊下を通り、洗面台で顔を洗った。水に濡れた顔をあげて鏡を見ると目の下の薄い皮膚が赤く膨らんでいて、きょうはメイクをしたら不自然なからだなのにコンシーラーをどれくらい塗ればいいか考えた。泣いていなかったふうに、いつもの顔にするにはどうしたら。想像しながら、胸焼けのときに起こるいやに固い唾液を飲みこんだ。

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