桜吹雪

 いただきます、とおんなのこたちがいっせいにクレープにかぶりついた。タルタルチキンサラダクレープをたべている光記ちゃんも、ほかの三人とおなじようなスピードでたべ進めている。きっとみんなが冷やかすほど不味くないのだろう。わたしも覚悟を決めて、クレープを口に入れた。

 反射のように空いているほうの手が口もとへと動いた。

 舌が、熱い。

 じぶんの体温よりもすこし冷たい唾液が舌の裏に溜まっていく。そのくせ、クレープに唾液が浸透していかなくて、ぱさついたまま、口のなかで具材がばらばらになっていく。

 大きな塊のままのクレープを無理やり飲みこむと、体内のあらゆる細胞が、ぐるっと、呻いた。

 舌の熱が口のなか全体に広がっていく。

「唯花ちゃん!」

 背後からだれかが呼ぶ声がした。わたしは、いま、どこにいるのだろう――晴れた空のしたで、小さな光がきらきらと漂っている。いいや、違う。これは、桜吹雪だ。冷たい春の風にあおられて、桜の花びらが歩道橋よりも高いところまで舞いあがっていた。わたしは走った。雨に剥がされて茶色い錆になってしまった、かつてはさみどり色だったはずの古い歩道橋をかんかんと音を鳴らして駆けていく。むこうがわには、あなたがいる。わたしは走った。肺に入りこむ春の乾いた空気がからだを重たくしていく。海に足をとられるみたいに。ふと、右手になにかが触れた気がして目をむける。傷痕がぱっくりとひらき、桜の花びらが吹きだしている。はっとしてむこうがわにいるあなたを見る。あなたも左手の傷痕から桜の花びらを散らせて、消滅しようとしていた。この桜吹雪は、わたしたちなのだった。なかなか辿りつけないでいるうちにあなたは完全に消えてなくなり、わたしも肉体を失っていった。涙のしずくが、薄い雲を帯びた空へと舞いのぼった――目をあけると、柳が隣でからだを横たえていて、わたしの右手の傷痕にじぶんの左手の傷痕を添わせるようにして手を握っていた。花の湿ったにおいがする。わたしたちのマンションの寝室だった。

 目があうと、柳はわたしを抱き寄せた。からだを触れあわせるくらいの、優しい抱きかたで。柳の腕は、わたしを決して壊さない。

「ごめんね、唯花」

 柳が鼻をつまらせたような、泣きだしてしまいそうな声を出す。

「わたし、どうして……」

「ショッピングモールで倒れたんだよ。だから、医者の息子に回収してもらったの。救急車が来るまえに」

 救急車。そのことばを聞いただけで、また意識が眩んで消えてしまいそうになる。背筋がぞっと冷える響きだ。あのクレープをたべて体調を保っていられる自信はなかったけれど、まさか倒れてしまうなんて。

「ほんとうに間にあってよかった。危ない目に遭わせてごめんなさい」

「柳のせいじゃないよ。わたしが迂闊だったの。心配させてごめんなさい」

 柳が腕に力をこめたので、わたしも柳の細いからだに腕をまわして抱きしめた。朝にはなかったはずの胸のふくらみが顎に当たる。逆に、わたしにあったはずの胸は縮んで真っ平になり、張りや圧迫感が消えてからだが軽くなっている。

 死んじゃったらどうしようかとおもった。ほんとうの声なのか、こころの声なのか、柳がそう言ったような気がした。馬鹿ねえ、柳を置いて死ぬなんて、死ぬわけないでしょう、と軽口のようなことを言おうとして、けれども確証がなかったから胸のうちに秘めておいた。

 こほん、とだれかの咳払いが聞こえて、わたしは柳を抱きしめたままあたまだけを動かして音がしたほうを確かめる。寝室の扉の横で、黒髪をうねらせた医者の息子がミトンをはめた手で鍋を持って立っていた。黒いパンツを履いた長い脚の片方をもう片方の脚にクロスさせている。

「医者の息子」

「蘇生、ちゃんとできたんだな。左手どろどろで大変だったんだぞ」

「そうなの?」

 柳を抱くのをやめ、からだを起こして左手を見る。そこにあったのはいつもの左手で、これといった異常はなさそうだった。

「そうだよ、柳が傷痕から毒素抜いて蘇生してくれたんだから感謝しろよな」

「そっか……ありがとう、柳」

 まだ寝そべったままでいる柳のあたまを撫でる。いいよ、気にしないで、とかすれた声を出して、柳は天井の明かりに眩んだのか目を細めた。

 医者の息子は脚をクロスさせるのをやめ、わたしたちのベッドのほうに歩み寄る。それからすぐ横にある、湿気で崩れそうになっている小さな木のテーブルに鍋をそっと置いた。中を覗きこむと、ゼリー状のものがレモンのにおいの湯気をたてて金色の鍋のなかで不透明に固まろうとしている。

「で、唯花。なんであんなもん食ったわけ? タルタル、えっと、なんだっけ」

「タルタルチキンサラダクレープ?」

「それそれ。おともだちが言ってたぞ、それ食って倒れたって。きみらは果物とかデザートとか、そういうの以外はたべられないんじゃなかったわけ?」 

「そうだよ。からだのなか、すごく油っぽくなってた。手、繋ぎながら、わたしも溶けちゃうかとおもったよ」

 医者の息子も柳も呆れたふうに言うから、わたしは苦笑するしかなかった。光記ちゃんのこと。ほかのおんなのこたちのこと。だれかの事情に構っていられるような身じゃないのにすこし無理をして踏みこもうとしたことを、ふたりにどう説明すればいいのかおもいつかない。わたしたちはただ、花に湿らされた寝室で眠りから覚め、甘いような苦いような秘密を大事に抱え、一日を安静に生きていけばいいのだから。

 ふ、とわたしは息をもらす。

「からだが弱いっておもってもらえれば、遊びの約束も断りやすくなるでしょう?」

 声に感情がこもらないように気をつけながらことばを発した。

「まったく、命のかけかた間違ってるだろ、それ」

 医者の息子はひとつ溜め息をついてから、ほら、はちみつレモン寒天だ、と柳とわたしに木のスプーンを渡して、ふたたび鍋を持ちあげた。粗熱くらい取りなよ、と柳がぶうたれたけれど、うるさい、おとなしく食え、とまだ熱をもっている鍋をベッドに直に置いた。

 冷えていない寒天は口のなかでもさもさと崩れて食感がわるくて、レモンの香りがするわりにはちみつの甘さばかりが目立っていて味もいまいちだったけれど、それは医者の息子なりの優しさで、なにより、温かいものがからだを満たしていく幸福に似た感覚が強く押し寄せてくることに安堵することができた。

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