事情

 駅に着くと、四人は券売機の上に設置されている路線図を見上げてどこの駅で降りるか相談しはじめた。みんなあまり電車に乗らないらしい。ここまでの道中で聞いた話ではショッピングモールに行くらしいから、七駅先の、わたしがいつも乗り換えをする都会の駅でいいはずだ。

 ふと、無意識のうちにポーチのなかの定期券を探していることに気づいて手をとめる。わたしもいまは切符を買わなければならない。ポーチからそっと手を出す。手のやり場に困って、そのままキャスケットに触れる。四人が佇んでいる券売機付近に列ができつつあった。平日の朝と比べるとそれほど混んではいない。けれども、電車に乗ろうとするひとの流れが途切れることはない。

「あの」

 じぶんの発した声がおもったよりも大きくて驚いた。

「ん、なに?」

 夏音ちゃんが振りかえり、ほかのおんなのこたちもわたしに視線をむける。

青星あおぼしが丘でいいとおもうよ」

「え、そうなの?」

「うん。あの、七つ先の……」

 キャスケットに触れていた手で路線図の青星が丘駅を指さした。手が震えるのを、腕に力を入れてとめようとする。けれども肘から先ががくんと大きく揺れてしまう。これでは四人に不審がられるのではないかと心配したけれど、みんな路線図のほうを見ていて気づいていないらしかった。

「特急なんだけど、あの、違ったらごめんね」

 指をさす手の力を緩めて、腕をおろす。だれもなにも言わない間が怖い。ぜったいに合っているのに予防線を張るように謝ってしまって、じぶんの頼りなさが嫌になる。

 光記ちゃんのあたまが揺れて、それから振りむいた。

「そんな、唯花ちゃんが言うんだから間違いないって」

 その顔が笑っていて、胸のなかでつっかえていた不安も緊張もすとんと落ちて消えていった。

「何円?」

「えっと……」

 おんなのこたちがやっと切符を買って改札へと歩きだすと、券売機の列がなくなり、滞っていた人波が動きだした。わたしもそそくさと切符を買って改札を通った。

 特急電車に乗りこむと、先に乗った四人がふたりがけの座席をむかいあわせにしてすわっていた。わたしがそばまで行くと、あっ、とみんなが声をあげる。

「席、足りないね」

「ううん、どうする?」

「わたし立ってるよ、唯花ちゃんはすわって」

「じゃあつぎの駅ついたら立つの代わる」

「じゃあそのつぎわたし」

「はいはい、唯花ちゃんはすわってすわって」

「あ、あの……?」

 なにか言う隙も与えられず、気づいたときにはわたしは奏美ちゃんの隣にすわっていて、光記ちゃんが座席のふちについている丸い手すりを掴んで立っていた。電車はもう走りだしていた。ごめんねとありがとうを言うべきだとおもいつつ、四人の話題はもう変わっていて、言うタイミングはすでに逃してしまっていた。わたしは会話に混ざることもせずに、窓がわにすわっている奏美ちゃん越しに移りゆく景色を眺めた。学校の行き帰りに、もう何百回も見ているのに、電車が進むごとに後方に流れていく景色を見るのは飽きない。手前にある建物はすぐに過ぎ去り、遠くにある建物はずっとそこにあるように見えるけれど、いつの間にか消えていく。気づかないくらいの速度で、ゆっくりと。

 柳。

 この距離では届かないだろうなとおもいながらも、マンションにいる柳に話しかけていた。返事はない。届いたとしても、眠っていて聞こえていないかもしれない。

「あ、あれって水族館?」

「ん、どれ?」

 あれあれ、と流れ去っていく景色のうちのひとつを聖奈ちゃんが指さした。

「うん、そうだよ」

「そっか。まだ行ったことないんだよね」

「あれ? 遠足で行かなかったっけ?」

「わたしいなかったもん。前の学校のときだし」

「聖奈、転校生だったもんね」

「そうだっけ」

「そうだよ、中一の秋だもん。こっち来たの。遠足って入学してすぐだったんでしょ?」

 唯花?

 はっとする。ノイズばかり流していたラジオが急に電波をとらえたみたいに、柳の声がすっと胸に飛びこんできた。

 聞こえるの?

 聞こえるよ。どうかした?

 なんでもない。声が聞きたかっただけ。

 ふふ、いっしょだね。わたしも声が聞きたいなっておもってたよ。

「唯花ちゃん?」

「へ?」

 むかいの席にすわっていた夏音ちゃんに急に名前を呼ばれる。視界に入っているようでちゃんとは見ていなかったみんなの顔を順番に見る。四人ともさっきまで話していたはずなのに、会話をやめてわたしに視線をむけていた。

「な、なに?」

 つぎは、と車掌による停車駅のアナウンスが流れる。

「いや、なんか嬉しそうな顔してるから。なにかいいことあった?」

「ええ、えっと……」

 両手で顔の輪郭を覆うようにして頰に触れる。こころなしかいつもよりも熱い気がする。どうやらこころのなかで柳とことばを交わせたことの喜びが顔に出てしまっていたらしい。そうおもうと恥ずかしくなってきて、頰の温度がますます高くなった。

「わあ、真っ赤になった」

「あはは、唯花ちゃんかわいい」

 唯花?

「えっと、その……あ、光記ちゃん!」

「え?」

「席、代わるよ! ほら、もうすぐ駅に着くから」

 窓の外を指さす。駅のすぐ近くにある整形外科の緑色の看板が過ぎ去っていった。まだ景色は動きつづけているけれど、電車はホームに入ろうとしていて速度を落としている。

 唯花? 聞こえてる?

 聞こえてる。ちょっと待って。

「あー、えっと……」

 なにそれ。唯花が話しかけてきたのに。

 ごめんなさい。でも、お願い。

「わたしはいいよ、ずっと立ってる。みんな、立たせるのわるいし」

「え?」

 電車がとまる。からだがすこし前後に揺れた。光記ちゃんの顔を見ると、笑っているときみたいに口角があがっていた。けれども、目もとには泣いているときみたいな皺が寄っている。窓がわにすわっている奏美ちゃんと聖奈ちゃんは窓のほうをじっと見ている。さっきまでと空気が違う。この席にだけ漂う静けさが鼓膜をちくちくと刺すようで、痛い。目と耳はいまいる場所に集中させていたつもりだったのに、柳をたしなめているうちになにかあったのだろうか。

「なんのはなし、してたっけ?」

 窓がわの席にからだを寄せるように脚を組みながら、やけにぶっきらぼうな口調で夏音ちゃんが言った。

「……水族館の、はなし?」

 すこし間をおいて、夏音ちゃんをちらと見ながら聖奈ちゃんが答える。

「あー、聖奈行ったことないんだったらさ、今度行こうよ。ね?」

 奏美ちゃんが、どこでもないところに視線をむけている夏音ちゃんとうつむき気味の聖奈ちゃんの顔を交互に見る。

 電車のドアが閉まる。

「それ、いいじゃん」

 電車が動きだすのとほぼ同時に夏音ちゃんが手を叩いて、右手の人差し指をふたりにむけた。それからからだを窓がわにおもいっきり寄せる。

「みんなで行こうよ。聖奈のおもいでづくりにさ」

「え、いいの? 嬉しい!」

「受験まえに行けるといいよね」

「だね」

「いっそ来週行っちゃう?」

「わたし行ける」

「聖奈は?」

「ううん、来週は無理かな」

「じゃあ駄目か」

「再来週は?」

 また空気ががらっと変わって、三人はさっきとおなじようにころころと会話しはじめた。わたしはさいしょの約束と違ってずっと立ったままでいる光記ちゃんの顔を見上げた。光記ちゃんは相変わらず泣いているのか笑っているのかよくわからない表情をしている。

 大丈夫かな。

 え、なにが?

 柳に訊かれる。おもったことをついこころのなかでことばにしてしまった。

 ちょっとね。

 声、暗いよ。どうしたの? 唯花が悲しいのは嫌。

 なんだろう、人間……。

「唯花ちゃんはどう?」

「え?」

 夏音ちゃんに話を振られる。

 人間? が、なに?

「再来週の日曜日。空いてる?」

「ああ、その、またしばらく家の手伝いがあるから出てこられないかな。ごめんね」

 えー、と三人が残念そうな声を出す。光記ちゃんは黙ったままだ。

 人間するのたいへんだなっておもったの。

 そう言うと、ふふ、と柳が鼻で笑うのが聞こえた。

 そんなの、ずっとまえから知ってたじゃない。わたしたち。

 三人が、わあ、と歓声をあげて、窓の外の景色に釘づけになった。奏美ちゃんの後ろからあたまを出すようにして首を傾けてみると、大きな川に沿って満開の桜並木がつづいている。桜が散ってしまえばなんでもない風景になってしまうことを、おんなのこたちは知らない。

 生きることにこだわっていると、春はこころのなかをざらざらさせる。こんなに苦い季節が美しいことに戸惑ってばかりだ。

 春だねえ。

 わたしは呟いた。

 うん、春だねえ。

 そう柳が返事をして、そういえば家を出るまえにもおなじことを言っていたなとおもった。

 目的の駅に着き、電車を降りた。中学がある街の駅よりもホームが長く、ほかの在来線や地下鉄の駅ともつながっている大きな駅だ。おんなのこたちはきょろきょろと辺りを見渡して改札を探す。わたしはどっちに進めばいいか知っているけれど、なにも言わずに光記ちゃんの横に立っていた。光記ちゃんはさっきよりは明るい顔をしている。けれども待ちあわせのときよりも笑顔が少ない。ほうっておいたほうがいい、と柳の声ではなく、わたし自身の声が脳内で文字となって忠告してくる。光記ちゃんとほかの三人のあいだでなにが起こっているのかわからない。わからないからこそ、だれといっしょにいるべきか慎重に選ばなければならない。わたしたちは目立ってはいけないから。すべてはなめらかに、生きのびるために。

 でも、わたしには光記ちゃんを敵対する理由なんてない。

 弱虫、とじぶんに毒づくと、そうかな、と柳が眠たげなはっきりとしない声で返してきた。

 三人が正解の方向にむかって歩きだしたので、わたしも光記ちゃんと並んでその後ろをついて歩いた。都会の駅はひとが多い。あまり離れすぎると三人とはぐれてしまいそうだったけれど、光記ちゃんの歩くスピードにあわせてゆっくりと歩く。

「なんか、ごめんね」

 急に光記ちゃんが謝りだす。

「え?」

「唯花ちゃん、人混み大丈夫なのかなっておもってさ。しんどくない?」

「平気だよ。ありがとう」

「そっか、よかった」

 そう言って微笑んだ顔は自然なもので、ほんとうに安心したときにするような表情だった。胸のなかできりきりと痛みがはしる。光記ちゃんこそ大丈夫なの? と訊きたかった。でも、それは踏みこみすぎだから駄目だ。近づきすぎてはいけない。じぶんのことを心配してくれるひとに、わたしはなにもできない。

 ショッピングモールに着いて、まずは三階にあるフードコートに行くことになった。まだお昼をたべるには早い時間だけれど、混むまえにたべてしまってもいいんじゃないかというはなしになったのだった。

 唯花。

 なに?

 い……ってう……る?

 え?

 さっきまで鮮明に聞こえていた柳の声にノイズが混じる。

 いち……うっ……?

 なんて? よく聞こえない。

 ……ごって……?

 柳? 柳?

 イヤホンをしているわけでもないのに耳に手をあてる。ザーという嵐のような雑音が強くなり、しばらくするとなにも聞こえなくなった。同時に、ひとびとの会話や子どものはしゃぐ声が一気に鼓膜に押し寄せてくる。どうやらショッピングモール内の騒がしさが柳の声を阻んでいるらしい。

 一度うるさいとおもってしまうと音がやたらと気になってしまって、あたまがぐらぐらする。通学で駅には来るけれど、ショッピングモールに入ったのはかなりひさしぶりだった。まだおかあさんといっしょに暮らしていたころに連れてきてもらったのだった。と言っても、ソフトクリームをたべたことくらいしか覚えていなくって、なにを買ったのか、なんのために訪れたのかは忘れてしまった。

 重大なことに気づいていなかったころ。

 あのころの記憶は春の夕陽みたいに温かくて、優しくて、でも、柔らかすぎて壊れてしまった。

 フードコートはエスカレーターを降りてすぐのところにある。前を歩いていた三人は真っ先にクレープ屋さんにむかった。クレープは食事に入らないとだれかが反対していたけれど、もう忘れてしまったらしい。

 お店の前にあるメニューの看板を見る。

 プレーンクレープ、チョコバナナクレープ、苺クレープ。

 右手の人差し指を顎に当てる。どれならたべられるだろう。

「え、なにあれ?」

 笑いながら聖奈ちゃんが店舗の上のほうを指さした。そちらには電光掲示のメニューがある。

 ツナマヨクレープ、ソーセージクレープ。

 デザートというより食事に適していそうなクレープだなとおもう。このふたつはたべられそうにない。右はしには、生地に巻かれたチキンとレタスにアイスクリームのようなものが円形にたっぷりと盛りつけられているクレープが載っていた。

 なに、これ。

 ひゅっ、と胃か腸かわからないけれど臓器が冷えるような感覚がした。

「え、アイス乗ってんの?」

「タルタルチキンサラダクレープだって」

「えー、なんか微妙そう」

「ていうかタルタル多すぎじゃない?」

「うーん……あ、そうだ。光記」

「ん、なに?」

 光記ちゃんが返事をすると、夏音ちゃんが振りむいた。にたにたした笑みをうかべて。

「あれたべなよ。タルタルチキンサラダクレープ」

「え」

「嫌なの?」

 夏音ちゃんは小首をかしげる。仕草や癖というにはわざとらしい動作だった。光記ちゃんは口ごもっている。きっと、どうするのが正解か考えているのだ。奏美ちゃんと聖奈ちゃんも黙っている。わたしはおんなのこたちの顔を順番に見ながら、三年生になってからのクラスの様子をおもいだそうとした。けれど、とくに気になるようなことはなかったし、あまり学校に行っていなかったからおもいだすにも材料がなかった。

 沈黙がつづく。

 ふっ、と光記ちゃんが表情を和らげた。

「いいよ。たべる」

 その声には楽しいというきもちがきちんとこもっているように聞こえた。

「さっすが、ゲテモノ担当」

「あはは、すっごく美味しかったらどうしよう」

「えー、ぜったい微妙だって」

「そうかなあ」

 ぴりぴりとした空気が徐々に緩んでいく。夏音ちゃんの笑みもいじわるなものではなくなって、いたってふつうのおんなのこの笑顔になった。それが表面上だけのことだとしても、わたしはほっとして、そして、ほっとしてしまったことが腹立たしかった。光記ちゃんは正解をみつけて、正しく振る舞ったのだ。でも、状況を悪化させないために夏音ちゃんの提案にのったのであって、じぶんのほんとうの意思は曲げている。それを、ほんとうに正しいといってやりすごしてしまっていいと、わたしはおもえなかった。

 もう一度おんなのこたちの顔を眺めて、今度はじぶん自身の立ち位置を考えた。おんなのこたちの輪のなかで、わたしはなにをしてもいいのか。あるいは、なにをしてはいけないのか。考えながら、こころの隅でははやく家に帰って柳と手を繋いで眠りたいとおもっていた。わたしが安心して過ごせるのは柳の隣だけだ。外の世界はだれかの事情とそのまただれかの事情が絡まりあっていて、そのひとたちのあいだを歩くだけで精一杯になってしまう。

 みんなでぞろぞろと店舗のすぐ前まで行くと、いらっしゃいませ、と女性店員が作業していた手をとめて微笑んだ。順番に注文を言っていく。三人がごくふつうの甘いクレープの名前を口にしたあと、光記ちゃんが例のクレープを注文する。夏音ちゃんがくすくすと嫌な笑いかたをした。

「唯花ちゃんは?」

 奏美ちゃんに訊かれる。わたしは鼻からゆっくりと息をはきだした。

「……タルタルチキンサラダクレープ、もうひとつください」

 えっ? と光記ちゃんが声を漏らしてわたしのほうを見た。

「ちょ、唯花ちゃん、あれたべるの?」

 聖奈ちゃんが声をひそめて、早口で訊いてくる。ちら、と視線だけ動かして夏音ちゃんの表情を確かめると、口を半びらきにしてこちらを見ていた。じぶんが仕立てあげたのとは違うストーリーがはじまったことに戸惑っているらしい。

「うん。わたしもたべてみたいから」

 口角と頬骨があがりすぎないように気をつけながら笑顔をつくる。足の震えをとめようと力むと、太ももの内がわだけがびくんびくんと不気味に振動した。かしこまりました、と女性店員が返事をして調理をしているほかの店員たちにむかって大声で注文を告げる。

「へ、へえ。なんか意外だね」

 奏美ちゃんが言った。すこし声が裏返ってしまったのを無理やり押しこめたせいで、喉にからんだざらついた声になっていた。

「そう?」

「唯花ちゃんってこういうのたべなさそうだもん」

「ていうかめっちゃ細いよね。ふだんなにたべてるの?」

「ふだんは……」

 あまり言い淀まないようにとおもいつつ答えに迷っていると、女性店員がクレープを差しだしてきた。チョコバナナクレープです、ということばに反応して、聖奈ちゃんがすこし背伸びをして女性店員からクレープを受けとった。厨房のほうに目をむける。クレープの薄い生地を焼いているひとと、クレープを巻いてフルーツをトッピングをしているひとがいる。その奥で、もうひとりがなにやら作業している。タルタルチキンサラダクレープの具材とおもわれるレトルトの照り焼きチキンのパックとレタスを用意しているのが見えた。唾を飲みこむ。喉と胃がすでに気だるくむかむかしていた。

「いいなあ、細いの。羨ましい」

 さっきの質問にまだ答えていなかったのに会話が再開する。またつぎのクレープが完成して、今度は奏美ちゃんが受けとりに行く。

「そうかな? 聖奈ちゃん、細いとおもうけど」

「いやいやいや。めっちゃ肉ついてるから」

「そうなの?」

「ほら、脚とかぱんぱんだし」

 聖奈ちゃんがわたしのほうへ右足を一歩出す。フリルつきの短いスカートから伸びている黒いタイツに包まれた脚は、本人が言うほど太くはない。タイツ越しではあるけれど、ほどよく肉がついていて柔らかそうな脚だなとおもった。ふと、じぶんの二の腕に触れてみる。皮膚を剥いだらすぐに骨がむき出しになってしまうのではないかとおもうくらい、肉がない。もともと太ってはいなかったけれど、中学生になってからかなり痩せてしまった。おかあさんと暮らしていたころとは違って、すきなものばかりたべて過ごしていたら、柳もわたしもみるみるうちに体重が減っていったのだった。重いよりは軽いほうがいいけれど、お気に入りの服がぶかぶかになってしまうことにはすこし困っていた。

 女性店員に呼ばれて、夏音ちゃんがクレープを取りに行く。これで残すところは光記ちゃんとわたしが頼んだクレープのみとなった。

「そういえば、おうちのお手伝いってなにしてるの?」

「え?」

「ほら、その……」

 ことばに変な間があく。聖奈ちゃんが夏音ちゃんがどこにいるかを横目に確認したのがわかった。夏音ちゃんは聖奈ちゃんとわたしからすこし離れたところでクレープを持って、厨房の様子を熱心に見ている。

「みっちゃんが言ってたじゃん。唯花ちゃんおうちのお手伝いで忙しいって」

「みっちゃんって、光記ちゃんのこと?」

 聖奈ちゃんが声をひそめるので、わたしもつられて小さな声になる。

「うん。あ、みっちゃんって呼んでるのみんなには内緒だからね」

「どうして?」

「どうしても」

「聖奈、唯花ちゃん」

 なんだそれ、とおもっていると、夏音ちゃんがこっちに呼びかけてきた。

「なに?」

「先にすわっててよ。残りのクレープ、あたし持っていくし」

 そう言うと、夏音ちゃんはすぐそばにいた奏美ちゃんにじぶんのクレープを預けた。

 フードコートは混みはじめていて、到着したときよりもひとの往来がある。わたしはおんなのこたちといっしょにクレープ屋さんからすこし離れたところにあるボックス席にすわった。腰をおろすなり、奏美ちゃんと聖奈ちゃんが溜息をついた。光記ちゃんは気の抜けた、これといった感情のない顔をしている。

「なんか疲れた」

「かなちゃん、疲れるの早すぎ。まだ午前ちゅうだよ?」

「えー、いま何時?」

 苦笑する聖奈ちゃんの隣で奏美ちゃんがテーブルに肘をつき、そのままずずずと腕を伸ばしてあたまを乗せた。その両手に持っているクレープが倒れそうになったのを光記ちゃんがすかさず掴んで、代わりに持った。わたしは膝の上に置いていたポーチから懐中時計を取りだして蓋を開ける。

「十一時二十六分だよ」

「ありがと。って、それ時計?」

「うん、懐中時計」

「めっちゃお洒落じゃん。見てもいい?」

 奏美ちゃんの気だるげな声がはっきりとしたものに変わり、あたまをあげる。それから手のひらをわたしのほうに伸ばす。ぽん、と懐中時計を乗せると、奏美ちゃんは手のかたちを丸く時計を包むようにしてそっと受けとった。

「へえ、なんか唯花ちゃんっぽい」

「それ、光記ちゃんも言ってたよ」

「あはは、みんなおもうこといっしょだね。……ん?」

 奏美ちゃんがなにかを気にするような声を出す。手もとを見ると、指が懐中時計の裏に彫られた文字のでこぼこをなぞっている。あ、とおもうけれど、わたしがなにか言うまえに奏美ちゃんは懐中時計をくるりと裏返した。

「ぺたる、む?」

「え、なに?」

「これ。英語?」

 疑問を口にしながら、奏美ちゃんは聖奈ちゃんに懐中時計の裏を見せる。これ以上はまずいとおもいつつ、下手なことを言えば怪しまれてしまうからどうすることもできない。迂闊だった。

「えー、こんな英語ある?」

「ブランド名なんじゃないかな? ね、唯花ちゃん」

「う、うん!」

 ずっと黙っていた光記ちゃんが口をひらいたことに驚きつつ、わたしはブランド名ということで乗りきることにして、うんうん、と付け加えるように大きくうなずいた。すこし不自然だったかもしれないとおもったけれど、奏美ちゃんも聖奈ちゃんも納得したようで、懐中時計の裏に彫られている文字についてそれ以上触れることはなかった。

 まるで助け船を出してくれたみたいだった。そういえば、柳のきのうの記憶のなかでも光記ちゃんはわたしたちのことを助けようとしてくれていたなとおもう。覚えていなかったり、気づいていなかったりするだけで、もしかしたら何度も。

 だから、わたしは光記ちゃんに敵意をむけることができないのかもしれない。

 クレープ屋さんのほうから夏音ちゃんが歩いてくるのが視界の隅に入った。奏美ちゃんがわたしに懐中時計をさっと渡し、光記ちゃんに持ってもらっていたふたつのクレープを受けとる。トッピングのアイスが溶けはじめていて、てらてらとしたアイスの表面に天井の明かりがぽっと映りこんでいる。

「おまたせー。はい、唯花ちゃん」

「ありがとう」

 夏音ちゃんに差しだされたクレープを一旦受けとって、隣にすわっている光記ちゃんに回す。すると、あ、と夏音ちゃんが声をあげた。

「どうかしたの?」

「あ、えっと……唯花ちゃん、そっちたべなよ」

「え? どっちもおなじクレープだよね?」

「う、うん。そうだ、けど……」

 じゃあ、はい。変な間をあけてから、夏音ちゃんはわたしにもうひとつのクレープを手渡した。クレープを上のほうから観察してみる。メニューの写真のとおり、生地にレタスが敷かれ、そこに照り焼きチキンと、アイスクリームのトッピングのような丸いかたちになっているタルタルソースが盛りつけられている。味のまえにたべにくそうだとおもった。向かいにすわっている奏美ちゃんと聖奈ちゃんが顔をひきつらせつつ、夏音ちゃんのためにすわる位置を詰めた。

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