One.
夏迫杏
第1章 春/薄い硝子、事情、桜吹雪
薄い硝子
桜色のアイシャドウをまぶたにのせたら泣きそうになって、深紅色のアイラインを引いた。春の儚さを打ち消したかった。
両性具有の天使だったころのことなんて人間はみんな忘れていて、そのくせ、癒着するようにだれかを抱きしめている。繰り返して、繰り返して、もう何回め。薬局のレシートや避妊具の空き箱の数をかぞえたらわかるかもしれない。
でも、そういうのは実数にしないほうが美しいからかぞえないでおく。愛とか祈りとかそういうのは目にみえないほうが信じられるように、世界はできているから。
寝室の扉が開く音がして、しばらくするとドレッサーの鏡に
「おはよう、柳」
「おはよう、
柳はすぐ後ろまで来ると、髪をいじっていたほうの手で下着のキャミソールからむきだしになっているわたしの肩に触れた。寝室の湿度をそのまま攫ってきた柳の手は、高熱をだした子どもの肌みたいに艶やかな温度をもっていた。
「ごめんね、唯花。わたしがうまく断れなかったから」
「ううん、大丈夫だよ」
「本当に?」
柳はすこしかがんで、わたしの顔を覗きこんだ。その仕草でふわとシーツが揺れ、おへそから足もとにかけての裸があらわになる。痩せた、なにもない裸だった。きょうの柳の性別を確かめてから、シーツで隠れている二の腕のあたりに手を伸ばす。
「うん。柳こそ寝てなくて大丈夫?」
「ありがと、いまは平気」
わたしのことをすこし見つめて、まぶたかわいい、と柳が微笑んだ。柳はいつもメイクを褒めてくれる。でも、ほんとうは柳のほうがメイクが上手だ。とくにアイメイク。アイシャドウは何色も使って凝ったグラデーションにするし、アイラインもはじめからそこに線があったかのようにすっと綺麗に引く。きょうみたいに家から出られない日、柳はよっぽど調子がよくないとき以外はメイクの練習をしている。そのあとは寝室でおやつのピオーネや苺をつまみながら本を読んでいる。からだをあまり起こしていられないから。そして、学校から帰ってきたわたしにいろいろな物語を聞かせてくれる。物語は目にみえないから、いつでも美しかった。わたしたちの宇宙であり、わたしたちのことを許してくれた。
ほんのすこしだけ頬にチークを重ねて、キッチンに移動した。キッチンは対面式で、柳がカウンターのすぐそばにあるダイニングテーブルの席についたのが見えた。冷蔵庫を開けてパイン缶とみかん缶を取りだし、プルタブに指をかける。ぺき、といい音が鳴った。シロップがあまり入りすぎないように缶詰の果物を透明なボウルに移していく。ふと視線をあげると、シーツをからだにきつく巻きつけるようにしてすわっている柳が、テーブルにあごをのせていた。
「姿勢わるくなるよ、柳」
「いつも背筋のばしてるんだからいまくらい大丈夫だって」
ふう、と大きな溜め息をついて、柳は猫背をやめないどころかテーブルに両腕を投げだした。
「〈春が呼び起す思い出や感情のやさしい平凡さにかかって私だって混乱してしまいます〉」
気怠げなもそもそとした声で柳が唱えた。
「『トニオ・クレーゲル』、まえも言ってたね。気に入ってるの?」
「うん。お気に入り」
ベランダの白いカーテンがむこうがわから柔らかく光りはじめる。陽が射しているらしかった。パインとみかんを入れたボウルに三ツ矢サイダーを注ぐ。しゅわ、という音とともに液体の表面に細かな白い泡が浮かびあがり、弾け、やがて凪いで音をたてなくなった。フルーツポンチができあがった。
柳は投げだしている腕に頬をのせて、また溜め息をついた。
「春だねえ」
「うん、春だねえ」
左手にスプーンを二本握って、それからボウルのふちをつまんで持ちあげる。液面がすこし揺れて、サイダーの泡が波のひいていくような音をだした。ダイニングテーブルにむかうと、柳は顔をあげ、ようやく上半身を起こしてすわりなおした。椅子の背もたれには体重をかけずに、姿勢をまっすぐに保っている。ボウルとスプーンをテーブルに置き、わたしは定位置である柳の左隣に腰をおろした。
いただきます。
柳はゆっくりとスプーンを持ちあげ、ボウルのなかのパインを掬った。わたしもスプーンを握った。柳のスプーンとぶつからないように気をつけながらパインを掬う。いっしょに生まれてきた柳がここにいること。朝食のフルーツポンチがあること。それは、目にみえることのなかでゆいいつ美しくって、わたしは朝がすきだ。けれど、一日の破滅がはじまるのも朝だから、すこし身構えるようなきもちになりながら愛した。
「唯花って器用だよね」
ふと柳がつぶやいた。
「そう?」
「だって、遊ぼうって誘われてもちゃんと断るじゃない」
「それは、いろいろ困るでしょう? ちゃんと、断らなくちゃ」
「そうかなあ。わたし、無理だった。みんな罪のない目で見るから」
「柳のほうこそ意外だよ。おかあさんにはあんなこと言ったのに」
パインとみかんを交互に掬って口にはこんでいく。
ふわ、とカーテンが揺れて、穏やかに肌をかすめていった花ざかりの気配のする風はすこしだけ冷たくて。
また、泣きそうになった。
春はわたしたちを壊そうとするから。
いや、逆だ。わたしたちは、割れもの注意の札を貼られた春という薄い硝子のなかで、大切なものもそうじゃないものもいっしょくたにして破壊しなければならなかった。なんとしてでも、この世界で生きていくために。
「ふふ、それは言わない約束でしょう。それにおかあさんならちゃんと機能してるし、いいじゃない」
ごちそうさま、と言って柳はスプーンを置いてゆっくりと立ちあがった。フルーツポンチはまだすこし残っている。
「もういいの?」
「うん、寝る。あ、そうだ」
柳はすこしかがんで、わたしの右手をとった。手のひらどうしをくっつけて、おたがいの傷痕を合致させる。小指から手首にかけて光っているつるつるとした濃い桜色の傷痕は、わたしたちがいっしょに生まれてきた証だった。
きのうの柳の記憶が傷痕からしずかに流れこんでくる。目をとじると、教室のじぶんの席で四人の女子生徒に囲まれている光景が見えた。四人の顔はぼやけていてよくわからない。たぶんクラスのともだちだとおもう。柳はひとの顔を覚えるのが苦手だから、記憶のなかのひとびとの目鼻立ちはいつも曖昧で、そこだけ磨り硝子をかぶせたようにもやもやとしている。
『唯花ちゃんもいっしょに遊ぶ?』
ひとりが机に手を置いて顔を覗きこんでくる。これは
『えっと……』
柳がからだをこわばらせたのか、記憶の映像のアングルがすこし下がった。
『遊ぼう! わたし唯花ちゃんと遊んだことない』
『わたしもない』
『唯花ちゃん、おうちのお手伝いで忙しいもんね。あしたもお手伝いあるの?』
これは
『えー、あしたくらいいいじゃん。土曜日だよ?』
柳が光記ちゃんのことばに頷こうとしたところで、聖奈ちゃんが先に口をひらいた。記憶の映像のアングルは四人の顔を順番に眺めるように移動する。
こころのなかだけで溜め息をついたときの、胸のあたりにある臓器がきしむ感覚がした。
『えっと……うん』
困りはててついに柳が返事をすると、四人はめずらしいできごとを口々に喜び、朝の九時に校門の前に集合するという約束をしたところで記憶の映像が途切れた。
柳が手を離す。温もりの名残りがくすぐったくて、すこし手を握るようにして指で手のひらを撫でた。
ごめんね、と柳がまた謝りだしそうな気がして、すかさず手首をつかむ。それからもう片方の手で柳のあたまを引き寄せて、くちびるを重ねた。パインとみかんが混ざりあった甘い果実のにおいがして、そのあとから三ツ矢サイダーの人工的な甘みが漂ってきて吐息をざらつかせた。
しばらくそうしたあと、わたしたちはくちびるを離した。
「おやすみ、柳」
「うん。ありがとう、唯花」
柳はわたしが謝ってほしくないとおもっていることを察して、それ以上はなにも言わなかった。そして、白いシーツを引きずって、ゆっくりとした足どりで寝室に戻っていった。わたしはダイニングテーブルにむきなおり、すこしだけ残っているフルーツポンチの果肉をひとつずつ掬って口にはこぶ。三ツ矢サイダーの炭酸がだいぶ抜けてきている。砂糖水と化した液体に浸かっているパインとみかんもふやけてしまって、こころなしか味気なかった。
スプーンを持ったまま手をあわせて、こころのなかでごちそうさまを言う。食器をシンクに運び、さっと水で流してからスポンジでこする。柳がそばにいないだけで、部屋のなかは無音という耳鳴りがするくらい静寂だった。それがよくてここに住んでいる。うるさい場所には人間がいて、ひとは目のまえにあるものが正しいのか正しくないのか決めたがるから、苦手だ。
――唯花、大丈夫だよ。わたしたち、なにも間違ってなんかないから。
そうだよ。わたしたちは間違ってないよ、柳。
ここに引っ越してきたばかりのころに柳が呟いたことばにいまさら返事をしてみる。中学校から持って帰ってきた新品の制服をハンガーにかけながら、わたしに、そしてじぶん自身に言い聞かせるように発していたことば。あのころにくらべたら、わたしたちはとても強くなったとおもう。人間の視界になるべく入らないようにすることに、息をひそめて過ごしていくことに、慣れてしまっただけかもしれないけれど。
ボウルとスプーンを乾燥機に入れる。タオルで手をそっと拭いて、指先を確認する。きのうの晩のうちに塗っておいたレモンイエローのネイルは縒れたり欠けたりすることなく、綺麗に爪を覆っていた。そのまま視線を下にずらして、おなじ色に塗ってある足の爪も見てみる。足のほうも大丈夫そうだ。
キッチンから移動して、ベランダの窓のそばにある箪笥から洋服を取りだした。姿見の前に立って、白のパフスリーブブラウスに袖をとおす。すこし堅い生地は冷たくて肌が粟立ったけれど、じきにじぶんの体温と同化して生地の温度を感じなくなった。釦をひとつひとつ留めていく。ブラウスの袖と裾を軽く引っ張ってかたちを整えてから、つぎは黒と赤のチェックのプリーツスカートを履いた。腰のホックを留める。お腹まわりがすこし緩いので、箪笥の別の抽斗からサスペンダーを取りだして装着した。
ミディアムボブの癖っ毛をヘアゴムでひとまとめにして、箪笥の上に置いていたキャスケットをかぶって髪をなかに入れこんだ。すこし離れたところにあるドレッサーにむかい、あらかじめ抽斗から出しておいた桜色のリップを塗り、小さな肩掛けポーチにしまった。
行ってきます。
こころのなかで柳に声をかけると、行ってらっしゃい、とかすかに返事をしたのが聞こえた。眠気のせいなのか、体調のせいなのか、弱々しい声だった。
黒の厚底スニーカーを履いて玄関を出る。エレベーターホールまでの廊下でほかの住人と出会わなかったことにほっとした。ボタンを押してエレベーターを呼ぶ。このマンションで柳と暮らしはじめて三年めになるけれど、廊下でひとを見かけたことはない。あまりにもだれともすれ違わないからわたしたち以外だれも住んでいないのではないかと錯覚しそうになる。実際、どれくらいのひとがこのマンションに住んでいるのかは知らないけれど、十五階もあるのだからだれかしらいるはずだとはおもう。
下の階からエレベーターが到着し、灰色の扉が開いた。無人の機体に乗りこむ。真新しい機械のようなにおいと車のなかのようなにおいが混ざった、エレベーター独特の息苦しくなるにおいが立ちこめている。一階のボタンを押すと扉が閉まり、においとわたしを閉じこめて、わたしたちが住んでいる十二階からゆっくりと下降しはじめた。音のむこうがわで鳴っているエレベーターの唸りが肌をざわめかせる。そういえば、柳がまえに読んでいた小説にエレベーターに乗っているシーンがあったなとおもう。上昇しているのか下降しているのか、動いているのか止まっているのかわからないエレベーターに乗るはなし。
扉の上についている階数表示のランプは一階へとむかっている。滞ることなく、確実に進んでいく。
でも、そのなかにいるわたしは、寝室でふたたび眠っている柳は、ずっと止まっている気がする。わたしたちは日常に存在することで精一杯で、未来の輪郭を探すことすらしなくなっているのかもしれなかった。
チン、とベルが鳴り、一階に到着した。エレベーターから降り、おそるおそるロビーを見渡す。相変わらず住人はいない。たまに郵便配達員や新聞配達員がロビーにずらりと並んでいる郵便受けの前をうろついているのを見かけるけれど、きょうはそのひとたちもいないようだった。わたしは早足でロビーを通り抜けてマンションを出た。
マンションは山のふもとの、小さな森のなかにある。ほんとうに、ささやかな森。ほかの場所よりもちょっとだけ木が多く植わっているというだけで、二分も歩けばすぐに道路に出られる。道路沿いを南へ三十分歩いたところにある駅から電車に乗り、五駅先の都会の駅で特急に乗り換えて、七駅めの静かな街で降りる。駅を出ると、これから部活に行くのか中学校の制服や体操服を着たひとたちがぽつぽつと歩いている。キャスケットのつばをすこし下げ、ポーチの肩掛けベルトをぎゅっと握った。休みの日でも、学校のひとたちが歩いているのか。わたしは視線を落とした。おわりかけの沈丁花の香りを連れた風が、服から露出している頰や手などの肌をかすめて冷たかった。春の陽射しに照らされた世界で生きるひとびとをまっすぐに見つめられないことが後ろめたさだとしたら。わたしは、どこにいたって呼吸することができないんじゃないかという気がして、どうか許してほしいとおもう。だれに許してもらえば満足するかもわからないくせに、曖昧に、漠然と、そんなことをおもうのだった。視線をあげることができないわたしは、住宅街の狭い道路をさらに狭くするように引かれている白線を見ているふりをしながら中学校へと歩きだした。
ふたつめの角をいったん左に曲がって迂回する。ほんとうはまっすぐ歩いていけば最短距離で中学校に着くのだけれど、その道沿いにはわたしたちがかつて住んでいた家があるから通るのははばかられた。地面にばかり目をむけて、その視界の隅に入った景色だけでつぎに曲がる角を見定める。ベージュのレンガでできた塀のある家を右に。この家の玄関には薔薇のアーチがあって、初夏になるとピンク色の小さな薔薇がそっと息をつくように咲く。それから躑躅が家屋の目隠しになるようにぐるりと植わっている古い家をまた右に、白い大きな犬がいる家を左に曲がれば迂回はおわりで、中学校が見えてくる。校門の前で、だれかを待つように立ちどまっている姿がある。そのシルエットをなぞるようにすこしずつ視線をあげていく。紺のハイカットスニーカーに、むき出しの脚。デニムのショートパンツ。水色のパーカー。さげていたキャスケットのつばをあげてみる。そのひとは髪が短くて、桜の花びらに降られていて、やがて光記ちゃんだとわかった。校門にむかって小走りすると、光記ちゃんがこっちを見る。それからわたしに気づいたらしく大きく手を振った。
光記ちゃんのもとに辿りつくと、心臓とあたまの裏がどくどくと揺さぶられているような感覚がした。
「唯花ちゃん、おはよう」
「おは、よう」
ことばを発したら息も切らせていることに気づく。
「大丈夫?」
「うん、走ったのひさしぶりだったから、ちょっと」
「そっか、唯花ちゃんっていつも体育見学してるもんね。無理して走らなくてもよかったのに」
光記ちゃんが困ったような顔をする。わたしは首を何度も横に振りながら、光記ちゃんのほうに手のひらをむけて小刻みに振った。
「いや、その、気にしないで。あの、ほかのみんなは?」
「まだ来てないよ。みんな九時ちょうどくらいに来るんじゃないかな?」
「そっか」
そう言われて、待ちあわせの時間よりもけっこう早く着いたのだと気づいた。ポーチの外がわについているポケットから懐中時計を取りだして蓋をあける。八時四十二分だった。
「すごい、懐中時計?」
光記ちゃんが時計を覗きこんでくる。
「うん」
「格好良い! 唯花ちゃんの雰囲気に合ってていいね」
「ありがとう」
「こういうのって、柳くんとお揃いで持ってたりするの?」
「そうだね、これは柳もおなじのを持ってるよ」
「へえ、そうなんだ。双子でお揃いってときめくなあ」
「ときめく?」
「うん、なんかいいなっておもうよ」
大げさすぎやしないかとおもうくらい、光記ちゃんの声色は感動に満ちていた。この懐中時計は、わたしたちが産まれた日に父親から贈られたものだ。よくあるようなシルバーだし、文字盤にも飾り気がないから地味にもみえるけれど、時計の裏面にわたしたちの名前が彫られている。それはとても気に入っている。わたしたちのための品であるということの証だから。それから、会ったことのない父親というひとからの、さいしょでさいごのプレゼントであるということにもなんだかどぎまぎするのだった。
ふわ、と光記ちゃんの前髪が揺れて、桜の降る量が増す。風ははやく春を連れ去ってしまえばいいとおもう。
「唯花ちゃん家ってこのへんだっけ?」
「え」
「あ、ごめんね。その、来るの早かったから」
わたしの声がよっぽど驚いていたのか、光記ちゃんに謝られてしまう。でも、家の場所を訊かれるとおもっていなかったのはほんとうだった。どうして、とおもってから気づく。わたしが話題を出さなくて黙ってしまうから、光記ちゃんが気を遣ってくれているのだと。
「ううんと……」
会話を途切れさせないために、どう答えるか考える。家の場所は、教えてはいけない。いま住んでいるマンションのことも、かつて過ごしていた家のことも、とても言えそうになかった。ほんとうのような嘘か、嘘のようなほんとうで誤魔化さなければならない。
「隣町のほうだから、ちょっと遠いかも」
「へえ。何分くらいかかるの?」
「五十分くらい」
「え! それ、すっごく遠くない?」
そう? と訊き返しつつ、ふわふわと笑っておく。隣町から来ているというのはほぼほんとうだ。でも、五十分で中学校に着くというのはおもいきった嘘だった。
「光記ちゃん家は近く?」
「うん、すっごい近いよ。五分くらいで着くし」
あっち、と光記ちゃんは学校前の道路の左手のほうを指さす。わたしがここに来るまでに通ったところとおなじく住宅街がつづいている。
「あそこの緑色の家のとこ入ってすぐ」
光記ちゃんの言うとおり、すぐ見えるところに抹茶のような緑色の家が建っていた。渋い色だけれど、ほかの家々と違う色をしているせいでやけに目立っている。
「え。ほんとすぐそこだね。わたしだったら時間ぎりぎりまで家でゆっくりしちゃうかも」
「ああ、癖で早く出ちゃうんだよね。バド部が時間に厳しくて」
「ふうん」
バド部はなんの省略だっけ。おもいだそうとしていると、光記ちゃんがあっと声をあげた。例の緑色の家のところから夏音ちゃんと聖奈ちゃんと奏美ちゃんが出てきて、三人そろってこちらにむかって走ってくる。
「来たね」
光記ちゃんがわたしに微笑みかける。そうだバドミントン部の略だ、とようやくおもいだしたけれど、もう遅い。そうだね、と返すまえに光記ちゃんの意識は三人のほうにむいていた。
「ごめーん、お待たせ!」
「ていうかふたりとも早すぎ」
「三十分前行動は鉄則だからね」
「うわあ、バド部厳し」
もっと上手に話せるようにならなければ。
もっと、この日常に溶けこまなければ。
そうおもうけれど、いざ四人のおんなのこたちが揃ってしまうと自然と後ずさりして距離をとってしまう。学校以外でともだちと会って遊ぶなんて小学生ぶりかもしれない。わたしたちの隠しごとがはじまってからは極力避けるようにしていて、クラスでも輪に入らずに遠巻きに眺めるのが癖になっていた。クラスに対して無干渉な立ち位置で、いるのかいないのかわからないくらいの存在。空気よりも無抵抗でなめらかな存在として。
「よーし、じゃあ行きますか」
「どっから行く?」
「クレープたべたい」
「えー、クレープまだ早くない?」
「いいじゃん、お昼ごはんクレープで」
「よくないって」
口々に話しながら四人が歩きだした。かばんが揺れる音やなにかの金具が擦れる音が遠くなりすぎないように気をつけながら、わたしはすこし遅れてついていく。
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