第7話魔女、たぬきと再会する
和希は神橋呉服店の店番をすることが多くなった。そのおかげででひとつ気づいたことがあった。
それは玲子がなかなかの粗忽者であることで、店の帳簿にまったく手が行き届いていないことだった。着物はあれほど丁寧に仕舞うのに、店の管理そのものはおざなりで、客の少ない合間を縫って和希は出しっぱなしの伝票整理に追われていた。
整理しても増える伝票の数々。はてはどこぞのスーパーのちらしからコピー用紙に残したメモ、インドの神ガネーシャがプリントされた紙からジンバブエドルまで謎が謎を呼ぶものばかりである。
一方の店主と言えば、店内のどこに何があるのかを聞いても「あら、どこやったかねえ」という始末で、和希はここ数日、お店の棚という棚を開け閉めし、用品と伝票をかき集めて整頓する日々を送っていた。
その仕事もようやく終わりを迎えた頃に、珍しく昼間に来客があった。
伝票の整理がひと段落し、和希は帳簿の入ったケースを抱え込むようにして床に膝をついたまま休んでいた。きっと、藤山病院から着物を受け取りにきたのだろうと店の奥から顔も出さずに生返事をしたところ、かえってきたのは老人にしては快活で通りの良い声だった。
「誰もおらとや」
和希には聞き覚えがある声で、はっと顔をあげて「はあい」とさっきよりは張りのある返事をした。和希にとっては苦手な人物。粗暴な態度がたまらなく嫌だった。
「玲子さんは今日、問屋さんを回っていますけど」
売り場の中央にそびえ立つ神木あたりまで駆けながら声をかけた。
居並ぶ桐箪笥から玄関を覗き込むと、声はそっくりなのに和希が想像していた姿とはまるで違って面食らってしまった。熊本という地域は、夏を迎えるとこうも不思議なことが起きるのかと首をひねって男に訊ねた。
「あれ? 船場のたぬきさん?」、声はたしかにあの声量だけ豊かな船場のたぬきの声である。
玄関口に立っているのは、いがぐり頭に藍染めの着物を着て、白と黒のストライプの帯を結んだ老人だった。特徴と言えばそればかりで、立ち姿はやや地味。多少目鼻立ちが良いことを除けば、新橋呉服店に似合いそうもない、あか抜けない格好をしている。
和希の少ない人生経験からもその老人が頑固であることは、一目でわかる。眉根を寄せて、腕組みをし仁王立ちする姿にその気質を感じない人間はいないだろう。外見的特徴によって人物の判断をすることに、和希は昔から違和感を覚えてはいたが、目の前に立つ老人が和希の初見で抱いたイメージを覆すことはなかった。
つまり老人は頑固者でやや神経質、またやけにぎらついた目が和希には印象的に写った。
「いかにも、船場のたぬきばってん」
名乗る老人の声も振る舞いも、たしかにこの前に会ったたぬきそっくりである。姿がまるっきり人間になっているので、どう目をこすってみてもたぬきには見えない。いやむしろ、たぬきがしゃべっていたつい先日が異常なのであって、こちらは人間の姿をしているから日常と言えば日常である。しかしこうもわけのわからないことが交互に起きると、盆地の夏がそうさせるのかと疑ってみたくなるものである。
困惑している和希の心のうちがよほど顔に出てしまっていたのか、そのうち、船場のたぬきが笑いだしてしまった。
「何をしとる。多少姿形が変わったくらいでうろたえんでよか」
「多少? 姿形が変わったのが多少?」
「西の国つ神は変化がうまか。まがりなりにも神だけん」
「神ですか。神というのはなんでもありですか」
「森羅万象なんでもあり。水ですら液体やら個体やら気体やら姿形を変えるのに神にそれがゆるされんわけなかろうたい」
「いやもう、たとえがひどい」
「やかましい。現にこうしておるのだからさっさと受け入れろ」
「受け入れろと言われましても」
「人は素直さが大事。妙な事件も多かけんね」
妙な事件、と聞いて和希は国つ神を射殺す矢のことを思った。
「人の姿になったのは、還し矢から隠れるためですか」
「そういう面もある。が、国つ神は自然信仰が中心にあるのだから、我々は自然を象る。自然とはこの世界に存在するすべてのものだから変化もできる。簡単な話だ、高校生にもわかる」
「中学生ですから」
「あほな理屈こねる暇があったら茶でも出せ」
「誰があほですか。じゃあ、還し矢は関係ないんですか」
「多少はある。いいからさっさと茶を出せ」
客人でもないのに、とぶつくさ言いながら、和希は店舗の奥へと下がった。
暖簾の奥にあるこじんまりとした一室は、玲子の事務所兼休憩所になっていて、一応冷蔵庫が備え付けられている。客人への菓子や飲み物はそこから出すことになっていた。和希が数年前から張り付けられているであろう、用事を書き込んだ紙が冷蔵庫の扉を開けるとひらりと床に落ちた。このあたりが神橋玲子のせからし調たる所以である。
てれっと節にもようやくせからし調のリズムが理解できるようになってきたのに、今度は妙にやかましい元たぬきの人間が来客してきているのだから、てれっと節をまわしている暇すらない。
てれっと節にせからし調に、打楽器のような声をあげるやかましいたぬき―――音楽家が神橋呉服店の喧騒を譜面にしたら発狂することだろう。
和希はふう、とため息を吐いて、地面に落ちた紙を拾うと扉に貼りつけて冷やした緑茶を湯呑みに注いだ。お盆に乗せて売り場に出てみると、船場のたぬきは神木に寄りかかってあくびをかいていた。
「それで、何の用事ですか。玲子さんいませんけど、聞くだけなら聞きます」
「毎度毎度玲子に用事があるわけじゃなか。今日は娘に用があって来たとぞ」
「和希ですー娘という名前じゃないですー」
「ほう。良い名だな」、お盆からお茶を受け取った船場のたぬきは軽く目を見開いた。
「思ってないでしょう、そんなこと」
「いやいやそんなことはなか。和という言葉が使われとるとだろ。神の平穏な心のことを和御魂というけん。だから良い名だと言うた」
「はあ、そうですか。急に褒めますか」
何となく、和希は気恥ずかしくなって臍の前で指を組んだ。
「あの、それで私に用事ってなんですか」
うん、と船場のたぬきは湯呑をごくりとすべて飲み干すと、神木の脇に置き、袖口から掌にすっぽり収まるほどの飾りを取り出した。和希が少しだけ背筋を伸ばして船場のたぬきの手の中を覗き込むと、電灯が当たってその飾りはきらりと輝いていた。
「お世辞を一つ入れたところで頼みがあって来た」
「なんですか、これ」
「象嵌たい。特に熊本の象嵌は肥後象嵌と呼ばれる貴重な品ばい」
「その象嵌がよくわからないのです」
言うと、船場のたぬきは額に手を当てて顔一面に渋みを滲ませた。
「象嵌というのは、まあ言わば素材を飾りつける技術たい。素材にまったく別の素材を当て嵌めるとぞ。熊本は武家の名残がいたるところにあるけん、この象嵌もその一つたい。鉄砲に凝らした意匠から武具や刀剣にいたり、今は装飾品などに施しとる。ちなみにこれは帯留めたい」
丸く平たい鉄がねに、金色の綺麗な花の紋様が散りばめられている。
「これを、私に?」
「阿保なこつ言うとでけん。誰もやるて言うとらんどが」
「だって、用事って言うから。さっき名前褒めてくれたし」
「お世辞て言うたろうが」
「聞こえてませんでしたし」
自身に用事だと言って帯留めを差し出されたら勘違いしたくもなる、と和希はあからさまにがっくりと肩を落とした。神橋呉服店の着物に、この象嵌を施した帯留めや髪留めを身に着けたらどれほど素敵だろうと、ふっと心が湧き踊ったのはたしかだった。
「人を探しとる。この帯留めをしとった女の人たい」
「へえ、船場のたぬきさんが探してたのって、女の人だったんですか」
「ん? なんでわしが人を探しとると知っとるんだ娘は」
「和希です」
「そがんだったな、良い名前だ」
「いや、この前店に来たときに言ってたじゃないですか」
「言うとったか」
「言うとったです」
「正確には、私の主だった人たい。この帯留めに描かれた紋様はきっと家紋だとと思うとばってん、心当たりはなかとや」
丸い紋様が並んでいる家紋を覗き込みながら思い出してみるが和希はまったくピンとこなかった。そもそも思い出すというのは過去に記憶をしていて初めて成り立つもので、和希は家紋というものを見るのも初めてであるから、正しくは思い出す振りをしていた。
「きっと、そういうのは玲子さんの方が詳しいと思うんですが」
「あれは私がこの地に執着しているのを好んどらん。神はいつか天に昇るとだけん。この地に残る神の未練を断ち切り、天の羽衣を着せるのも天衣師の役目だけん、あやつは言うてもきかん」
「そう……なんですか」
市松さまのときのことを思い出して、和希はぐっと唇を噛んだ。その様子を見て、船場のたぬきは薄い笑みを浮かべた。和希にはそれがどういう意図なのか図りかねて、むっと顔を顰めた。
「なんで笑うんですか」
「いやいや。娘は魔女の一族だったとだろ。国つ神がこの地からおらんようなるとは、本意のはずたい。悲しむとは不思議な娘ばいと思うた」
「私はまだ見習いですから。魔女になるまでは武士ですから」
「はっ?」
「母がそう言いました」
先日の喧嘩の流れを思い出して、和希はむっと顔をしかめた。
会話が途切れた間にきまり悪さを感じたのか船場のたぬきが毬栗頭に手を添えた。そして苦く笑ったまま、神木から身体を離して「当てが外れてしもうた」と呟いた。
苛立ち紛れに放たれたぶっきらぼうな言葉だったが、和希は申し訳なさを感じた。船場のたぬきが人を探して、何度も神橋呉服店に通っていることを知っている。何とかしたいと和希の心は揺れ動いていた。すれ違いざまに、船場のたぬきが和希の肩にそっと手を置いた。そのとき汗の匂いをかすかに感じて、振り返った。
外から蝉の鳴き声と太陽の熱を跳ね返して揺らめくアスファルトの中に、船場のたぬきが溶け込んでいくかのようで和希は思わず声を上げた。
「……見覚えがあるかもしれません」
大正モダンの空気が残る重たげな扉の把手に手をかけたまま、船場のたぬきは振り返った。
「これにか?」
手のひらにすっぽりと収まった象嵌を見せられて、和希は頷いた。口の中にざらりとした感触が残った。
「どこで見た?」
「いやあ、思い出せない」
「思い出せ」
「それがなかなか……難しいものです」
自分でも本当に心当たりがあるのか、思いつきで言ったのか判断がつきかねた。自分で描いたノートの隅に書いたものがたまたま似ていたのかもしれないし、玲子から見せてもらった着物の数々の中に同じ紋様を見たのかもしれない。ただ、和希自身嘘をついているという実感はなかった。ただ、あやふやな記憶があるばかりで船場のたぬきの射るような視線に僅かに顎を引いているしかなかった。
しかしそのとき、和希の脳裏にあるうっすらとした記憶がよみがえった。家紋など見たことないと思って思い出す振りをしただけだったが、思い出す振りもしてみるものだな、と和希は思った。
「あのう、ちょっとよかですか」
「ん? なんや?」
「着物です。着物の裏に、同じ紋様がついていたと―――」
「どこや、どこでみたとや?」
手をかけていた把手を離して、船場のたぬきは和希の近くまで歩みよった。ぐんぐんと近づく老人に少し怖い思いをして、ぐっと息をのんだ。
「す、水前寺公園です。出水神社に天衣を届けに行った途中で、私と同じくらいの歳の女の人にあったんです。その人が、セーラー服に羽織りを着ていて、その羽織りにその象嵌の家紋と同じものが―――」
「話したか?」
「はい?」
「その女と話をしたとかち聞きよる」
「は、はい。その女の人は、自分のことを、天女だと」
「そがんか。んならついて来い」
「私が、ですか?」
「なんだ、嫌とや。嫌でもついてきてもらうばってん」
「い、嫌ではないです。ただ、迷惑をかけてしまうかもしれないから」
「迷惑て言うことのあるもんか。お前は私に何ばするつもりや」
「いいえっ! ただ、私、昔からよくぼーっとしてるとかよく言われるし、玲子さんにもてれっと節だけんね、って言われるし。だから、トロくて迷惑かけないかなって」
和希が少し俯くと、船場のたぬきがふうっと大きく息を吐く声が聞こえてきた。
「別にそんなこと気にせん。てれっとしとったら袖ば引いてひきずってやるけん心配せんちゃよか」
「ひきずられるのはちょっと」、言うと船場のたぬきはむすっとした顔で顎に手をやった。珍しく返事に困っているようで、少し間を置くと小さな声で、
「袖ばちょっと引いてやるけん」とつぶやいた。
「は、はいっ!」
和希は暖簾の奥に駆け戻り、店の鍵を握りしめると、ちらしの裏に『外出中』とだけ書いて、玄関の把手に輪ゴムでぶら下げた。玄関の鍵をがちりと閉めると、玄関の間接照明の裏に隠した。そこはもし店を空ける場合に玲子と決めた鍵の隠し場所だった。和希はカランと間接照明のガラスに鍵が入った音を聞き届けると、先を行く船場のたぬきの後を追った。
くにつかみの魔女 東城 恵介 @toujyou
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