第6話祈りの灯火
「魔女は、悪者なのでしょうか」
あの日のことを思い出し、ぽつりと漏らした和希の言葉に、玲子はゆっくりと頷いた。
「熊本は国つ神さまの強かっちゃけん。魔女が疎まれるとは仕方のなか話よ」
「そうでしょうか」
「それに―――神様にもいろいろ事情のあらすけん」
電車の前に座っている神橋玲子が窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「けど、あの神様は魔女のせいで天に昇れないみたいなんです」
電車がゆっくりとした速度になってやがて停車した。ぶしいっという激しい音とともに扉が開いて、夏の熱気が電車内に広がった。
「長か歴史の中でちょっとした行き違いや間違いはあると。それはまた長か時間をかけて解決せなんといかんこともある。和希ちゃん、気持ちはわかるばってんあんまり深く神様に関わってしまうとでけんよ。人は人、神様は神様。魔女は人の側に立つ人たちっちゃけん」
和希は頭の上でくるくる回る扇風機の風を浴びながら黙り込んだ。
俯いて、固く拳を握る。もしあの神様が自分だったら、と思うと心が痛んだ。人間に災いを成すというだけで閉じ込められてしまって自由に動くことができない。せめて灯籠に封じられる前に天衣師が編んだ衣を身に着けていれば、疫病神と忌み嫌われることはなかったはずだ。
電車は川尻から富合駅に停車した。
川尻は元々宿場町として発展したため、電車の車窓からも古い町並みが見られる。そこからさらに富合に抜けると風景はがらりと変わる。一面、触れると弾けそうな田んぼの緑と青い空が広がっている。そこに電柱がぽつんぽつんと並ぶ風景になると、夏の空気が密度を高め、温度がさらに上がるのだ。
「……神様は、どうして天に昇らなければならないんですか?」
和希は今、自分が最も疑問に思っていることを素直に投げかけた。
天衣師がいる意味、そして神様を天に送ることの意味を知りたかった。
富合駅をゆっくりと出発する電車の扉の外で、制服を着た女子高校生がタオルに包んだペットボトルの水を飲んでいる。神橋玲子はその様子を目で追いながらぽつりと呟いた。
「和希ちゃんには還し矢伝承の詳しか話はしとらんかったね」
「還し矢……この間言っていた神様を殺す矢のことですか」
「そう。これは例えば、旧約聖書にもある話。神様に反旗を翻したニムロドという猟師が、弓に矢を番えて天に放ったと。その矢は神様から還されてニムロドに当たり、彼は死んでしまうとよ。神様に歯向かったらいかんよ、っていう教訓やろうね」
「それに天の羽衣が関係してるんですか」
玲子はゆっくりと頷いた。
「それと同じ神話が、この国の神様について書かれた古事記にもあると。アメワカヒコていう神様が、地上で暮らしとらしたときに、神様に矢を番えなはったちいう神話が。
神様はアメワカヒコが天に向けて放った矢を取って言いなはった。
『もし悪しき神を射つる矢ならば、アメワカヒコにあたらざれ。もし邪なる心あらば、アメワカヒコ、この矢に禍れ』。
天の神様に離反する気持ちのあったアメワカヒコは天におる神様が還した矢に当たって死になはった。それから神様が地上に降りるときは、ときどき天に帰らんといかんようになったとよ」
「どうしてアメワカヒコさんは天に背いたんでしょうか」
どこか、遠い記憶を思い出すようにして玲子はつぶやいた。
「それはね、恋をしなはったから。前も言ったけど、八百万の神様て言うても、天つ神と国つ神―――ちゃんと二つの分け方があってね。天つ神は国つ神の女神のことを好きになることは禁じられとった。そん国つ神の女神さまはシタテルヒメていうて、国つ神の頭領、オオクニヌシの娘だったけん、なおさら許しなはらんかったとよ」
「じゃあ神様がこちらの世界で恋をしないように天に昇るようになったんですね」
「まあ、始まりはそんな感じやろね。どうしたって、人と神様は一緒にはなれん。還し矢伝承ては、そやん決まりを守るためにあるっちゃろう。やけど、人に寄り添ってくれらす神様をむげに還し矢で失ってしまうのは悲しか。だけん、矢が振る前に、私たち人間が神様を天に送ってあげる、それが天衣師っちゃけん」
「魔女は―――魔女はどうなんでしょうか。勝手に、神様を封じて―――」
言うと、神橋玲子は小さく笑った。
「それはね、和希ちゃん。まだ、天衣を編む術のなかったころに、還し矢から神様ば守るためにやったこと。たしかに人の勝手やけど、神様を失ったらいけん。まあ、守るためとは言え、小さかとこに封じるとやけん、憎まれてもしかたなかとは思うね」
「そう、なんですか……」
「やけん、あんまり深入りはしなすなよ。神様にしてみたら、どこかに人の勝手は出てくるもんやけん。気にしとったらいけんよ」
玲子は遠く窓の外を眺めて、ぼんやりと外を眺めた。しかし和希はその視線を追うことなく、じっと拳を太ももの上に握ってうつむいていた。長い沈黙が続き、電車の車輪が線路を滑る音が車内に響いている。
宇土駅到着を知らせるアナウンスがあり、玲子が立ち上がった。
その後ろ姿を追いかけて、和希はガタンガタンと何度も音を立てるドアを抜けた。
宇土駅は閑散としている。1番線と2番線を行き来する歩道橋があり、2番線のプラットフォームに降りた二人は歩道橋に昇り、改札を目指す。歩道橋の左右には観光案内ポスターと小中学校の催し物のポスターが古くて2年前くらいのものから今月分までペタペタと貼られている。和希は歩道橋の壁一面に貼られているポスターに興味がわいて、立ち止まりたくなったが、前を歩く玲子は足早に歩く。時折、振り返ってくれるが、ただし速度を落とす様子はなく、呆れたような顔でときどき立ち止まる。
2番線と駅改札をつなぐ歩道橋の距離はさほどないのに、これほどまで距離が空くか、と思ったときにふと、玲子が声をかけた。
「旅行、行きたかとね」
「あ、い、いいえ」
「春は有明、夏は阿蘇。秋は金峰山、冬は―――冬はなんちゃろ」
「なんですか?」
「ううん。熊本で旅行に行くならどの季節にどこ行くとよかろかな、と思うて。冬が思いつかん。冬はただ寒か」
「夏は暑して冬寒かってやつですか」
「そやん。よう覚えとったね。ほんと肥後の盆地はよういけん。ほら、はよう行こ。和希ちゃんのてれっと節で回っとったら夕凪の来る」
「はあい」
改札へ向かう階段を降りて改札を出ると、小袖餅と書かれた幟が何本も立っている。和希が小袖餅という文体をぼんやり見つめていると、「小袖餅は1日しか日持ちのせんけん、お土産には向かん。地元の人しか食べれん餅だけん、帰りに買ってこか」とほほ笑んだ。
小袖餅のために今日1日を乗り切るという不純な動機を得て、和希もようやく胸を弾ませて玲子の足についていった。
宇土駅を出たときの和希はどのような餅だろうかと夏の入道雲に思い思いの餅を思い浮かべていた。しかし1時間ほど経った今はじとりと神橋玲子を睨みつけている。
原因は、神橋玲子が意外にも方向音痴であるせいだった。
「あら、どうも違うごたんね」と玲子が呟いたときに、和希自身も悟るべきだったと後悔している。熊本の人は失敗や間違いを犯しても「あらすんまっせんな」で済ませるようなところがある。しかしその独特の特色がまさか、玲子にも当てはまるとは思っていなかった。
普段、あれほどしっかり者で何事にもせっかちな玲子が、まさか地図を眺めるとなるとこれほどまでにちぐはぐなことを言いだすとは和希も予想できなかった。
二人が向かう、粟島神社は平木橋を渡って右手の公道をまっすぐ走った先に建っている。
神橋玲子と和希は宇土駅で降りたのだが、粟島神社はちょうどバス道路からも距離があり、アクセスが悪い。熊本はどこに行こうにもアクセスが悪い。それを今も人力とおおらかな風土で乗り切っている。知恵よりも、まあよかたいとしよんなかで積み上げられた結果、この不便な交通網なのである。
本来ならば、宇土駅で降りずに三角行きに乗って緑川駅で降りたならば徒歩10分ほどで着いたはずだ。しかし玲子はなぜか宇土駅で降りた。理由はいくつか考えられるが、和希が玲子に聞いた話をまとめると、「粟島神社は宇土にあるから、宇土駅で降りた」ということらしかった。和希は当然首を傾げた。しかしなぜ最初から地図で調べようと思わなかったのかと問いただしても方向音痴の人間が持つアバウトな感覚の渦に吸い込まれて2度とは出てこれないのである。
「まあ、しよんなか。何とかなるっちゃろ」
宇土駅からかなりの距離があるようだ、と夏真っ盛りの日差しを浴びながら、玲子はぱたんと地図を閉じて言った。
「どっかバスのあるけん」、この期に及んでなぜ熊本の交通網を信頼できるのかは謎であったが、もはや和希もそこにすがるしかないほど、歩きに歩いていた。
神橋玲子は熊本の風土を一身に浴び、そこにありがちないい加減さを十二分に持ち合わせている。それは和希が東京にいたときには誰も持っていなかった、この土地特有の感覚だった。そう言えば、和希は熊本に引っ越してきてから「よかよか」という言葉を幾度となく聞いた。
何か起きてもその言葉で何事もうやむやにしてしまって、結局何が起きたのかすらよくわからないと言った具合でずいぶんと面食らった覚えがあった。
しかしその感覚を、まさか神橋玲子も持ち合わせているとは思わなかった。
「まあ―――……よかたい」
「よかですか」
「夕凪の前には着くっちゃろ」
額に掻いた汗を拭いながら、玲子が笑う姿を和希も仕方なしと言ったふうにため息を押し殺した。結局バス停は歩けどあるけど見つからず、二人は蝉の鳴き声が溢れる道路をひたすら歩いた。和希は前を歩く神橋玲子の着物の帯が、歩くたびにふらふら揺れるのを恨めしそうに見つめた。
ちょうど右手に宇土市庁舎が見えた辺りで、ようやく神橋玲子も決心がついたのか、脇を通過したタクシーを一台停めた。最初からそうすればよかったのに、と思う和希であったが、「まあよかたい」でなんとなくうやむやにされてしまう上、この風土によって培われた玲子の方向音痴をとやかく言っても仕方がない。和希も心の中で「しよんなか」と呟いた。
結局、二人は501号線を北に遡り、平木橋の手前で左折した。左右を田んぼに囲まれたその先もまた田んぼ、そんな道を5分ほどタクシーで走るとぽつんと小さな神社が見えてくる。そこが粟島神社で、祀る神様が小さいせいか、境内も鳥居も妙に小さい。
和希がタクシーを降りると、土と堆肥の匂いがひどく鼻をついた。熊本に来てからそれなりに経っても、和希は堆肥の匂いにまだ慣れなかった。服に染みつくような酸っぱい匂い。堆肥が未熟な場合に刺激臭がするものだが、季節柄なのかその匂いが強い。和希にとって熊本の匂いというのは、堆肥と潮風が入り混じる独特なものだった。
振り返ると、玲子は田んぼに出ている老夫婦に手を振っている。その手の振り方が、妙に子どもっぽくて和希は思わず笑った。蝉の鳴き声に混じって、自身を笑う声に気づいた神橋玲子ははにかみながら振り返った。和希にはくるりと振り向く玲子の仕草が、可愛らしいと思われてうれしくなった。
「うちの親戚がこの辺に住んどらしたけん」
玲子は汗で濡れた髪の毛をかき上げて言った。着物の入った荷物を胸に抱いて、草履の音を響かせながら和希の脇を通りすぎた。先を行く玲子の僅かに後ろ―――振って歩く手がちょうど当たるくらいの距離を取って、和希は玲子の話に耳を傾けた。
「じゃあ、玲子さんは宇土に住んでたことがあるんですか」
「ううん、親戚のおるだけ。生まれは天草やけん、宇土はそやん来たことはなか。じゃなかと迷わんよ」
「でもここは私の家と近い気がします」
「和希ちゃんとこは、平木橋を越えたとこちゃろ。和希ちゃんとこは、あの塘の向こう側たい。平木橋の架かる川は新川だったかな、緑川だったかな。ちょっと忘れてしもうたけど」
「新川ならわかります。あの橋は新橋だったような? その先が上中沖地区とか下沖地区です。この辺りは詳しいですよ」
「あらあ、んならご近所さんったい。和希ちゃんの家の人たちもここに来たことあらすかもしれんねえ」
のんびりとした口ぶりで参道をまっすぐ歩いている。それにも関わらず豪快に道を間違えようとする神橋玲子の手を、和希は思わず引っぱった。
そして和希は右手に見える鳥居を指差した。
「あっち、あれが粟島神社ですか」
「ああ、そやんそやん。もう何回も来とるのに、まだ道を間違うっちゃけん。よういけん、歳かねえ」
「……たぶん、歳は関係ないと思います」
神橋玲子は恥ずかしそうに自分の頭をぽんぽんと二回たたいた。大鳥居から参道はかなり広く、砂利も綺麗に整っている。おそらく祭りの日には出店がたくさん並ぶのだろうな、と和希はそんな特別な一日を想像して楽しくなった。
大鳥居から参道、そして鳥居を抜けると神社の境内に入る。しかしその手前で二人は足を止めた。鳥居の下に、赤い着物を着た人形が一体、置かれている。
「よう来た。ずいぶん待っとったよ」
その人形はまっさらな顔のまま、口元だけをわずかに動かしてしゃべった。人形の姿そのままの年齢なら10歳くらいと言ったところだが、声色は理知的で低いトーン。なぜか不機嫌そうに眉を曲げている。
「あら、市松さま久しぶりっちゃねー」
神橋玲子は童女の格好をした人形に近づくと、髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。ぐちゃ、と乱れていく髪の毛を整えてはまた撫でて、を繰り返したところで、市松人形は和希を睨みつけて「あまり見るな」と文句をつけた。
「あ、あの、あんまり見ちゃだめなんですか」
まるで飼い犬をあやすかのように市松人形を撫でまわす神橋玲子を横目に見ながら、和希は首を傾げてみせた。
「神様が人間に撫でまわされるところを見られるのは決まりが悪い」
「抵抗はしないんですね」
「抵抗はしない。ただ見られたくはない。そういう複雑な事情だから察してほしい」
「えー、はい。わかりました。ではいったん目をつむります」
「そうしてくれると助かる」
「わしゃわしゃわしゃわしゃ」、玲子は行動を声に出してしゃべる市松人形を撫でまわし続けている。目をつむっていても、玲子に撫でられて髪の毛がぐちゃぐちゃになる市松人形は容易に想像できて和希は止めようのない苦笑いを浮かべた。
二人の間柄を詳しく知っているわけでもないので、和希は言われたとおり、目をつむったまま立ち尽くしていた。しかし撫で音は止まない。それどころか蝉の鳴き声にすら勝りそうである。やがて、和希の耳に届くほど大きなため息が聞こえた。
「いい加減、玲子を止めてくれると助かる。この人形はただの依代であるから、身体をうまく動かすことができないのだよ」
「あーなるほど。しかしいったん目を開けないとだめですが」と和希はうなずいた。
「わっしゃわっしゃ……しゃしゃしゃしゃしゃ」
「致し方あるまい。このままでは依り代がすり減る」
さすがに和希も神橋玲子のなすがままにされる市松人形が不憫になり、玲子の肩を叩いて「そろそろ……」と耳打ちした。
「えっ」
残念そうに眉根を寄せる玲子だったが、渋々市松人形の黒髪に手櫛を入れて着物もするすると整えてゆく。やや乱れ気味の髪の毛以外は元通りになった市松人形は、軽く咳払いを入れて再び「よう来たな」と玲子に冷たい視線を投げかけた。
「はい。今日は市松さまを送る日っちゃけん」
悪びれもせず、頷く玲子に市松人形はとうに諦めた様子でため息を鼻からわずかに吐き出すと「こっちだ。粗相のないようにな、とくに玲子。さきほどのように依り代を羽交い絞めにして危害を加えることはしないよう」と言ったきり袖を激しく振って振り返り、歩き出した。
前をぴょこぴょこと歩く市松人形はたしかに可愛らしい。しかしあれが粟島神社の神様であることを考えるとさすがに玲子の行動は行き過ぎだと和希は思った。
「大丈夫なんですか、あんなに撫でて」
「和希ちゃんはやっちゃだめよ」
「え、ええー。玲子さんはいいんですか」
「私は子どもの頃からの知り合いだけんねえ。和希ちゃんも、早くわっしゃわっしゃできる神様を見つけるとよかよ」
ふにゃり、と呉服店では見せたことのないだらけた笑みを市松人形の背中に投げかけている。しかし一方で、人形のほうは振り向きざま、
「この罰当たりめ」と悪態をついていた。
「仲が良いんですかねえ」
「そうそう。そういうことたい」と和希の解釈を、玲子は満足そうに胸の前で手を合わせて受け入れた。神社の本殿前の石畳には、市松人形が潜れるくらいの小さな鳥居が三つ横に並んでいる。
「市松さま用ですか」と和希が訊ねると、人形は気怠そうな声色で「祈願のためだ。潜るのは人」とぼそりと呟いた。
「今日はよく晴れとるけん、道に迷うこともなかろうね」
神橋玲子が、空を仰いだ。そのとき、和希の髪をふわりと撫でるくらいの風が吹いた。その風は、和希の前を通りすぎると、緑色に輝く若い稲穂を撫でていた。
「じゃあ、行きましょうか」、そっと玲子は足許に立ち尽くす市松人形の神様に話かけた。
今日、粟島神社に来た理由を、和希自身も忘れたわけではなかった。天の羽衣を神様に渡して高天原に帰ってもらう。それが、神橋呉服店の仕事である。
「道に迷うことはなかろうが……」
どこか遠くを見つめながら、市松人形はぽつりと呟いた。
「なあ、玲子。私は高天原に行きたくない」
本殿に向かうため、人形の神様よりも一歩先に踏み出していた神橋玲子は、着物を包んだ風呂敷を胸の前に抱いてため息を吐いた。
「そがんこと言うて。前に来たときも、引き延ばしたでしょうが」
「あの日はたしかに気が進まんかっただけ。だが今日は違う。本当に行きたくないのだ」
「……そう言う神様は、市松さまだけじゃなかよ」
「そうか。難しいか」
「そやん。あんまりわがままはだめよ、市松さま」
しかし市松人形の神様はしょげたと見せかけて、和希の足許に走りよると背中に隠れて、人形の口から舌を突き出した。
「玲子にはもう頼まん。高天原にはいかない。さっさと帰れ」
「もうっ! 市松さまっ! わがままばっかり言うてっ!」
眉根を寄せて怒る神橋玲子の言葉にも、市松人形の神様は顔を背けて無視をした。
「―――お前はわかってくれると信じておる。私は高天原には行きたくない」
「で、でも……」
和希は二人の間にある事情をほとんど知らない。玲子にしても、幼い頃から見知っているこの神様を、高天原に送ることは辛いはずなのだ。その気持ちを無視して、市松さまに加担してしまうのも違うと感じていた。
「あ、あの……じゃあ、どうしていきたくないのか教えていただけませんか? いかないと消えてしまうんですよね?」
二人の間をとりなしつつ、ちらりと神橋玲子を見やれば、腕を組んでこちらを睨みつけている。どうやら和希が考えているよりも、玲子は怒りっぽい性格らしかった。それもすべては神橋玲子が幼い頃から培った調子によるものなのだろう、と和希は顔をひくつかせながら呟いた。
「せからし調……」
「なんか言うたね」
「い、いいえ」
怒る玲子をよそに、市松さまはさっさと先を急いでいる。和希は額に光る汗を拭きながら、「何かわけでもあるんでしょうか」と呟いた。
神社境内の隣に立つ社務所まで歩くと、そこで市松さまはぴたりと足を止めた。大きな楠の真下に来たおかげでずいぶんと日差しも和らいでいる。束の間の心地よい風が吹いたときに、市松さまはつま先立ちになって社務所の中を覗き込んだ。その背中に、和希はどことなく寂しさを感じて胸がざわついた。
「娘、お前はどういう人間になりたいか、想像したことはあるか」
「え?」
「どういう大人になりたいとか、どういう生業で食っていき、どう暮らし、そして子を産み育て一生を終えたいのか考えたことはあるのかと聞いている」
「私は―――まだ、あんまり」
「そうか。私はある」
「神様にもですか」
「そうだ。どのような神様になりたいのか、と考えることがある」
そう小さく呟いた市松さまが見ているもの。それが和希にはまだ見えていなかった。境内と社務所の間にある小さな小路は、人が身体を横にしなければならないくらい狭く、和希は横歩きをしながら先を行く市松さまを追った。
その小路は神社の参道ほど掃除が行き届いておらず、石全体が苔むしていた。石と石の間の溝には雨水がたまっていて、そこには落ち葉が溜まっている。かび臭さと水っぽい匂い。プール開きの前に、プール槽の掃除をするときの匂いとどことなく似ていた。
和希は市松さまにようやく追いついて、その横に立った。
目の前は、社務所の縁側になっていて本来閉じられているはずの雨戸が開け放たれている。そこにあったのは、衣紋掛けにかかった萌黄色の衣装。それは天の羽衣と思われた。美しい着物だと、和希は思った。
「神の役割は天から人を見守り、手は差し伸べず、ただ救いを与えるのみと答える人間もあるだろう。ただ沈黙するのが神だという者もいる。人がさまざまいるように、神の形もさまざまだ」
「市松さまは、どう考えているのですか?」
「私か?」
市松さまはゆっくりと、縁側に置かれた着物を見上げた。
「祈りに答える、それが私にとっての神のあり方だ。私がそうありたいと思う姿だ。すべての人間というわけにはいかない、ただ私を頼り、祈りをささげてくれる人間の願いをかなえる。たとえそれが不条理をまねき、平等を欠くことになったとしても、それによってだれかを救うことができる」
「市松さまに祈る人たちだけ?」
「そうだ。土地神とはしょせん、そのくらいの力しか持ち合わせていない。しかし、魔術によって人は神に祈ることをやめてしまった。己の願望を魔術によってかなえるようになってしまったのだ」
「市松さま……」
「高天原に行けば、神として存在することはできるだろう。しかしそれは、祈りに答えることを放棄することだ。土地神という居場所を奪われれば、私はただ沈黙し、天から人々をじっと見守ることになるだろう。私にそれはできない」
言うと、市松さまは視線を玲子のほうへと向けた。
「あれの一族も魔女だった。連中は天草からこの地に住み着いた。彼女らは言った。いづれ魔女が神に成り代わると。土地神が人々の願いに消費されることもなくなる、と。しかし私はそんな世界をみたくはない」
市松さまは縁側の先に置かれていた庭石の上に立つと、神橋玲子と和希を見つめた。
「空が光った。さて、娘、そして玲子。もしお前たちが私が再びこの地の神として降り立つ日を望んでくれるならば、祈りの灯火をたやしてくれるな」
「市松さまっ!」
「玲子、最後に名を呼んでくれ」
請われた玲子は大きく息を吸って、吐いた。市松さまの本当の名を呼んだのは、風が吹いて市松さまの前の木の葉を大きく舞い上げたときだった。
「はい―――ククリ姫」
それは一瞬だった。きらりと空が光った。その光は木々に囲まれた社務所の裏にまで届き、暴力的なまでのまばゆさで和希の瞳の奥に突き刺さった。
不自然なまでに輝く視界が許に戻ると、和希はゆっくり目を開けた。庭の縁石に立っていた市松さまはいなくなっていた。
そして玲子は一瞬、社務所の縁側に置かれていた天の羽衣を見上げると、そっと雨戸を閉じて、境内へと踵を返した。神様がいなくなる―――そんな現象を目の当たりにして、平然としている玲子に、和希は腹が立ってしかたがなかった。
「平気なんですか? 玲子さんは―――」
まだわずかに濡れた地面をじっと見つめたまま、和希は声を低めた。そのとき、和希は玲子がどんな顔をしていたのか見ていたわけではない。ただ、わずかに震える声を聞いて、心臓がぎゅっと体の内側に埋もれてしまうような感覚がした。
「土地神さまは、いなくなる最後に人間に自身の名を呼んでもらうことで、信仰の種火を再びその地に植えつけるとよ。そやんやって、いつかまた帰ってくる日のことを夢みらすと」
「玲子さん……」、しかしそれが夢であることは和希にも理解できていた。
「平気なわけなかよ。小さか頃から、仲良うしとったとだもん。ただ―――神様には、神様の世界があるとだけん、勝手したらいかんと。それだけは守らんといけんよ、和希ちゃん」
顔を上げずとも玲子が泣いていることが和希にはわかっていた。だからこそ、和希はじっと黙って地面を見つめたまま、玲子が背中を向けて歩き出すのを待つしかなかった。
しかしそのときだった。ころり、と和希の足許で、でんぐり返りをする襦袢を着た少年が見えた。歳の頃は5歳ほどだが、身体は和希の手のひら程度の大きさ。おかっぱ頭を振り乱し、ぺたんと地面に着地すると辺りを見渡している。
粟島神社の祭神はスクナヒコナである。ガガイモの実を船にして、葦原中つ国にやってきたかの神様もこのくらいの大きさだったのかも知れない、と和希は新たな神様の来訪にさみしさを覚えた。
「ここには、いつか市松さまは来るのでしょうか」
神楽殿の影に隠れてしまった神様を目で追いながら、和希は玲子に呟いた。
「そがんね。同じ土地には似たような神様が来らすことのほうが多かけん」
玲子の言葉に、和希はぼんやりとした嘘を見つけた。この地に魔女が増えるほど、市松さまのような神を誰も必要としなくなる。そうして祈りの灯火は消えていく。そんなあたり前のことに、和希はひどく傷ついた。しかし最も傷ついたことは、自身もまた魔女の見習いとしてこの地に来たことだった。玲子が告げた嘘を確かめることが怖くてただじっと振り返る玲子の後ろ姿を見つめるのだった。
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