第5話神社の神様と魔女

「どやんやった、出水神社」

 ふと、神橋玲子に話かけられて和希は顔を上げた。

 雨女に出会った翌週の土曜日のことである。和希は神橋玲子に、「天衣の儀があるからついてきてん」と誘われた。

 そして今、三角行きの電車に揺られている。三角地方は熊本から天草へと渡る港のある玄関口である。しかし目的地は天草ではなくその手前―――宇土という田舎町らしかった。

「はい、ちゃんと天衣は渡せました」

「そう。よかったっちゃ。神主さん、喜んどらしたよ」

 宇土市に向かう電車の車内で、突然先週のお使いのことを聞かれて和希は戸惑った。なぜなら雨女との出会いのほうが深く印象に残っていて、雨が止んだあとで出水神社を訪れたときのことをほとんど覚えていなかったのだ。

 三角行きの電車はたまたま乗った電車がそうなのかわからなかったが、モーター音が車内に響き渡るほど古くさかった。車輌の天井には扇風機がついていて、それも現役らしく和希の頭の上で首振りに設定されてくるくると回っている。

 タタン、タタンと軽快な音と裏腹に少しかび臭さがあって、薄暗い。

 青い絨毯地の座席に向かい合わせで座れるようになっていて四人掛けだが、二人と手持ちの荷物を置くのが精一杯で、しかし二人は窓の外を眺めながら短い旅を楽しんでいた。

「―――あの神様はしゃんと天に昇らしたろうか」

 窓の桟に肘をかけたまま呟く神橋玲子の姿が和希には少し悲し気に見えた。

「……はい」

「違ったっちゃろ? 和希ちゃんはよう顔にでる」

 真っすぐ、神橋玲子は和希を見据えた。その瞳を裏切ってはいけないような気がして、顔を伏せたあとにわずかに顎を引いた。

「はい」

 景色がスライドしていく。次の駅が近づいている。一直線だった山の稜線が、凸凹しているのがわかるくらいに速度が落ちている。和希は夏の田んぼに広がる一面の緑が風になびくのを、なぜか懐かしく思いながら先日のことを思い出していた。


―――天女が去ってから和希は早々に用事を終わらせようと、出水神社の社務所を訪れた。そこで年老いた神主に出会った。和希が天衣を持ってきたと伝えると、その神主は申し訳なさそうに頭を下げた。

 しかし扉をほんの肩幅ほどしか開けずに顔を覗かせているだけだった。

「いちおう、うちで預かりますけん」

 しかし和希は、それはできないと神主に食い下がった。

「天衣は高天原に昇る神様のためを思って編まれたものですから、ちゃんと最後までお傍に付き添うのが天衣師の仕事です」

「でもあなたは天衣師を編みなはった人じゃなかでしょう?」

「はい。代理で天衣をお届けに来ました。だから、最後まで見届けないと、悪い気がして―――」

 神主は頑なに天衣を置いていこうとしない和希に折れて、社務所の引き戸を最後まで開けた。自分でもなぜそこまで言ったのかわからなかった。

 神崎玲子に伝えられたことは、天衣を出水神社の神主に届けることのみである。天衣師が神様の方に天衣を掛けなければならないという決まりはないし、神様が天に昇るところを最後まで見届けなければならないという話でもない。

 ただ、和希はもっと見たかった。いったいなぜ、神様は高天原に昇るのか。天衣師の仕事とはどういう意味を持つのか知りたかった。そしてそれ以上に、天の返し矢のことが気にかかっていた。

 社務所の裏戸を抜けて渡り廊下から神社の拝殿を通りすぎる。足を止めた和希に、神主は「稲荷神社の方です」と呟いた。

 今回、高天原に昇るのは摂社の土地神様なのだ、と神主は言った。

 主祭神ではないから、自分が用事に使わされたのだと、和希は悟った。和希自身、それほど神様事情に詳しいわけではないが、出水神社は県内でも指折りの大社で、そもそも細川家のお茶屋として始まった水前寺公園内に建立されているため、細川家と縁が深い。そんな神様が高天原に昇るとなったら、一大事になるのではないかと思った。そして出水神社に付随する形で建てられた境内社の神様が天に昇ると聞いて少しほっとした面もあった。

 そんな神様が高天原に昇るとなったら、一大事になるのではないか。しかしそんな出水神社ではなく、そこに付随する形で建てられた境内社の神様が天に昇ると聞いて和希には少しほっとした部分もあった。

 稲荷神社は拝殿の裏手に、京都の伏見稲荷に似た真っ赤な鳥居列があり、その奥に小さな稲荷神社が建っている。社には賽銭箱があり、その手前の石畳に和紙で出来た灯籠がちょこんと置かれていた。

 神主が腰を屈めて、その灯籠の縁についていた埃をそっと拭った。

「これがこの社の神様です」

「箱みたい」、灯籠そのものには蝋燭も油皿もなく和紙の小箱のようにもみえる。

「はい。この神様にも名前があったとでしょうが、自身の名を覚えておりません。そして、この灯籠の外へ出てもいかんとです」

「どうしてですか」

「ここの神様が疫病神だけんです。何百年も昔にこの灯籠に人の勝手で封じ込められてから、もうずっとここから出ておんなはらん。もし外に出てしまったらたくさん人が死ぬるけん……」

「じゃあ、神様はこの箱からずっと出ていないんですか」

 ぐっと息をひとつ呑んで、神主はぽつぽつと話をした。

「そん昔、魔女を名乗る人間が一人、この神社にやってきたとです」

「―――魔女ですか?」

「そん魔女は天草から来たて、私は聞いとります。話ば続けてよかでしょうか」

「は、はい」

「そん魔女はこん神様が疫病神様だけん人に仇なすて言うてまわり、辺りの村人に魔術を教えたとです。そもそも、疫病の神様なんてもんは、人の手に負えるもんじゃなか。しかしついに魔術で神様を小さか灯籠に封じたと」

「魔術で、ですか? だって、本当に疫病神さまかもわからないのに……」

「そがんです。神様を送る方法を知らん人らが、疫病神だけんていうだけでこの小さな箱に閉じ込めてしまいなはった。この稲荷神社は疫病神様が外に出らんように見張るためにあるとです」

「じゃあ、どうして天衣を?」

 賽銭箱の前に置かれていた和紙製の灯籠は静かだった。ぴったりと四隅を隙間なく塞がれているのに、不思議と炎のようなぼんやりとした明るさが中で揺らめいているのがわかる。それが蝋燭に火がともされているのか、自然と灯りがともっているかは和希にもわからなかった。ただ、きっとその灯りそのものが神主の言う神様なのだと、和希は思った。

「一度―――」

 和希は神主が差し出した手に、風呂敷に包まれていた天衣を載せた。

「一度、私は灯籠の中におらす神様を見たことがあるとです。前の灯籠が古うなってあっちこっち悪くなっとったけん、新しかとに変えようとして、私のじいさんが厄が外に漏れんように気をつけながら、こっちの灯籠に遷さしたとです」

 神主は石畳に風呂敷を広げて天衣を見下ろした。そのときにふと、口元を緩ませた。

「ええ着物ですね。これはええ着物です。私は祖父と比べて天衣にも着物にも素人ですけど」

「それで、どうしたんですか。この中の神様」

 首を傾げる和希に、「ああ、話の途中たいね」と神主ははにかんだ。そして首を延ばして、背後の鳥居列を指差した。

「あそこの赤い鳥居の影から、じいさんに黙って隠れてみとった。あの日もたいがな暑か日でね、祭りの始まる前の夕方にやろかと。稲荷神社の拝殿を白幣塀としめ縄で仕切って、そらあ大騒動だった。ただ、その拝殿にちょっと隙間のあってから、ちょうどあそこから中が見えた。灯籠から出てきた神様は、美しか女の人だったけん、いつか、天衣ば着て空に昇らすならと思って、神橋呉服店に天衣を頼みよる」

 神木にとまった蝉を探すかのように、神主は立ち上がると遠くを見つめた。蝉の鳴き声がいくつも重なって、神主の視線も行方知れずになっている。

「この地には魔女が国つ神を封じた記録が山のようにある。そん話は全部、天草から突然やってきて、人の勝手で神様を封じなさる。魔女ていうとは、一体なぜそがん神様ば憎みなはるとでしょうか」

 和希は神主の問いに答えることができなかった。魔術は人の役に立つためにある、と教えられてきた和希にとって、この地の国つ神らに憎むべき存在と語られていることが信じられなかった。そのときの神主の後ろ姿を思い出すと、和希の胸はぎゅっと痛むのだった。



「魔女は、悪者なのでしょうか」

 あの日のことを思い出し、ぽつりと漏らした和希の言葉に、玲子はゆっくりと頷いた。

「熊本は国つ神さまの強かっちゃけん。魔女が疎まれるとは仕方のなか話よ」

「そうでしょうか」

「それに―――神様にもいろいろ事情のあらすけん」

 電車の前に座っている神橋玲子が窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「けど、あの神様は魔女のせいで天に昇れないみたいなんです」

 電車がゆっくりとした速度になってやがて停車した。ぶしいっという激しい音とともに扉が開いて、夏の熱気が電車内に広がった。

「長か歴史の中でちょっとした行き違いや間違いはあると。それはまた長か時間をかけて解決せなんといかんこともある。和希ちゃん、気持ちはわかるばってんあんまり深く神様に関わってしまうとでけんよ。人は人、神様は神様。魔女は人の側に立つ人たちっちゃけん」

 和希は頭の上でくるくる回る扇風機の風を浴びながら黙り込んだ。

 俯いて、固く拳を握る。もしあの神様が自分だったら、と思うと心が痛んだ。人間に災いを成すというだけで閉じ込められてしまって自由に動くことができない。せめて灯籠に封じられる前に天衣師が編んだ衣を身に着けていれば、疫病神と忌み嫌われることはなかったはずだ。

 電車は川尻から富合駅に停車した。

 川尻は元々宿場町として発展したため、電車の車窓からも古い町並みが見られる。そこからさらに富合に抜けると風景はがらりと変わる。一面、触れると弾けそうな田んぼの緑と青い空が広がっている。そこに電柱がぽつんぽつんと並ぶ風景になると、夏の空気が密度を高め、温度がさらに上がるのだ。

「……神様は、どうして天に昇らなければならないんですか?」

 和希は今、自分が最も疑問に思っていることを素直に投げかけた。

 天衣師がいる意味、そして神様を天に送ることの意味を知りたかった。

 富合駅をゆっくりと出発する電車の扉の外で、制服を着た女子高校生がタオルに包んだペットボトルの水を飲んでいる。神橋玲子はその様子を目で追いながらぽつりと呟いた。

「和希ちゃんには還し矢伝承の詳しか話はしとらんかったね」

「還し矢……この間言っていた神様を殺す矢のことですか」

「そう。これは例えば、旧約聖書にもある話。神様に反旗を翻したニムロドという猟師が、弓に矢を番えて天に放ったと。その矢は神様から還されてニムロドに当たり、彼は死んでしまうとよ。神様に歯向かったらいかんよ、っていう教訓やろうね」

「それに天の羽衣が関係してるんですか」

 玲子はゆっくりと頷いた。

「それと同じ神話が、この国の神様について書かれた古事記にもあると。アメワカヒコていう神様が、地上で暮らしとらしたときに、神様に矢を番えなはったちいう神話が。

 神様はアメワカヒコが天に向けて放った矢を取って言いなはった。

『もし悪しき神を射つる矢ならば、アメワカヒコにあたらざれ。もし邪なる心あらば、アメワカヒコ、この矢に禍れ』。

 天の神様に離反する気持ちのあったアメワカヒコは天におる神様が還した矢に当たって死になはった。それから神様が地上に降りるときは、ときどき天に帰らんといかんようになったとよ」

「どうしてアメワカヒコさんは天に背いたんでしょうか」

 どこか、遠い記憶を思い出すようにして玲子はつぶやいた。

「それはね、恋をしなはったから。前も言ったけど、八百万の神様て言うても、天つ神と国つ神―――ちゃんと二つの分け方があってね。天つ神は国つ神の女神のことを好きになることは禁じられとった。そん国つ神の女神さまはシタテルヒメていうて、国つ神の頭領、オオクニヌシの娘だったけん、なおさら許しなはらんかったとよ」

「じゃあ神様がこちらの世界で恋をしないように天に昇るようになったんですね」

「まあ、始まりはそんな感じやろね。どうしたって、人と神様は一緒にはなれん。還し矢伝承ては、そやん決まりを守るためにあるっちゃろう。やけど、人に寄り添ってくれらす神様をむげに還し矢で失ってしまうのは悲しか。だけん、矢が振る前に、私たち人間が神様を天に送ってあげる、それが天衣師っちゃけん」

「魔女は―――魔女はどうなんでしょうか。勝手に、神様を封じて―――」

 言うと、神橋玲子は小さく笑った。

「それはね、和希ちゃん。まだ、天衣を編む術のなかったころに、還し矢から神様ば守るためにやったこと。たしかに人の勝手やけど、神様を失ったらいけん。まあ、守るためとは言え、小さかとこに封じるとやけん、憎まれてもしかたなかとは思うね」

「そう、なんですか……」

「やけん、あんまり深入りはしなすなよ。神様にしてみたら、どこかに人の勝手は出てくるもんやけん。気にしとったらいけんよ」

 玲子は遠く窓の外を眺めて、ぼんやりと外を眺めた。しかし和希はその視線を追うことなく、じっと拳を太ももの上に握ってうつむいていた。長い沈黙が続き、電車の車輪が線路を滑る音が車内に響いている。

 手の甲をすべる日の光を見つめながら、今どの辺りなのだろうと和希はぼんやり考えた。

 宇土は有明海に面した海岸線のちょうど真ん中あたりに位置している。市内から天草の上島、下島へと通じる宇土半島の付け根にあって、昔から交通の要所として栄えた。熊本城下町から三号線を登り、57号線を経由して宇土半島に入る道が一般的だ。

 三号線は熊本で最もにぎわう国道で、左右ともに様々な店がひしめき合う。

 しかし宇土半島に入るにはもう一つ裏道があって、三号線の喧騒に飽いた地元の人間はほとんどそちらを利用する。熊本駅から28号線に入り、金峰山を右手に臨みつつ、501号線に入ると昔、飽託郡と呼ばれていた地域に至る。さらに南に下れば飽田、さらに下り天明地区、そして緑川にかかる平木橋を渡れば市内から宇土市に入る際の玄関口、走潟地区に辿り着く。

 一般的なルートは三号線から川尻へと下るのだが、天明地区を抜けて宇土へと至る道は田んぼばかりで風景に味気がない。501号線沿いの飽田と天明は、元々江戸時代に干潟を埋め立てて水田開発に充てられた地域であって、四方どこを見ても田んぼという田舎の風景を楽しむことができる。

 501号線の裏街道は、三号線ほどの賑わいは見せないが、熊本市街に見られるビルやホテルなど高層建築物、また昔ながらの町並みから次第に蓮台寺を初めとする団地地区、さらに田んぼの広がる風景ところころ風景が切り替わる。

 宇土は土地も肥沃で二毛作が可能である。埋め立てて作った土地である天明、飽田と比べて作物の彩りが豊かであるため、春先などは麦畑がそこかしこに見られて、同じ農業地域でも平木橋の南と北でまた違うのだ。

 宇土駅到着を知らせるアナウンスがあり、玲子が立ち上がった。

 その後ろ姿を追いかけて、和希はガタンガタンと何度も音を立てるドアを抜けた。

 宇土駅は閑散としている。1番線と2番線を行き来する歩道橋があり、2番線のプラットフォームに降りた二人は歩道橋に昇り、改札を目指す。歩道橋の左右には観光案内ポスターと小中学校の催し物のポスターが古くて2年前くらいのものから今月分までペタペタと貼られている。和希は歩道橋の壁一面に貼られているポスターに興味がわいて、立ち止まりたくなったが、前を歩く玲子は足早に歩く。時折、振り返ってくれるが、ただし速度を落とす様子はなく、呆れたような顔でときどき立ち止まる。

 2番線と駅改札をつなぐ歩道橋の距離はさほどないのに、これほどまで距離が空くか、と思ったときにふと、玲子が声をかけた。

「旅行、行きたかとね」

「あ、い、いいえ」

「春は有明、夏は阿蘇。秋は金峰山、冬は―――冬はなんちゃろ」

「なんですか?」

「ううん。熊本で旅行に行くならどの季節にどこ行くとよかろかな、と思うて。冬が思いつかん。冬はただ寒か」

「夏は暑して冬寒かってやつですか」

「そやん。よう覚えとったね。ほんと肥後の盆地はよういけん。ほら、はよう行こ。和希ちゃんのてれっと節で回っとったら夕凪の来る」

「はあい」

 改札へ向かう階段を降りて改札を出ると、小袖餅と書かれた幟が何本も立っている。和希が小袖餅という文体をぼんやり見つめていると、「小袖餅は1日しか日持ちのせんけん、お土産には向かん。地元の人しか食べれん餅だけん、帰りに買ってこか」とほほ笑んだ。

 小袖餅のために今日1日を乗り切るという不純な動機を得て、和希もようやく胸を弾ませて玲子の足についていった。

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