第4話魔女見習い、天女と出会う
引っ越してきて初めて友だちらしい友だちができたのは熊本に150ミリ近い大雨が降った日のことだった。その日は和希にとってとても大事な一日であった。神橋玲子に初めて呉服店の仕事を任されたのだ。
仕事の内容は着物を一着届けること。
場所は水前寺成趣園と呼ばれる熊本の名所の一つである。和希は前日に水前寺成趣園までのルートを地図で調べて交通機関の時刻表を確認した。
熊本という場所は不思議なところがあって、繁華街が熊本城下にあるにも関わらず、九州新幹線やJR線が往来する熊本駅は古町の外れにある。
これによってどういうことが起きるかと言うと、和希の家から繁華街に出向こうと思うならいったん熊本駅に降り立ったあと、市電かバスで交通センターに向かわなければならない。交通センターとは熊本で最も大きなバスターミナルで、JR線とともに県内各地に向かうための主要な交通網である。
つまり、豊肥線、鹿児島本線、九州新幹線の三つを乗り入れている熊本駅は県外からの玄関口となりうるが、そこから県内各地に移動しようと考えたら熊本城下まで移動する必要がある。しかもこれは県外の人間に限ったことではなく、熊本市外に住んでいる県民にもわりと当てはまってしまう。
原因は明治期に遡る。のちに国鉄に吸収合併されることになる九州鉄道と、市内の交通機関であり、のちの熊本市電局の流れを汲む大日本軌道と呼ばれる二つの鉄道会社が存在したことである。
九州鉄道は当時の熊本県の管轄であり、熊本駅のある春日村が熊本市に併合される前から駅舎を立てていた。一方で大日本軌道は蒸気鉄道を運営していたが、電車に移行する時代の流れの中で市営化の方針となり、現在の熊本市交通局となった。この二つの鉄道会社が、それぞれ国鉄と市電に別れたことによって現在の交通網の形が出来上がった。
和希のように、市内の外れに住んでいるとわざわざ熊本駅から市電で繁華街のある熊本城下まで移動しなければならないと、なぜなのかと首をひねりたくなるものである。
しかし一方で、和希は熊本城の内堀に沿って走る路面電車から見える風景が好きだった。もしJR線だったら速度が速くて、これほどのんびりと眺めている時間はなかったかもしれない。
熊本城本丸を右に折れて、通町筋を路面電車が通過する。そこから水道町を抜けると大甲橋と呼ばれる、白川を渡す大きな橋を走る。その橋から見える白川の風景も、和希は気に入っていた。
そこからさらに九品寺や味噌天神などを経て、水前寺公園駅に辿り着く。
和希は150円を、運賃箱に入れて風呂敷に包んだ着物を抱きかかえながら電車を降りた。まだ、大雨が降る前のことで、蝉の鳴き声がよく聞こえた。
大通りである28号線はビルが立ち並んでいるが、路地を一本内側に入ると古い町並みが続いている。小川沿いに石畳の歩道を歩くと、その先に喫茶店や土産物屋が立ち並んでいる。水前寺公園は、細川家が建てた御茶屋がはじまりであり、園内には細川家を奉る出水神社が建立されている。和希は小川沿いの道から参道へと入り、水前寺公園に入った。
神橋玲子に頼まれた仕事とは、この水前寺公園の園内に建てられている出水神社の神主に、天衣を渡すということだった。
砂利の道を歩く。そして生い茂る木々が視界を遮るその先を、和希は抜けた。そこは巨大な湖のある、美しい庭園だった。
繁華街から路面電車で5駅もいかないところに、こんな綺麗な庭園があるのか、と思ったときに、和希はなんとなく熊本の人々の感覚みたいなものを理解できたような気がした。
熊本というところは、おそらく人々が思っている以上に史跡に臨んで生きてきた。繁華街は常に熊本城の膝元にあって、そこには神社仏閣が雑居していて、しかも役所やオフィス街まで集まっている。
また繁華街の隣には、熊本城の外堀を挟むようにして新町、古町とあり、明治、大正、昭和期の古い建造物が並んでいる。そして細川家のお茶屋としてできた水前寺公園は、白川にかかった大甲橋を渡り、通町筋から熊本城の本丸へと至るメインストリートの玄関口でもある。
そういう城下町の造りがそのまま残されているのが熊本という場所であり、必然的に当時の面影を感じながらここの人たちは生活をしている。
主要な交通機関が、県外からの玄関口である熊本駅ではなく、熊本城下の繁華街に集中しているのも、結局は熊本の人たちが城を臨んで生きてきたからだろうと、和希はぼんやりと思った。
和希は天衣を入れた風呂敷を何度も抱え直しながら、湖に渡された橋を歩く。鯉がエサを求めてパクパクと口を開けているのが見えた。周りを見渡せば、学校の校舎やオフィスビルが立ち並ぶ中央街のほぼど真ん中である。鯉がちゃぽんと湖に沈んで、蝉の鳴き声が自分の腹の底まで染み渡っていくのを感じたときに、もっとここに来ようと和希は思った。
神橋玲子が着ていた着物の菖蒲柄を見て以来、和希はよくノートと鉛筆を持って花の絵を描くようになった。着物の柄には何が似合うのか、自身で想像してみることが楽しいと思えたのだ。
水前寺公園には湖のほとりに百合や紫陽花、凌霄花が綺麗に咲いていて描くモチーフには困らなかった。
ちょうど湖のほとりに降りる石段を見つけて、帰りにそこで絵を描いて行こうと決めてから神社を探した。園内にある出水神社は、湖にかかる橋を渡ると左手に建っている。大きな楠の真下に境内があり、橋を渡って右に逸れるとそのまま湖をぐるりと一周する散策コースに入るのだが、大概、みんな左手にある神社に寄っていく。
神社の参道は大鳥居を潜ると広い石畳になっていて、石段を上って振り返ると庭園に生えた松の木がさらに美しく映った。
このような大きな神社にも、高天原に昇ってしまう神様がいるのだろうか、と和希は少し寂しい気持ちがした。
そのときだった。
和希は初めて、雨の切れ目を見た。晴れた空からさあ、と雨が降り、参道の石畳の半分を濡らしている。そこからひたりひたりとにじり寄るかのように、石畳を全面濡らした。大鳥居が雨に濡れたところを見計らって空がゴロゴロと鳴った。
和希は預かった着物が雨に降られてはいけないと身体で覆うようにして抱えながら走った。神社の脇には神楽殿があり、そこの軒先で雨宿りをした。軒先から空を見上げると、土砂降りになった。雨が降る前に雨宿りできてよかった、と思う反面、和希はせめて神社の境内まで走っていればと後悔した。空を見上げれば、さっきまで晴れ間の中に雨雲がちらほら見えていたはずなのに、今は灰色に染まっている。
平日の昼間だったこともあって、公園に人の姿は見当たらない。しかし例え、人影があったとしても傘を持っているようにも思えなかった。
いや、と和希は首を振った。それにしてもこれほど人がいなかっただろうか、辺りを見渡してみると、ふと大雨の中でさきほどの湖のほとりで鯉にエサをやっている女の子の姿が見えた。水色のセーラー服で、白いソックスと革靴を履いている。そしてひときわ目を引いたのが、彼女が羽織っている着物―――それは和希の目に見ても美しく、輝いているようにすら見えた。羽織った着物が濡れないように、と少女は大きな和傘をさしていた。さらに閉じた和傘を三本―――麻紐でまとめて腕に抱えていた。
和希は着物をぎゅっと抱きかかえたまま、その少女を見守っていた。
鯉のエサやりに飽きたようで、少女は立ち上がると自分の差した傘を肩に預けると両手で湖にエサを全部放り投げた。そしてパンパンと手を二度三度叩くと、そのまま和希のほうを見つめて一直線に歩き出した。
和希は慌てて、着物の入った風呂敷で顔を隠したが、それでもその傘を大量に背負った少女の歩みは止まらず、参道を逸れて神楽殿へとつま先を向けて歩いている。
まるで和希を狙いすましたかのような歩みで、他に誰かいないかと辺りを見回してもやはりなぜか、和希とその少女の他に参道にいる人影はない。
和希は観念して、顔を覆っていた着物を胸のあたりに戻した。ややつり上がった大きな目が印象的で、雨で髪が濡れているせいか、短い髪の毛がぺたりと頭頂部から顎までくっついているように見えた。
その少女は、まっすぐ和希を見据えると腕に抱えていた和傘を砂利の上に置いた。そして麻紐をほどくとその一本を手にとって「……いる?」と呟いた。
傘は、さきほどの湖の鯉が乗り移ったかのような絵柄模様。見た目にも高級そうで、和希は「い、いや」と何度も首を振った。
少女はそれを察したのか、今度は柄なしの古い和傘を引き抜いてもう一度、「いる?」と和希に訊ねた。
「あ、あの……貸していただけるんですか?」
「そう。貸してあげる。重いし」
「重いから?」
「そう。重いから」
何度も断るのも悪い上に、和希も傘がなんとしても欲しい身であったので、今度は深く頷いた。
「あ、ありがとうございます」
その少女は満足そうに、低い凛とした声で「うむ」と頷いた。
「その傘、どうしたんですか」
「……拾ってきた」
「拾ってきたって、どこからですか」
「どこからでも。傘だけじゃないよ。いろんなものを、拾ってる。ビール瓶の蓋、磁石、野球ボール、河原の石。いろんなものを拾っております」
「拾っておりますか」
「そう。国つ神を守るため」
「国つ神様?」
「国つ神。みんな矢を怖がって出てきたがらないから。国つ神が隠れているものを集めて守ってる」
「矢? 矢って、もしかして天の返し矢のことですかっ!」
和希は風流太夫が消える直前にしていた話を思い出した。「恨むぞ、娘―――」、そう言った、あの少年のような神様の言葉が頭から離れなかった。
「そう。この地からすべての国つ神を消し去ろうとしている者がいる」
その少女は差していた大きな和傘を地面にそっと置いた。そして天を仰ぐと、降り注ぐ雨を身体いっぱいに浴びて空をにらんだ。
「人か―――天つ神たちかはわからないけれど」
少女が呟いたそのときだった。稲光のようにぱっと空が一瞬明るくなった。和希は目をつむってしまい、隣にいた少女がどういう行動をとったのかはっきりと見ていたわけではない。ただ、耳で聞いた音を頼りにすれば、少女は羽織っていた着物を脱ぎ、その光に向けて一振り振っていたように思われた。脱いだ着物を右から左へ―――その行動が何を意味するのか和希にはわからい。しかしその美しい着物が中空を流れ、少女がそれに合わせて足を踏むところを想像した。少女が羽織っていた着物でその光を遮った、ただそれだけの一連の行動は風流太夫が最後に見せてくれた舞いにも似ていた。
「国つ神を殺してはいけない。そんなこと、わかっているはずなのに……」
空を明るくした光は止んだ。再び暗い雨が地面をたたき、和希は差していた和傘の柄をぎゅっと握った。
「その天衣、早く届けてあげてほしい。ここの神様が亡くなってしまうから。ちゃんと、天に昇ってもらわないとここにも神様がいなくなってしまうから」
「は、はいっ!」
しかし雨は神楽殿から見えるはずの境内まで真っ白に染めてしまっていた。東京では経験したことのない土砂降りで、わずか10歩ほど先も見えにくくなってしまっている。和希はぐっと息を飲み込むと、差した和傘を自身の身体に引き寄せた。
そして一息に駆けだそうとしたときだった。
「大丈夫、私がいなくなればすぐにやむ」、少女は小さくつぶやいた。
「―――え?」
そう言い残して、少女は傘もささずに神楽殿を出た。
「―――だから」
半身で振り返って、その少し悲しそうな横顔を和希に見せながら、少女は呟いた。
そして一歩一歩と神社の参道から鳥居の方へと歩き去っていくと、それと同時に天を覆っていた雨雲が少女とまったく同じ方角へと移動する。そのとき、大雨で聞こえなかったはずの、少女の言葉がはっきりと和希の耳に響いた。
「―――天女だから」
「天女様? 天女様って言ったの?」
「……私は空から落ちてきた」
そう言った少女の背中を、和希は神楽殿の軒下からじっと見つめていた。晴れ間が出て来て、太陽が濡れた石畳を照らしている。石段にはまだ雨水が薄い膜を張っていて、ガラスみたいに光っている。その中を歩く少女がまるで湖面を渡っているかのように見えた。
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