第3話船場山にはたぬきがおってさ
呉服町界隈は熊本城下の新市街、中央街とともに旧市街と呼ばれている一角で、古い町並みが今も残っている。熊本城の外郭として流れる坪井川の北側を新町、南側を古町と言い、呉服町はこの古町の一部である。
新町は坪井川の内側にあり、熊本城門の内側にある城内町だった。そこには武家屋敷や町人町が存在していた。この新町を坪井川の舟運を利用して支えていたのが古町である。
古町は外郭の坪井川の外を沿うようにして商人、職人町が並び、江戸時代には問屋街として人々の生活と職業の場となっていた。
熊本駅から出る路面電車は、この旧市街―――特に古町をメインに走り、熊本城下の新市街に至る。新町が熊本城の正面に長方形型に広がっている一方で、現在の新市街や中央街は、城の左手に立ち並んでいる。
一方で熊本城下の左手は現在、繁華街となっており、比較的建物が新しい。
熊本の人たちは熊本城を臨んで暮らしてきたようなところがある。武家屋敷が並ぶはずの新町に、なぜか町人町がまざってしまったことが熊本という町の不思議な構造の始まりである。武家と町人との地理的な距離の近さによって、武家に対する親近感や気安さが生まれていると思われる。
古町そのものは城内に存在する一つの町だった。そして外堀を新町がぐるりと覆っており、その名残からか、熊本城一円は繁華街と旧市街、それに加えて高校や大学が隙間を縫うように建つ文教区でもあり、寺院や重要文化財に細川家ゆかりの庭園から、加藤清正を讃える神社までなんでもかんでも熊本城の手の届くところに配置されている。
和希は路面電車で熊本駅から、祗園橋を渡り、旧市街の古い町並みを眺めた。
しかしである。その古い町並みが残り続けた結果、ただ唯一、熊本駅が城の膝元から弾き飛ばされてしまった。
熊本城の外堀の内部を走ることができる公共交通機関はバスと路面電車のみである。それは通町筋という、白川の対岸から武家屋敷へと至るメインストリートが江戸時代からできており、鉄道を熊本城の城内町に敷設することが許されなかったからだ。
熊本城の外堀の北と南に、時代を経てもなお古い町並みが残されているのは、交通網が城内町に敷きにくかったという事情があるようだった。
それは結局のところ、熊本城下を乱してはならないという熊本の人々の精神性が現れているようである。
和希はこの道を、毎日叔母の楓がかよっていたのかと思うと、なんだか羨ましいような感じがする。とくに熊本駅を出てからニュースカイホテルが正面に見える二又路を、左に曲がるとそこから古い建物が連なっていて、東京とは違う匂いが漂っていた。
呉服町にある神橋呉服店と聞けば、こんな昔ながらの古い建物にあるのだろうと電車の窓からきょろきょろ辺りを見渡していたが、それらしい店はない。
そもそも祖父母の家から繁華街に行くには電車道とバス道路になっている古町の中を必ずと言っていいほど通らなければならず、和希は幼い頃からこの街並みだけは知っていた。
そのときも、神橋呉服店という看板は目に着かなかったからよほど奥まったところにあるのだろうと、呉服町で降りてみれば、叔母の言ったとおり、呉服店は駅を降りた正面にあった。
そこは洋館だった。たしかに隅っこに神橋呉服店の立て看板がある。
どうりで、と和希は思わず独り言をつぶやいた。
その洋館は熊本駅から新市街に入るまでに見える建物で、一風変わった風情がある。ただし熊本には大正年間に造られたハイカラ建築がいくつか残っており、どうやら神橋呉服店もその一つであるようだった。
しかもその隣には藤山病院というまたさらに大きな洋館で、壁と樹木を挟んで建っている。病院は道路を沿うようにして塀が連なっていて手前は石畳と芝生のかなり広い庭があり、建物そのものは奥まったところに建っていた。
その作りを真似るようにして、神橋呉服店もやや狭い敷地ながら、手前に看板を出して細い小路の奥に洋館が見える。呉服店のほうが庭木が多いわりに、洋館自体は小さく、木々に囲われるようにして建っている。
そして叔母の言うとおり、塀から病院の庭を覗いてみるとたしかに看護師も入院患者も着ている衣服はみな着物だった。
和希は恐るおそる、敷石を踏んで呉服店の庭に入った。そこだけがひんやりとした空気が流れているような気がする。ちろちろと水が流れる音も聞こえて、それが蝉の声と混じると数珠をこすり合わせたみたいなガラガラとした音色になった。
「あ。あのお~……」
苔むした砂利を踏み歩いて洋館の前まで来ると、くすんだ白に重たげな扉がわずかに開いていた。ちりん、と風鈴の音が鳴った。それは古い家特有の隙間風を利用して、来客を知らせるためにあるようだった。
洋館の床はオレンジ色の眩い照明に照らされて、つやつやと光っていた。大きなシューズボックスがあり、上がり框に千鳥格子柄のスリッパが色違いで5足ほど並べられていた。
どこからか、「入ってよかよー」と声が聞こえた。
和希はその声が吹き抜けの天窓辺りから聞こえてきたように感じた。
ひと際目についたのは、棟持ち柱と並んで巨大な楠がロビーから三階、そして天井を抜けて屋根まで―――ちょうど洋館を貫くようにして生えていることだった。つまり、どうやらこの洋館は楠を囲うようにして建っていて、楠にはご神木を表わす白幣が捲かれていた。
和希は言われたとおり、スリッパを履いて、洋館に上がった。部屋には誰もいない。ご神木の楠に隠れていたので和希にはわからなかったが、奥には二階へと上がる階段がある。
「上がってきてん」
また洋館の中に反響する声が聞こえた。ご神木を中心として放射状に箪笥や竹籠が配置されていて、着物の種類を書いた和紙がぺたぺたと張りつけられている。
こんなたくさんの箪笥、初めて見たと和希は階段を昇るのも忘れてぐるりと辺りを見回しては、また反対側へと視線をぐるりとやった。
「はよ来んねー。なんしよんちゃろ」と急かされて、ようやく和希は二階へと上がる階段の手すりに指を触れたのだった。
指先には熊本の暑さを忘れてしまうようなひんやりとした冷たさが伝わる。親指から小指まで一つずつリズムをとりながら、階段を上がった。
臙脂色の絨毯が敷かれた二階は突き当りが水場になっていて、部屋が4つほど。しかし右端から二つ目は扉が外されていた。階下からのびる楠の幹が突き抜けてしまって、ドア枠から枝が生い茂るせいらしかった。
建物自体はどうやらこちらも昔は病院だったようで、そして子ども向けの座椅子やテーブルが廊下に並べられている。壁にはモノクロ写真が並べられて、それも子どもらが多く映っていた。
一階が呉服店として綺麗に整えられていたのと比べて、二階は古いまま。この建物に関する歴史が記された額が床に放置されている。和希は達筆で書かれた文字を、目を細めて読んだ。竣工は大正3年で、初めは隣の藤山医院の分院として建てられた小児科医院だったらしい。古町には珍しいハイカラ建築で建てられたため、正式な名前の中村小児科医院と呼ぶ人はほとんどいなくて、ハイカラ病院と呼ばれていた。患者に着物を着てもらうことも、そのハイカラ病院の名残なのかもしれない。
院長の中村平蔵の死後は、藤山医院から医師が常勤することで小児科を続けていた。
しかし平成5年に、藤山医院の跡取り息子のうちの1人が小児科を院内に設けたことで、中村小児科医院の役目は終わり、閉院。のちに、神橋家が建物を買い取ったようだった。
平成5年に閉院したときの、最後の写真が残っていた。そこには白衣の男性が1人と着物姿の禿頭の男性が1人―――その背後に、ちんまりと着物姿の少女が映っていた。
「玲子さん……?」
なんとなく、面影が似ている気がする。
「呼んだつ?」
廊下の壁に無造作に立て置かれていた額に気を取られていたせいで、和希は後ろの気配にまったく気づいていかなかった。
「わ。び、びっくりした」
「ぜんぜん来んちゃけん。二階のどこかで道に迷っとるとかと思って心配したとよ」
「ご、ごめんなさい。建物が珍しかったから」
そのとき、廊下に立つ和希と神橋玲子の脇を、一礼しながら通る老女がいた。しゃんと、背筋の伸びた白髪の女性で、水連模様の赤い着物を着ている。
「はい、また」と玲子はその老女に軽く手を振った。
階段を降りるまで、その着物の女性を見送った。和希は神橋玲子が頬にかかったボブカットの緑がかった髪の毛をかき上げたときに、ふと寂しそうな目をしたような気がした。
「んなら、ちょい荷物を下の階に降ろすの手伝うてくれん?」
「―――は、はいっ!」
和希は神橋玲子の着物に描かれた、湿地を歩く水鳥の美しさに見とれながら彼女の後を追った。廊下を突き当りまで歩き、玲子が水場のある左手の扉を開けた。そこは小児科医院時代には院長室だったらしく、奥には大きな書斎机に革張りの椅子。しかし今は使われていないようで、医院時代の機材や医療道具が木箱に入れられたまま積まれていた。
部屋の両側は天井に届くほどの本棚が備え付けられている。しかし、玲子の手が届く範囲―――2段目までは、茶器や花瓶が綺麗に並べられている。
書斎机の手前には小さなテーブルと椅子が2脚。さきほどまで、二人が話をしていたのであろう、急須と湯呑が2つ。お茶菓子を置いた小皿が残されていた。
書斎机の手前には小さなテーブルと椅子が2脚。さきほどまで、二人が話をしていたのであろう、急須と湯呑が2つ。お茶菓子を置いた小皿が残されていた。
「来てくれてありがと。一人で店しよるといっちょん片づかんちゃけん」
神橋玲子がはにかむと、脇に開かれた竹籠の蓋を締めた。目が粗く、和希にも何が入っているのかがわかった。中身は藤山病院のものと思われる、院内患者用の白い病衣だった。
はい、と彼女は竹籠を和希に向かって押してみせた。和希はUFOキャッチャーの腕みたいに両手いっぱいに籠を抱えて持ち上げた。
「これ、玄関前に置いとって。あとで藤山病院の人が取りに来らすけん」
「はあい」
持ち上げてみると、竹籠は意外にも高さがあって目線の高さから下がほとんど籠で隠れてしまう。階段まで来ると、身体を横にしてカニ歩きで降りていく。足許がおぼつかなくて何度か降ろしたい衝動に駆られた。階段を下り終えると籠を床に置いて大きく息をついた。
背後からは「ほい、ほい」と小刻みに息を吐きながらとんとんと器用に階段を降りてくる神橋玲子の姿が見える。しかも彼女は和希と同じ籠をさらに二つ積んでいる。
視界は竹籠で遮られているはずなのに、階段を降りてすぐのところで息を整えている和希を避けて、左脇の壁に抱えていた荷物を寄せて腰をぐっと伸ばした。
「和希ちゃんは、てれっと節なんねえ」
神橋玲子は肘辺りまでたくし上げられた着物の袖を直しながら言った。
「てれっと節?」
「そう。てれーっと節。熊本には忙しなか人の多かでしょ。その人たちにくらべて、のんびりとしとる人のことをてれーっとしとるて言うと。てれーっとしとなはんな、てれーっとしとなはんなってね」
「どんくさいですか?」
「東京じゃあ、そがん言うとかね。でもどんくさいて言うと相手に悪かし、気も悪かちゃろ。てれっと節はその人が持っとる時間の流れちゃけん、むりに気忙しくすることはなかよ。言うてここはのんびりとしちょるでしょうが」
「じゃあ、忙しく動いてる人のことは何て言うんですか」
訊くと、神橋玲子は腰に手を当ててうーんと考え込んだ。
「なんだろかね。せからし調かねえ」
「せからし?」
「うるさいことをせからしかて言うとよ。やけん、せからし調。あっちこっちに動きまわるけん、せからし調」
「せからし調……じゃあ、私はてれっと節で、玲子さんはせからし調ですね」
「ああーそがんかもしれんねえ。そやんかもしれん。せからし調……はじめち言われた。和希ちゃんは言葉を作るとがうまかっちゃねえ」
和希は彼女がはにかむ笑みを見せたときに、ふっと心が湧きたつような感覚をおぼえた。
きっと、周りを心地よい空気にしてくれる人なのだ、と何となく思った。
「さっきのおばあちゃんは誰なんですか」
少しだけ、さきほど二階を降りていく老女を見送ったときと同じ翳りが彼女の瞳に宿った。一度口を開きかけて、閉じた。何か言いにくそうにしているようだった。
「あの人は、藤山病院に長くおらす患者さん。病衣じゃあ、気持ちまで病気になるけん着物を貸してあげとるとよ。それで明後日、退院することになったっちゃけん、着物を一着買いたいていいなはってね。よか着物を二人で選んだと。あの人はずいぶん昔からうちの着物をひいきして着てくれらしたっちゃけん」
「よかった。退院されたんですね」
そう和希が呟いても神橋玲子の顔は困り眉のまま、口許は端をわずかに引いて悲し気にしている。長い睫毛が、彼女の肌に影を作ると、和希はなんとなくその意味を理解することができた。同時に退院という言葉が、病気が治った人間にだけに送られるものではないことに気づいたのだった。
熊本の暑い夏が、窓枠から一階の床に降り注いでいる。その手で掴めそうな蝉の鳴き声を聞きながら、和希は神橋玲子の言葉を待った。
「……最後のお召し物っちゃけん。美しか着物のほうが、あの人にはいっとう相応しかもん。人も神様もおんなじ。最後は美しか姿で見送られたかと思うもんっちゃろう」
「はい。美しか人ですね」
「和希ちゃんも、そやん思っちょっと?」
和希は大きく頷いた。そして涼し気な着物を着て微笑んだ老女のことを思った。
実家の祖母と後ろ姿が似ていた。ふと、和希はたった一度だけ祖母が着物を着た日のことを思い出した。あれはお盆の日のことで、夏の夕暮れどきに提灯を持たされた。
帰りは重くなる、と祖父が呟いた。和希はその意味も分からずに、提灯を持って田んぼの畦道をとぼとぼと歩いたのだった。和希は東京で暮らしていたときも、あの日の田んぼの匂いを思い出すことがあった。泥の匂いは東京にはない。しかし赤く焼けた夕暮れどきに、蝉の鳴き声を聞くと不思議と鼻の奥がつんとむずがゆくなるのだ。
あの日、着物を着ていた祖母は、和希には別人に見えた。帯の金魚柄を追いかけていないと、どこかに行ってしまうのではないかとハラハラしながら、提灯の火が消えないようについて行った。二階の廊下ですれ違った老女にも、あの時と同じようなもの悲しさを、和希は感じていたのだ。
なんとなく、しゃべるのがおっくうになって、和希はまたぼんやりとしていた。もしかすると、自分のてれっと節は季節そのときどきに訪れるもの悲しさのせいではないか、とそんな気持ちになった。ふと、蝉の鳴き声がやんだ。
「何が通っているんでしょうか」、その沈黙を嫌って和希は呟いた。
「なんが?」
「蝉が泣き止んだから。どこかの国だったか覚えてないんですけど、会話が途切れて静まった時間のことを、天使が通るっていうらしいんです。それなら、蝉の鳴き声が止んだときは何が通っているんだろうと思って」
玲子はさみし気な瞳のまま、着物の入った竹籠を開けると、浴衣を一着膝の上にのせてその皺を伸ばした。
「天の返し矢が通ったっちゃろうねえ」
「天の返し矢?」
「そう。昨日、風流太夫様ば高天原に送ったでしょうが。1年くらい前からかねえ、高天原から天の返し矢が降ってくるごとなって、神様の数の減りよる」
「減るんですか? 神様が? どうしてですか?」
「それはわからん。ただ、突然、高天原からこの地におる神様を射殺す矢が降ってくるごとなったけん、私みたいな天衣を編む人間が射殺される前に高天原へ送っとる。なんで天の返し矢が降ってくるようになったとかはわからんし、私たち人間にはどうしようもなか。やけん、せめて消えておらっさんようになる前に、送るよ。もう、嫌だけん。神様の消えらすところを見るとは―――」
玲子がそのとき、呉服店の一階から二階へと伸びるご神木を眺めた。和希にはおそらく、このご神木にも元々、神様がおそらく宿っていたのだろうと感じていた。和希も見習いではあるが、魔術師である。物質に霊的存在が宿っているかどうかの判断くらいはついていたが、どう見てもご神木にその姿はないように思われた。
ちりんと風鈴が鳴った。
玄関の隙間から風がとおって、和希の前髪を撫でた。神橋玲子はいつの間にやら、またせっせと着物の籠を持ち上げて一階の呉服店を忙しく歩き回った。そして彼女は玄関口を見ることなく、
「いらっしゃーい」と快活な声を上げた。
「たぶん用務さんちゃけん、ちょっと出てくれん?」
「用務さん?」
「ハイカラ病院の庭掃除ばしてくれらした人。呉服店になった今もお世話になっちょるけん」
和希もご神木から目を離して、玄関口を振り返った。
何となく用務員の格好をしたおじいさんを想像していた。しかし開けられたはずの玄関口には誰も立っていない。不審に思って近づいてみると、何やら風鈴とは別の音が聞こえる。
玄関戸の取っ手が壊れたのかと回してみても正常で、勝手に開いたわけではないらしかった。しかしやはり、声が聞こえる。蝉の鳴き声と風鈴の音でわかりにくいが、じっと耳を澄ましてみると、その声はどうやら足許から聞こえてきているようだった。
「小娘、いい加減にせんか、ぬしゃ」、どすんと足を蹴られて親指に若干痛みが走った。しかしその痛みが消し飛んでしまうほど、『それ』は変だった。
目線をさげてみれば、たぬきが腕を組み、仁王立ちをしている。和希はたぬきを見るのは初めてだったが、それでも四本足で駆けて、雑食であり臆病な性格を持っているなどという一般的な常識は知っている。間違っても言語を駆使したり、着物を着こなして風になびかせて編み笠の下から睨みを利かせるような能力はなかったはずだ。
「あ、あのう。もしかして用務さんですか?」
まさか、とは思って聞いてみたが、たぬきは不遜な顔をして和希を睨みつけた。どうやら、間違っているらしかった。そもそも間違っていることにはある程度気づいてはいたが、和希には初対面のたぬきと話をした経験がない。だからこそ、来客予定の用務さんかどうかを聞くくらいしかなかったのだ。
「誰や、用務ては。わしは新町の生まれ。船場山から神橋玲子を訪ねてきた狸たい。はようここの主人を出さんと、うちくらわすぞっ!」
しかし和希は自身の膝丈くらいのたぬきが、激昂して地面を何度も踏んでいるさまを見ても不思議と気が動転するということはなかった。たぬきがあまりに人間臭い仕草をしていることと、熊本という土地に慣れていないせいだった。
熊本には着物を着て二足歩行をするたぬきがいるのだろうか。いや、魔女の少ないこの土地には八百万の神々がいると聞くからその手合いでは、そんなことを、ぼんやりと和希は思った。
「玲子さんに何の用事ですか」
和希はしゃがみ込んで、たぬきの目線に近づいた。もう少しだけ、たぬきと話がしてみたくて、無駄に話を長引かせようとした。
「お前のような下っ端に話を聞かせたけんて、わしの願いが理解できるわけなかろうがっ! 四の五の言わずに玲子を出だせこんぬすけどんがっ!」
たぬきにあるまじき憤慨ぶりで、どうやら話をしてくれそうもない。和希は立ち上がって、ワンピースの裾についた砂を払った。そのとき、玄関先の騒ぎに気づいたのか、和希の肩越しから神橋玲子が顔を覗かせた。見下ろせば、そこにいるのはたぬきである。しかし神橋玲子も、足許にまさか来客がいるとは思いがけず、洋館の正門前を通る県道を眺めていた。
「どうしたの?」
「あ、玲子さん。あのー用務さんって、人間ですよね」
「そがんよ。しゃんとしたおじいさんたい。さっきえらい騒がしかったけど」
「おいこら、神橋玲子っ!」
「あのーそれが、たぬきが来て」
「たぬき? 今日はようわからん客の多かっちゃね」
ようやく、神橋玲子は和希の肩越しから脇辺りに身体を動かして首を傾けた。
「あら、船場のたぬきじゃなかね」
「わかったらさっさと中に入れんか。熊本の夏は暑くてよういかん」
「よういかんですか」
こっちは常連なんだと言わんばかりに、自信たっぷりに和希を一瞥すると、勝手にあがりこんでしまい、「小娘、麦茶を一杯入れちくれ。はー、やーばなし。どやんもこやんもいけん」とずうずうしく神木の辺りに腰を降ろした。
しかし和希には麦茶の場所どころか、呉服店に冷蔵庫があるかどうかもわかっていない。狼狽えていると、神崎玲子が左手で右の袖を引いて、たぬきの背後に立って頭をパンと叩いた。
「なんばすっとか」
「うちの新人さんにちょっかいださんで」
「新人? 神橋の家は、弟子はとらんとじゃなかったつや?」
「気が変わったとよ。もう、ここも長かけん」
「店の長い短いは関係なかども」
「私にはあると」
「まあよかばい。そっちの小娘でもお主でもよかけん、天衣をはよ縫うちくれ。もう、やあばなしだけん」
「やあばなし?」
「どうしようもないからって意味」
玲子はあまりにどぎつい方言を放つたぬきに呆れながら額を掻いた。
「ねえ、船場さん。天衣師はそがん気軽う天衣をこさえるもんじゃなかっちゃけん」
「良かろうが。無事、高天原に辿り着いたときには天からたぬきのしょんべんくれちやる。褒美たい褒美たいかっかっか、ぐぼおっ!」
神崎玲子は拳を握り、腰を落としたのちにたぬきの腹部を殴りつけた。
「女子中学生の前で下品な会話するもんじゃなか」
「痛かろうが」
「今度は鉛玉くれちやるけんね」
「神崎の娘はおっとろしか。清正どんの武者んごつ」
たぬきは編み笠に仕舞っていた手ぬぐいを出して、首のあたりの汗を拭いている。
「あ、あの……」
小気味の良いリズムで交わされる会話に、和希は首を左右に振りながら聞き入っていた。
「なんじゃ、麦茶でも持ってきたとや小娘」
船場のたぬきはあぐらをかいて、太ももに肘を立てて和希を睨みつけた。たぬきらしからぬ眼力に、和希は竦みあがった。
「たぬきに出す麦茶はなかよ」、横から神橋玲子が口を挟むと、たぬきは苦々しい顔をして舌打ちをした。
「たぬきて失礼かろうが。これでも神ばい、神様。ゴッド」
「そんで、なんね? 用のあるけんが、来たとでしょう?」
「用件はさっき伝えたたい。天衣を一着、それだけたい」
「なんで急に。今まで船場におったとでしょうが」
「高天原に昇らんといかん。それを思い出しただけたい」
和希はたぬきの横顔を、じっと見ていた。しゃべるたぬきが珍しかったこともあるが、高天原に昇りたい、と言ったときの顔だけは、それまでの不遜な態度が消え失せていた。それを神橋玲子も感じ取ったのだろう、壁に寄りかかった。口元に指を置いて、考え込む仕草をしている。
「船場さん、申し訳なかとだけど。船場さんは神様じゃなかけん。物の怪みたいなものやけん」
ふっと、彼女がため息を吐いた。
「天衣はたい、降りてきなすった神様をお空に昇らせるためにあるもんっちゃけん。物の怪であるあなたには、天衣は使えん。船場さんはそもそも、高天原に昇ることを許されんとよ」
神格がいるのだ、というようなことを神橋玲子は呟いた。
「神格、神格と。本来、物の怪と神の間に隔てなどなかったはずだ」
「隔て、ですか」、魔女として東京で生まれた和希は八百万の神々の事情に疎く、首を傾げた。
「まあ和希ちゃん、そやん困った顔せんでよかよ」
「よし、いっちょ話てやろう。麦茶を持て」
あまりにうるさいので、和希は呉服店奥の暖簾に一度下がって、事務所から麦茶を持ってたぬきの前に置いた。
ぐびり、と一口で飲み切ってしまうと、ぷはあとアルコールでも入っていたかと勘違いしてしまいそうな息を吐いた。
「物の怪とは、許を辿れば国つ神と呼ばれる神さまに遡るけん。古事記神代編の上巻で、国つ神の頭領である大国主命は、高木神に国譲りをおこなったつ」
国譲りが行われたのちに、ヒノモトに降り立ったのが、高天原に住まう神々、天つ神である。そして国つ神としてヒノモトを治めていた土地神さまたちは、奈良時代に編纂された各国の風土記にすら記されることなく、その土地に名だけが残った、と酔っているのかという口ぶりでもそもそしゃべっている。
「妖怪の源流とは大昔の、文字もなかった時代に存在し、自然の中にいた神々のことだけん」
「それはなんとなく、理解できます」
「そうね。元々、自身の土地であったヒノモトが、天つ神に奪われて土地を追われた国つ神は一部を除いて住処を失ったっちゃけん。そうして自然信仰として残るか、物の怪となったとが今の八百万の神様たちたいね」
神橋玲子はその辺りの経緯も充分に理解していた。
「あ、あの……神格がないと、天衣をかけてはいけないのですか」
そっと、顔の横あたりに手を出して和希は玲子に問うた。
「神格、というよりは、神様の系譜と言ったほうが正しかとかもしれんね」
「系譜、ですか?」
「そう。日本は八百万の神様て呼ばれちょるけど、実際はごちゃまぜになっとるわけじゃなかと。国つ神の系譜と天つ神の系譜、両方を持っとる神様はおらんっちゃけん。必ず、どっちかにわけられとる。土地の広がりを持つ国つ神、血の広がりを持つ天つ神、分け方はそんな感じかね」
「物の怪の方々は国つ神なんですか」
「そがんよ。一度、スサノオノミコトが高天原に昇らしたけど、向こうでえらい暴れらしてね。神逐におうてからは国つ神が天に昇ることは許されんようになっとるとよ」
「そうなんですか……」
「土地神さまや妖怪は国つ神の系譜を持つ神様だけん、どうしたって天に昇ることは許されんようになっとる。それを私が天衣をかけて昇らせてしまうと、お店の信用にかかわるけん。もう、神様が私の着物を使ってくれんようになるとよ」
神橋玲子の言葉を聞くと、たぬきは神木に寄りかかっていた身体を起こした。
「ようわかった。今日のところは引くとしようかね」
「あら、意外と素直っちゃね」
そして足元に置いていた編み笠を深めに被ると、そのまま二人を振り返ることなく玄関の戸を開けた。さきほどのように、ちりんと風鈴の音が聞こえて呉服店に風がとおる。入れ違いに、グレーの作業着をきた白髪の老人が振り向きざま、呉服店に足を踏み入れた。
「病衣を取りにきましたが……ありゃあ、船場のたぬきどんじゃなかか」
「病衣はそっちの籠にあるけん。和希ちゃん、籠を取ってやって」
突然声をかけられて、和希はうわずった声を上げながら、手前に置いていた籠を持ち上げた。どうやら、たぬきと入れ違いにやってきたこの老人が、用務さんなのだろうと和希はちらりと顔を覗き見た。顔は異国情緒が溢れる英国紳士のような顔立ちで、身長も180センチ超えていそうな体格、それなのに流水の紋が入った手ぬぐいを首からさげた作業着姿はマッチしているとは言い難かった。
「そがんですよ。船場のたぬきさん、天衣を欲しかて言うて来なはった」
「天衣てですな。またなんして?」
「さあ。会いたい人がおるて言いよらした」
白髪の老人は玄関の框に腰かけると、腕を組んでうなった。
「船場のたぬきさんは、熊本では有名なんですか?」
気になって、和希は二人に訊ねた。そもそも、用務さんもしゃべるたぬきを当たり前のように受け入れているところを見ると、熊本ではそれが常識らしかった。
「あなたは、肥後の手鞠唄は知っとるな」
「知ってます。小学校の頃に歌ったような……あんたがたどこさってやつですよね」
「そがん。そこに、船場山にはたぬきがおってさっていう歌詞のあるでしょうが」
用務さんは、手ぬぐいで顔の汗を拭きとりながらふうっと息を吐いた。
「その船場山におったたぬきどんが、いまのたぬきたい。新町と古町の間を通る坪井川は、渡し舟の船着き場があってな、その辺りを船場て言いよった。昔は新町からずうっと坪井川沿いに土塁のあって、それが船場山。ちょうど竹林のずらっと川沿いにあって、そこにたぬきの住んどったとたい」
そして用務さんは、病衣の入った籠を抱えて呟いた。どこか腑に落ちない表情で首を傾げながら。
「しかし……船場のたぬきどんも、なんでいまさらそがんこと。もう、高天原にいけんことくらい、わかっとるはずてから」
それは、と神橋玲子が口を開いてすぐにぎゅっと真横に結んだ。話を聞かずに追い返してしまったことを、少し後悔しているように和希には見えた。
和希が船場のたぬきが高天原に行きたがっていた理由を知るのはもっと後になってからのことで、この時はまだしゃべるたぬきにただ驚いているばかりだった。
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