第2話魔女の叔母の話
千早に入っていた名入りの刺繍に神橋呉服店、という名称が見えたことを和希は覚えていた。調べて行ってみようと目を開けてみると、虎柄の猫の背中が見えた。ずんぐりとした、体格の良い猫で、細身の一家の中で最も主人らしい。
「だるま殿……」
猫の名前はだるまという。初めて家にやってきたとき、最初に神棚にかざっていただるまの隣に座ったことからその名前がついた。だるまは、なあ、と鳴き、縁側へと走った。
東京から持ってきた家財を使っても、この家にすぐに慣れるということはなかった。畳には違和感を覚えるし、床がギシギシと鳴ったり、時には天井で何かがどたどたと走る音が聞こえる。ただ、唯一蚊取り線香の匂いだけは、この家に母が持ち込んだ元の家―――東京のマンションのベランダにあった文化だった。
母の薫は虫が嫌いで、国立の団地でもよく蚊取り線香を焚いていた。鉄筋造の団地はほとんど無臭だったから、蚊取り線香の強烈な匂いは和希もよく覚えている。この家で蚊取り線香を焚いても、虫がいなくなるということはないが、それでも国立で過ごした日の懐かしさを思い出させてくれるおかげで、和希はこの家にもすぐに慣れるのだろうとぼんやり思った。
祖父母は朝早くから田んぼに出ているから、朝食は叔母と取ることが多かった。叔母は南熊本の病院で受付をやっていて、朝の8時頃に仕事場に車で向かう。朝の5、6時から田んぼに出かける祖父母よりかは和希と時間が合った。母の薫は日を跨ぐ頃に帰ってくることがほとんどで、普段はまだ寝ていてだいたい昼頃に起きる。
だから和希にとって一緒に朝食をとる機会は叔母の楓のほうが多かった。
布団から身体を起こして廊下に出るとそのまま一直線に進んで、角を曲がると洗面所がある。そこで顔を軽く洗い、突き当りの扉を開いた。
祖父母の家は昭和40年以来、3度の増築を繰り返した。おかげで、迷路のような作りになっていて、しかも平屋なものだからやたらとだだっ広い。
居間は一番玄関に近い部屋で、8畳間にテレビと冬には掘りごたつになる小さなテーブルがある。その左手がキッチンで、そこには8人掛けの大きな長足のテーブルがあって、だいたい食事はそこでとることになっている。
お盆で親戚一同が集まるときは、二つのテーブルを使って宴会が行われて居間のテーブルとキッチンのテーブル二つで20人近くを収納するなかなか有能な一室だった。
土地柄のせいか、祖父が大体畳の部屋でテレビを見ていて、キッチンのテーブルに料理が並び始めると、どれどれと腰を上げる。
和希は最初にこの家に来たときから、この一室が好きだった。なんとなく、国立の団地にたい頃の、ダイニングに造りが似ているのだ。すでに、叔母の楓がキッチンのテーブルに座って食事をしていた。
「私の分は?」
「なかよお。えへへ、ほらカップ麺のあるけん、お湯炊こか」
「あー自分でやるー」
和希は叔母の楓がなぜか妙に好きだった。
他人にも人にも厳しいところがある母の薫に比べて、叔母は優しかった。今も寝間着姿でキッチンに立とうとする和希を見守って「手伝うことはなかとかね」と伺っているようなところがあるし、いつも洗面所から水の音がしないまま居間に和希が現れたなら「濡れタオル、顔ふきなっせ」と夏に冷たいタオルを顔に当ててくれる。
あまりに過保護なものだから、ときどき楓の前ではついだらしなくなってしまう。それを見られて母の薫に叱られるというのが毎度のことだった。
ご飯と卵と海苔の佃煮、最後にお湯を入れたカップ麺をテーブルに置いて、和希は食事の席についた。
「それ、いっちゃん好いとると」
「それ?」
「佃煮。海苔の佃煮」
「なんで」
「生海苔て言うてね、普通はね、海苔は炊くか干すかでしょうが。生のまま食べられるとは海の辺りにしかなかとよお。海苔はすぐいたむけん、なんか、こう、特別なものを食べよるて感じが好いとると」
「ふうん。おいしいのでしょうか。私は初めて食べますが」
「食べてん。そうなおいしかけん。カップ麺に引けはとっとらんよ」
「そうですか。おいしかですか」
「うん、まうごつ」と楓は両手をいっぱいに広げた。
「まうごつ?」
「ダンスを踊りだしてしまうかのように、という意味たい」
「それ、本当ですか? そんな喜ぶことってあります?」
「へ? 言うとることはようわからんけど、舞うように、って意味だけん」
楓は柔らかく笑った。ややふくよかな顔からこぼれそうなほどで、和希は楓の笑みが好きだった。
しかし海苔のことを言われても和希はその貴重さがよくわからないのもたしかだった。しかしたしかに普通の佃煮に比べると色が緑がかっている。蓋を開けただけで、辺りが磯の香りに包まれた。海の匂いのする食べ物に出会った経験がない和希にとってそれは不思議な香りだった。たしかに東京で食べた海の食材もたくさんあるにはあったが、鼻から胃までとおるほどの強い匂いを感じたのは初めてのことだった。
「この辺は海が近いの?」
「ちょっと自転車で走ったら海たい。なんでこの家が平屋か知っとる。元々、干潟を埋め立てた土地だけんが、二階建てにすると地盤が沈むけん、ここら辺の家はみんな平屋になっとる」
もぐもぐとご飯を咀嚼しながら楓は言った。おいしそうに食べるなあ、というのが和希の正直な感想で、自身があれほどうまく表現できる気がしなかった。
箸で海苔の佃煮を掴んでみる。しかしなかなか箸では切れなかった。まるで布を持ち上げているような感覚で、結局どっさりとご飯の上に乗せることになり、珍しく楓の忌々し気な視線にさらされることになった。やはり貴重なだけあって、あまり量をたくさん食べられたくはないらしかった。
「ねえ、和希ちゃん。生海苔の話はよかけど、ちゃんと魔術の勉強しよる?」
そもそも生海苔の話を始めたのはそっちじゃないかと言いそうにもなったが、和希も楓まで母の味方につかれては形勢不利である。ぐっとこらえて苦笑いをするしかなかった。
「えっ? 今そのお話をなさいますか」
「だって、姉さん怒っとったもんね」
「それは……そうなんですが」
「せめて医薬の錬成くらいできんとでけんよ。これからの時代は魔女も人のためになってこそ、だけん。和希ちゃんには、熊本の魔女のニューカマーになってもらわんとでけんけん」
「はあ、にゅーかまーですか」
「白檀、ケサランパサランにウカイは集めたと? 辰砂と混ぜて鉄鍋で煮ると古代の不死薬になるけん、作ってみなっせて姉さんに言われとったとでしょう?」
「それは……そうなんですが。正直、古代名で言われても」
「古代名で言わんと、昔の文献にはそうとしか書かれとらんとだけん、勉強にならんでしょうが」
「いやしかしですね……」、叔母の楓はおっとりとした性格でありながら、医薬マニアである。ちょっとスイッチを押してしまうと止まらなくなる。普段の会話から突然、2時間に及ぶ講義が始まることもたびたびあり、和希は手を焼いていた。
「後生ですから、ヒントをひとつふたついただけると……ついでということもありますのでさらにみっつよっつと付け加えていただけますと幸いです」
「もうそれ答えになるでしょうが、そがんヒントばっかやっとると」
「それもやぶさかでは」
「でけん。ちゃんと調べて」、交渉が決裂し、和希はうなだれた。しかし諦めが悪いのは和希の特性でもある。うなだれるついでに頭を下げて「お願いします」と言ってみると、楓はふう、と息を吐き、ぼそりと「白檀は香木、裏庭に生えとる。ケサランパサランはガガイモ、ウカイはトリカブト。辰砂は水銀だけん、トリカブトと辰砂はお爺様にお願いするとくれらす。ちゃんと現代名も覚えて姉さんに報告すると、昨日の宿題は終わりだけん」
楓の態度が急変したことに、和希は面を上げて満面の笑みでもう一度頭を下げた。ありがとうございますう、へへえと気持ちを態度で表すと、楓は「その顔には弱か」と眉尻を下げた。
楓は世話焼きで、なぜか和希にだけ優しいのである。
「ねえ、和希ちゃん。私と三角港に潮干狩り行ったときのこと覚えとらん?」
「へ? いつ」
「和希ちゃんが小学生のときくらいたい、二人で」
「楓さんと二人で? なんで?」
「なんで、てよう知らんよ。お盆にあんたのお母さんに頼むけんて言われて。どこ行くってあんたに聞いたら、海見たことないけん、海みたいって言うたとよ。私まだそんころ高校生だったけん、和希ちゃんを自転車の荷台に乗っけて三角港まで」
「三角港って、でもここから遠くない?」
「自転車で片道2時間やったかね」
「うわ……お、お疲れさまでした」
「たいがなきれいかったとよ。和希ちゃんもよろこんどった」
「全然覚えてない……」
「なんねえ、世話しがいのない姪っ子ねえ。もうヒントあげんよ」
昔の記憶をすっかり忘れていたことで予想外の追及を受けてしまった和希は、決まり悪そうにご飯を掻き込んだ。和希自身はよく覚えていないが、叔母の楓に小さい頃はどこそこに連れていってもらっていたらしい。和希は楓が母の代わりに世話をするたびに、「これは投資たい」と何やら自信ありげに聞かされていて、そのことばかり覚えていたのである。
要するに、投資というのは「和希ちゃんの世話するけん、大人になったら私にようしてね」ということらしい。
今の和希にもその記憶だけが刷り込まれているところを見ると、今のところ叔母の目論見は成功している。
ちらりと叔母の楓を見ると、どうやらむくむくと昔のことを思い出しているらしく、斜め上の電球を眺めながらぼうっとしている。しかしみるみる眉間に皺が寄っている。
「生海苔、私も食べてよか?」
「へ? 楓さんもう食べたんじゃないの?」
「和希ちゃんがおいしそうに食べよるけん。よか?」
「い、いいですけど」
「わーい、やったー」と楓はキッチンに小走りで駆けて茶碗いっぱいご飯をよそってテーブルに座り、「食べ盛り」と箸を持った手でピースサインをした。
「はあ、食べ盛りですか」
二十歳をとうに超えて食べ盛りなのだから、きっと楓の食欲は少なくともあと数年は続くだろうと、おいしそうに食べる楓を見つめながら思った。
「ねえ、楓さん。神橋呉服店って知ってる?」
はっと、視線を落として楓は和希を見つめた。ご飯を呑み込むのと同時に会話を咀嚼しているようで、やがて食事中であったことを思い出したかのように海苔の佃煮を自分の手元に引き寄せた。
「ん? ああ、知っとるよ。高校のとき帰り路だったけん、よう覗きよったもん」
「場所はどのあたり?」
「熊本駅から市街に行く電車道のあるでしょうが。歩くとちょっとかかるけん、路面電車で行って呉服町で降りるとすぐ目の前にあるたい」
食事を終えた叔母の楓は食器を重ねながら椅子から立ち上った。
「しかしまた珍しかとこの話するね。どうしたと?」
「う、ううん。なんでもない。ちょっと、とおったときに気になったから」
なんとなく、神橋玲子の話をしないほうがいいと昨日のことを隠した。
「あそこの店主さんは変わっとらすけん」
「店主、って……楓さん、あそこの店主さんと知り合いなの?」
「いやいや、知りはせんよ。でも市内じゃわりと有名かよ。元々、藤山病院の前にあった呉服店を潰して病院の中に建て替えらしたもん」
「病院の中に? 呉服屋さんを?」
「病人やお医者さんや看護師さんに着物を貸し出さすと。それがたまたまテレビ中継に映ってね、そら病院におらす人みんな着物だもん、びっくりしてね。8チャンネルのニュースで特集のあってから、えらい繁盛しよるみたい」
「なんで病院に、着物?」
「だけん変わっとらすて言いよると。行ってみるとよかよ。あそこの着物は美しかけん」
「うん……わかった、行ってみる」
叔母の楓はキッチンに食器を置くと、空いていた椅子に置いた鞄から財布を取り出した。そして1万円を取り出して、テーブルにひらりと落として醤油瓶で重石をした。
「はい、これ、お小遣い。帰ったらお店の話聞かせてん」
「1万円っ! いや、いいよこんなにっ!」
思わず、口からご飯が零れ落ちそうになって慌てて指で唇を押さえた。叔母からもらうお年玉は現物支給が常である。家から歩いて徒歩5分のバス停から熊本駅まで350円。そこから呉服町まで170円。往復しても1000円ちょっとという距離なのに、1万円ももらってしまってはあとで何かひどいことになるのではないかと和希は恐れていた。母に比べて叔母の楓は自分に厳しく、それを身近な人にも求めるところがある。無償でお金をくれることなんて今まで一度もなかったのだ。
楓は鞄の中に、ハンカチやポーチが入っていることを確認しながら呟いた。
「投資たい、投資。私は成人式のときも着物が着られんかったけん、いつか着たかと思っとるとたい。だけん、あんたがもし着物に興味を持って、呉服屋でんなんでん働き始めたときに、私の着物を見繕ってくれるとそれでよかよお」
「投資にしては気が長くない? いつ返せるか見当もつかないですが……はい」
「そがんことなかよ。すぐ大きくなるとだけん」
楓はそう言い残して、キッチンに洗い物を残したまま居間から出て行った。
しかし瓶詰の海苔の佃煮の蓋をしっかり閉めて、冷蔵庫の奥にしまったところを和希は見逃さなかった。よほど好きなのだろう。それをごっそりいただいて、申し訳ないことをしたな、と和希は恐縮していた。ガラリ、と玄関の引き戸が開いて閉まる音が聞こえるまで。
居間のテーブルで、蝉の鳴き声だけが鳴りびびいている。
醤油瓶の下に敷かれた1万円を、首を傾げて見つめる。うーんと首をかしげてみても、楓が1万円をくれる理由は見当たらなかった。そもそもである。叔母の楓が和希自身に対して異様に甘い態度をとるというのは今に始まったことではない。そもそもそれまで投資をされているのだから、それがお金になったからと言ってここまで恐縮する必要があるのかとすら思える。
しかしである。楓は今まで、遊んでくれたがお金をくれたことはなかった。
これでは本当に返さなければならないと真面目に考えてしまう。しかし母の薫と喧嘩してから、お小遣いはもらいそびれている。
公共機関を使わなければ、田んぼと畑の世界から飛び出すことのできないこの地では金がなければろくに出歩けない。
結局、「楓さんはいい人だ」、と漠然とした結論を導きだして和希はおもむろに立ち上がった。
交通費だけもらって、あとは返すと心に決めて、人差し指と親指でそうっと醤油瓶をどかして1万円を掴む。雑な身支度を終えて、ジーンズに薄黄色のワンピース、それから麦わらのカンカン帽に革製の2WAYショルダーバッグを肩から掛けて縁側からサンダルで外に出た。庭には桃の木がなっているが、今年は袋をかぶせる前にすずめに全部食べられてしまったから寂しい姿をしている。葡萄、ミカン、梅と庭になる木々を順番に眺めながら和希は公道に出た。
「すっかり夏ですたい」
自分でも笑ってしまうかのような、雑な方言をつぶやいて和希は「いっちまんえーんいっちまんえーん」と現金なリズムでぽつぽつと歩きだした。
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