くにつかみの魔女

東城 恵介

第1話和希は天衣師という仕事を知った

 熊本駅からわざわざ祗園橋方面へと歩くのには和希なりの理由があった。


 歩いて10分かからないところに、不知火神社と呼ばれるずいぶんと古い神社が建っている。和希はとくに用もないのに県道28号線には出ずに神社の石段前まで歩く。かなり急いでいるときであっても遠回りをする。待ち合わせで時計が自身を急かそうが、遠回りの結果遅れて相手に怒られようが、和希はそれを気に止めない。


 大した用事があるわけではない。

 県道の真ん中に路面電車が通っていて、彼女はそれを眺めるのが好きだった。ただそれだけの話である。


 加えて今日は天気もよく幸いなことに用事もなく、ただ一人である。漫然と路面電車を見つめていることに、これほど適した日はなかった。

「いつ来ても変わり映えのしない風景ですなあ」

 和希はなぜか年寄りくさい口ぶりでつぶやいた。

 実際に熊本に来てみれば何とものんびりした場所だと、和希は思った。自分ののんびりしている性格を棚上げしてゆるゆるとした熊本の速度を楽しんでいた。


 大きなクスノキの影になった不知火神社の石段に座って、のったりと走る路面電車を眺める。東京の道路はずいぶん狭かったのだなと思う。東京では頭上をモノレールやら高速道路やらが走り、狭い上に人の速度に拍車をかけている。


 一方で熊本は路面電車が国道のど真ん中を悠然と走り、その左右を車が並走する。 路面電車のその先には坪井川と白川という二つの川が流れていて、それぞれ対岸の本山町に向けて大きな橋が架かっている。


 和希にとって、住みなれていた国立界隈の、南に下ると見えてくる多摩川と比べても、熊本の川は大きくて流れが遅かった。これも熊本の人たちがのんびりしている理由かもしれない。そ和希は石段の上から、ちょっと高い視線で熊本を見渡した。


 昔は川の流れを使って物を運ぶことが多かっただろうから、その土地の人たちの移動速度と川の流れは何かしら関係があるのかもしれない、とぼんやりとした説を打ち立てたところで、和希はため息を吐いた。

「暑い……しっかしなんでしょうかねえ、この暑さは」

 そしてぎゅっと、魔術道具が一式入ったバッグを抱きしめた。


 夏休みに入ったら魔術の特訓をやると聞かされてはいたが、いざ日にちが決まって当日となると気が進まない。この暑さにやる気が蒸発してしまったかのよう、と暑さのせいにしてみたが、寒い日であっても暑い日であっても気が進まないことには変わりはなかった。


 和希にとって、覚えることの多い魔術の勉強は煩わしくて仕方がなかった。国立の中学校にいた頃は魔術を習っている友だちが少なからずいて、愚痴を聞いてくれたり、察して学校の用事を入れてくれたが、熊本に自身のような魔術を学ぶ慣習はなかったのだ。


 熊本に引っ越してきて、転校先の学校には魔術を習っている子はどこにもいないのである。文化の違い、と言えばそれまでだが、熊本はまだ魔術よりも日本古来の神道系の術式のほうが根強いようだった。

 和希は膝に額をつけて目を閉じた。蝉の声が聞こえる。東京の蝉の声はまだ可愛らしい。こちらの蝉は悲鳴に近い。そこに、ファン、と路面電車の警笛が混じった。


 さぼると決めて家を飛び出したはいいものの、財布をはたいてみればなんと150円である。「150円、かあ」、何度呟けども、小銭はちっとも増えないのである。

 熊本駅から熊本で一番大きな繁華街までちょうど150円。しかし行ったところでお金がなければ喫茶店にも入れない。人が気持ちよく過ごすことのできる適温と静寂を手に入れるには、150円という金額はあまりに安い。

「喧嘩なんかするんじゃなかったなあ。不毛なり」

 和希は今更ながら後悔していた。


 つい2時間ほど前のことである。魔術の特訓をやりたくなくて睡魔にやられて寝ていたら、案の定、母の薫が起こしにきた。来ることがわかっていても、備えられないのが睡魔の睡魔たるゆえんである。


「絶対やらないっ、魔術、やだ」、「さぼったらまたいちから勉強し直しでしょ、いつになったら使えるようになるの」、「勝手に教えてるのお母さんじゃない、私、魔女になりたいなんて一言もいってない」、「言ったでしょ、幼稚園のとき」、「言ったけど、何年前なんでしょうか、時効、それ時効」、「武士に二言なし」、「武士じゃないし、魔女だし」、「魔術覚えるまであんたは武士です」と言い合いになった

 やがてすごまれたので、ふてぶてしく魔術道具の入ったバッグを抱えて準備をした。しかしするにはしたが、武士に二言なしあたりからどうにも納得がいかず和希は腹立ちまぎれに「武士じゃないし」と玄関の扉を割れるくらい強く閉めて家を出た。

 すりガラスの玄関扉がガシャンと激しく音がなると、ガラスの向こう側が薫は「阿呆」と叫んでいた。


 というわけで慌ただしい朝を過ごしたせいで、お小遣いをもらいそびれてしまったのである。


 前日のうちにおこづかいを貰わなかったことを、和希は深く反省した。

 祖父母の家までバスで460円。さて一体どうやって帰ればいいものか、と和希は不安に襲われた。引っ越してきたばかりでまだ慣れない土地。今はまだ家から学校までの往復がせいぜい。熊本駅の辺りも不知火神社への行き道くらいしか知らないのである。


 和希は誰にも聞かれないように、蝉の鳴き声に紛れて鼻をすすった。

 ろくに魔術を使えないことと、魔術の勉強を嫌がる自分が情けなくなった、というわけではない。母からお金をもらわなければ知らない土地を満足に歩けず、すごすごと何かしらの方法で帰宅し、反省の弁を述べながら致し方なしと魔術の勉強にはげむ姿勢を打ち出す自身の力のなさを呪ったのである。


―――しかしそのときである。

「なんしよっちょね? こげんとこに座ってからに」

 クスノキのてっぺんからから旋毛辺りへと声が降ってきたかのようだった。その声は蝉の鳴き声よりもよく通っていた。

 和希はふと顔を上げた。すると、そこには着物を着た色白の綺麗な女性が立っている。


 黒地にピンクと赤の花菖蒲柄が淡く色づいた絽の着物、古典柄の帯は水色と黄色であでやかな桔梗柄。どこか涼し気で大人の雰囲気を纏った綺麗な着物を着ている。黒髪は光が差すと淡い緑色に見えて、それを首元で結っていた。

 汗一つかきそうにもない涼しい顔をしているが、手には大きなボストンバッグを持って、やはり夏の暑さがこたえるのか肩で息をしている。

「神社に用のあっちょね? そげんふうには見えんとやけど」

 和希は標準語しかしゃべることができない。当たり前であるが、熊本にいれば当然、熊本弁が標準語よりも使われている。そして和希は熊本弁がまったくわからなかった。


 目の前にいる女性の言葉はすっと耳には届いた。しかし和希には内容が理解できず、とりあえず首を横に振った。

「なんやね、ほんなら友だち待っちょるとね。今日はたいがな暑うなるてよ」

 それにも首を振った。部分的に聞こえる単語から、どうやら一人であることを不審に思っているらしい、と和希は判断した。


 しかし和希が言葉を返さないのは、熊本の独特の空気にあって、標準語をしゃべる人たちをどこか、「外から来た人」と考えるようなところがある。中学校で馴染めないのは魔術師の家柄が一つもないだけではない。言葉そのもの、やりとり一つとってもにもどことない疎外感を覚えていた。熊本弁を何とかかみ砕き、ようよう理解しても標準語で返すと、相手がだんだんと遠ざかってしまうのだ。


 和希は無意識のうちに初対面の人に対して極力、言葉を発しないようになっていた。

「なんか言わんとわからんっちゃ。うちは心の読めるわけじゃなかとやけん」

 この人は喋らない私を諦めてくれそうにない、和希はぐっと顎を引いた。熊本の人たちは、外から来た人にどこかで壁を作るものの、妙に気安いところがある。今はその気安さが、和希にとって重たいものがあった。ぐっと唾を飲み込み、口を開いた。

「あ、あの……ここから路面電車を見てて」

 指を差した方向を、着物の女性は振り返った。クスノキの枝が視界を多少、遮ってはいるがその隙間から県道28号線の真ん中を路面電車が走る。さっきとまったく変わらぬ風景である。

「あーそやん。言うてここは、ええ景色たいねえ。よかとこ知っちょるね」

「は、はい。よかとこです」


 着物の女性は、紅を差した唇の許に指先を置いて、くすくすと笑った。

「おかしか熊本弁ば使いなはっちょね」

「ごめんなさい……まだ引っ越してきたばかりで」

「がまだして方言でしゃべるこつなかよ。そんうち慣れるっちょやけん」

 着物の女性はボストンバッグを一度、石段の上に置いてから襟許から杜若の刺繍が入ったハンカチを取り出すと額の汗を拭いた。汗で濡れていた前髪が乾いて風にそよいだ。

「どっから来たつ?」

 和希は隣に置かれたボストンバッグを横目にちらりと見てから、「東京です、東京の西のほう」と答えた。

「へえ。遠くから来なさったちょねえ。熊本の夏は暑かでしょうが」

「なんか……じめじめしてます。東京もじめじめしてますけど、こっちは肌に水が張りつく感じというか……サウナにいるみたい」

「はあーそやん。変わったこと言いなはん子ね」

「変わってますか」

「変わっとるよ、初めち聞いた。ここは阿蘇と金峰山にぐるっと囲まれとる盆地やけん、夏はそうな暑うなっちょたい。とくに風の吹かん今日ごたる日の夕方のこつな、肥後の夕凪て言うてね、そん日はたいがな暑かとよ」

「冬は?」

「冬は寒か」

「寒かですか」

「そう。寒かです。ふふふ。夏は暑して、冬は寒か。それが熊本やけん」

「……なんか、あなたの熊本弁も少し違うような気がしてます」

 着物の女性は口を縦にすぼませて驚いた表情をした。

「ほええ、気がしてますか。ようわかったねえ。うちは本土やなくて天草の出やけん」

「天草?」

「知らんちゃろ? 天草。西のほうに有明海のあってそん先。天草ことばは、なんやろね、熊本弁と福岡弁の混ざったごたるところのあるちゃけん。うちんとこはもうちょっと方言のきつかけん、わかりにくかかもしれんちゃけど」

「どおりで」

「それで、あなたはどうしてこがんところにおるとね。まさか、路面電車観るためにずっとここにおるわけじゃなかっちゃろ」


 着物の女性はゆったりとした笑みを浮かべて、和希を見下ろしている。どうやらその視線は魔術道具を入れたバッグを見ているらしかった。学校指定の、水着を入れるバッグに入れてカモフラージュしたつもりだったが、バッグがぼこぼこと角ばっていることを訝しんでいるようだった。たしかに路面電車を見るのに水着はいらないし、水着のバッグがでこぼこしてたらなおさらおかしいなあと和希は観念してぽつりと呟いた。


「実は親と喧嘩して」

「親と喧嘩。夏っちゃねえ」

「夏だからですか」

「適当に言うた。熊本じゃあ、暑かけんて言うとけば、そやんですねえで済むけん覚えときなっせ」

「そうですか」

「そがんです。んで、帰るに帰れんっとちゃろ」

「はい。お金もないし……」

 言ってしまうと、今朝母の薫と喧嘩してしまったことを後悔して、和希の目にじわりと涙が滲んだ。しかしその女性はこちらが暑さを忘れてしまうほど涼やかな笑みを浮かべた。


「なんね、お金もなかつね。はよ言わんねえ。ちょうどよか、今からこの神社に用のあるけん、手伝うてくれたらお小遣いあげよか」

 意外な申し出に、和希は思わずうなずいた。お金というフレーズに反射的に反応したと言ってもよかった。どうやら用事を一緒に済ますとお小遣いをくれると気づいたのは、彼女の発した言葉を標準語に変換し終わった数秒後のことだった。

「じゃあ、決まり。はい」と手を差し出されると立ち上がらなければならないような気がしてくるもので、和希はおもむろに腰を上げて尻についた石段の砂を払った。


「うちは衣装店の店主ばしちょる、神橋玲子て言うけん、よろしうね」

「は、はい……砂庭和希です。よろしくお願いします」

 神橋玲子は和希の言葉に満面の笑みを返した。そして振り返ると、「あっち」と指さした。

 不知火神社は小高い丘の上に立っていて、石段の両脇は木々に囲まれている。木漏れ日が斑模様に地面に降り注いで、足許の石段は大理石のような乳白色に色づいている。その石段を、一歩一歩を上に昇った。


 和希は蝉の鳴き声を聞きながら、神橋玲子の背中を追った。

 石段を昇り終えると、神社の大鳥居から参道が見えた。綺麗に整った石畳で、大鳥居の脇には稲荷神社、それから境内の手前には社務所と手水舎、そしてさらに奥には本殿が建っている。熊本駅のすぐそばに建つ不知火神社は熊本の人には馴染みが深い神社である。

 神橋玲子はボストンバッグを参道に置いてふう、と息を吐いた。

「不知火神社って知っとる?」

「はい……おじいちゃんにちょっと聞いたことがあります」


 魔女の家系である和希の家にとっても不知火神社は縁が深い。古くは熊本の国つ神や土地神を統べる神社であり、魔女と対立していた時代があったのだ。そのことを、和希は祖父母に話を聞いたことがあった。


 不知火、という言葉は早朝に有明海に立つ火影のことで、許は龍神の灯籠のことを言った。またさらに、その炎が神の魂と考えられたことから神事が開かれる。その神事は国つ神を高天原に送る送り火祭のことを指す。魔女と国つ神の諍いによって力を失った神を天に送るために開かれていた―――国つ神らにとっては鎮魂であり、魔女にとっては戦果の火として。

 神社そのものの由来は京都の祇園社から鎮護のために分霊した新宮で、昔は祇園若宮とも呼ばれていたという。祇園、という言葉は今も神社の右手に架かる祗園橋に残っている。


 和希はしかし、神橋玲子が言った「この神社のこと知っとる?」の意味は、魔女である祖母から聞いた諍いのことではないだろうと何となく感じた。

 今はもう、西の地において魔術師の家はほとんど残ってはいない。

「耳澄まして見てん。笛の音が聞こえん?」

「笛、ですか」

「よう聞こえるでしょうが」


 そう言えば蝉の鳴き声や路面電車が路線を走る音に混じって、わずかに笛の音が聞こえている。それは雑音の中から探し当てないと見つからないくらいの僅かな音だった。

「不知火神社をよう熊本の人が知っとるとは、夏の送り火祭が開かれるけん。たいがなにぎやかになるとよ。秋にある藤崎宮の祭りもすごかけど、私はこっちのほうがよう好いとる」


 たしかに不知火神社の祭りは国つ神を送る祭の形を取っているせいか、秋に開かれる藤崎隅の祭りに比べるとずいぶん静かなのだと和希は祖父に聞いたことがあった。もの悲しい、どこかそういう感覚になる祭りなのだという。

「見てみたいです」

「よかよか。あともうすぐちゃけん。暑さがほんのちょっと和らぐとしゃが、祭りの始まるっちゃけん」


 神橋玲子は大鳥居の真下でぐるりと辺りを見渡すと右手に見える小さな社へと歩き出した。鳥居の奥は雑草が茂っていてとても着物で入れそうにない。しかし彼女は一歩も躊躇はしなかった。和希はまるで森に吸い込まれるように先を歩く神橋玲子の後を追う。それにしても歩く速度が和希よりもずいぶん早い。田舎の人たちはアスファルトの道路から一本あぜ道に入ると、突然加速するらしく、和希にはそれが不思議でならなかった。


 このまま声をかけないと、これはまた初対面から始めなければならないのでは、と思うほど距離が開いてしまっている。

「あ、あの……着物、汚れないんですか」

 声をかけると、陽光に照らされながら彼女は薄く微笑んだ。

「ん、ああ。言うて、ここん辺りは何度も来ちょるけん。心配せんちゃよかよ。それよか、ここで女の人の転ぶと病気するて言うけん気をつけなっせ」

「転ぶと病気ですか。ふつうに怪我しちゃいそうですが」

「違う坂だったかん知れん。あっちか、あっちの坂かねえ。忘れてしもた」

「どっちにしろ、怪我に病気ですか。それはいかんとです」

「うーん? その熊本弁はおかしかねえ」

「おかしかですか」

「昔は女の人は巫女か魔女かていう時代だったっちゃけん、魔女に異種替えするとを、転ぶて言いよったらしかよ。だけん、転ぶとでけんて言うとたい」

「はあーなるほど。転ぶという言葉がよくない意味で使われてたんですね」

「そやんかもねえ。まあ、どっちにせよ医者の卒倒しよる坂やけん、服の汚れるだけじゃすまんちゃけん」

「厄介な坂ですねえ」

「坂も良し悪しやけんねえ」


 ふと、和希が足許を見ると、たしかに鬱蒼と草花が茂っていて転びそうである。しかしそこに足幅ほどの小路が作られている。しかも緩やかな坂になっている辺りには石段のように石が組まれており、見かけほど歩きにくくはなかった。

 木陰が続き、神社前の石段に座っていたときよりも風も涼しく心地よかった。

 双子楠、という古い案内板に書かれた神木が二つ並んでおり、その間を潜ると狭い空き地に出た。その真ん中にはほとんど倒壊しかかった木造の建物が建っている。


「ここは?」

 神崎玲子は微笑み返したあとで、ボストンバッグを地面に置いた。

「……昔の芝居小屋の跡。江戸からたしか明治くらいまで使われちょったらしかよ」

「芝居小屋って、劇とかをする?」

「まあそやんもんかねえ。ここじゃあ神楽がよう踊られよったつよ。もうたいがな昔から神様のおらすっちゃけん」

「か、神様?」

「ごめんくださーい」

 神崎玲子は肩幅ほどに足を開いて、ふっと腹に力を入れるとぼろぼろになった引き戸を引いた。がらり、と石臼を転がしたような音がしたかと思うと、埃が舞って和希の視界を奪った。芝居小屋は至るところから日差しが差し込んで、埃は不思議と輝きを持っているようにみえた。


 その先―――薄闇に座る一人の少年が、和希の目に映った。

 紺の袴に、白衣を身に着け、緋色に金の刺繍が入った千早を羽織っている。しかし真新しいというふうではなく、光に当たるとくすんだ鈍い輝きを放っていた。顔は少年の顔立ちだが、やや化粧をしている。肌は白く、口元は紅。濃い眉に、鼻筋は太くしっかりとおっていて少女の面立てに男性の部分がちらほら見える、違和感のある顔が印象的だった。耳もとから長く髪を垂らし、脇を束ねた童子の姿。目を閉じたまま、今にも抜けてしまいそうな床の上に静かに正座をしていた。


「迎えか。ご苦労なことだな」

 その少年は紅を差した口をゆっくり開いた。

「本当はもっとちゃんと送ってやりたかっちゃけど……ごめんなさいね、風流太夫さん」

「そっちの女は?」

「あ、あの……和希と言いますっ! ええと、神橋さんのお手伝いと言いますか、さっき知り合ったといいますかっ!」


 和希は片目だけを開けた久太郎に見据えられて思わず背筋を伸ばした。その挙動がおかしかったのか、久太郎は喉の奥でくっくと笑った。

「和希と言うのか。私は風流大夫。芸事の神だ」

「はあ、芸事の。神様というのはお綺麗なのですねえ」

「―――元々人間だ。ずいぶんと昔の話で記憶も朧げではあるが、そう、たしか新町の生まれ。若宮のご祭式で風流太夫を演じ、高天原の神々が私の舞を偉く気に入ったのが神入りの始まりだ。それで見初められ、この土地の神となった者だ」

「神入り?」

「人が神様に上がることを神入りという」


「……本当に神様なのですか」、なんとも人間らしい姿をした神様に、和希は失礼にも疑いの目を向けていた。しかしその少年は薄く笑っただけだった。

「―――もう私の役目は終わったようだが」

 板間から薄く零れる光の中で、ふと、久太郎の瞳に寂しさが宿ったところを和希は見逃さなかった。転校を迎えた日に、友人が自分を見ていた目と似ている。そんな直感が、和希の心の奥でゆらゆらと揺れていた。


 神橋玲子がボストンバッグを開いて、真新しい着物を取り出した。それは今、久太郎が羽織っている千早とそっくりだった。

「天の羽衣伝説は知っちょるね?」

 彼女の呟きに、和希は頷いてみせただけだった。目の前に、神様を名乗る不思議な少年がいることと、そして彼女がバッグから取り出した着物が息を呑むほど美しかったせいで言葉が出なかったのだ。

「は、はい。なんとなく」

「天女様が高天原へ昇るのには、羽衣が必要やったでしょうが。けどね、羽衣が必要なのは何も天女様だけじゃなか。どんな神様も、高天原に行くには羽衣がいるとよ。だけん、私みたいな天衣師ていう仕事があると」

「玲子さんは天衣師なんですか」、よくも知らずに和希はうなずいた。そののんびりとしたリズムに神橋玲子はくすくすと笑った。

「この世界に、おれんようになった神様をお空に送れるように」

 言いながら、神橋玲子は千早を広げてみせた。

「え―――じゃ、じゃあ……太夫様は神様じゃなくなるんですか?」

 少年は無知な和希に教えるように、ゆっくりと首を振った。

「いいや、この地での役目を終えた、ということだ。信心を失い、消えてしまう前に高天原へと帰るのだ」

「でも、でも……」


 突然、この地に神様がいなくなる、と聞いて和希は言い知れぬ寂しさに襲われた。それがどういう意味なのか、和希には言葉で説明することはできなかった。ただ、おそらく長い年月、この芝居小屋を守ってきたであろう神様が、誰の悲しみも労いも受けられず、ひっそりといなくなってしまうことに心が絞めつけられた。


 神橋玲子は立ち上がると、風流太夫の背後に立ってそっと襟許から彼の羽織りを一枚脱がせた。そのとうに傷んでしまった羽織りを畳むと、緋色に輝く真新しい千早を肩にかけた。少年はそれを合図に立ち上がった。柔らかな着物に袖を通して、白衣と千早の衿を揃えると神橋玲子は正面に立ち、袴の帯のところで千早の帯紐を軽く結んだ。そのとき、風流太夫の身体には淡い光が宿った。

 彼は俯く和希を見下ろしながら、どこか懐かしさを込めた目をしてぽつりと呟いた。

「あの壁の字がお前に読めるか」

 はっと、和希は目を上げた。風流太夫が指差す方向を見ると、芝居小屋の舞台の端に、墨で文字が書かれていた。しかしその文字はとても古い崩し字で和希には読むことができなかった。

―――乍恐奉願口上覚。

 そう書き出しがあるが、どういう意味なのか和希にはわからなかった。

「あれは、お前たちの先祖が芝居をやりたいと奉行所に願い出た書状の書き写しだ」

「芝居は……お願いしなくちゃものだったんですか」

「それほど舞わなければならない理由があったのだ。私にも、皆にも。そのなかに、『御難題』の文字があるのが見えるか」

 和希は薄暗い中でぼんやり浮かび上がる文字を、目を細めて見つめた。

「は、はい……」

「御難題とはこの地を襲った飢饉。この書状の中身は今、我々を取り巻く御難題を無事に乗り越えられるように、どうか神に祈らせてもらえないだろうか、という願いを書いたもの。苦しいときにこそ、ひと際豪華な芝居を打ったものだ」

「で、でも……満足に食べる物もなかったんですよね?」

「―――なかったからこそ。神に祈るということは、我々にとって生きる希望だったのだ」


 風流太夫が呟いた言葉はそれだけだった。しかし彼の目を見れば、和希にはその先が痛いほど理解できた。ぼろぼろになってしまった芝居小屋に、当時の面影はない。生きるために芝居に興じた頃の心を、もう誰も持ってはないのだ。

 だからこそ風流太夫がこの地から離れなければならないことも、充分に理解できた。和希には彼を引き留めるだけの言葉を返すことができなかった。

「さて、ではそろそろ行くとしようか。私の名は久太郎風流太夫。最後に娘の名を聞かせてくれ」

「わ、私は―――さ、砂庭。砂庭和希ですっ!」

 和希は自身の名をつげた。下の名前を言ったときと同じように、良い名だと言ってもらえると信じていた。しかし聞くと太夫は顔をゆがめ、呟いた。その声にははっきりと怒気をはらんでいた。

「砂庭……貴様、あの魔女の一族か。我ら国つ神を射殺しているのは貴様らというわけか」

「神を―――射殺してる? どういうことですか」

「恨むぞ、砂庭の一族よ」

「待って、私はそんなこと―――っ!」

 ぐっと拳を握って見据える和希の目の前で、太夫は扇子を開き古い舞台の上で足を摺った。そしていくつかの所作を重ねたあとで、音もなく消えてしまった。彼が消えてしまって、残ったのは彼が着替えた古い緋色の千早。そしてわずかな光が漏れることで浮かび上がる埃ばかりだった。


 この日、和希は初めて神橋玲子の天衣師としての仕事を目にした。

 しかしこのときは天衣師のことよりも、芝居小屋を守って来た土地神が目の前からいなくなってしまった悲しみと、最後に聞いたあの声だった。砂庭の一族を恨む―――その言葉の意味を、古くなった板張りの小屋の中でぼんやりと考えていた。神橋玲子が「気にせんちゃよか」と声をかけてくれるまで。


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