エピローグ

第19話

 果てなく続く樹海をさんさんと鳴らした風も、いつしか凪いでいた。

 野鳥の鳴き声だけが心地よく耳に届けられていた。葉音が途絶え、なのにまだ揺れる枝葉から、木漏れ日がアオハの顔に陰影を落としている。

 木陰にもたれながら、まだ眠たい目をこする。昼寝というには悠長に羽を休めすぎた。

 傍らにあった懐中時計を手に取り、上蓋を開けたところで手首を掴まれる。


「……アオハ。だから勝手に持ち出さないでと何度も言ったでしょう? この懐中時計はわたくしが贈られたものですから、時刻が知りたければわたくしに許可をお取りなさい」


 時計の針が指し示したのは、十五時と四分の一ほど。

 マルリアンの長い黒髪が鼻先をくすぐってきて、再びこの森にも風が吹き始めたのだと知った。


「ふふ……すまない、マル。あんまりに安らかな寝顔をしていたから、起こしてしまうのも悪いかと思ってさ」


 正直に言えば、彼女の口もとにしたたる涎を指摘することになる。幸せそうな寝顔を浮かべ、先に食べた甘ったるい菓子の香りをさせて、果たしてどんな夢を見ていたのやら。


「べつに……寝て……ませんし……」


 口もとを拭い、拗ねたようにそっぽを向いてしまうマル。

 そのまま鎖に引きずられて、彼女の首から下がる懐中時計がアオハの手のひらから飛び立っていった。


 アオハたちのあらたな旅が始まって、かれこれ十日が過ぎていた。

 アオハは異産審問官の職を離れ、学院領を発った。

 副長のイザルがあれこれ取り計らい、アオハの生家を確保すると約束してくれたが、それも丁重に断った。

 いつだったか、人は自分の手に余る力を手にすべきじゃないと誓った。

 その自分が、手にすべきではない力の、かすかな片鱗に触れた。この世界の成り立ちに触れるほどの力だ。

 全てを見据えて決断できるほど世界を見てきていない自覚がアオハにはあった。同時に、手にした力を容易に覆い隠すことなどできないことも知っていた。

 先史文明遺跡内に築かれたこの世界は、今も刻々と変化を続けている。アオハの望む望まぬとは無関係に、力を求める者たちの因果が自分たちを絡め取ろうとするのを知った。

 だから、旅に出た。この果てない歩みが、まだ若く弱い心の礎になってくれると願って。

 心細い旅になるかもしれないという不安も、名乗り出た道連れたちが拭い去ってくれた。


「ああ、ところで、あいつはどこに行った?」


 見れば、いつも視界に入ってきたであろう姿がない。不思議と見慣れてきたせいか、あの目立つ姿が見当たらないと、妙な物足りなさを覚えるほどになっていた。


「さあ……どうしたのでしょうね。もしかして水浴びかしら?」


「水浴び、って。このあたりに水辺はなかったはずだが……」


「あ、起きたのカおまえら。……ん? なんだ、またいつもの痴話喧嘩カ?」


 そこで狙いすましたように薪を担いで現れたのは、長身痩躯の少女騎士ジオッタだ。


「違います! ジ、ジオは見ていないのですか?」


「うん? ヘンだナ。あいつらならさっき、うちも見かけた気がしたけド……」


 ジオッタはさも不思議そうに首を傾げると、拾い集めてきた薪を地面に並べた。

 マルの言葉を勘ぐりながらも、木立をぐるりと見渡せば、残りのもう一羽もどこへやら。

 まったく困った連中だと、アオハは頭を掻きつつ腰を上げる。

 その時のことだ。


「――――――――――ばあっ」


 もたれ掛かっていた樹木――その直上から降ってきた奇怪なものが鼻先をかすめた。

 額をそれにぶつけたアオハが昏倒した。

 勢いよく吹っ飛ばされ、そのままふかふかした苔の絨毯に埋まり、ハッと意識を取り戻して起き上がる。

 額をさすり、何事と見上げてみれば、

 目の前にいたのは天地逆さまの〈白き車輪の姫〉――リュミオラだ。

 途端にジオッタが他人事のように笑い転げだした。マルはマルであまりのとに絶句している。


「な…………なんの真似だ……リュミ………………」


 リュミオラが驚くべき器用な体勢でいた。

  今は灰色に色褪せた蟷螂が、六本脚で樹木の太い幹にしがみついていた。その鎌に両脚を引っかけてぶら下がった錬金妖精が、上からアオハを驚かせてきたのだ。


「りゅん/おはようアオハ/おめでとう」


 万有引力に引き寄せられた髪が逆立ち、アオハと激突した額が、銀から白に戻ってゆく。

 それにスカートなど完全にまくれ上がっており、あられもない姿をさらけ出している始末だ。


「なっ…………なにが! はしたないから色々隠して、そこから降りてきなさい。その後に、何がおはようでおめでとうなのか僕にきちんと説明してくれ……」


 これで何度目の悪戯なのか、数えることも諦めていた。

 彼女は元来このような性格で、それはどれだけ社会経験を積もうと不変なのだと、またもや思い知らされただけだ。

 どさり、と音がした。リュミオラが飛び降りてきたにしては、奇妙に軽い音。


「なんだ……これ……?」


 アオハの股の間に、先ほどまでは見当たらなかったものがある。

 手のひらに乗るくらいの、四角い箱。群青色の紙で丁寧に包まれ、真っ赤なリボンが十字に結ばれている。


【――おめでとう、というのはだな、我が王よ。祝いの言葉なのだ】


 どこからともなく舞い降りてきたロボが、蟷螂の脚へととまる。


「えっ……祝いって、何を祝うんだよ、ロボ」


【いいからそれを紐解くのだ。この手の儀式に、野暮なご託など必要なかろう】


 ロボに言われるがままに、リボンを解いていて包み紙を開けていく。

 逆さまのリュミオラが、それに傍らのマルまでもが、興味深そうにアオハの一挙一動を見守っている。


「これは…………眼帯だ」


 箱の中に畳んで収められていたもの広げると、それはまだ真新しい布の香りがする、黒い眼帯だった。アオハがいま身に着けているものとよく似た装飾が施されている。


「それ、わたくしたちでつくりましたの」


「つくった、って……この眼帯を、マルたちがか?」


「ええ、そうですよ。ロボが密かにアオハの寸法を測り、わたくしとジオが布で帯をこしらえて、リュミが細かい刺繍を縫い付けてくれました。えへん!」


「えへン! うちもだゾ」


「えへん! なの/りゅふふ」


 色々丸出し全開のまま、逆さまなリュミオラまで胸を張った。


「……ありがとう。でも急にみんな、どうしてこんなものを? 確かに、今の眼帯はぼろぼろになってきてはいるけれど……」


 アオハにはもうわけがわからなかった。

 何故なら、生まれてこの方、贈り物をもらったためしがなかったからだ。

 いや、違う。

 過去に一度だけ、こんな思いがけない体験をしたことを、何故なのか思い出してしまった。

 ――最初で最後に両親から贈られたのが、そういえばロボだった。あの時は、確か……。


「……そうだ、誕生日だ。僕が生まれた日」


 どうして気が付かなかったのだろう。どうして今まで忘れていたのだろう。

 十年前のあの日を経て、己が命を、他の何かになげうってここまで歩んできたのだ。それ以外の多くを捨て、決して顧みることはなかった。


「たんじょび/おめでとうアオハ」


 振り子の要領で近付いてきた逆さのリュミオラに、頬への口づけを捧げられてしまう。


「あっ――ちょっと! そういうのは軽薄だから慎みなさいって教えたでしょうリュミ!」


 途端、いきり立ったマルに押し退けられてしまった。

 ジオッタがぶら下がるリュミオラを引きはがすと、慣れた手つきで腕に抱き上げ、マルもすぐに表情を緩めてくれる。


「実は、オードレット副長に内緒で教えていただきましたの。アオハお兄さんは、これでまた素敵に齢を重ねました。これを祝して、今宵はささやかな宴を開くことにしましょう」


「待ってました宴! うちも大賛成ダ!」


「りゅー!」


 まるで自分のことのように拳を振り上げて喜んでくれるジオッタとリュミオラ。どちらも食い気しかないといった風情ではあるが。


「本当に、お前たちは……まったく……」


「あらあら、二十歳の殿方なのに、なんですの?」


 アオハは皆に背を見せるしかない。何だか泣けてくる始末だった。

 その背を、からかうようにしてもたれ掛かってきた二人の少女たちが笑う。肩に、ロボまで舞い降りてくる。


 この旅は、たとえば冒険と言ってよいだろう。

 アオハ・スカイアッドの未来は、こんな冒険に幕開けた。

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