第18話

 気付いた時には、アオハは大地に背を強く打ちつけていた。

 痛苦に上げかけた呻き声を絶たれ、それでも歯を食い縛り上体を起こす。巨竜の衝突を受け、アオハはここまで弾き飛ばされたようだ。

 すぐ先で、リュミオラの体躯に折り重なるように首なし巨竜が倒れ伏しているのが見えた。

 言うことを聞かない足を引きずりながら近付く。

 そうして彼女の元に辿り着いたアオハは、思わぬ光景に出くわした。


「リュミ………………………………ラー……グナス……」


 首を失った巨竜にのし掛かられ、大地にひれ伏したリュミオラ。

 巨竜はその姿を光の粒に変えて薄れてゆき、そのあとにかつての恩師ラーグナス・フランヴェイラが残された。

 その姿を一目して、アオハは息を飲んだ。

 ラーグナス自身も手負いだったが、巨龍に変化していた際に受けた傷そのものは影響していないように見えた。

 右肩からの流血が滲む白衣を左手で押さえると、わずかに表情を歪めるラーグナス。

 提げていたペンダントを引き千切り、地面に投げ捨てた。そのペンダントに埋め込まれたレリクス結晶は既に砕けている。双頭の巨狼たちが宿していたものと似ていた。

 彼が踏み付けているのは、くずおれたリュミオラの車輪。そしてその右手に握られていたのは異産殺しの剣、レリクスブレイカーだ。


「おまえ……リュミオラに何をする気だラーグナスッ!」


「フフ……いつ振りの再会だったかな、スカイアッドよ」


 アオハも自分のレリクスブレイカーを抜く。

 今にも切りかからんばかりの衝動を歯噛みして抑え、ラーグナスが早まらぬよう、少しずつ間合いを詰める。


「遂に……遂にかの異産が我が元に伏した!」


 ラーグナスが手にしたレリクスブレイカーが、リュミオラの車輪に押し当てられていた。あれこそは、アオハ自身が夢見に魔女ウロボロから学んだ先史の秘技そのものだ。


「私は待った。この機会をずっと待ち望んでいたぞ、アオハ・スカイアッド。このために随分と多くのものを犠牲にしてきたのだ」


 巨龍に押し潰された衝撃のせいか、リュミオラは上体を地に横たえ昏倒したままだ。


「何が目的だラーグナス・フランヴェイラ。その子を解放しろ!」


 それにレリクスブレイカーとは、その名のとおり異産を封滅――つまり破壊ないし無効化させるために鍛えられた器具だ。使い手が適切な詠唱を対象物に送り込みさえすれば、刃に込められた先史の魔法によって、異産を成り立たせる〝理〟そのものから破綻させることもできる。

 こちらが迂闊な真似をすれば、ラーグナスのレリクスブレイカーが一撃のもとに彼女を封滅してしまう恐れすらあった。


 ――どうしたらいい。時間稼ぎをして、リュミが意識を取り戻すのを待つべきか……。


「ラーグナス。お前は剣王国を利用して戦争を起こすつもりじゃなかったのか。だが剣王はこれから兵を退かせるぞ。その子を封滅したところで、もうお前が得るものなどない」


「……さて、それはどうかな? この戦争を望んだのは私ではなく星教会の方だ」


「ふざけるな。星教会が何故こんな不毛な争いを望むと――」


「君も充分理解しているはずだ、異産審問官が何のために誕生したのかを。星教会はレリクスの普及によって、かつての威光を失った。人類は信仰よりも技術の恩恵を選んだのだ」


 それは、間違いだと否定しきれなかった。

 今の世は、巡る星々への信仰がなくとも、発掘したレリクスの力によって暮らしを豊かにできた。異産審問という形でレリクス全盛の時代に関わることでしか、星教会は存在意義を見出せなくなったと批判するものすらいる。


「この戦を仕組んだのは星教会の上層部だ。ハンマフォートにおける絶対の宗教装置、精神的支柱としての立ち位置を取り戻すべく、学院という異端構造の淘汰を選んだのがあの者たちだ」


「そんな……そんなことをして一体何人死ぬと思ってる! その後に何が残る! あまりにも馬鹿げてる……お前もそれを知って止めなかったというのか!!」


「私の地位ですらこの潮流はもはや止められんよ。それに、思わぬことに剣王国の傍流どもまでこの策略に肩入れしてくれたぞ。だが、このような下らぬ茶番、もはや私の知ったことではない。星教会も、学院も、剣王国も、勝手に自滅するがいい……ククク」


 全てを捨て去ったかのラーグナス・フランヴェイラに、戦慄するほどの笑みが浮かぶ。


「ラーグナス………………リュミオラを魔神と呼ぶのなら、お前はまさに魔王だ」


 吐き捨てるように言ったつもりが、アオハの声は恐れと怒りとに震えていた。


「魔神、魔王。邪悪な魔術師。そんなものは人の幻想が生み出したただの物語だ。ああ、そうとも……この世界こそ行き詰まった〝物語〟そのものではないか。この世界が見た目通りのものでないのだと――スカイアッドよ、君は自ら思い知ったはずだが?」


「思い知った、だと……?」


 ラーグナスがその言葉を発した直後に、判断を誤ったのだと悟った。もう遅すぎたのだ。


「――葬送の果ての地エンタ・レギルス解放サンザ・ミェルアーロ刻を進めよエッフェラル其を妨げるものはないアロイエ・テー・ゲトロン――」


「何を…………ッ!? しまっ――――――――――」


 リュミオラの車輪が煌めき、あらたな魔法円が再び浮かび上がった。


「――〈解呪ネスト〉!!」


 そしてそれは一つに留まらない。魔法円がさらに大きな魔法円を生み出し、幾重にも積層し、この地底第八階層の天頂まで段階的にそれが及んでいく。

 やがてこの階層そのものに、想像を絶する異変が巻き起こった。

 空の帳が急激に落ち暗転した天上に、町ほどの大きさを持つ巨大魔法円が描かれた。

 禍々しい紅でなぞられたそれの現出とともに、雲は乱れ、風が吹き荒び、階層そのものの気象が崩れ始めていた。


「一体何をしたラーグナス! その子の車輪を使って何の魔法を発動させたッ!!」


「…………魔法、だと? フ……君はどうやら魔法というものを勘違いしているようだ」


 車輪が爪弾かれた。キン、と言う破砕音が鼓膜を裂くかのように空の彼方までつんざく。


「りゅ――――――――――――ッ??」


 突然リュミオラが目を見開くと、苦しげな呻き声を上げた。

 同時に、ラーグナスの与えた詠唱を受け、天上の大魔法円がさらなる変化を見せる。

 魔法円が顎を開けた。そう形容するほかない暗黒が、大魔法円の中心に開放されたのだ。


「……聞け、スカイアッドよ。君の知るこの世界は、百年前すでに滅びていたのだ」


「…………何のことだ…………何を言っているお前は。〈大断絶〉の……ことなのか……?」


「〈大断絶〉がもたらしたのは呪いなどではなく福音だ。先史の時代、とおき神々が突き付けた葬世レギルスによって、世界の全てが滅びの因果に絡め取られた――君たち人間すらもだ」


 ラーグナスはもう用済みとばかりに、レリクスブレイカーを投げ捨てた。地に突き立ったそれに目もくれず、なおも忌まわしき言葉を紡ぐ。


「だが人間は、先史遺跡に備わる大魔法の絶対的加護の下、自らレリクスと化すことで、百年ものあいだ滅びの因果から逃がれ続けてきた――〈大断絶〉というのは、後世の人間が付けた都合のいい呼び名にすぎないのさ」


「お前が何を言っているかわからない……人がレリクスだと? 何を根拠にそんな妄想を……」


「滅びたはずの君たち人間が、百年後の今もそうして生きている振りができることこそが魔法なのだよ。……君は生まれてから自分が何度死んだか覚えているか?」


 何故なのかラーグナスが唱える一字一句に、心と体がバラバラになっていくようだった。


「君はあのマウリで村人からの矢を受けて死んだ。十年前の主都で、狂気に飲まれた大人たちになぶり殺しにされた。にもかかわらず君はここでまだ生きている。魔法の奇跡によって時を刻むのを止めた遺産――まさにレリクスだ」


 気付けば手のひらが自分の胸を押さえていた。眼帯の奥を確かめていた。

 今は応えない頭の中の魔女に問うても、ラーグナスの妄想が真実であると一笑に付される気さえした。


「だが、生と死のあわいに在る君は、私ととてもよく似ている。君にアレを見せたかった」


 ラーグナスが、天井の大魔法円を促す。

 そこに穿たれた大穴から、想像を絶する何かが這い出ようとしていた。


「あれは……何だ…………お前は、何を呼び出した………………」


 それは、言葉で表現できる形をしていなかった。

 喩えるとすれば、黒い塔。

 ただ、天井の大魔法円から逆さに生えてきたそれは、闇のものともつかぬその表層に魔法円と同質の刻印を帯びて、天を奔る雷鳴を集めていく。

 突き出た黒い塔と同調したかのように、この階層一体にそびえ立つ〈尖塔〉群までも、まるで魔力を収集するかの青白い稲妻を迸らせ始めていた。


「おお……見るがいい、アレこそがこの大剣ハンマフォートに仕組まれた真実の〝魔法〟の姿だ。アレを解呪することで、この百年もの狂った悪夢から君たちはようやく解放される……遂に死の因果を受け止め、さらにその先の世界へと歩み出せるのだ!」


「なんだ……お前は何者だ……本当にラーグナスなのか? そんなことをして何が起こる…………止めろ……今すぐ止めろ……」


 気味が悪いほどに、自分の四肢が感覚を削いでいくのがわかった。手にしたレリクスブレイカーをラーグナスに向けたにもかかわらず、これすらまるで他人の腕のよう。

 代わりにおびただしいまでの悲鳴が鼓膜を打つ。かの大魔法の顕現に立ち会った多くの騎士たちが、この狂風めいた先史の奇跡に魂を押し潰され、次々に大地にくずおれてゆく。


 止めろ――――。


 引き寄せられるかのように、体が勝手に歩き出していた。手には握りしめた鋭い刃を、あの男の心臓に突き立てようとしていた。

 もうこの衝動に抗うことはできない。

 己を構成する全てが否定された。アオハ・スカイアッドは死者だ。魔法で生きた振りをするだけの容れ物レリクスだと証明された。

 これまで歩んできた十九年あまりの時間も嘘だ。まばたきのような儚い幻想だった。

 なのに、一瞬で魂の抜け落ちた自分を見て、父親代わりの大人だったあの男は嗤うのだ。

 刃を胸に突き進む。己が生を証明するには、あの男を否定する必要がある。


 ――〝殺せ〟。


 頭の中に響いた、雷鳴がごとき言葉。

 なのに、こんなにも他人のような体が、どうしてなのかわずかに怯んだ。恐れて、震えて躊躇った。


「――アオハッ!」


 そこで耳朶を打ったのは、凛として張り裂けそうほど嗄らした少女の声。

 途端、ラーグナスの体が地面に転がった。〈白き車輪の姫〉の巨躯がごとりと起き上がり、その背に君臨していたラーグナスを力尽くで振り払ったのだ。

 糸が切れた操り人形のように力が抜け、アオハは地に膝折っていた。

 己が手が未だに刃を握りしめたまま、茫然と震えていた。強張って離すことができない。意思が働かない。

 なのに、生の実感があった。そう感じさせてくれるきっかけが、すぐ傍で存在を訴えた。


〝――われは刻欠けの乙女 彼岸に眠れり 旧き者――〟


 暖かい、甘やかな感触が触れる。

 腕に、

 胸に、

 頬に、

 首筋に、

 耳に、

 そして唇に。


〝――われは永久なり 開闢の際にありありて わが口吻に彩られき――〟


 ひとつきりの瞳が映し出したのは、〝彼女〟の姿。

 アオハの胸にすがり付き、唇を塞いできた少女――リュミオラが、刹那の口づけを引きはがすと、紅潮した頬を隠すかの仕草で力強く組み伏せてきた。


 地面へと仰向けに倒れたアオハの耳元で、リュミオラが囁く。


「わが口吻に彩られきアオハはここにいる/終焉はゆるさない/リュミのそばにいて」


 強く抱きしめられた。

 かつて自分がそうしたように、さまよう心を繋ぎ止めるように。


「リュミ…………僕は……ここにいるんだな……………………」


 彼女が頬を寄せ、静かに頷く。

 そう聞かされて、驚くほど強く己が生の熱を実感した。抜け落ちたかの魂の所在など、もはや些細なことだとさえ思えた。

 レリクスブレイカーを握りしめていた力がようやく抜けた。

 見れば、リュミオラは錬金妖精の姿だった。

 闇色の手足は擦り傷と泥まみれ。隙を見計らい、蟷螂から抜け出て、歩くことすらできないヒレ状の脚でアオハの元まで這って辿り着いたのだ。

 視線を上げる。

 地面に転がったラーグナスの前に、いつの間にか一人の騎士が立ちはだかっていた。

 聖堂騎士ザカンだ。騎士剣をその首元に突き付け、何事かを彼に問い詰める。

 それも無駄骨だったのか。


「…………おぬしたちはしばらく目を背けておれ」


 そう言った直後にザカンは、躊躇いなくラーグナスの首を刎ね飛ばした。


        ◇ ◆ ◇


 大剣ハンマフォートを渦巻いた狂風は、邪悪なる魔術師ラーグナス・フランヴェイラの死をもって止んだ。

 同時にラーグナスが果たそうとした目的の真相も闇に消えることになった。

 天に顕現した黒き巨塔――〈大断絶〉に関わる大魔法だと語られたかの構造物は、アオハがリュミオラの車輪を介して再び封じることになった。

 この世界の秘密を唯一知り得るであろう人物――魔女ウロボロは、あれから一度も呼びかけに応じなかった。

 ただあの黒き巨塔こそが大剣ハンマフォートの根底を覆す恐るべき異産とだけ、この戦場を生き延びた者たちの記憶に焼き付けられた。

 一方、大義名分を失った剣王エイフェットは進軍中止を決断。剣王国領内で巻き起こっていた謀略――騎士団傍流との勢力争いを押し止めるべく、旧王都へと帰還する。

 こうして混迷を極めたハンマフォートに、かつての平穏が取り戻されたのだった。


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