第17話

 魔女の消滅を合図としたように、遂に弓が引かれた。

 遠方の弓兵隊から放たれた矢が陽光を銀に照り返し、放物線を描いて迫り来る。飛翔するリュミオラの速度が矢を上回ることはなく、遮るものもここにはない。


 ウロボロが消えた後に残されたのは、瞼を固く閉じたアオハ・スカイアッドだ。

 途端に息を吹き返し、カッと目を見開く。吊しポケットからレリクスブレイカーを抜く。


「――待たせたなリュミオラ。僕があの矢を止める。だからお前の力を貸してくれ」


「りゅっ、アオハ戻った!? /貸すってナニ?」


「ウロボロに教わった技だ。苦しかったらすまない」


 そう言うとアオハは右手に携えたレリクスブレイカーを掲げ、眼前に燦然と煌めくリュミオラの車輪にその切っ先を押し当てた。


「りゅりゅりゅっ――――――――!? りゅ――――――――ッッ!?」


 レリクスに干渉するときと似た、キンと硬質な音と振動とが刃を通してアオハの皮膚まで伝わってきた。と同時に、肢体が硬直し、歯を食い縛るような呻き声を彼女が上げる。


「頼む、耐えてくれリュミ――我は惑星リーア・メルテルスその大気は水ストレイタ・マテリオ水は守り手にして城壁なりマテリオ・アガテア・リルケノーマ


 詠唱に応じ、車輪を介して彼女の頭上に発現したのは、白い光で描かれた魔法円だ。古代文字の魔法刻印が周囲にちりばめられ、アオハの詠唱に呼応して意味を組み替えていく。

 起きた奇跡はそれだけに止まらない。

 魔法円に吸い寄せられるようにして疾風が襲う。風はかすかな雨を含み、驚くべき早回しで気象変化が凝縮され、魔法円へと収斂してゆく。


【――矢が来たぞ、我が王!】


 遅れて目を覚ましたロボが、リュミオラの兜の上で声を張り上げた。

 視線を戻せば、おびただしいまでの黒い点がすぐ眼前まで迫り来ているのが見えた。


「行け――――――〈意志をこの手にヴィル・ピアサー〉!!」


 さながら弓の弦を弾くようにして、リュミオラの車輪に引き寄せられたままだったレリクスブレイカーを引き離した。

 途端、溢れ出した膨大な水が濁流となって、アオハたちの視界に溢れ出した。

 濁流は不可視の力によってねじ曲げられ、真球状に空中へと押し止められる。それがリュミオラの前で表面積を広げ、次第に雨傘を思わせる形へと成型されていく。

 最初の矢が水の〝雨傘〟に飛び込んだ。

 続いて二本目、十本目、そしてさらに数え切れない矢が水で錬成された壁に勢いを削がれ、なおもこちら目がけて突き進もうとする。


「りゅー/だめなの/止められないよアオハ!」


「ならば凍結させる。我が城壁は海原リーア・リルケノーマ・エイルン海原は阻むものなりエイルン・フラックス阻めぬなら凍り付き山となれリフラック・ゴウト・ジアート――〈意志をこの手にヴィル・ピアサー〉!!」


 再びレリクスブレイカーで白き車輪を爪弾くと、途端に〝雨傘〟が白くひび入り、なおも水中から突き出ようと直進する矢もろともに硬く凍結してしまった。


【ホ、ホロロ――ッ! わ、我が王! ここここれでは冷凍フクロウになってしまう!!】


 リュミオラの兜の上で霜が降り始めていたロボを尻目に、


「――〈解呪ネスト〉」


 そんな意味をなす古代語を車輪に送ると、凍り付いた〝雨傘〟が音を立て砕け散った。


【なんということだ我が王よ! いつの間にこのような魔術を会得したのだ!?】


「ふふ……リリカナクラウン自体が強力な魔力誘導体――〝魔法の杖〟に相当するのだと教えてくれた人がいたんだ。あとはレリクスブレイカーとレリクス解封技術を応用すれば魔術師の真似事ができる」


 眼下では、粉々になった氷塊が降り注ぐさなかを、騎士たちが茫然と見上げている。


「……体は大丈夫かリュミ?」


「リュミすっごくビリビリしたなの/でもだいじょび/びっくりなだけ」


「よし、ラーグナスを止める。行こうリュミオラ」


「りゅ/やってみる」


 リュミオラに指示し、軍勢の中で最も立派な出で立ちをした陣の前へと降り立った。敵陣の中心――それも大将の傍であれば、また矢の雨を浴びせられずに済むと考えたからだ。

 突然この戦場に介入した〈白き車輪の姫〉は、さしもの勇敢なる騎士たちにも恐怖の対象となったろう。しかも着地地点の騎士の何人かを巻き添えに吹き飛ばし、あるいは踏み付けて。

 戦慄した騎士たちは悲鳴を上げ、使命を放棄し逃げ出すものまで現れた。


「臆病者がッ! たかが一体の新手に怯む騎士がおるか! 己が剣で敵を屠るのだ!」


 そうがなり立ててリュミオラの下から這い出てきたのは、なんと魔女の霊廟のトラップで流されたはずの聖堂騎士ザカンだった。


「あっ……あなたは、あの時の聖堂騎士殿! ご健在だったのか……」


 地面に降りたアオハは、とんでもない構図での再会に、思わず戦場であることを失念してしまう。


「うぬっ、おぬし……いつぞやの異産審問官ではないか! それに魔神だとッ!?」


 自分の足もとで喚く大男に、ぽかんとして小首を傾げるリュミオラ。

 かたやザカンは、有無を言わさず抜剣するも、騎士甲冑が重いのか尻を引きずらせながら後ずさっていく。


「このっ、人の道に外れた異産使いが――――」


「――――りゅっと」


 いきり立つザカンをリュミオラが問答無用で蹴飛ばす。そのまま草むらに潜んでいた配下の騎士たち目がけて吹っ飛んでいった。

 直後、ちょうどザカンのいた位置をなぎ払ったのは、青白いブレス

 真っ直ぐに黒い焼け跡を残したそれは、今も無差別に野営地を暴れまわっている巨竜から放たれたものだ。数奇なる因果によってその直撃が回避され、縺れ合ったザカンたちも状況が飲み込めず唖然とした。

 その様子を静観していた者が、毅然とした声を高らかに放つ。


「――言葉が通じるならば答えよ、星教会の若き異産審問官よ。貴君は我らが敵か?」


 歩み出て、剣の切っ先をアオハに向ける馬上の騎士たち。

 その先頭に立つ白銀の騎士こそが、剣王国の覇者――かの剣王エイフェットだ。

 かつての王制を廃止したユーグリフィン剣王国では、正規騎士の中から武芸と政治手腕の双方に秀でた〝騎士を統べる騎士〟を選出し、その頂点に立った一人が剣王の称号を受け、旧王家に代わって領の統治を行ってきた。特に当代のエイフェットは、王政時代の名残である旧・大聖堂の守護者――領内最強の聖堂騎士たちをもねじ伏せた、文字通りの騎士の王たる器を持つ人物だ。


「剣王殿。領を無闇に侵したことには釈明の言葉もありません。ですがラーグナス――あの巨竜こそが全ての元凶。異産そのものである奴を封じる使命が自分にはあります」


「答えになっておらぬな。そのような魔物を従える貴君は、我らの敵かと問うておる」


 剣王は白髪の混じる金髪に深い皺をその表情に刻んだ、壮年の男だった。その目に強い威圧の色が浮かび、軍馬の上より淀みなく睨め付ける。

 しかしアオハも負けじと応じた。


「僕の知る限り、マウリを最初に焼き払ったのはラーグナスだ。だが、村人を皆殺しにしたのは聖堂騎士だとマウリの生存者から報告を受けた。その罪をこちらに被せ、それを口実に我が学院領へと攻め入るというのなら、互いが敵になるしか道はない」


 あくまで冷静に応じるつもりが、言葉に怒気が籠もっていた。昨夜のジオッタの泣き顔が浮かび、どうにも我慢ならなかったからだ。

 が、しばし黙考するのは剣王の方だった。側近の聖堂騎士が何か耳打ちする。


「……なるほど、此度の件、真の罪人が果たして何者かについて、今一度探る必要がありそうだ。して、貴君はアレをどうする」


 意外や、剣王はあっさりと剣を収めると、切っ先そのものと言える眼光を幾分和らげ、野営地の彼方を促した。

 その視線の先では、かの巨竜が今も暴虐の限りを尽くしている。あのような有り様では、もはや策謀も何もなく、ただ視界に入るもの全てを破壊し続ける〝災い〟でしかない。


「あれは僕が立ち向かうべき敵だ。僕が……いや、僕たち二人で必ずやあの竜を倒す!」


 表情一つ変えず、アオハは剣王へと宣言した。


「よかろう、貴君にあれを屠ることができれば、我らに兵を進める大義もなくなる」


 実に虫のいい言い振りだった。だが、それも今のアオハにしてみればどうでもいいことだ。ラーグナスを止められなければ、この先に未来はないのだから。

 剣王は馬の手綱を引いて転回させると、背後に控える精鋭騎士たちに命じた。


「退け! 両者の決闘を見届けようぞ!」


 すると瞬く間に騎士たちの軍勢が退き、アオハたちを決闘の地へと導く道となった。


「――〈意志をこの手にヴィル・ピアサー〉」


 群衆が見届ける中で、リュミオラが車輪から光の騎槍を抜いた。

 彼女が挑むのは、焼ける兵営の天幕を踏みつぶし、逃げ惑う雑兵らや軍馬を蹴散らして、乱心したかのように怒り猛る白き巨竜。

 鼓舞するかの低い歓声が、取り巻く騎士たちから浴びせられる。


「ともに行こうリュミオラ。僕の言葉でお前の行く手を切り開く」


「――われはなんじ、アオハの刃! /なんじを護り、なんじの意志を具現する!」


 狼煙となる言葉を己に刻むようにして、アオハを背に乗せた〈白き車輪の姫〉の巨躯が、この荒れ果てた戦場のさなかへと飛び込んだ。

 焼け焦げた臭気が立ち込め、燻る炎と黒煙とが視界を遮る。そのさなかを、六つの脚でリュミオラが疾駆する。

 方々では既に基礎がひしゃげた兵舎が無残に残骸をさらし、用をなさなくなった武器や兵糧があたりに散乱していた。同様にしてできあがったであろう死体もだ。

 それらを踏み付け、飛び越え、相まみえるべき敵――荒ぶるラーグナスへと迫る。


 両騎接敵。


「りゅー! /なんじ/名乗れッ!」


 己が巨躯をさらに三倍は上回る巨竜へと対峙し、猛るようにリュミオラが吼えた。

 対する白き巨竜は、天を轟く雷鳴がごとき咆哮をもって応じる。知性の通わぬ、ただ恐怖を撒き散らすだけの怪物。もはやここでは対話すら意味をなさない。

 リュミオラが光の騎槍を頭上に舞わせると翅を広げ、疾風迅雷の速さで駆けた。

 一撃目、刺突。

 光の騎槍が、想定外の間合いから繰り出される。

 騎槍は鞭のようにしなりを見せた直後、光線と化して巨竜の体躯を貫こうと突き進む。巨

 竜が前足で地面を掴む。姿勢を低く落とし、直線的に繰り出された光線をかわす――も、背から生やした大翼の片方が被膜もろともに切り落とされた。

 直後、地に這いつくばっていた巨竜の長い首がリュミオラを至近距離で捉えた。

 鋭い牙の揃う顎を開け、闇のようなその奥が稲光を発する。喉笛の鱗を青白く明滅させ、次にはブレスが放たれた。

 異界より召喚されたかの青き炎が、リュミオラに向け浴びせられた。

 咄嗟に側方へと回避してのけたリュミオラ。六脚を順繰りに蹴り、円弧を描きながら熱を避ける。

 が、巨竜は柔軟な動きを見せる首を自在に曲げ、吹き付けるブレスから逃れようとする標的へと軌道を修正し、次第に追い詰めていく。


我が城壁は疾風リーア・リルケノーマ・アルエス疾風は竜をも阻むものなりアルエス・リグダ・フラックス――」


 攻撃に応じて呪文を組み立て直したアオハが、車輪を介してあらたな魔法を発動させる。


「|風よ、退けろッ――〈意志をこの手にヴィル・ピアサー〉!!」


 リュミオラから生み出された狂風が前方で激しくつむじを描いて、ブレスの軌道もろともに上空へと巻き上げる竜巻となった。

 円状に横軸移動を続け、巨竜の背面を取る。

 と、回避行動中だったはずのリュミオラの、片脚が地面を削る。飛び散る土くれを浴びながらも、振り落とされまいと必死に背の車輪へとしがみつくアオハ。


「りゅ――――――――――――ッ!!」


 唸るような咆哮。かぎ爪を大地に穿ち、彼女の巨体が片側だけ浮き上がるほどの急制動。そしてその不安定すぎる体勢から、予想だにしない間合いで二撃目が振るわれる。

 リュミオラの騎槍が横薙ぎに標的を狙う。もはや肉を断つ刃などではなく、一条の光線となったそれが、巨龍を指して一閃するかに見えた。

 だが巨竜がここで思わぬ動きを見せた。その巨体を驚くべき速さで捩ると、想像だにしなかった身のこなしでリュミオラの騎槍を掻い潜ると同時に、向きを転回した刹那にこちらの間合いまで踏み入ってのけたのだ。

 骨の砕ける嫌な音が轟いた。竜の巨躯と自重ではどだい不可能な体勢、無謀な重心移動を強行したせいで、肉体そのものが破綻したのだ。

 だが、巨龍は止まらなかった。


「なッ――――!?」


 もはや本来あるべき肢体の輪郭を損ないながらも、不条理ににねじ曲がった脚で地を掴んでは蹴り、猛然とこちらに飛びかかってきた。


「駄目だリュミ、あいつを止めろッ! ――沈め土塊よヴィサ・アンバ真円を描き深淵を成せライト・ロゥ・ディピュセルス……」


 魔法発動が間に合うかもわからない速度で巨龍が来る。


「りゅー/来るなっ!」


 アオハの指示を待つまでもなく、引き戻された光の騎槍が再度振るわれた。斜めに標的の胴をえぐり取る。だが肉体の一部を欠損させても出血することもなく、それどころか巨龍はなおも止まらず既にアオハたちの目前までたどり着いている。


 ――なんて凄まじい生命力だ! いや、あんな異常な動き方、もはや竜どころか生物ですらないじゃないか……。


「――〈意志をこの手にヴィル・ピアサー〉!!」


 どぅ、という鈍い地鳴りとともに、リュミオラが立つすぐ先の大地が真円状に陥没し始めた。

 アオハが新たに発動した魔法によって、一帯の地面はすり鉢の形になって土砂を飲み込み、徐々に沈んでゆく。

 けれども、巨龍は止められない。土の斜面をさながら節足動物のごとき蠢きようをして這い上がり、土煙を上げながら向かい来るおぞましき巨竜のなれの果て。

 あまりの様相に、かの〈白き魔神〉――リュミオラの顔すらもあまりの戦慄に歪む。


「と……止まれっ! /止まれ! /止まれ止まれ止まれ! /とまれ――――ッ!!」


 息を嗄らせ、怯えの滲んだ声色で叫ぶ。なおも騎槍で、地べたから這い上がってくる怪物を薙ぎ払う。

 止まらない。巨龍は、止められない。

 もたげた巨龍の鎌首が、頭上からリュミオラたちを睨め付ける。

 最後の一撃が止めのように、強靱なる巨龍を鱗ごとひと断ちにし、遂に首が刎ね飛ばされた。

 だが、死すら巨竜を押し止めることはなかった。

 首なし巨竜は猛進を止めない。

 断面に何もない――ただぽっかりとした暗黒だけが覗く首を振り乱しながら、

 浴びせられた矢を全身に生やしながら、

 欠損し、砕けた肢体を蠢かせながら、

 なおもかの幻想種は、濁流のように押し寄せた。


「りゅ――――ッ!? /なんじずるい、不死身なの!? /むぎゅっ」


 最後の悲鳴もろともに押し潰すかのように、巨竜はリュミオラにのし掛かり――――。


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