泥濘の夢

佐々木匙

泥濘の夢

 書き物をしようとすずり箱を開けたら、中にまた黒い汚泥が入っていたので難儀した。




 しばらく前のことだ。夕暮れの暗くなりかけた廊下をふらりと歩いていたら、耳につく嫌な湿った音と、足袋が濡れた冷たい感触とがあった。見るとどこから来たものか、黒くぬらぬらと濡れた泥がひとつまみ分ほど、磨かれた廊下に棄てられていたのた。ただの泥ではない。手に取って鼻に近づければ濁った嫌な匂いのする汚泥だ。


 心当たりはあった。近くの小さな神社の脇道を行ったところにある緑色の沼は、近頃干上がってきて、通りざまに腐った屍体のような嫌な臭気を放つ。その臭いとこの泥の香は、ごく似ているように思えた。すると、使用人の誰だかがあの辺りを通り、汚れた靴を中に持ち込みでもしたのだろうかと思った。叱言を言ってやろうと確かめたが、しかし誰もあの道を通った者はないとのことで、私は振り上げた拳を叩き下ろせず、気まずい気分になったものだ。


 それから、泥は家中のあらゆるところに現れた。廊下に、座敷牢じみた自室に、書斎に、厠に、風呂に。私は何度かそれをじくりと踏みつけたし、風呂の湯の中に泥が落ちていた時は、犬の糞でも投げ込まれたかと誤認し、いかにも嫌な気持ちになったものだ。時には汚泥はこの古い家の壁に汚らしくなすりつけられてもいた。それらは大抵、目を離すとそのうちに綺麗に拭き取られている。私は泥を見かけるたびに使用人を叱りつけたので、嫌になって特別綺麗に片付けたのであろう。私の目が届く前に済ませて欲しいものだと思う。否、もしかすると、私が見かけた泥汚れはごく一部で、他のものは彼らが見つけ次第拭き取っているのかも知れぬ。何もかもがわからない。


 これが彼らの過失の類であるという考えは、とうに捨て去っていた。あまりに長く続きすぎる。使用人にはごく年若い者や頭に難のある者も居たが、それにしてもこうも泥を撒き散らす程の者が居ればおたねに辞めさせられているであろう。


 家族。この広い、陰鬱な田舎屋敷の主は私ひとりである。他にあのような粗相をする人間は居ない。




 薄暗く明かりの灯る自室で、硯箱を掃除しながら、私の頭はうっそりと回転する。で、あれば。何者かの悪意の悪戯か、さもなくば、自然の……或いは超自然の現象。


 ふと壁に掛かった鏡が目に入る。そこには私の顔は無かった。ぐちゃぐちゃに汚泥がなすりつけられていた。近寄り、指でぐいと拭う。私の目元だけが鏡に反射し映っていた。ぎょろつき、隈の出来た、年のわりに不健康な目元が。




 私は二十年と少し前、この山中の大きな屋敷に生まれた。記憶にある範囲では住人は父と私だけで、使用人の数は今と同じく、主よりもよほど多かった。母の話は知らない。父も、使用人たちも何も聞かせてはくれなかった。父は厳しい人で、屋敷は陰気に静かな場所であったが、それでも私が幼い頃は友人を呼んだり、年の近い使用人に遊んでもらったりと少しは陽の明るさがあったように思う。


 父はこの家の主としてやや横暴に振る舞ったが、普段は家に篭り、時折周辺の村を散策する程度で、やがて干からびるようにして衰弱し、死んだ。私も跡を継いでからは同じように引き篭もり暮らしている。家はますます陰気になった。いつからか昔の友人も寄りつかぬ。私の世話をするのには明らかに多い人数の使用人たちだけが、蟻のようにうごめいている。


 それで良いのですよ、当家の主はそういうものです、とおたねは言う。万事は私どもが取り仕切りますから、ゆったりとお暮らし下さいませ。


 おたねは、五十ばかりにも見えるが年のわからぬ女で、少なくとも私が子供の頃から変わらぬ姿で此処に居る。数多い使用人たちに指図をするのはこの女である。私が日常の話……主に不平不満を語るのもこの女相手がほとんどだ。まあまあ、落ち着きなさいませ、主様。たねがどうにかして差し上げます故に。おたねはそう言っていつも私の矛先を逸らし、そうしていつも何らかの解決をもたらしてくれた。


 依存。そう言えばそうであったかも知れぬ。私の不健康な生活は、おたねに支えられていたと言って過言ではない。蝋燭の灯りを掲げて、少し腰を曲げて歩く後ろ姿を、私はよく部屋の戸を開けて見送った。


 泥の件に関してはしかし、おたねの力は未だ及んではいない。私はちり紙を引っ張り出し、乱暴に鏡を拭った。青白い、目ばかり目立つ、いかにも虚弱な男の顔が、黒い泥の筋に隠れてぼんやりと浮かんできた。




 主様、そろそろ奥様をめとられては。おたねがそう言い出したのは、硯を洗った次の日のことであった。私は目を見張る。自分が資産の上に胡座あぐらをかき、無為に暮らしている人間だということくらいはわかっている。そんな男に嫁の来手があろうとは思えなかったし、そもそも村には独り身の娘などほとんど居なかった。


 何、何もかもおたねが取り計らいますから、主様はどんと構えていらっしゃればよろしいのです。お家の遠い親類筋にちょうど良い年の娘が居りますから、早速手紙を書きましょう。そんなことを言って、次の週には私の縁談はまとまっていた。私は目を瞬かせながら、欲しいとも思わなかった花嫁を迎える準備を行う羽目になった。


 とはいえ、相も変わらず私の出来ることなどほとんどない。おたねの指示に従い、身を清め、正装をし、口をひき結んで式の当日を迎えた。




 どういうしきたりなのであろうか。花嫁は、ひとりで現れた。正しくは、我が家の使用人達が迎えに行き、数日後、彼らに連れられて真っ白い綿帽子を被った娘がやって来たのだ。あちらの両親は姿を現さぬ。我が家にはあれこれと変わった決まりごとがあったので、これもそのひとつであろうとすぐに飲み込んだ。


 どんよりとした沼の臭いの漂うこの村に、純白の花嫁衣装は浮き上がるように異質で、美しく、また奇妙に見えた。私は決まり通りに差し向かいで花嫁と向き合い、盃を交わし、一度また別れて、そうして夜を迎えた。




 頼りない明かりの下、綿帽子を脱いだ娘が、俯いて座っていた。整った顔というわけではなかったが、ふっくらした頰の線にどこか愛らしさのある女だと思った。何か話そうと思い、口ごもり、結局、何も言えぬままに私は彼女の手を取った。娘は顔を上げる。


 その夜、私達は言葉を交わさず、ひとつ身となった。布団に手をついたその時、またずるりと汚泥の感触がしたのを、よく覚えている。




 女は子を産むとすぐに死んだ。私の母もそうであったと、おたねは教えてくれた。薄々、そうだったのではないかと思っていたことであった。子は使用人のひとりが乳母となり育てている。あまり泣かぬ子だ。私もまた身体を壊しがちで、家に篭る日が続いた。泥は、あちらこちらに散らばっていた。


 廊下に、自室に、書斎に、物置に、厠に、風呂に、庭に、道端に、ありとあらゆるところに泥は姿を見せた。昔より一度の量は少なくなり、また色が薄くなったような気もする。もはや私は家中の泥を気にしなくなった。それは、私の行くところに必ず現れるというだけのものになっていた。


 私はさらに痩せた。泥の元であろう沼は、半分ほど干上がり、どろりと濃い緑の嫌な色を見せていた。臭いは、相変わらずだ。思い立って歩くようになった子を連れて散歩に行くと、彼は嫌がって鼻をつまんだ。




 全てが、私の父の時と同じであった。全てが、同じように進むのだと思っていた。つまり、私はこのまま痩せ衰え、やがて消え入るように死ぬのだとそう思っていたのだ。


 だが、そうはならなかった。




 秋の日、客人が来た。なんでも遠い町の大学の人間で、何やらの調査に村を訪れたらしいが、大雨に降られて難儀したところ、屋敷に泊めることとなったそうだ。私はおたねからもう決まったこととしてその話を聞かされた。いつもそうで、主と言って私が決定したことなど、何もなかったように思う。


 民俗学の助教授、という男は、私と同じくらいの年のわりに少し白髪のある、快活な人間であった。もっとも、私は私でもはや年齢もわからぬほどにげっそりとせていたのだから白髪がなんであろう。妻にもう一度会ったとして、きっと同じ人間とは思われぬだろうな、と鏡を見るたびにそう思っていた。


 呪術について、研究していましてね。何、字面は恐ろしいですが、大したものではありませんよ。こう、雨よ止めとてるてる坊主を吊るすのだって、ぬいぐるみを友達にして名前をつけるのだって呪術です。それでまあ、フィールドワークとしてこちらの村にやっては来たのですが、雨がね。


 彼はちらと雨戸を見た。外からは、微かに水のどうどうと流れる音が聞こえている。山道を下るには、相当難儀をするであろうと思われた。


「助かります」


 彼は私に断ってから、煙草を吸った。煙がふわりと漂う。嫌な臭いではなかった。


「御当主にも、こちらの伝承やらについて色々と聞きたいところですが……」

「私は、何も知らないのです」


 いそいそと手帳を取り出す姿に、私は首を横に振った。そう、私は何も知らなかった。我が家のしきたりの数々と、それが外からは少々奇妙に見えることと、その程度だろうか。村のことは、村の人間に少し聞いた話くらいしか知らぬし、それならばもう直接彼らから確認しているだろう。


「それよりは、奥の者に聞いては如何ですか。おたねに話を通しておきます」

「それは有難い。ここは少々変わったお屋敷ですね。おひとりでお住まいで」

「息子がひとり。あとは皆使用人です」


 ははあ、と男は頷いた。目が少し、光を反射しちかりと猫のように光った気がした。気のせいであろう。


「雨が止みましたら、ぜひ御当主に村を案内していただきたいな」

「小さな村ですから、見るところなど何も」

「人と歩くとまた違った様子に見えるものですよ」


 そういうものだろうか、と思う。だが、私も外の人間から見た村の、見飽きた景色の様子を知りたい、とも思った。死んだかさついた心に、少しばかり水が戻ったような、そんな心地であった。


 私は案内の約束をし、そのまま寝室へと戻った。廊下で二度、汚泥を踏みつけ、そういえば客人には泥の話をしていなかったな、と思った。まあ、おたねが伝えているであろう。案内の話もおたねには話し損ねたが……まあ良い。あの女も、時々は休みが必要だ、とそう思い、私は足袋を拭いて歩み去った。




 翌日、雨は見事に止んだ。名残のように重たい、濡れた埃のような灰色の雲が空を覆い、地面はまだしっとりとした落ち葉に覆われていた。ともあれ、外を歩くことは出来る。私は朝食を済ますと客人と共に外に出、小さな村を歩いて回った。とはいえ、私に体力がないため、あちこちで立ち止まりながらの散策ではあったが。客人は神社で何やら興味深げにメモを取っていたが、ふと脇道を見つけてそちらへ行きたがった。


「あまり良い場所ではありませんよ」


「構いませんとも。昨日は来なかった道だ。見てみたい」


 狭い道を行くと、やがて嫌な臭いが鼻を刺す。少し開けた視界に広がる沼は、雨で水かさが増し、さらにどろりと濁った水を湛えていた。死んだねずみむくろが水際に転がり、雨を生き延びた蟻が群がりたかっていた。


「なるほど、これはなかなか」


 客人は鼻を摘み笑う。


「この臭いですから、近頃は人はなかなかこの辺りに来ません」


「そうですか、では好都合だ」


 客人は懐からハンケチを取り出すと、鼻と口を抑えるようにして巻いた。少しくぐもった声がこう言った。


「私は、あなたに少し質問がありましてね、御当主」


「質問?」


 私は怪訝けげんに思い、眉を顰めた。フィールドワークの件ならば、何も知らぬと伝えたはずだ。それとは別の話だろうか。


「聞きたいのは、御当主。あなたは一体どなたなのか、ということです」


 顔を歪める。意味がわからなかった。私は私であり、かの屋敷の主である。それ以外に何があろうか。


「言い方を変えましょうか。御当主。あなたのお名前を聞かせていただきたいのですよ」


 名前?


 私は答えようとし、口を開き、閉じ、そうしてまごついた。生まれて初めて聞かれた質問であった。仕方なく私はこう言う。


「私に名前はありません。当主だとか、主だとか呼ばれています。息子は父と呼びます」


 客人はさもあろうとでも言うように頷いた。


「そうでしょうね。息子さんにもお名前は無いのではないかな。そんな気はしていました」


 それがどうしたというのか。私はやや不快になり、顔をしかめる。他の者のように名はなくとも、私は主だ。私には立場があり、帰る場所がある。仕える者たちも居る。それで十分ではないか。


「何からお話をすればいいでしょうかね……。ひとつ。尾張に泥かつぎというまじないがあります。これは、特別にこしらえた泥で……」


「それが私に何の関係がありますか」


 私は声を遮った。それから、軽く咳き込んだ。泥の飛沫しぶきを足元の鮮やかな紅葉の上に見つける。昨日の雨の影響ででもあろうか。


「まあ、聞いていただきたい。こしらえた泥をよく練り、ヒトガタを作るのですね。ヒトガタというのは、材質が何であれ、身代わりの性質を持ちます。雛人形とてそうだ。この泥人形は、主に地位の高い人間が、洪水の際に命を落とさぬよう働いたと言います」


 私は黙って講釈を聞いていた。今すぐにでも踵を返して屋敷に戻り、布団を被って寝つきたいという気持ちは募るが、一方で彼の語りはどこか魅力的でもあった。ふたつの気持ちの間で、私は右往左往し、結果動けずにいた。


「さて、そのまじないを伝えた人間というのが、珍しく記録に残っている。年嵩の巫女でね。阿種おたね、と。もう五百年ばかり前の、郷土史のごく一節です。そうして、この泥かつぎ、他にも幾つか伝わる場所がある。信州、加賀、と行って、また取って返して今度は北関東……この土地です。不思議に、どの場所の記録にも阿種またはたね、という名が残っていた。彼女は一族を引き連れ移住し、しばらくするとまた姿を消していたようです」


 おたね、と聞いて私は首を傾げる。あの女と何か関係があるのか無いのか、茫漠ぼうばくとしている。木の葉を揺らし、鴉が飛んだ。気味の悪い声が、辺りに響く。


「私はこのまじないにまつわる論文を目にして、少し気になっていたのですよ。史料と史料の間には、五十年以上の間が開いている。同一人物としてはおかしいと思いませんか」


「まあ、無関係か、さもなくば子孫でしょうね。一族が居たのでしょう」


 それがね、客人は指を立てる。


「その一族の女は悉く石女うまずめであったという」

「馬鹿馬鹿しい」


 たねという名の女など、幾らでも居るはずだ。何を言っているのだと思う。そろそろ屋敷に戻らねば、それこそおたねが心配をするであろう。


 足を屋敷に向けて動かした時、客人はまた語った。


「偶然、この村の出身の学生が研究室に入って、それで、ここの話を聞きました。大きな屋敷の話も聞きました。御当主。またお名前の話です。私は町役場で調べたんだ」


 私は無視して歩き出していた。


「あなたについての記録は、役場には何もない」


 足が止まった。私は振り返る。


「恐らく、戸籍もない。あなただけではない。屋敷の人間全てが公的には居ないことになっている。あの屋敷について知るのは、村の幾らかの人間だけです」


「馬鹿なことを」


 地面が、ずぶずぶ柔らかい泥濘でいねいと化し、私を飲み込むような心地だった。


「馬鹿なことを」


 私は小さく繰り返した。自分が何も社会と繋がって居なかったことを自覚し、目眩めまいがするようであった。全てだ。全てをおたねが片付けてくれた。妻が死に、子が生まれた時も、何もかも。


「あなたの目的は何だ」


「好奇心の充足、ですかね」


 客人は小首を傾げた。快活なその様子が、何よりも恐ろしく、どこか狂って見えた。


 ざわざわと半ば葉の落ちた木の枝が揺れ、ぽつりと頰に水の粒が落ちた。雨がまた降る。我々はただ押し黙ったまま、屋敷に向かって歩き出した。


 二度目の雨は、前日よりもさらに激しく、叩きつけるように降り続けた。おたねに話を聞きたかったが、折悪く頭痛で、自室で早く寝付いたとのことだった。私もなんだか気分が悪くなり、客人とはそれきり会話もせずに寝てしまった。




 客人は、まだ雨が止まぬというのに早朝からどこかに姿を消してしまった。私は昨日の話を弄ぶように思い返しながら、いかにも半端だ、と思った。あの話は、重要なところが欠け落ちている。残りを知りたいような、このままなかったことにしたいような、不安定な気持ちであった。


 やがておたねが、床に入ったままの私の様子を伺いに部屋へと訪ねて来た。畳の上に落ちていた泥を、彼女は顔色ひとつ変えずに雑巾で拭った。


「お客から昨日、話を聞いたよ」


 おたねは特に態度を変えた様子はなかった。少し皺のある顔をじっとこちらに向けている。


「私には戸籍がないと」


 おたねは眉根を寄せた。


「何の話でございましょうね」

「公的な記録が何もないと聞いた……。おたね、お前達もだ」


 ほほほ、と甲高い声で女は笑う。まるで動揺をした様子がなかった。私は、やはりあれは客人の勘違いか、或いは与太話の類ではなかったかと思う。あまり趣味の良い物語ではなかったが……。


「当たり前ではございませんか。我らにそのような。ああ、おかしい」

「何?」


 心が麦のようにざわついた。私は一縷の希望を込めて、もう一度尋ねた。


「何かの間違いだね。実際は戸籍だのなんだの……」


「あるわけがございません、主様。我ら、人の掟に縛られる類の者ではありませぬ故」


 我ら、とその言い様が気になった。そうして、私は静かに心を絶望に冷やす。


「しかし、お客様には困りました。それほど首を突っ込むのがお好きな方とは、ついぞ」


「……何だか」


 私は躊躇ためらいながら、残りの話も語ってしまう。泥かつぎだの、長命の疑いのある巫女だの、その名がおたねと同じものであることだの。おたねは再び甲高い声を上げた。


「お伽話だね?」


「お客様、本当によくお調べ」


 おたねはけたけたと笑い続け、ついには咳き込んだ。


「それはね、主様。あたしでございますよ」


 雷鳴。遠くの部屋から、子の泣き声がした。


「長い間、あちこち移り住んで、ようやくここに落ち着きました。ここは幾ら長く居ても騒がれない、良い土地です。ただ、お客様に知られてしまったのは困りましたねえ」


 夕飯の献立を考える時のような顔で、おたねは言う。


「吾作に言って、どうにかしてもらいましょう」


 吾作は、使用人の中で一番頑丈で、無口で、猟や刃物の扱いが得意な男だ。私は、肌が粟立つのを感じた。何をすると言うのだ。そして、私の中にはもうひとつ懸念があった。


「お前達がそういう……そういうものならば、それはそれで良い。お前達は良く仕えてくれている。だが、それならば私達は何なのか、それを教えて欲しい。父と、私と、息子と、我らは何だ。この家はどういうものだ」


 おたねは視線を私に戻した。変に冷たい、乾いた目だった。今まで、向けられたことが一度もないような。


「余計なことをお考えでないですよ」


 突然左手を掴まれ、強く引かれた。呆れるほど簡単に、骨が外れる気配がし、がくんと私の肘から先が引っ張られ、ぶつりと何かが切れる感覚と共に、私は隻腕となっていた。外れた腕の一部は、おたねの手の中にあった。重みの平衡が崩れ、私はぐらぐらと揺れる。痛みはなかった。ただ、空白が袖を揺らしていた。


 目を剥いておたねを見る。彼女が手にした私の腕は、切断面から少しずつ崩れつつある。黒い何かが、ぼたりと女の膝に落ちた。


 あの沼の泥だ。


「泥かつぎのもうひとつの秘儀は、泥人形に命を与え、人と化すこと。それでも、ヒトガタには変わりない。一族は、隠れ蓑として主を必要とした。何かがあった時、彼らを身代わりにするように」


 男の声がした。ふすまは開かれ、客人が敷居を踏みつけて立っている。その腕には息子が抱かれていた。


「そのヒトガタが、あなたです。御当主」

「本当によくご存知」


 おたねは腕をぞんざいに投げ捨て、鋭い声で何人かの使用人の名を呼んだ。返ってきたのは、しかし、沈黙であった。客人は息子を下ろす。


「史料にあった方法、、試してみたら、あっさりと泥に返りました、彼ら。結局、あなた方一族も元々泥人形なんだ。名前が有る無しの違いだけです。それだけで、何百年を超える命と、子を成してすぐに死ぬ命と、分かれるのは不思議なことだ」


 客人の手には小刀があった。彼は無造作に手を伸ばすと、立ち上がりかけたおたねの額に軽く突き刺す。


 血が流れるかと思った。だが、何も吹き出すことはなかった。ただ、薄く裂かれた皮膚の下に、何か金属の板のようなものが見えた。おたねは手をかざし、それを守ろうとした。そして、ああ、そして、客人の方が速かった。


 額の肉を……否、泥を抉られたおたねは、細い悲鳴を上げ、どさりと崩折くずおれた。彼女もまた、その昔誰かに作られた泥人形であったのだと思う。あまりに長く生きすぎて、乾ききっていたのだろう。おたねは畳に、砂のようにさらさらと崩れていった。息子が無邪気に何か言いながら手を伸ばしたが、客人が止めた。


 生暖かい布団に座り込んだままの私の腕からは、ひっきりなしに泥がこぼれ落ちていた。今、ようやくわかった。屋敷中で見かけたあの泥は、私の身体が崩れた跡だ。名もない泥人形である私は、数年かけてゆっくりと、朽ちて死につつあったのだ。


「お客人。あなたは……」


「好奇心で動いたまでです。それと、少々の義侠心かな。あなた方親子への仕打ちはあんまりだと、そう思いましてね」


 その義侠心も、どうも私のものとはどこか違っているのではないかと思ったが、ともかく私はゆっくりと自嘲の笑みを浮かべる。


「私の全てをぶち壊しにしておいて、よく言います」


「人には知る権利がある。殊に、己が何者かを知ることは、何より重要なことだ」


「己が、何者か、か」


 知ったところでどうだろう。人生をかけて、ただの隠れ蓑であることだけを期待されていた人間……否、ヒトガタ。あまりに無様で、情けなく、無力だ。


「その子も、泥をこねて作られたのですか」

「恐らくは」


 客人はうなずく。


「人と同じように育つヒトガタを作るには、まず、男のヒトガタと女のヒトガタを……」


「ああ、良い。大体わかります」


 あの結婚式の夜、私達は愛し合った。それが果たして人間のその行為と同じものであったか、そうでなかったかは、今更どちらでも良い。そうして私はうとうととまどろみ、眼が覚めると隣に女は居なかった。やがて夜が明ける頃に屋敷には赤子の産声が響き、そうして、おたねがうやうやしく現れたのだ。


「お世継ぎの男子がお生まれになりました。奥方様は、残念ながら」


 私は、何故あの時全てを当たり前のように受け入れたのだろうかと思う。そのように出来ていたからであろうか。息子は、十月十日など必要とせずに突然、この世に生まれ落ちた。恐らくは、私も同じであったのであろう。


 もろもろと崩れていく腕を右手で押さえ、私は低く笑った。


 それでも、私は愛していた。たった一晩の間、言葉すら交わさなかった妻を、その妻の身体を使って作られたのであろう、小さな息子を、泥人形の鈍い心で愛していたのだ。


「このまま生きていたいのであれば、簡単です。あなたに名前を付ければ良い。そうすれば、使用人の彼らと同じく長く生きることが出来るでしょうね」


 私は少し考え、ゆっくりと首を横に振った。首の付け根に小さくひびが入るのを感じた。


「良いです。私はもう長くもないし、あちこちボロボロだ。これで生きていても、そう愉快だとは思えない」


 私は自室を見回した。この村しか物を知らぬ私が、最も長く時を過ごした薄暗く静謐せいひつな場所を見た。気に入りの文机ふづくえと文箱。悪くはなかった、とそう思った。


 悪くはなかった。


「それならそれで良いですが、もうひとつ。お子さんだ。彼もこのまま放っておけば、あなたと同じくらいで崩れて死にますね。それを防ぐにも……」


「名前か」


 客人は、目をぱちくりとさせていた息子を抱いて、私の元に連れてきた。私は片腕で彼を抱く。人の身よりも、よほど長く生きる子だ。


「健太。健康の健で健太」


 どうか健やかに、とそれだけを思った。


「健太君か。名字は僕のものでもあげましょうかね。何、男手ひとつで悪いが大事に育てますよ。安心してくださいね」


 何も知らぬ息子は、あふれた泥を見て興味津々でいる。私は咳き込み、泥を吐き、そうしてどうも信用のならぬ相手に向かい、掠れた声で言った。


「もう十分です、お客人。そろそろ、楽にしていただきたい」


 彼は頷く。私から誇りを奪い、使用人を奪い、人としての生を奪い、息子を奪い……そうして、ただひとつ、己についての知を授けただけの男は、今また私の最後の命の灯火を奪っていこうとしていた。小刀が迫るのを感じ、私は目を閉じた。痛みはなかった。爪を切った時程度の軽い感覚で、私の額はえぐられた。


 全身の肉が水混じりの汚泥に変わり、私は畳に降り注ぐ。息子の小さく柔らかな手に、黒い飛沫が跳ねて染みを作ったその瞬間、私という意識は溶けるように消え失せた。

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泥濘の夢 佐々木匙 @sasasa3396

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