蔵の中

すかいはい

1

 私とS君は同郷の友人である。二人とも青森県の大学を出て東京で就職した。 

 お互いにアパートも都内で近かったし同郷だったから、S君とは一緒に遊ぶ機会が多かった。

 何年かすると、S君は会社の待遇が嫌になったということで仕事を辞め、貯金を切り崩しながら次の仕事を探し始めた。だが、なかなか再就職先も見つからず、ついには生活費が底をついて青森県の実家に帰ることになった。

 職が見つかれば東京に戻って来たいと話していたS君だったが、地元に帰ってからは前のように頻繁に連絡を取り合うこともなくなっていた。

 暮れに帰省して、数ヶ月ぶりにS君と会った。

 S君は変わりない様子だったが、やはり以前に比べるとどことなく顔色が冴えなかった。

 転職活動がよほど難航しているのかと思い、酒が進んだ頃にそれとなく聞き出そうとした。

 しかし、S君は仕事のことではないと言う。

 何でも気にしないで相談しろと言ったが、S君はどうにも話しにくそうにしている。

 そのうち、S君は決まりが悪そうに「お前の家では祀っている神様はいるか」と尋ねた。

 祀っている神、といっても実家に行けば神棚と仏壇が置いてあるくらいである。普通の家と同じだ。昔から祖母が熱心に手入れをしているが、私は詳しいことは何も知らない。ご先祖様の霊なのだろうなと何気なく思っている程度である。

 素直にそのことを伝えるとS君は「そうだよな」と納得したようなガッカリしたような声で言った。

 それから、S君は「これから俺が話すことがおかしいのかどうか教えてくれ」と言って語り始めた。



 S君の実家は青森県の中心部から電車で二時間ほど離れた県の外れの方にある。

 今では六十を過ぎた両親が二人で古い家に住んでいる。綺麗なわけではないが家だけは大きく、庭と蔵もあった。

 S君は仕事を辞めてしばらくは熱心に職業安定所に通っていたが、職に就いているわけではないのだから自然と実家にいる時間は多くなる。

 やがて仕事が上手く見つからないとなると徐々に熱意も失われていき、余計に家にいる時間は増えた。

 そんなある日、父に呼び出された。

 働いていないことでお叱りを受けるのかと思いきやそうではなかった。

「お前、家にいるなら蔵に水やってくれ」

 突然そんなことを言い出した。

「蔵に水やる?」

 S君は面喰らった。何を言われているのかが分からない。

「本家の長男がやることになってんだ。もう分家もないけど、元はうちが本家だから。今まで俺がやってたけど、脚が悪くてもう蔵の中はな」

 父が今までそんなことをしていたのも知らなかった。そもそも物心ついてから一度も蔵に入ったことなどない。あの朽ちた蔵で、何をするのだ。

「そうじゃなくて、『蔵に水やる』って何?」

「蔵の水を取り替えるんだよ。毎朝」

「仏壇でもあるの?」

 父は口元に手を当ててしばらく考え込んだ。

「いや、あれは仏ではねえな」

 それで分からなくなってしまった。そんな得体の知れないものがあそこに置かれているのか。

「何があるの?」

「名前は死んだ親父からも聞いたことねえなあ」

 父はそう言って笑ったが、全く笑い事ではない。

「ちょっかい出さなきゃあ何もしないから」

 しかも、何かしてくるのか。生き物なのだろうか。そんなものが家の蔵の中に?

「何だよ、それ」

「行けば分かるって」

 行きたくない。そう思った。

 だが、働きもせず無駄飯喰らいをしている負い目がある。父が高齢だという事情も分かる。最後はS君が折れた。

「蔵の中に湯呑みが置いてあるから持ってきて水を替えるだけだ」

「それだけ?」

「それだけ。あと、蔵の戸は開けたままにするな。中に入ったら必ず閉めるんだぞ」

 そう言われて、翌朝から『蔵に水やる』ことになった。

 その日は夜寝る前から気が塞いでいた。

 あくる朝も八時過ぎに目を覚ましてゆっくり朝食を食べた。

 蔵に行く時間をなるべく遅らせたかった。

 時間をかけて歯を磨き終えた頃にはもう九時を過ぎていた。朝と呼べる時間はここが限界だろう。

 父は定年を過ぎてはいるが高齢再雇用で昼間は働きに出ている。家には母しかいない。

 母からは蔵のことは何も言われなかった。やった振りをすることもできたが、変に嘘を吐くのも躊躇われた。

「蔵に水やってくるよ」

 母にそう告げて庭に出た。

 庭は手入れも行き届いておらず、花だか雑草だか分からない庭草がまばらに生えている。

 母屋の差し向かいにある古寂びた土蔵に向かった。

 鉄錆で覆われた閂を外し、扉を開ける。

 黴臭い空気が広がった。

 蔵の中は二階建てにはなっているが、そう広くはない。

 扉を開けたままでも父が言っていた湯呑みは見つかった。

 真っ直ぐ入った先に簡素な木の棚があり、その上に小さな湯呑みが二つ置かれている。

 あの水を入れ替えればいいのだろう。そう難しいことではない。

 一歩、中に足を踏み入れる。

 荷物が雑多に積まれており、茶碗が置かれている木棚の周り以外には厚い埃が積もっていた。

 木棚の周りの床にだけは埃の層を裂くように細い二本の線がいくつも描かれている。あそこ以外には誰も近寄ることがないだろう。

 父の言い付けに従って、蔵の扉を閉める。

 途端に蔵の中は真っ暗闇になった。天窓くらいあってもよさそうなものだが、開口部が他に何もないのだ。

 饐えた臭いが強くなったように感じる。

 木棚までは直進するだけだ。暗くても手探りで行けるだろう。

 二、三歩、慎重に歩いた。

 少し止まり、また二、三歩進む。

 徐々に目が暗闇に慣れてくる。

 暗い蔵の中がうっすらと見えてきた。

 方向は間違っていなかった。

 もう手を伸ばせば届くほどの位置に木棚があった。

 目の前の小さい湯呑みには八分目ぐらいまで水が入っている。

 木棚の周りをぐるぐると旋回するように何本もの細い線が引かれていた。蔵の入り口から見えた足跡だ。

 その線を自分の足と見比べる。

 先ほどは気が付かなかったが、この線は人間の足よりもずっと細いようである。

 試しに線の淵に自分の足の爪先を重ねてみる。やはり足跡は精々が子供の足かそれぐらいの細さだ。しかし、家にはもう何年も幼い子供がいたことなどない。

 湯呑みに手を伸ばした姿勢のまま、ふと横を見た。

 蔵の隅に、白いものがいた。

 全身から白く長い毛が伸びていたので、薄暗い中でもそれと分かった。

 人間の大人が四つん這いになったような大きさだ。

 丸く平べったい体から四本の細長い手足のようなものが床に向けて伸びている。

 呼吸をしているのか、胴体らしき部分は小さく上下していた。

 蔵の入り口から見た時はこの白いものは荷物の死角になっていて見えなかったようだ。それとも、自分から隠れていたのかもしれない。

 その白いものを見たまま視線を動かすことができなくなってしまった。このままここにいてはいけないという予感はするのに体は微動だにしない。

 喉が異様に乾いていた。

 その時、白いものがすうっと動き出した。

 四本の手足で地面の細い線をなぞるようにしてゆっくりとこちらに近付いてくる。

 このままでは、あれに追いつかれる。

 そう思い、湯呑みも持たずに体を振り返らせた。

 そして、また一歩ずつ蔵の扉の方に歩き始めた。

 幸いにも、入った時より目は見えるようになっている。

 少しずつ、早足で扉を目指した。

 今、この時にもあの白いものが背後まで迫ってきているかもしれない。そう思うと気が気でなかった。

 蔵の扉までたどり着くと、体重をかけて押し開ける。光が差し込んで一瞬目が眩んだ。

 蔵の外には出られたが、このままにしておくわけにはいかない。あれを視界に入れたくはないが、意を決して振り向いた。

 白いものは木棚がある場所と扉の中間あたりまで来ていた。体中を覆う白く細長い毛が扉から入った光を受けてきらきらと煌めいていた。

 ゆっくりと音も立てずに四本の足で床を動いている。

 あの白いものからできるだけ目を逸らすようにして、扉に手をかけた。

 ぐっと力をこめる。

 扉が閉まる直前、ぎしぎしと歯ぎしりをするような音が蔵の中からした。

 扉が閉まりきったのを確かめると、すぐに閂をかける。

 その時、ぎしぎしという音が扉のすぐそばで鳴った。

 思わず小さく悲鳴をあげて扉から飛び退いた。

 蔵から目を離すことができずにいたが、それ以上何も起きることはなかった。

 全身にびっしょりと汗をかいていて、今すぐにでも座りこんでしまいたかった。だが、蔵のそばにはいたくなかったから、こわばった足を引きずるようにして家に戻った。

 その日はずっと布団で横になって過ごした。

 『蔵に水やる』役目は果たせていないが、再び蔵に行って湯呑みを持ってくる気にはなれなかった。

 夜になると父が仕事から帰ってきた。父には「蔵に水やったよ」と告げた。

 父は「そうか」と答えただけで、それ以上何も聞いてこなかった。

 翌日の朝からは母に「蔵に水やってくるよ」と言って庭へ出ると、蔵に向かった振りをしてそのまま家に戻るようになった。

 当番を譲り渡した父も蔵まで行ってわざわざ湯呑みを確かめたりはしていないようで、今のところ何も言われたりはしていない。

 『蔵に水やる』当番になってから一度もあの湯呑みの水は入れ替えられていない。

 今頃はすっかり干上がってしまっているだろうか。



 S君は話を終えるとグラスの酒をあおった。

「俺の家はおかしいのかな。俺は子供の頃からずっとあの白いやつのそばで暮らしていたことになるんだよな。今頃、あの白いやつはどうなってるのかな」

 私は、家で祀っている神はいるのかとS君に聞かれたことを思い出していた。

 私の家では、祀っている神といっても実家に神棚と仏壇が置いてあるくらいだ。普通の家と同じである。祖母が昔から熱心に手入れをしているが、私自身は何も詳しいことは知らない。ご先祖様の霊なのだろうなと何気なく思っていた程度で――。

「なあ、どうなんだ」

 S君は上気した顔で私をまじまじと見た。

 私は――。

 私は、何も答えられなくなってS君と別れた。

 実家に戻ってから大晦日と三が日を落ち着かずに過ごした。その間、家にある神棚や仏壇はなるべく見ないようにした。両親や祖父母には訝しがられたが、理由は何も話せなかった。

 正月休みが終わると私はそそくさと東京のアパートに戻った。

 それから何年か経ったが、私は一度も青森の実家に帰っていない。S君は今でも実家にいるそうだ。

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蔵の中 すかいはい @zhengtai13

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