第肆話
幼い子らがいたわり合い、互いを癒すように抱き合うのをじっと見つめていた老爺は、ややあって再び口を開いた。
「そう、今はお二人とも、常にご一緒のようじゃの。じゃが、未来永劫共にあられるわけにはゆかぬよ」
まるで託宣のような重々しい言葉に、四郎丸はぱっと顔を上げた。
「丸さま方は、今はお子じゃからの。だが大人になれば、おのおの果たすべき役割も違うてこよう。何もかもご一緒にはゆかぬ。それに…」
「なに?」
「一人で生きてゆくは、人のみにあらず。それ、たとえばその蝶」
黒と黄の羽を閃かせて飛び交うひと
「あげは!」
紅葉のような手を高く伸ばして、澄んだ声を上げる五郎丸を、老爺は眼を細めて見た。
「ようご存知じゃの」
微笑んで褒める老人に、五郎丸は自慢気にはきはきと答える。
「あにちゃまが、おしえてくれたの」
「ほほう、
「…いかにして…」
問われた四郎丸は考え込んだ。
といって知らぬものをいくら考えても、正解が出てくるわけではない。早々に諦めて首を振った。
「しらない」
「ならば教えて進ぜよう。揚羽に限らぬが、蝶の母親が草木に卵を産み付ける。産めば母蝶はいずこかへ去り、ほどなく死ぬ。母蝶が死んで幾日も経ってから、子が卵から孵る、というわけじゃ」
「…しぬのか?じゃあ、ははおやは、こどもにあえないのか?」
「そうじゃ。子も母を知らずに育つ。生まれた時から一人きりじゃ」
幼い子供二人は、老爺の言葉に息を呑んだ。
四郎丸にとっては、母と離れることなど、考えもつかないことだったのだ。
まして生まれた時から一人きりで、ずっと一人で生きていくなどとは。
五郎に至っては、それがどういうことなのかわからず、ただ不安そうに兄の片袖を握ったまま、兄と老爺を交互に見つめている。
「蝶ばかりではござらぬよ。小鳥は巣立つまでは母鳥と一緒におるが、蜻蛉も魚たちも、生まれたときから親を知らぬ。じゃがそれを哀れと思うのは、見る者の心じゃ」
幼い子供にこれは難しすぎたろう。
首を捻り、わからぬと言いたげな仕草をしてみせる少年に、老人は苦笑した。
けれどわからないなりに、四郎丸は老爺の言葉を受け止めていた。いつか大人になればわかるのだろうと、ただ心に留め置いた。
だが彼には、もうひとつこの老爺に訊きたいことがあった。
「ちょうは、たまごをうんで、しんで…そのあとどうなる?」
「…どうなると思われるかな?」
「ははうえは……つちになる、とおっしゃった」
「そう、お母上の仰有るとおりじゃ。丸さま方も、やがて土に還るのじゃよ」
それを聞いていた五郎丸は、慌てて口を挟んだ。
「ごろうも、つちになっちゃう?」
「そうじゃ。四郎丸さまも五郎丸さまも、この爺も、みな同じじゃ。死して土に還る。そしてやがて木々となり、蝶となり、花となり、または風となるのじゃ」
「おはな?おはな、きれい」
「おお、丸さまはお花がお好きかえ。そうじゃな、そなたさまはあでやかな花になるかもしれぬな。心のままに咲き乱れなされ」
それを聞いて、五郎丸は嬉しそうに笑ったが、ふと気になったように、小首を傾げて問いを重ねた。
「あにちゃまは?」
「四郎丸さまは…気儘な風かのう…。あるいはそれこそ、蝶におなりかもしれぬな」
「おれが、ちょう?」
「気紛れに飛んでいかれるであろう」
「…ごろうほど、きまぐれじゃない」
さすがにこの気随気儘な弟に比されるのは心外と、憮然と答えるのへ、老爺は呵々と笑った。
「そなたさまはの、何ものにも縛られず、ただ心の赴くままにゆかれよ。それがそなたさまの生くる道じゃ」
心の赴くままに。
やはりそれはまだ少し、少年たちには難しかったろう。だが確実に、小さな胸に沁みていった。
「さて、丸さま方をお母上のもとにお送り申そうか」
西の空が茜色に染まり始めたのを見て、井原木の爺と名乗った老人は、手にした杖を使わずにすっくと立ち上がった。
その様子はとても老いた者の仕草ではなかったが、子供たちが気づくはずもない。歩き出した老爺の後を慌てて追った。
「このまままっすぐに、あそこに見える樫の木の方へ行きなされ。あのあたりが母上様のおられる幕屋じゃ」
「おじじもかえるのか?」
「そうじゃな、山向こうへの」
「とおくからきたんだな」
それへ微笑んだまま応えず、老爺は子供たちを促した。
「それ、早う行きなされ。もう子供らだけで来てはならぬよ」
「じじちゃま、またあえる?」
兄と手を繋いで歩き始めた五郎丸が、ふと振り返って問う。その澄んだ暁色の瞳は、人恋し気に揺れていた。
「…そうさな。そなたらが大人になられた折にでも、
「ぜったい! …ね?」
嬉しそうに笑いかけて手を振り、背を向けた幼子たちの姿が、夕陽の向こうにだんだんと遠くなっていくのを、老爺はじっと見つめていた。
子供たちと別れた老爺は、里に背を向けて森の奥へと歩を進めた。
小半時も歩いた彼は、小さな沢のほとりで足を止め、傍にあった杉の大木に目を向ける。
その根方には、平家の一行に探されているはずの侍女の姿があった。
血の気を失った女の瞳はぼんやりと濁り、座り込んで中空を見つめたまま瞬きをすることもない。
血のひとしずくを流すこともなく、女は息絶えていた。
それを無表情に見ていた老爺の口元が、やがてゆっくりと笑みの形につり上がり、その両口角から鋭く禍々しい光が覗く。
女の破れた袴の緋が青白い肌に映え、その美しさを愛でるように、老爺であったものは声もなく嗤い続けた。
見るものの誰もいない、この森の奥で。
――ひらひらと舞う、揚羽蝶を除いては。
散りぬればのちはあくたになる花を
思ひ知らずも 惑ふてふかな
(古今集 巻十 四三五 僧正遍照)
(了)
胡蝶外伝 かはひらこ 橘櫻花 @sakura_wa
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